第9話 渡会さんの部屋
それから俺は、渡会さんの部屋に例の大きな段ボール箱を運んだ。これに入れてさえおけば、サビ――幸一郎さん――は脱走できないし、粗相もしない。
「……ずいぶん武骨ねえ」
「仕方ないです、間に合わせなんで。ケージに入れておく手もありますけど、買えば高いし、簡単に移動できないから渡会さんと俺の部屋、両方に必要になりますよ?」
「そっか」
「渡会さんが外出されるときには、幸一郎さんをキャリーバッグに入れておいてください」
「わかった。ところで、お水は? 猫って、お水の入ったお皿から自由に飲んでいるイメージ」
さすが、もっともな指摘だ。
「まったく気づいていませんでした」
「じゃ、うちの食器を使いましょ。ちょっと待ってて」
少ししてキッチンから戻ってきた渡会さんは、小さめのスープ皿を手にしていた。
「――いいんですか? そんな綺麗なお皿」
濃い青緑色が美しい。
「うん。小樽焼きといってね、北海道小樽市の窯元で作られていたものなの。夫と旅行した時にお揃いで買ったんだけど、夫はもう使えないから。代わりに幸一郎さんに使ってもらえたら嬉しい」
話しながら渡会さんは水を注ぎ、段ボールの中に置いてくれたので、俺はキャリーの蓋を開けてそっと幸一郎さんを取り出し、段ボールに入れた。
「飲むかしら」
はじめはきょとんとして俺たちを見上げていた幸一郎さんだったが、やがて皿に気付いて近づき、入っているのが飲み物だとわかったのだろう、ぴちゃぴちゃと小さな音を立てて飲み始めた。
「……お水飲むだけなのになんだか拙くて一生懸命で、かわいいわねえ。小さな背中」
「すぐに大きくなりますけどね。ネットで調べたところによると、半年で成猫の大きさになってしまうらしいです」
「そんなに早いんだ」
「ええ。それまでに飼い主が見つかるといいんですけど。幸運の猫とはいえ模様、不細工じゃないですか? オレンジと黒のまだら模様で――顔の部分にオレンジが多いのが、まだ救いですけど」
「シャー!」
突然幸一郎さんが吠えた。怒ったのだろうか。
「あらあら。嫌よねえ、不細工だなんて。私にはかわいく見えるけど」
渡会さんが段ボールに手を入れると、幸一郎さんは俺にしたように、その額を渡会さんの手にこすりつけた。
「これって、愛情表現の他に、自分の匂いを付けるためでもあるんですってね」
「……マーキング、ですか?」
「そう。笹井君もされた?」
「ええ」
なんてことだ。かわいいだけの仕草と思っていたら、そんな意味があったとは。小さな幸一郎さんは俺、そして渡会さんと、どんどん領土を拡大しているのか。抜け目のない奴。
「お茶、飲んでいくでしょ?」
「ええ。いつもすみません」
「お茶する間、幸一郎さんを段ボールから出してみない? ずっと閉じ込めておくの、かわいそうだから。室内でどんなふうか、見てみたい」
渡会さんがお茶の準備をしている間に、俺はさっそく幸一郎さんを段ボールから出してみた。
幸一郎さんは臆することなく、俺の部屋でしたのと同じように、尻尾をぴんと立てて渡会さんの部屋を探検して周り、渡会さんと俺が冷茶で月見うさぎ(九月になっても猛暑は続いているが、和菓子の世界はすっかり秋だ)を食べていると、「ミャオーン、ミャオーン」と切迫感のある声で鳴き始めた。
「きっとトイレね。お利口さん」
渡会さんが幸一郎さんを両手で優しくつかんで段ボールに戻してやると、間もなく彼は砂場で上手に用を足した。そうして渡会さんは、排泄物をゴミ袋に入れてきゅっと固く口を縛った。
「この様子なら、大丈夫だと思う。毎朝出勤時に、幸一郎さんと段ボールとキャリーケース、うちに持ってきて」
「わかりました。よかった。ありがとうございます。恩に着ます」
俺は頭を下げた。
渡会さんに幸一郎さんを預けて交番に届けを出し(持ち主がいないと確定する三ヵ月間は他の人に譲渡したりせず面倒を見るよう、指示された。ちなみに幸一郎さん本人(猫)を連れてくるように言われたので、一度家に戻ってキャリーケースに入れた幸一郎を連れて出直して写真を撮ってもらった)、手続きを終える頃には夕方になっていた。
(ついでに食材、買って帰るか)
冷蔵庫は空だ。
俺はキャリーケースを肩にかけスーパーに入った――と思ったら、「お客様」と店員さんに声をかけられた。
「はい?」
「大変申し訳ないのですが、ペットの入店は盲導犬以外お断りしておりまして――」
「ケースに入れていてもですか?」
つい聞いてしまう。
「はい、大変申し訳ございません」
店員は深々とお辞儀をし、俺は困ってしまった。
とりあえず食材を買わずに近所の飲食店で食事を済ませるにしても、同じように断られる確率は高そうだ。また部屋に戻って、渡会さんに預けて、出直すのか――それはしたくない。朝から色々あって、疲れてしまっている。
「わかりました。すみませんでした」
とりあえず店員さんに謝って外に出た。
「ウーバーにするか」
ため息をついてキャリーケースの中の幸一郎さんを見ると、彼は丸くなって静かに眠っていた。信号が変わる。
「笹井さん?」
横断歩道を渡ろうとしたその時、後ろから不意に声をかけられた。この声は――。
振り向くと、幸一郎さんを見つけた日に預かってくれた彼女が笑っていた。
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