第2話 彼女と出会う

 きっと母猫を探しているのだろう、また大きく鳴きながら、子猫はその手(正確にいえば、前足か)を動かした。掌をこちらに向けて広げるとピンクの肉球が見え、不覚にも俺は(かわいい……)と思い、つい、もっとよく見ようとネットをまくってしゃがみこんでしまった。すると手はすっと段ボールの穴の中に引っ込み、少しして、ピンク色の鼻先がのぞいた。穴が小さいので頭は出せないが、それでも顔の大部分が見えている。


 青みがかった大きな目。鼻と口の周りは白。穴の中から、きょとんとした顔で俺を見上げている。


 いっそのこと、段ボールごと試験会場に連れて行ってしまおうか。試験官だって人間だ。事情を話せば別室で預かってくれるかも――と考えて、俺は首を振った。いや、だめだ。常識を疑われかねない。腕時計を見ると、もう五時。そろそろ行かなくては。


「ごめんな」


 自分が悪くないのに謝ると、子猫に通じたのだろうか、「ミ……」とかすかな声で鳴き、穴から離れて段ボールの奥に引っ込んだ。のぞくと、箱の隅で尻尾をくるりと体に巻き付けてうずくまるその様子がいじらしく、心が痛んだ。


 俺はまたネットをかけ、心を鬼にして、ごみ収集所を離れた。だが決して振り返るまいと決めていたのに、数メートル歩いて曲がり角に来たところで、つい、振り返ってしまう――大丈夫だろうか、この意志の弱さで。大学院の合格はもとより、学者としてやっていけるのか? そもそも、新卒で入った会社を二年で辞める根性なしだ(過酷な労働環境ではあったがその分高給で将来性もあったのに)――ああ、何てタイミングの悪い朝だ。試験があるというのにメンタルをかき乱され過ぎ。俺は、思わず大きなため息をついた――すると――。


 反対側の角から、ゴミ袋を手にした女性が現われたではないか!

 まだ若そうだが、主婦の人(決して主婦が暇だとバカにしているわけではないが、平日の早朝に猫を保護してくれる第一候補は、やはり彼女たちだろう)かも知れない。

 これはもしや!

 俺は期待を胸に、植栽の後ろに身を潜めて成り行きを見守った。

 人の気配を察知したからだろうか、また子猫が「ミャア!」と鳴く。いいぞ、もっと鳴け。うんとアピールして気付いてもらえ。


「ミャア、ミャア、ミャアー‼」


 俺の心が通じているかのように、子猫は激しく鳴き始めた。ゴミ収集所に近づいた女性が、ネットをまくる。ここまで聞こえるほどの大きさだ、彼女にははっきりと、子猫の存在が認識されているだろう。

 彼女が手にしていたゴミ袋を置く。

 よし、いいぞ。次は段ボールだ! 

 はやる胸を押さえながら俺は見守った。だが次の瞬間。

 女性は段ボール箱に何の興味も示さず、ネットをきちんとゴミにかぶせ、その場を立ち去ろうとした。


「ちょっと待ってください!」


 考えるより前に、俺は飛び出していた。

 だが女性は自分のことだと思っていないのだろう、こちらを見ずに来た方に戻ろうとする。俺は走って追いかけた。そして追いつくと、彼女の前に回り、「怪しいものではないんです!」と言った。女性(近くで見ると、思っていたより若かった。主婦の可能性は低いかも知れない)の眉間にはしわが寄っていて、明らかに怪しまれている。だが俺は構わずに続けた。


「鳴き声、聞こえましたよね? あの段ボールに子猫が入っていて」


 と、指さした。

 段ボールの方を見た女性は、黙って段ボールにまた近づいた。


「ミャオン‼」


 穴から鼻先がのぞく。


「ほんとだ、猫。かわいそうに」


 独り言のようにつぶやくと、彼女はガムテープを剥がして段ボールを開け、そっと子猫を持ち上げた。生まれてどのくらい経つのだろう、両手のひらにすっぽり収まるサイズだ。暴れるかと思ったが大人しく、彼女に優しく抱っこされると、「ニャン」と一声鳴いてから喉をグルグルと鳴らし始めた。


「ひどいことをする人がいますね」


 彼女は俺をまっすぐに見つめて言った。


「ええ、本当に。もしかしてその猫、飼えますか?」


 性急な質問に彼女は、


「え?」


 と困惑した表情をした。


「無理です。私のマンション、ペット禁止なので」

「……そうですか……あの、じゃあ、今日一日預かってもらうことはできませんか」


 何を言い出すんだ俺はと思いつつ、言葉は止められなかった。


「猫のことって僕よくわからなくて、すごく申し訳ないんですけど、動画で調べたらこういう時どうするか、情報、あると思うんです。それを見て必要な物を買っていただいて――料金は後でお支払いするので――これ、僕の名刺です」


 俺は胸ポケットから出したペンで急いでプライベートのスマホ番号を書いた。


「今日、午前中はどうしてもだめなんですけど、昼過ぎたらいつでも出られるので、電話をください。もちろん非通知で結構です」


 そこまで一気に話して彼女が戸惑った顔をしている(当たり前だ)のに気づいた。


「今日、お仕事ですか?」

「……いえ、ちょうどお休みですけど……」

「じゃあ。本当に申し訳ないんですけど。こいつ、カラスに狙われてて」


 奴らは隣家の塀に三羽並んでとまっていて、まるで俺たちの会話に耳をそばだてているようだ。


「あら」

「この後ゴミを出しに来る人に気付いてもらえるとも限らないし。あなたのこと、好きみたいだし。ホームセンターの往復、タクシー使ってください。荷物多くなりそうだから。それもお支払いします。もしそれ以外にも費用がかかったら、全部僕が」


 俺が話している間じゅう、サビトラは彼女の腕の中でぐるぐると喉を鳴らし目を細めていた。


「――わかりました」


 彼女が、俺の名刺を手に取った。


 よかった、交渉成立だ。 

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ありふれた恋の話 オレンジ11 @orange11

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