第6話 麗奈と笹井
「三十までは結婚したくないって文哉には言ってたし、本当にそう思ってたんだけど。先輩たち見てたら、結婚遅いと大変だなって気づいたの。育児・子育てだけじゃなく生活全般が修羅場化してる。たしかによく考えたら、会社に一番戦力として期待される年代で産休育休子育てって、キャリアパス的に不利以外の何でもないよね。だから思ったの。そろそろ結婚して、文哉の海外駐在が決まったら子どもを作って、文哉の海外駐在と私の産休育休のタイミングを合わせるの。海外で二人目を産めばさらに育休延ばせるよ。私、その間にMBA取ってもいいな。そうしたら付加価値がつくから。ブランクはあっても、帰国時にまだ三十そこそこだったら、いくらでも取り戻せる。私はマミートラックには乗らない。というわけでどう、私たちそろそろ、結婚しない?」
「え……それはその……あの」
急にそんなことを言われても。
「ちょっと、なにどもってるの?」
麗奈は笑った。
「女からプロポーズされて焦った?」
首にまわされる両腕。麗奈の唇が俺の唇に触れる。
まずい、なんと答えよう。
麗奈には退職のことも大学院進学のことも、何も伝えていない。いずれ折を見てと考えていた。それがここにきてまさかの急展開。
「ん……」
催促するように、麗奈が舌を入れてきた。
「……ちょ、待って」
麗奈の上腕を掴み、体を引きはがす。
「結婚は、したい」
これは、俺の正直な気持ちだ。
男勝りで勝ち気で計算高いところはあるが、麗奈の裏表のない性格が好きだし、何よりこんなに聡明できれいな女性が俺と結婚したいと言ってくれる可能性は、この先ほとんどないだろう。
俺の答えに麗奈はにっこりと嬉しそうに笑い、また抱きついてきた。
その体をまた引きはがす。
「でも伝えておくことがある」
「なに?」
「会社、辞めることにした」
麗奈の笑顔がさらに大きくなった。
「もしかしてヘッドハント? おめでとう、どこに移るの⁉」
この発想がいかにも麗奈らしい。
「いや、違うんだ」
「え?」
麗奈の表情が曇る。
「大学院に進学することにした。三月で退社する」
「……働きながら通えば?」
「無理だよ、この激務じゃ」
「じゃあ、どうするの」
「だから、会社を辞める。学費と生活費は貯金と奨学金とバイトで賄う」
バイトの件は深くは考えていなかったが、塾講師ならあるだろう。
「……」
さすがの麗奈も黙った。気持ちはわかる。麗奈が学生時代から思い描いていた俺との将来――お互いに仕事を頑張って、裕福で楽しい家庭を作る――が崩れ去ろうとしているのだから。
大学教員の給与が安いかといえば、大学により差があるので一概には言えないが、世間一般と比べれば高いだろう。だが商社で順調に昇進を重ねた場合と比較すると劣るのは、否めない。それに大学に就職できなかったら、今よりは確実に待遇の悪い企業に再就職するしかなくなる。そういうリスクを背負うことを、俺は一人で勝手に決めたのだ。
黙っていて悪かったとは思う。だが言えば反対されるのはわかりきっていたから、言えなかった。でも、合格したらちゃんとタイミングを見て伝えようと思っていた。
麗奈は黙って目を伏せている。こういう時の彼女は、とても怒っている。
気まずい沈黙にいたたまれなくなりサビ猫に目をやると、段ボールの中の奴は揃えた前足に尻尾をくるりと巻き付けて姿勢よく座っていて、俺たちの方を見上げていた。そして意外なことに、俺と目が合っても威嚇してこなかった。
「今日は、帰る」
どのくらい時間が経っただろう、麗奈はバッグを持って玄関に向かった。
「もう電車、ないよ」
終電の時間はとうに過ぎている。
「いい。タクシーに乗るから」
「そうか」
靴を履いた麗奈は真っすぐに俺を見ると、言った。
「じゃあね」
麗奈の声は震えていた。
その夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、麗奈とのことを思い出す。
大学三年の時、ゼミで出会ったこと。
意識高い系の彼女に刺激されて、大きな仕事がしてみたいと商社を目指したこと。
社会人になってからは二人とも激務だったが、それでも週末はどちらかの部屋で過ごす習慣ができたこと(休日出勤や翌週の仕事の準備のせいで、ゆっくりデートできることなどほとんどなかったが)、そのうち自然と将来のことを話すようになって、ただの恋人から、人生を共にするであろう同士みたいな関係に変わっていったこと。
だがその一方で、会社での激務は俺の心身を摩耗させていった。そこそこ器用に仕事をこなせてはいたが、とにかく疲れるのだ。毎日十五時間も働けば当然だろう。俺はだんだんと摩耗していき、そして次第に、大学に戻ることを考え始めたのだった。
長い夜を過ごし、ようやくうとうとしてきたと思ったら、「ミャア」という泣き声に起こされた。
ベッドを出て段ボールをのぞくと、サビ猫がちょこんと座っていて、また「ミャア」と鳴いた。もう般若にはならないのか?
(少し匂うな)
トイレを見ると、小さな糞と、尿をした跡があった。
「おっ、ちゃんとできたか。偉いぞ」
余計な仕事を増やさないでくれて、助かった。
これも説明書を読み、スコップで処理をする。その間、サビ猫は大人しくしていて、処理が終わると今度は少し甘えたような声で「ニャア」と鳴いた。
時計を見ると六時。麗奈が授乳してからちょうど六時間。
「そうか、ごはんか。待ってろ」
哺乳瓶にミルクを入れ、鍋掴みをはめた手を段ボール箱の中に差し入れる。今度こそ般若かと思ったがそうはならず、サビ猫は大人しくミルクを飲み干した。
こうして見ると、かわいいものだ。
だがやはり、飼うのは無理だろう。
この土日で保護センターに引き取ってもらえるといいのだが。
湯を沸かしている間にスマホを見ると、麗奈からのメッセージが入っていた。
『大学院のこと、もう一度よく考えてみて。サビ猫を二人で飼うことも』
俺はスマホの電源を切るとコーヒーを淹れ、動物病院からもらった資料に目を通し始めた。
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