ありふれた恋の話

オレンジ11

第1話 子猫と出会う

 カラスのうるさい朝だった。


 一羽、二羽……いや三羽か? 


 まどろみの中でカラスの数を数え、スマホのアラームをセットした四時少し前に、俺はベッドを出た。いつもはもっと遅く起きるが、今日は大学院の面接試験だ。開始は九時。ラッシュアワーの通勤電車にもみくちゃにされて会場に着くよりは――遅延や運休の可能性もあるし――電車がまだ空いている早朝のうちに移動して大学周辺のマックかドトールにでも入って最後の勉強をし、気持ちを落ち着かせてから受験したい。


 コーヒーを淹れ、トーストを二枚焼いた。合間に社用メールをチェックしそうになり、手を止める。社畜生活から脱出するための試験を受ける朝に社用メールのチェックなんかしたら、受かるものも受からなくなる気がする。


 トーストの一枚にはバターを塗りハムを載せ、もう一枚にはピーナツバターとブルーベリージャムを塗った。父の仕事の都合で米国に住んでいた時に覚えた食べ方で、ピーナツバターの塩気とブルーベリージャムの甘さが絶妙に合い、コーヒーで流し込むと存外旨い。


 身支度を済ませると、俺はリュックと昨日まとめて置いたゴミ袋を手に、部屋を出た。するとまた「クワックワッ」という鳴き声がして、声のした方に視線を向けると、ゴミ収集所の前の歩道に三羽、大きくて黒光りするカラスが並んでいて、二羽がネットをくちばしで持ち上げようとし、残る一羽は、十センチほど地面から上がったネットの隙間から、中に置かれている中くらいの大きさの段ボールに「ボスン!」と音をさせてくちばしを突き立てた。


 カラスの目当てはあの段ボールか。腐った肉でも大量に捨てたやつがいるんだろうか。そう思いながらゴミ収集所に近づくと、俺に気付いたカラスたちは一メートルほど、後ろに飛びのいた。いつもなら近くの電線に飛び移るのに、ずいぶん段ボールの中味にご執心だな。やはり肉――と思った時だった。


「ミィー‼ ミィー‼」という、甲高い鳴き声が聞こえた。


 段ボールに近づくにつれ、その声はどんどん大きくなっていく。声だけでなく、がさがさと動く音、カリカリと段ボールをひっかく音まで。

 開けるまでもなく、中身はわかった。捨て猫だ。それもおそらく子猫。こんなに騒いでいたら、そりゃあカラスが集まってくるはずだ。


 段ボールの側面には、すでに穴が五つ開いていた。カラスのチームワークとくちばしの破壊力をもってすれば、段ボールが壊されるのは時間の問題だろう。ゴミ収集車が来るのは八時。それまで持ちこたえられるとは思えない。それにゴミ収集車が来たらどうなる? 作業員は子猫の存在に気付けるのか? ゴミ収集車はけっこうな音がする。それに作業員は、勢いよく流れ作業でゴミを収集車に放り込む――そこまで考えて、俺は自分のタイミングの悪さを呪った。何でよりによって試験当日の朝にこんなものを見てしまったのだ。


 だが、悪いのは俺じゃない。

 猫を捨てた奴だ。

 もしカラスに食われたら、それは弱肉強食、食物連鎖、自然の理。

 収集車の作業員に気付かれなかったら、それは子猫の運の悪さ。


 ああそうだ、もしかしたらカラスと収集車の前に、誰か親切な人に見つけてもらえるかもしれない。この集積所を使っている人数はそれほど多くはなさそうだが、これだけ鳴いていれば普通は気付くだろう。そうだ、主婦の人は時間に余裕があるから、きっと見殺しにはせず何らかの手立てをとってくれるはずだ。


 俺は段ボールを集積所の奥の方に動かし、すでに出されてあったゴミ袋で保護するようにした。そしてネットを念入りにかけてその場を離れようとしたとき、ひときわ大きく「ミャア‼」と鳴き声がし、段ボールの穴から細くて短いサビトラの手が付きだした。

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