第5話 サビトラじゃなくてサビ猫
「お前さあ、さっきから何なのその態度」
俺が食事とシャワーを済ませても、サビトラの警戒はとかれなかった。
1Kの部屋の窓際に置いたキャリーケースの奥でぎゅっと体を縮こまらせ、決して俺から視線をそらさない。少しでも近づくと唸るし、ケースを開けようと上部の蓋に手をかければ、立ち上がり、柵の隙間からパンチを繰り出してくる。パンチといってもごく微力なものだが、爪が生えているので、油断すると危険だ。現に俺の右手人差し指には、三本の長いひっかき傷がついた。
「ずっとそこに籠城して、ミルクとトイレ、どうするんだよ」
病院からの説明書には、こいつは生後三週間ほどのオスで、ミルクは一日四回、トイレは四~五回とある。ミルクはともかく、早くトイレが入っている段ボールに移さないとキャリーケースが汚れて面倒なことになる。
「こっちの方が、居心地いいぞ」
キャリーケースの横に置いた段ボールの中にはトイレが設置してあるだけでなく、タオルも敷いてある。朝の彼女――名前を聞いていなかった――が入れておいてくれたのだ。
「シャー!」
「……」
こうなったら、実力行使だ。
俺はキッチンから鍋つかみを取って来た。それを両手にはめ、キャリーケースの上蓋を開けると、サビトラの胴の部分を両手で無理矢理掴んだ。見かけよりずっと軽いな、と思ったのも束の間、サビトラは身をよじり、手足をジタバタさせて激しく暴れたが、さすがに手袋をはめた人間の男にはかなわない。俺は段ボールに素早くサビトラを入れ、手を離した。
「シャー‼」
サビトラは箱の隅まで走って縮こまると、また般若になった。でもだんだ見慣れてきた。もうびびらないぞ。
「そうかそうか、無理矢理移動させられたのがそんなにムカついたか。でもあっちにいたら糞尿で汚れるからな。トイレは大事だぞ。それにミルクもな」
時計を見ると、そろそろ授乳の時間だ。
(どうせうまくいかないだろうな)
ため息が出た。
だがこいつを飢え死にさせるわけにはいかない。俺は説明書を熟読してミルクの準備をし、また鍋掴みをはめて哺乳瓶を持ち、段ボール箱に手を入れた。案の定、サビトラは猛然と飛びかかってきた。鍋掴みのおかげで痛くもかゆくもないが、これが命の恩人に対する態度かと、本気で腹が立った。彼女に対する態度とは、全く別人、いや別猫じゃないか。
ミルクの入った哺乳瓶を見ても、サビトラの態度はまったく変わらない。それどころか、さらにひどくなった。生後三週間とは思えない敏捷さで俺の手から腕へと這い上り、「あっ」と思った時には、腕をひっかかれた。俺は反射的に哺乳瓶を落とし、サビトラを振り払ったが、奴は見事な着地を決めた。そうしてすぐに、転がっている哺乳瓶に駆け寄ると、すごい勢いでミルクを吸い始めた。
「へえ。大変だったね。でも、すごくかわいいじゃない。おもしろい模様だね。黒とオレンジが混ざってて――でも、さっきから文哉、『サビトラ』って言ってるけど、これ、トラ猫なの? どこにも縞模様、なくない?」
日付が変わる頃に部屋を訪れた麗奈は、コンビニで買ってきたカツ丼をビールで流し込むと、言った。
「そういわれれば、そうだな――でも俺のばあちゃん、同じ模様の猫飼ってて、サビトラって呼んでて」
「それ、種類じゃなくて名前だったんじゃない?」
「名前?」
「戦国武将にいたじゃない。上杉景虎だっけ? そういうイメージのネーミング」
麗奈は素早くスマホを操作すると、「ほら」と画面を見せた。そこに映っているのはたくさんのサビトラ――ではなく「サビ猫」だった。
そんな会話をしている間、サビトラ――じゃなかったサビ猫――は箱の隅でくるりと丸くなりすやすやと眠っていて、呼吸に合わせて腹を上下させていた。見ているだけで、ほこほことしたぬくもりが伝わってくるようだ。
「ふふ、ぐっすり。今なら触れるかな」
「やめとけよ。もし起きたら怪我、させられるぞ」
そう言いつつ、俺は不思議に思った。今朝の彼女には、なぜあんなに懐いたのだろう。
「でも触ってみたい」
麗奈は俺の制止をきかず、段ボールにそっと手を入れた。三十センチ、二十センチ、五センチ……徐々に距離を詰めても、サビトラはまったく起きる気配がない。
「いけそうだよ」
「どうなっても知らないぞ」
その直後、品のいいピンクベージュのネイルが施された麗奈の手は、そっと子猫の横腹に触れた。
「……ふわふわ。それにやっぱり、起きないよ」
俺を振り返って得意げに笑うと、今度はサビトラの額を撫でた。するとサビトラの耳がピンピンと跳ねるように素早く動き――ぱちりとそのつぶらな瞳が開いた。持ち上がる首、見開かれる目。
危ない!
そう思った時にはもう遅く、サビトラは素早い動作で体を起こすと、麗奈の手に飛びかかっ――たと思ったのだが、意外なことにその表情は瞬時に穏やかに戻り、三角座りで小首をかしげて麗奈の顔を見つめると、
「ニャン」
と一声かわいく鳴いたのだった。
「文哉、飼わない? この子」
ゴロゴロいうサビ猫を膝にのせてミルクを与えながら、麗奈はご機嫌だ。
「無理。日中はどうする? まだ小さいから、一人で留守番はさせられない。それに見ただろ、俺の嫌われよう」
「……おかしいねえ」
ミルクを飲み干した猫を、麗奈は上向きに抱き直した。そうして頬の所をくすぐる。
「サビちゃん、どうちてこのおにいさんが嫌いなんでちゅか?」
どうちて? でちゅか?
俺は耳を疑った。
学生の頃から優秀で大人びていて、入社三年目にしてメガバンクの営業としてバリバリ働いている麗奈が、赤ちゃん言葉。初めて見る一面だ。恐るべし、子猫の魔力。
「本当に飼わない? 二人で。結婚しようよ」
麗奈は子猫を段ボール箱に戻した。
「は?」
結婚? 空耳か?
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