第7話 別れ

 三十分ほど経っただろうか、資料を読み終えた俺は、スマホの電源を入れた。

 やはり麗奈と話さずにはいられない。


『もしもし?』


 麗奈は十コール目で出た。こういう時すぐに出ないのは、とても彼女らしい。


「おはよう」

『おはよう』

「……大学院進学と退職のこと、黙っててごめん。いずれ話すつもりではあったんだ」

『そう。合格してからじゃ遅すぎたけどね。それで? 考えは変わった?』


 ああ、やっぱりそうか。麗奈は俺の退職と進学を絶対に認めない気だ。俺はスマホを口元から離すと、天井を見上げ、大きく息を吸い、吐いた。

 これも走馬灯というのだろうか、楽しかった日々が脳裏をよぎった。


 だが、大学院進学は単に激務から逃げるためのものではない。研究は、今の俺が本当に興味があって、追及してみたいことだ。一晩――いや、俺は、本当はずっと前からこうなるだろうことは予期して頭の中でシミュレーションはしていたのだろう――考えたが、麗奈のためにその欲求を押さえることはできそうにない。


「……ごめん」


 俺が謝ると、麗奈はあっさりと言った。


『別れましょう、私たち』


 あまりにも突然であっけない、俺たちの四年半の終わりだった。



 驚いたことに、動物保護団体への問い合わせは全滅だった。病院からもらった資料に書かれていたのは区内の五団体。どこかは引き取ってくれるだろうと軽く考えていたのだが、どの団体も現在世話をしている保護猫で手いっぱいで、サビ猫を引き取る余裕はないというのだ。なんてタイミングの悪い奴だ。


「病院に行って各種検査等を済ませ、おうちでミルクと排泄ができているのなら、そのまましばらくご自身で面倒を見てもらえないか」


 というのが彼らの言い分で、こっちはそれができないから問い合わせているのに、話は平行線だった。


「いくらかお支払いするのではだめですか」


 人情が駄目なら金だ。


『……そういう問題ではないんです。こちらとしても、お引き取りしたい気持ちはやまやまなのですが。空きができたらご連絡しますのでそれまでは何とか――』


 そうはいっても、子猫が一人で留守番ができるようになるのは、二ヵ月は経ってからだと説明書に書いてある。


『もしかしたら、誰かが、本来は飼い猫だった迷い猫を見つけて箱に入れておいたということも考えられますので、まずは最寄りの交番に届けを出して、少し様子を見てはいかがでしょう』


 こんな小さな猫が一匹で家から脱走するなどありそうになかったが、仕方がないので、とりあえず俺は交番に行くことにした。出かける準備を終えるとメッセージの着信音があった。麗奈かと一瞬期待したがそうではなく、昨日の――あれからまだ一日しかたっていないとは、不思議な感じがする――彼女からだった。


 昨日、猫ちゃんのお世話をした者です。

 猫ちゃんは元気にしていますか?

 大切なことをお伝えするのを忘れていました。

 あの子はサビ猫のオスですが、サビ猫のオスは、三毛猫のオスのようにとても珍しいんだそうです。

 それとこれは私がネットで調べたんですが、サビ猫って幸運を呼ぶといわれていて、特にオスは縁起がいいらしいです。

 では、猫ちゃんのお世話、頑張ってください。


 幸運――か。皮肉なものだ。

 たしかに大学院合格という幸運は運んできてくれたが、麗奈と別れるという大きな不幸もやってきた。こいつは、負のパワーの方が大きいんじゃないのか。

 そこまで考えると、ふふ、と笑いが漏れた。俺は現実主義者で縁起なんて信じないのに。


 段ボールの中を見ると、サビ猫は立ち上がって箱の側面をカリカリひっかいていた。俺に気付いた奴と目が合う。サビ猫は目を細め、声を出さずに鳴いた。

 思わずそっと手を入れてみると、サビ猫は、俺の手にその小さな額をこすりつけるようにした。愛らしい仕草だ。


「外に出たいか?」

「ニャン」

「ちょっとだけだぞ」

「ウニャ」


 人間の言葉がわかるはずはなく、単に俺の声に反応しているだけだろうが、それでも反応があるというのは存外嬉しいものだ。


 フローリングの上に降ろしてやると、サビ猫は――呼びづらいが、名前をつければ情が移る――尻尾をピンと立て、部屋の中を探検し始めた。揺れるカーテンの裾、床に積んだ読みかけの本、キッチンにスリッパ、さらには電気のコードや差し込みプラグなど、危険なものまで奴の興味の対象になるようで、「好奇心が猫を殺す」という諺は、猫の習性をよく表しているものだと感心した。


 自分に責任があるとはいえ麗奈と別れた喪失感と、昨日までは般若だったサビ猫がかわいく変化したという現象が俺の心を戸惑わせただろうか、二回目の授乳を済ませる頃には、保護団体で空きが出るまで何とかコイツの面倒を見られないだろうかという気持ちに変わってきていた。


 実は一つだけ、心当たりがあった。

 思い切りのいる手段だが、試してみる価値はある。


 俺は昼食を済ませて身支度を整えると、サビトラをキャリーケースに入れ、一階に住んでいる大家の渡会わたらいさんの部屋を訪ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る