尋問
銃口を突き付けられたならば一旦手を上げるしかない。
ECL1PSEは身動ぎせずにそろそろ手を上げ、銃を突きつける男に質問する。
「……サフールじゃないな?」
男は答えなかった。
そして彼は神経加速インプラントを起動した。
頭を下げ、男の鳩尾に肘を押し込み、手首を叩いて銃を取り上げる。
男が握っていたのは銃ではなかった。トランキライザーである。
彼は襲撃側の意図を読み取った。
トランキライザーを男に打ち込んだ彼は神経加速インプラントを切り、最寄りの車へと疾走する。
周囲からのインプラントの反応は5人だった。
たかだか一人のネットランナーを捕縛するために送る数ではない。
従って彼の中の、「自分の来歴が相手に知られている」疑いは確信へと変わる。ならば更に捕まるわけには行かない。
ミッドダイヴ状態においては視覚系のオーヴァーレイに、ノードから取得した位置情報を重ね合わせる方法を用いれば、反射に近い速度で反応できるような極めて直観的な視野を得られる。オートセグメンテーションが神経加速に反応、350fpsを超えるに至る視覚映像を解析し、ノードとしてリモートコントロール可能な車を塗り分けていく。
残念ながらサーヴァー未接続状態では、実行できるプログラムの数に限界があった。彼は普段なら起動する物理演算ソフトを利用した車の軌道予測を止め、追手が効率的に排除できないリスクを承知しながら視界に入る大半の車のイグニションを叩き込む。
エンジン音、モーター音に次いで、起動が早かった車から急速なスピンアップとギアチェンジの音をがなり立て、出鱈目に追手へと突貫する。
タイヤスモークと排気が空間を満たした。むせ返るような前世代車の硫黄酸化物排ガスを裂いて、轢かれた人間の絶叫とギャリギャリと言う砂利と金属を描くような音が劈く。
残念なことに神経加速インプラントを積んだ人間が大半であり、轢いて無力化出来たのは2人程度。
ECL1PSEは、追手のエージェントを轢いて目の前へドリフトしてきたクーペへ乗り込み、他のエージェントの追走を防ぐように車を軌道させながら、車を駐車場出口へと回した。
彼の中で優先順位首位を占めるのは速度である。位置が判明してしまった以上、今出来るのは一刻も早い島からの脱出であって、事件性や外聞などに気を使っている場合ではない。
神経加速インプラントとデッキのオーヴァークロックが頭痛と熱を脳裡へ送波してきたが、例え命が削られようと逃げなくてはならなかった。何故なら彼の推測が正しければ、追手は最悪の場合、司法取引が通じるような人間ではないからである。
クーペはトップスピードで地下駐車場から飛び出した。4車線道を走る車の間を縫って着地し、反対車線にリアがはみ出ながらも再起、疾走する。
運転と同時に交通誘導システムにアクセスするのはセキュリティ上諦めなくてはならなかった。よって全て彼のドライヴィングテクにかかっている。
さて逃走ルートとなると、追手側がどこまで抑えているかはわからない。最悪の場合、全ての脱出経路を塞がれていて、島から脱出する前にステルスゲームをやらなくてはならない可能性もある。
どこかで一旦隠れて変装しての脱出手段を探るのが安牌だが、しかし脱出が遅くなれば遅くなるほど、監視と「中立の」データ収集デヴァイスに満ちたこの都市での隠密成功確率は低くなっていくのだ。
よりにもよって最悪の場所で網にかけられてしまっていた。一瞬、寧ろ彼を効率的に捕えるために、シンガポールでの仕事まで彼を泳がせたのではないかという訝しみが脳を掠めるが、今は背後関係に思索を巡らせる時間ではないと断じる。
彼が19年間の人生の中で、片手で数えるほどしか体験したことのないギリギリの
密航————港————南岸へ!
目的地点までの間は、幸運にも車間距離が広く通行車両数もさして大きくない。彼は車を乗り捨てる必要性を確信していたから、法定速度はガン無視することに決め、実行した。
神経加速インプラントはもう発火できなかった。もし使えば彼の脳皮質や心肺は耐えきれず、意識混濁や心臓発作の危険性すら発生する。
度々すれ違う車を掠めながらクーペは疾駆し、港湾付近の立駐へ突っ込んだ。彼はブレーキをカウントダウンで実行させるようにプログラムを突っ込み、窓から身を乗り出すと車の勢いが乗ったままドアを蹴り、身一つで立駐を飛び出す。
そしてその勢いで、立駐奥のマーケットフロアの裏路地へ突っ込んだ。
彼がこれまで投資してきた戦闘用のインプラントの数々、
通行人に紛れて港へと向かう。港付近の建設中のビルの周辺を覆う足場を通って行く予定だった。
そのためには一旦表通りを通るのが最短である。
監視カメラ位置から計算して移り込まないよう工夫しつつ、彼は人の波の間を縫って向かう。通りを満たす香辛料、香水、電機屋の滅菌されたような僅かなプラスチック臭が、立体機動の嵐から解放された感覚を刺激した。
追手の影はなかった。彼は足場に到達。人目が無いことを確認してから走り出す。
港湾のターミナルは目前で、眼下にはトラックが駐車され、密航を企てるために必要なステルスプランの立案もすぐさま可能に思われた。
しかし、
「詰めが甘かったな」
蟀谷に衝撃が走り、彼は足場の上で昏倒した。
———— ———— ———— ————
心音モニターと、脳波を計測するための
システムクロックは停止されていた。今のECL1PSEに時間を知る術はない。戦闘用インプラントの全ては
灰色の部屋は古典的な取調室ではなく、どこか適当なビルの一室を借りた風情だった。しかして逃走を防ぐ対策は強力に敷かれており、数人の
ECL1PSEは肘を突いて頭を支え、向かいに座る男を睨んだ。下手に暴力的な口調を発露する程短気ではない。加えて彼の予測では、このアナログな尋問に発展している時点で、自身にとって最悪の状況————記憶を再生して犯罪歴を洗いざらいにし、証拠を収拾した後はインプラントを抜き、神経毒で脳皮質を損傷させネットランニングを不可能にする————は避けられている、少なくとも「他の選択肢は与えられている」状況であったから、ここで相手に悪印象を与えて最悪を避ける機会を不意にするつもりはない。
「
男は述べる。
「提示される言葉に対し、最初に念頭に浮かんだ言葉を答えなさい。
遅延や隠蔽はしてはならない」
男の言葉にはこちらを推し量ろうという意図すらなかった。機械的に、一切の感情を滲ませない無関心さで応対しているだけだ。まるで#==%3akd@Jk_。
彼が告げられたテストの名前に対して反応する間もなくそれは始まった。
「秩序」
「FNA-EU協定」
「反乱」
「マダカーリー・チャンドラ」
「蜂」
「ペリドット」
「裏切り」
「モスル」
男は何がしかをノートPCに入力した。
沈黙の中に打鍵音だけが響き渡る。
僅かな質問の交差だった。それにも拘らず、彼の心情は漣立ち、出すまいとしている鬱憤が表に吹き出てくる。
何よりデータのインフローが足りなかった。睡眠時であっても続いていたネットワークとの接続が、今や断たれているという現実は、世界の全てから隔絶されたような孤独と、彼の与り知らぬところで何かが続いていると確信するが故の焦燥感を巻き起こす。
不快極まりない。
無意識に、指が忙しなく机を叩いていることに彼は気付いた。
入力を続けていた男は不意に席を立ち上がり、警備の一人に手を振ると、扉を開いて去った。間髪入れずに新たな男が入ってくる。
男のスーツはいかにもコーポレートらしいものであり、下顎から蟀谷に至るまでは硬質なインプラントのメタリックコートに覆われている。
ネットランニングインプラントの一種であることに間違いなかった。レティクルが刻まれた
耐え難い羨望を感じた一方で、冷や水を浴びせられたような警戒感が、カーボン繊維が編み込まれた背筋を抜けていく。
男は失礼、と断るとオプティクスのログを消した。オーヴァーレイも消える。
ECL1PSEの中で警戒心が昂ると同時に、目の前の男へ更に意識が集中して行く。
「デイヴィッド・ボーデン。IAIC上級捜査官だ」
「では今回俺を捕縛したのはIAICか?」
「その通り」
推測は当たっていた。
国際組織である
曰く、Web上の活動で彼らの監視網を逃れることは出来ない。
曰く、いかなるギャング、マフィア、メガコーポであろうと情報提供者、協力者、そして潜入捜査官に事欠くことが無い。
曰く、もし彼らの働きが無ければ、サイバースペースはとっくの昔に不良AIによって破壊されている。
勿論こういった噂のほとんどはストリートで自然発生した伝説や、協定組織の喧伝によるものだとはっきりしている。
ECL1PSE自身も、彼らの諜報網がまことしやかに囁かれるそれに到底及ばないこと、しかし畏怖を以て捉えられるに十分な水準であることを知っていた。
故に用心を欠かすことはなかったのだが、遂に捕縛されてしまったわけである。
しかし、こうしていかにも会話をしに来た、という風な人間が目の前に座っているということは……
「要求は司法取引か?」
「正しくそうだとも。
交換条件は我々の捜査に協力することだ。君の犯罪履歴の読み出しは完了した。従って、残った君をどのような形で活用しようとも、我々の損失になることはない。
我々はな、一定の敬意を払っているのだよ————ある種の絆と言うべきか、追うものと追われる者、互いに職業が類する以上、奇妙な信頼関係が生まれる。
追われ続けながらも逃げられる人間は、精神性が『こちら側』にそぐわないだけで、全く諜報向きだとね」
彼は記憶が再生されたことに全く気付かなかった。昏倒した期間中に既にインプラントと彼の脳の解析を終えたというのだろうか?厄介なことに彼は、記憶を即座に再現することに全く長けていたから、専用インプラントを利用していないにも拘らず、記憶を抜かれてしまった可能性はある。
デモシーンのコーディングを繰り返して鍛えたそれは、もし悪用されれば致命的な弱点となり得るものだった。尤も、記憶を再生されるような状況になった時点で敗北と判定されるべきだから、考慮することも必要ない弱点である。
だが、それにしては記憶再生に伴う妄想幻視が一切発生しなかったのはおかしい話だ。可能というならば、何かしら、未知のテクノロジーを保有していないとも限らない。原理原則に基づき考察できる範囲を飛び越えてしまうが、そう考えねば理屈がつかない。
————まだだ。連中の言うことを安易に信用してはならない。これまでに積み上げた知識を信じるに、脳の活動を伴わない記憶再生は不可能だから、彼がそれを忘却していることはまずないはずだ。
しかし不明になった時間感覚が、もし今が昏倒してから数ヵ月後で、彼らが極めて柔軟に、彼の脳を弄りまわして何の感知可能な副作用もなく、「記憶が外部からの強制想起によって再生された」ことによって記憶を取り除くことに成功していたならばどうなる、という問いを投げかけた。
彼はその問いに答えを出さなかった。ただ焦燥のヴォルテージは否応なしに上昇する。
「君はどうやら————カンザキのために働いているようだね?キャリアの始めから。アンダーカヴァーの人材と言うわけだ。ストリートの情勢、フィクサーの動き、それらを流し、時に収集した情報をフィクサーを通さずカンザキに送って、彼らの有利になるように働く。
優秀な立ち回りを示してきたようだな。
しかしここで語りかけよう————鞍替えしたまえ」
カンザキの人材であることを言い当てられ、昂りそうになった感情を抑える。
辛うじて、彼の犯罪履歴を外から取得して回れば、推測して至ることができないでもない結論だ。まだ、記憶の再生を信じるに至るほどではない。
気分を落ち着け、眉を顰める。鞍替えする?
カンザキは敵対相手としては最悪の部類だ。だから彼も、最も尊ぶ自由を一部かなぐり捨ててまで、連中の指示に従っての安全を選んでいるのだ。
男は訝しむ彼の表情を見て取り、続ける。
「IAICからのカヴァーアップはカンザキのカヴァーの欠損を補って余りあるものだ。加えて、君のカンザキとの直接コンタクトの薄さから見直せば、カンザキに留まりながらこちらに情報を流すこともできよう。
二重給と言うやつだ。将来に引退を見据えるにしても、最新鋭のインプラントを蒐集して先端に留まり続けるにしても、金は必要だろう……?
我々はそのサポートをするに余りあるリソースを持っているのだよ」
つまり極めて危険な境界上でダンスしろ、でなければ速やかな死だ、と言うわけである。実質的に、彼に選択肢はない。そして向こう側も、提示した条件を変える気は毛頭ない様だ。
「我々は君の才能を極めて重要視している。
既に多くの先達が君と同じ道をたどり、今や諜報活動のためにネットランニングに勤しんでいる。以前のように世界を飛び回りたいのなら、捜査補佐として飛びたまえ」
受ければ、キャリアは、ここで死なない。何時始末されるともわからない生活は
「
受ける。選択肢は無さそうだ。そちら側の決定を変更する余地もな」
ボーデンは微笑んだ。
———— ———— ———— ————
2053年11月13日。
強盗を起こした11月10日、そして捕縛された11日から精々2日。それが、彼が囚われていた時間だった。勿論その間に、記憶を一切の後遺症や意識できない影響なく消去することなどまず不可能で、あの密室の緊張状態から解放されてもそういった症状が発露しないことを考えるに、どうやら記憶の再生は脅しらしかった。
ではIAICが、ECL1PSEがカンザキの人材であると看破するに至った証拠とは何だったのか?
ECL1PSEは自身の隠蔽技術に信を置いてきた。IAICにカンザキとの交信が洩れていたなどと考えたくないが、もしそれが起きていたとしたのならば、そしてこんな木っ端にまで大人数を掛けるほどカンザキへの対策を探しているのだとしたら、それはIAICがカンザキと、「正面切っての諜報戦」にまでもつれ込んでいることを示している。
全く巻き込まれたくないものの渦中に放り込まれてしまったものだ。
辟易するが、最早選択肢はない。彼はトラッカーと神経毒入りの身だ。IAICがいつでも殺せる、便利な
彼は飛び立つ旅客機を見つめ、溜息を吐いた。
乗る予定の便はUA-541。FNA西海岸、
ボーデンの指示によれば、CXで現地捜査官ハリー・デイヴィスと会い、ミッション概要を聞く必要があるらしい。
捜査官とか、国際機関とか、頭が痛くなる語句ばかりである。それが味方側と言うのが尚更だ。
関わり合いに成りたくない連中に絡み付かれてしまった自分の不運を呪った彼はしかし、久方ぶりに戻って来た絶え間ないインフローに歓喜を覚える脳皮質に、つくづく単純なもんだな、とネット中毒者特有の諦念を覚えた。
せめてこの膨大なインフローが、彼を監視するIAICのAIとネットワークを疲弊させてくれることを願いつつ、彼はキャリーケースのハンドルを伸長した。
文明の傾暮の中で EF @EF_FrostBurnt
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