第8話 名前

「はーい、今出ますー!」


 インターホンを鳴らすと、いつもの快活な声が聞こえ、やがてドアが開き、品よくお団子にまとめたグレーヘアに着心地の良さそうな濃紺のワンピースをまとった渡会さんが現われた。この人は自分に似合うものをよく知っているなと、いつも思う。


「こんにちは。すみません、お休みの日に」

「気にしないで。何かあった……」


 渡会さんの視線がキャリーバッグに向けられる。


「あら……子猫……」


 さっきまでのテンションが急に下がったのがわかる。もしかして猫は苦手だろうか。


「笹井君、飼うの? たしかにうちはペット禁止じゃないけど、色々大変だと思うよ――と言っても、仕方がないか。もうここにいるんだものね。買ったの? もらったの?」

「いえ、そのどちらでもなくて――」

「まさか、拾った?」


 渡会さんが、目を丸くした。


「はい」

「これまで猫、飼ったことあるの?」

「……いえ」

「まあ。笹井君らしいというかなんというか……で、どうするの?」

「保護猫センターにお願いしようと思ったんですが」

「断られたんだ」

「はい」


 渡会さんは、八十歳とは思えないほど情報通で頭の回転が速い。一昨年ご主人をなくして以来、しばらく沈み込む月日が続いたが、最近やっと本来の快活さを取り戻してきたように見え、俺は安心している。大学一年の頃からずっとここに住んでいるうえに、渡会さんがあれこれと親切に面倒を見てくれるので(主にお惣菜の差し入れだ。特に肉じゃがや炊き込みご飯、季節の漬物、庭でとれる果樹を使ったジャムは抜群に旨い。このアパートは元は大きな敷地に立つ一軒家で、渡会さんのお子さんたちが独立した後、改築して二階部分をアパートにしたものだ)、次第に、単なる大家さん以上の近しい感情を抱くようになっていた。


「どこもいっぱいって聞くからね。でもまだ小さなこの子にとっては、保護猫センターに入れなくて良かったかも」

「え?」

「場所によるとは思うんだけど、けっこう環境が劣悪なんだって。この間教室の生徒さんにきいたんだけど(渡会さんは、もう何十年間も活躍している料理研究家だ。自宅のキッチンとは別に設けられた教室用のキッチンはキッチンは広くて機能的で、今でも週三回、教室を開催している)、何十匹という猫が小さなケージに一匹ずつ入れられてたって――で、笹井君が飼うの?」

「いえ。しばらく預かって、保護猫センターの空きを待てたらと思っていたんですが……」


 今の話を聞くと気が引けてきた。なんとか、保護猫センターに預ける前に貰い手を探せると良いのだが。


「そう。まあ、保護猫センターに入っても、すぐにもらわれればいいわけだしね。じゃあ、いいよ」


 渡会さんが微笑んだ。


「え、なんでわかるんですか」


 まだ、「預かってください」ときいてもいないのに。


「わかるわよ。笹井君がお仕事に行っている間、私に面倒を見て欲しいんでしょう?」


 渡会さんが笑った。何でもお見通しだ。


「特に猫好きってわけじゃないから、上手に遊んであげたりはできないけど」

「いいです、十分です! 六時間ごとの授乳と、申し訳ないんですけど――排泄の世話をしてくだされば、ゴミは全部僕が持ち帰りますので。あとは、もし可能だったらですが、少し遊ばせてもらえれば。段ボール箱から出せば、一人で楽しそうに部屋を探検します」

「わかった。でも、ヨガや買い物に行くのに一、二時間家を空けることがあるけど、それは大丈夫?」


 本来は好ましくないが、仕方ないだろう。段ボール箱に入れておけば、こいつはそこで大人しくしているしかないからいたずらはできないし――サビ猫を見ると、また(ニャ)と声を出さずに鳴いたので、俺は、本人(猫)の了承も取ったことにした。


「はい、大丈夫です」

「じゃあ、試しに今日これから預かってみようか。ちょうど私、暇だし、土曜日だから、何かあればすぐに笹井君にきけるし――と言っても、笹井君も猫素人だけど――必要な物、取ってきてくれる?」

「わかりました。ありがとうございます!」


 俺は頭を下げた。さすが、渡会さんは頼りになる。


「じゃあ、よろしくね。これからは私もあなたの面倒を見るからね」


 キャリーバックの中に話しかけた渡会さんは(赤ちゃん言葉じゃないのがさすがだと)、俺に視線を移した。


「ところで、名前は?」

「つけていません。情が移りそうで。サビ猫って呼んでます」


 渡会さんは笑った。


「それはあまりにもドライじゃない? 名前は必要よ。私嫌だわ、『サビ猫』って呼び捨てにするなんて」

「ミャン」

「ほら、この子も嫌だって言ってる」

「じゃあ、渡会さん付けてくださいよ」

「私? いいの?」

「もちろんです」

「オス? メス?」

「オスです。ちなみにサビ猫のオスはすごく珍しくて、幸福を運んでくる猫だそうです」

「そう。じゃあ、『幸一郎さん』にする。『幸せ』に、『一郎』」

「え――その名前って――」

「そ。亡くなった主人の名前。生前は毎日何度も『幸一郎さん』って話しかけてたでしょ。いなくなってから、名前を呼べないのが寂しくて。お仏壇に話しかけはするんだけどね」

「いいんですか? 大切なご主人の名前を猫なんかに」

「うん、いい。自分の名前が呼ばれるのを頻繁に聞けたら、お仏壇のあの人も喜ぶと思う。それに昔、そういう漫画もあったのよ。あれは犬だったけど。この名前でいいわね? サビちゃん」

「ニャアー」

「じゃあ、あなたは今から幸一郎さんよ」

「ニャ!」


 サビ猫は渡会さんに向かって元気よく答え、この時から彼は、「幸一郎さん」になった。

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