第10話 麗奈
「捨て猫を保護してもらうの、そんなに難しいんですね。でも良かった、大家さんが親切な人で。それにサビちゃんもしばらくは落ち着いて暮らせそうで」
スーパーの入り口横。俺がざっと今朝からの顛末を話すと、彼女は安心したようにうなずいた。
「名前も付けてくれたんですよ」
「なんて?」
「幸一郎さん」
笑うかと思ったのだが、彼女はちょっと困ったような顔をして、
「ずいぶん長いですね。由来は?」
ときいた。
「サビ猫って幸運を呼ぶって教えてくれたじゃないですか。その話をしたら大家さんが、幸一郎さんにしようって。さん付けなのは、大家さんの亡くなったご主人のお名前だからです」
説明すると彼女の表情はやわらぎ、「なるほど。幸一郎さん」とかみしめるように言った。
そして、右手を差し出した。
……握手?
なんだかわけがわからず俺も右手を出すと、彼女がまた笑った。
「違いますよ。キャリーケース。お預かりします。ここで待ってるんで、買い物済ませてきてください」
「え? いいんですか?」
「もちろん。そんなに時間、かかりませんよね?」
「……それは、そうですけど」
とりあえず、今日と明日食べる分があればいい。
「でも、ええと、あの、お名前」
「東原です」
「東原さん、買い物まだじゃ」
「まだですけど。大丈夫です。早く行ってきてください」
「――すみません、暑いのに」
だが俺は東原さんの気持ちに甘えることにした。
「すぐ、戻ります!」
整然と商品が並ぶ陳列棚の間を、俺は急いだ。このスーパーは広いが、土日に一人で過ごす時に食べるものは決まっていて、だから食材もすぐに見つけられる。
玉ねぎ、にんじん、ジャガイモ、豚肉、カレールー、福神漬け、ポテトチップス、アイスクリーム(ハーゲンダッツのちょっといいやつだ)、ビール、食パン――以上。
東原さんを待たせていると思うと気がせいて、レジに並ぶまで五分もかからなかった。だが休日のレジは混んでいてしばらく並ぶ必要があり、そこで俺はふと思考した。
いまごろ麗奈はどうしているだろうか。
見事に俺を振ったとはいえ、今までの四年半があるのだ、さすがに今日は泣いて――ないか。俺は悔し泣き以外で彼女が泣くのを見たことがない。それもたった二回。一回目は、キー局のアナウンサー採用試験に落ちた時。二回目は、学部主席を逃した時。
「私は肝心なところで勝ちを逃す」
しゃくりあげながら、俺の部屋で大きな音をさせて鼻をかんでいたっけ。
俺は悔し泣きをするほど何かを頑張った経験がないので、麗奈のそういうところがすごく好きだった。とにかく麗奈は頑張るのだ。
そんな彼女が社会人になってから力を注いでいたのは、もちろん仕事と、そして家事能力の向上。
時たまポツリ、ポツリと話す程度だったが、麗奈の実家は貧困に分類される家庭のようで、なのに父親は飲んだくれ、かといって母はパートには行かず、兄と姉がいるが兄妹仲は良くはなく、子どもそれぞれの秘密を母親が別の子どもに話してしまったりと、かなり居心地の悪そうな家庭だった。
反対に俺の実家は両親の仲がよく、五歳上の兄と俺も、なんでもというわけではないが日常のちょっとしたことはよく話していたし、俺は兄に進学や就職の相談もしていた。
そういった家庭環境は自然と雰囲気に出ていたようで、
「文哉を好きになった一番の理由は、この人健全だなって思ったから」
と麗奈は言っていた。
そうして二人の仲が深まってからは、こうも言うようになった。
「私は理想の家庭を作るの。ちゃんとお金があって、おいしいものが食べられて、家族それぞれに秘密があって、でも本当に大切なことは共有できる」
俺を結婚相手として認めてくれていることは嬉しかったが、その反面、麗奈の期待に応えられるのだろうかという不安というか、重さのようなものを感じてもいた。
そして、麗奈の思い描く「裕福な」暮らしを壊しかねないことをしようとしている罪の意識から、大学院受験のことを彼女に伝えるのは受かってからにしようという、狡い判断をした。
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