文明の傾暮の中で

EF

Prologue

テック強盗

「さて……最初の仕事は何だった?どういった類でどこでやったんだ?」


 グレンはメンバーの気を紛らせに質問を始めた。彼の口は髭に囲まれた三日月を描き、微妙に人好きのしない獰猛な笑みが顔に浮かんでいる。


「特にお前、ラッセルから聞きてえな。FNAでは随分名の知れた仕事を回してたらしいじゃねえか」

「最初は大したものじゃない。しかも殆どポシャりかけた。

 アトランタ、2025、クソッ垂れなデルタトロニクスの輸送車列強盗だよ。

 当時のコーパス・ギャング連中と車列を横から銃撃して強奪だ。

 ニュース探れば出ると思うが、結果は途中で増援が来やがって、ずらかるのもギリギリの状況だった。何も奪えなかったさ」


 ラッセルはSMGからストックを外し、マガジンは外してベルトに挟み込む。

 元々通常のSMGからはかけ離れた奇怪な形をしていたそれは、今や通信機器と計測器具の類にしか見えなくなった。


 対面に座るグレンも銃の清掃をしている。バレルと清掃用具の擦過音に、彼の深く低い声が交じった。


「ところでだが、シンガポールの道は綺麗で良いな。車内でも銃の清掃ができる」

「コーポエリアならどこもそうさ、そしてこの国にはコーポエリアしかねえ」


 そう返したのはヴァスケスと言う名の30前半の男で、彼のサングラスから下の身体は、年月を経て茶色みがかってきたタトゥーに覆われていた。


「次は俺がやるか。グレンはトリだ。

 メデジンでドラッグが集められてた倉庫に5人で突っ込んで、掴めるブツだけ掴んでヴァンに突っ込んだ。それだけだ。

 その後盗んだ元のタロンズから報復で内3人消されるまでがオチだな」


 例によって硝煙臭い話であった。この場の3人のいずれも、傭兵として泥臭いキャリアしか積み重ねて来ていない。


「おいおい、お前はどう回避したんだよ」


 グレンは物語の答え合わせを待ち望む子供の様な無邪気な声で尋ねた。


「回避してねえ、郊外で襲われたが、向こうも数が少なかった。2発身体に入ったが死に物狂いで逃げてどうにかなったぜ」

「そんな奴が今ではトップランナーか。いいねえ、ロマンがあるサクセスストーリーだ。ドキュメンタリーにすれば」

 グレンはストックを曲げ伸ばし、外す。

「数万PD稼げるぜ」

 彼の言葉に車内の全員がにやついた。


「くたばった後に嫁が、金が要るんならやるかもな。

 いずれにせよ、このビズでポシャんなきゃ数十万だ。今更ありふれたドキュメンタリーなんてやってもCXやらリマでは鼻で笑われるのがオチだぜ。もっとすげえもので満ち溢れてるんだからな」


 ヴァスケスの言葉にはしかし、隠し切れない高揚が滲んでいた。他のグレンやラッセルも例外ではない。


 今彼ら、グレン・ラッセル・ヴァスケスの3人は、ヴァンに乗ってパン・アイランド・エクスプレスウェイを西へ飛ばしている。

 今やトップランナーの傭兵————金と引き換えにどのような犯罪でも実行する何でも屋————となった彼らの今回の仕事は、アッサフール社のプロトタイプの奪取。ターゲットはシンガポール西部ペリドット・ウォーター・モールで開かれる技術展で、全世界に初公開される予定のものだ。報酬は数十万PDを数え、成功すればペントハウスだろうとクルーザーヨットだろうと手が届くとんでもないデカいヤマである。

 ここまでの仕事を回す人間になったのだという自負、そしてこの仕事の裏に流れる企業抗争の影への畏れが、彼らにミッション前の武者震いに代わって、躁的なまでの興奮を齎していた。


「そしてトリがお前だろ、グレン?

 元私兵なんて最悪の来歴も良いとこだからな」

 ヴァスケスが尋ねる。

「おいおい、そんな風評を広めやがったのは誰だよ」

「お前に決まってるだろ」

 そう言われて、グレンは誇るかのように笑った。


 グレンの向かいに座るラッセルは彼へ胡乱気な眼差しを飛ばす。


 今回の仕事は隠密メインなのだ。グレンの効果性は疑いないが、この態度は単にモードとして、仕事への献身を欠いているように思える。

 そしてグレンが繰り出した最初の話も、正しく彼の性格のトリガーハッピーな面を強調していた。


「飲みでバイカーどもとトラブルになってな。連中を殺る機会を窺ってたんだが、ちょうど面倒な動きをしてる下っ端を殺す仕事が出回ってたから、受けて連中のたまり場に突っ込んだ。

 気が付いたら野郎の首のない身体をケツ蹴って穴に落としてたぜ」

「ほら見やがれ、これが元私兵がクソな理由だ」

 グレンはヴァスケスの冗談をひらひらと手を振ってかわし、

「あの時のサイバーウェアは大体積み替えたから暴走の危険はないぜ。

 安心しろよ」 


 ヴァスケスはウェアの問題ではないとばかりにやれやれと首を振った。


「にぃしてもあれは中々な仕事だったな。5人一度にぶっ殺したが3発食らっちまった」

「だがこの中で一番『中々』なスタントをやった奴は何も身体に食らわなかったらしいな」


 車内の全員がラッセルを驚きと好奇心の目で見た。ヴァスケスはパネルスクリーンのリアシートビューを回転させ、ラッセルにピントを合わせる。


「ECL1PSE、あんただよ、率直に言って興味があってな……

 CXのレジェンド共にも引けを取らない経歴の持ち主と言えば、この場ではお前さんだけだ。最初の仕事がどんなブツだったか、『参考に』したくてね」


 車内に居るのは3人。しかし通信に接続されているのは4人だった。

 実動部隊とは別に、バックアップを担当する人間が一人、通話画面で、話の聞きに徹してかそれとも無関心故か、沈黙し続けている。


『あんたのキャリアに役立つ情報だとは思わないがな。

 仕事相手のタマを見分けたい、というのが俺の予想するあんたの『参考』のやり方だが、レジェンド連中の来歴はそれぞれ独特だ。直接会うまでどんな才能を秘めてるかはわからない』


 若く、どことなく冷たい声がホロ通話に響く。金環日食のアイコンが明度を上げ、音声と、ハッカーECL1PSEの名前下のインディケータが同調していた。


「何でパンピー共がふざけたインフルエンサーの自伝買って祭り上げるか知ってるだろ?英雄崇拝だよ、あんたの伝説を聞きたがってるやつがここに一人はいるってことだ」

『なら俺も真面目に対応しよう。仕事相手が渋る話を無理やり引き出さない方が得だ。

 聞いただけで巻き込まれる逝かれた状況が潜んでいるかもわからん。

 探りたければフィクサーにでも頼むんだな』


 ラッセルは黙り込み、詮索を止めた。しかし彼の顔は明らかに不満足そうである。


「どうやら厄介なファンと同乗する羽目になったようじゃないか、ECL1PSE」

 グレンは相変わらず飄々とした口調で茶化しにかかる。

『傭兵のファンは初めてだね』

 ECL1PSEの秘匿主義にも拘らず、場の空気は温まっていた。

 一方ECL1PSE自身はというと、ちょうど話がひと段落付き、目標地点への距離も丁度良くなったこの時点を、最終確認の好機と考えていた。


『通話に盗聴はない。

 要点確認だ。

 コウサカメディカル————クライアント————のオーダーによれば、治安部隊の介入は絶対に避けなくてはならない。もし銃を利用する羽目になったとしても、公衆の面前で使うようなことは避けろ。

 特殊装備については丁重に扱ってくれ。計画通りに進めば、中身が今作戦一番の功労者になる。

 メインプランが上手く行けば、相手は混乱の中に叩き落される。その隙を縫って言い訳を付け、プロトタイプを現場から避難させる体を装って奪取する』


 それがプランだった。警備の注意をそらし、混迷の中で、アッサフール社の隙を突く作戦。嵌れば強いが、事前段階での準備が幾つもある。

 そもそもこの特殊装備が予定通り作動するかも不確かだ。


『この馬鹿らしい三流パニックを思いついたグランデに感謝を。

 そしてグレン、お前は最初に死ぬモブAだ』


 グレンはにやりと口端を上げる。髭面の彼は確かに、ゾンビ映画のやられ役臭い顔をしていた。


『ラッセル、ヴァスケスはアッサフール社のスタッフに変装して待機。速やかにブツを運び出すのが仕事だ。トラブルを発生させずにブツを運び出す話術に期待がかかっている』


 機転が利くという一点においてヴァスケスは折り紙付きだった。彼はベストな解決策を見出す嗅覚を備えている。

 特にこの面倒な状況と条件においては—————フィクサーの説明をヴァスケスは思い出した。


———— ———— ———— ————


「中々ややこしい条件だな」


 ヴァスケスは頭を搔いた。フィクサーのグランデから渡されたシャードの内容が、依頼元の意図を察し難いものだったためだ。


「『ターゲットであるナノボット奪取に当たって混乱が巻き起こることが予想されるが、法執行機関、特にテロ対策部署が介入しない程度に抑える必要がある』————これは分かるが、『特殊装備の使用認可』?

 隠密が必要条件なのにそれを許可するのは随分不可解だが」


 グランデは燃え尽きかけた大麻葉巻を折り、灰皿に擦り付けると答えた。


「コウサカメディカルの意図は威力偵察に近い。この仕事は恐らく大規模諜報戦の引き金として意図されたものだ。無関係な傭兵を雇うことで、実行者を通じての情報の流れを部分的に寸断し、一方特殊装備使用によって、諜報部の介入を示唆する。これによって相手方から諜報員を吐き出させるつもりだろう。

 良いか、この仕事の重要性を測ることは必要だ。しかし持っている必要のない知識も多い。特に実行役はな。

 ヴァスケス・サンティアゴ、五体満足でリマに帰りたくば探り過ぎないことだ」


 傭兵としての原則だった。彼らの身の安全のためには、産業スパイの活動に踏み込み過ぎるべきではない。そういった役目を担うのはネットランナーやフィクサーで十分なのだ。


 ヴァスケスは押し黙った。リマに残した娘の顔が過ったためではなく、作戦の裏に隠れるクライアントとアッサフールのスパイ網の及びつかない広がりが、ひそかに察されたためだった。


———— ———— ———— ————


「暇か?」

「ああ……若干な」


 ヴァスケスとラッセルはヴァンの中で、移動中の車内で味わったのと同じ、高揚感に満ちた緊張を味わっていた。

 現在こそが最も危うい時間と言っても過言ではない。バックアップを担当するECL1PSEはモール地下でセキュリティシステムを監視するネットランナーに、致命的なシステム麻痺を与えるべく、清掃ボットに身をやつしてダクトを進んでいる。


 彼がしくじればここで全てが終わる。

 自分が見ていないところで、計画の重要段階が進行しているというのは、この仕事のリスクとリターンを視野に入れると、中々やきもきするものだった。


 尤もそれがパフォーマンスに影響しないように留めるのがプロである。彼らも今、内心をおくびにも出さず、精悍な顔つきでECL1PSEからの進捗共有を待っている。


 因みにグレンの方はトランク内で、『特殊装備』と戯れていた。


 唐突にホロ通信が入った。


『ネットランナーに到達した。随分ICEとヴァイパータイプを積んでやがったがまあ、どうにかなったな』

『正しくプロだな』


 グレンがホロ通信で返す。


『監視カメラシステムは乗っ取った。以降人目のないところでの不信行動は勘付かれない。グレン、セットアップだ。ブツを仕掛けて来てくれ。

 ヴァスケス、ラッセル、服を変えて展示会場西の非常出口付近に移動』

『了解』


 3人の応答と共に、ホロ通話は再び沈黙した。


「さて、楽しくなって来やがるぜ」


 グレンは舌なめずりしながらトランクを開いた。

 彼はネットランナーが会場の窓の一つを開け放ち、警備の配置を変更したのを、ランナーから送られてきた監視カメラ映像で確認すると、例の「装備」を窓の付近に隠してタイマーをセットし、「トリガー」であるカートリッジを腰に差して会場入り口へ向かった。


『一応紛れ込むために必要な情報だ。しかし恐らく大したやり取りは発生しない。ファッシーニ・エスポシート、45歳、アークレイ社のスタッフで同社の銃火器エンジニア。現在はアークレイ社の出店セットアップが完了したためうろついている』

『しょうもない事でパニックを起こす銃火器エンジニアか、良い役じゃないか』


 警備はグレンを見咎めたが、胸元のIDカードを見ると道を空け、彼はそれが当たり前と言った風に会場に入った。


 入ってすぐ左のブースには既に幾つかロボットが並び、作業用の小型ボットの改良版————防水防塵性能の向上、アタッチメント規格の拡張を謳っている————に一瞥をくれてやり、適当にぶらつく風を装いながら、アッサフール社のスタッフが、警備に囲まれながら物々しい雰囲気で大型のスーツケースを運んでいる方へ近付いて行った。

 近付く過程でカートリッジに手を触れ、そこから溢れ出す物質を利用し、幾つかのブースを縫う導線を形作っていく。


 彼が作戦のためにエミリオ・グランデが用意した策を聞いた時は、その噴飯ものと言うべき馬鹿らしさに、横隔膜が痙攣するまで笑いこけたものだった。

 システムクロックによればあと15秒。彼は予感に昂る心を押さえつけながら、カウントダウンを始めた。


『こちらヴァスケス。定位置に居る。周辺の警戒は無し、適当に煙草を吸って休憩を装っている』

『よし。グレンのカウンターはあと10秒だ。パニックが十分な段階に到達したら通知する、まだ待機を続けてくれ』

『了解』

『カウントダウンは俺の役じゃねえか?』

 ECL1PSEは戯れに突っかかってくるグレンを無視してアナウンスする。

『あと5秒だ、集中してくれ』


 勿論そうするとも。

 グレンはそう口に出すことなく、何でもない風を装ってカートリッジに触れた。


 突如として激しく高いヴァイブレーション音が、サフラー社スタッフの反対方向から響き、それは猛スピードで、周波数を上げながら近付いてきた。


 既に数人の参加者が悲鳴を上げており、会場がざわつき始めている。


 彼らの目に入ったのは、固まって黒い靄に見えるほどのスズメバチの大群だった。


 そう、これこそグランデが思いついた馬鹿らしい策。隠密と言う依頼条件、熱帯のシンガポールならば唐突に蜂が現れても可笑しくはないという理由付けの完璧さ、にも拘らず、諜報関係者が調べれば幾らでも不審点が沸く、「諜報戦のトリガー」としてはこの上ないプラン。


 特殊装備の中身こそがこの蜂の大群だ。フェロモンによって興奮状態に置かれた蜂は、グレンが携える「フェロモンカートリッジ」から散布された生化学物質の導線に従い、混乱と恐怖を、熱帯生物相に慣れない温帯育ちの技術展参加者に撒き散らしていく。


 あのフィクサーは天才だ、そうグレンは思った。

 何しろこんな大掛かりな準備の全てが収束する先が、見慣れない大型蜂の脅威に逃げ惑う北アメリカ人やヨーロッパ人という、何とも格好の付かない三流パニック映画のような事態なのだから。


「落ち着いてください!落ち着いて!」


 現地人と思しき警備が訛りの酷い英語で呼びかける。興奮してはいるもののまだ指示に従おうとする分別のある参加者は警備の一挙手一投足に目を向けた。


「蜂と反対方向のドアから出てください!PWMから皆様に避難経路が送られています!

 繰り返します!蜂と反対方向の、あちらのドアから出てください!PWMから皆様に避難経路が……」


 頃合いだ。激しい羽音を立てながら蜂は、グレンがカートリッジから散布して行ったフェロモンの導線を辿り、一目散にグレンへと殺到する。


 怒り狂う百数十匹のスズメバチが、古の時代に映画館を飾った、ポップコーンマシンの中身を思わせるような勢いで飛び回り、当たり散らし、逃げ惑う人々を襲っていく。


 既に方々から「蜂が!」という叫びが上がり、昆虫はある程度見ているはずの現地民であっても混乱している。


 グレンは狼狽えて逃走しようとするふりをした。

 しかし計算通り蜂の方が速い。彼は蜂に群がられ、特にカートリッジがある腰の周辺に十数もの針が食い込んだ。


「ア゛ア゛アァァァァァァァッ!!痛ェェエ゛エエエ゛ッ!ア゛ッ!

 刺、刺されたァア゛!!」


 彼がやるべきことはただ刺された痛みを正直に表現することだけだった。

 内心ほくそ笑みながら、混乱が拡大していくのを眺める。


「殺虫剤、殺虫剤を持ってこい!」

「ガード!火炎放射器を!」

「そんなものありません!とにかく、先に避難を!」

「そこの隊列、退いてくれ、刺されるッ!」



 どうも彼が考えていた、声で向こうの出口を目指そうなどと呼びかける、少々わざとらしい誘導法は要らないようだった。グレンがどさくさに紛れてアッサフール社の方に噴射したフェロモン物質は良い感じに蜂を誘き寄せ、黒い波のように持ち上がる蜂から逃げ惑う人々は、警備が壁を作って守るアッサフール社のプロトタイプの方へと怒涛の如く突進する。


『よし、ラッセル、ヴァスケス、今だ。運搬しているスタッフからケースを受け取って持っていけ』

 期待していた通信がついに飛び込んできた。

『俺は?』

『グレンは予定していたルートで脱出。車は既に回してある。

 植栽の付近で服を脱げ、アンチフェロモンでも不十分かもしれん』

『クソっ、この忌々しい連中を引きはがすのが先だな』



 誰も見ていないのを確認すると、グレンは既にカートリッジからフェロモンは断ち切られたにも関わらず腰に群がる蜂を叩き潰し、めり込む針に呻きながら、通路の一つへと歩き出した。


———— ———— ———— ————


 アッサフール社の運搬係は、警備が壁のように立ちふさがりながら、じりじりと目的のブースの方へ未だに進んでいた。


 ヴァスケスとラッセルの二人組は、誘導で警備の姿が消えた扉を開けて会場内に入ると、運搬中のプロトタイプへと近寄って行く。


 警備は変装した二人を止めず、彼らはプロトタイプのケースを台車に載せて運んでいたスタッフに近寄ると、

「混乱しすぎてる。一旦外にプロトタイプを退避させるぞ、渡してくれ」

 ヴァスケスが話しかけた。


「いや、まだそんな指示は……」

 行動し渋るスタッフに彼は眉を顰めると、

「この会場でのプロトタイプの危機管理は俺達の責任だぞ!

 10万PDを超える価値がある物なんだ、こんなパニックの中で損傷したら相当な損失になる!

 こんな閉鎖空間じゃなくて外に持ち出すのが一番安全なんだ、いいか?」


 責任を認識した運搬役の男は青ざめ、無言でヴァスケスがプロトタイプの退避経路を確保するラッセルの方を指して頷くと、


「そ、それなら」

 と警備に合図を送ると、台車を渡そうとした。


 察しの悪い男にヴァスケスは内心舌打ちすると、

「よく考えろ、いいか、向こうの扉の先には階段があるんだ。台車は持っていけない。

 それに警備も居る大人数で行ったらパニックの連中が出口だと思って突っ込んでくるかもしれないじゃないか!

 大丈夫だ、俺とあそこにいるやつの二人で運べば問題ない」


 ちょうどラッセルが駆け寄ってきたところだった。

 気圧された男は遂にヴァスケスにケースを渡し、かなり重いそれをラッセルと二人で持ったヴァスケスは、出口に近付くと後ろ脚でドアを開き、扉の向こうへと消えた。


 扉を閉めた二人は、ルートに従って、先程の扉の目の前にある非常口を出た先ではなく廊下を通って迂回する方向へ進み始めた。


『プロトタイプを確保した』

『OK、既に車は地点に回ってきている。警備の配置は命令で変更した。積み込み、ケースにポートがあればジャックインしてくれ。トラッカーを解除する』


 ラッセルは二人で持っていたそれを、インプラントの腕力にものを言わせて肩の上に持ち抱え、先導するヴァスケスがぶち破った両開き扉から外に走り出た。

 ECL1PSEの言っていた通り、建物から出てすぐの場所に回っていたヴァンのトランクにケースを積み込んだ彼は後ろ手にドアを閉め、ヴァスケスが運転席に乗り込むのを横目で確認するとケースのポートを探し始めた。


『クソ、外面にはない!どうなってやがる……?』

『なら開けてみるしかない……

 いや、待て、視界同期するぞ……このタイプなら、そうだな』

『何かわかったのか?』

『おい、ECL1PSE!アッサフールの連中がこっちに向かって来てやがる!まだブツを積んでるのがどの車か特定してないみたいだが……』


『まずいな、この時間で状況整理しやがったか。

 いいか、車は動かすな。下手に動くとどれか特定される。

 ラッセル、ケースの繋ぎ目を調べろ。

 ゴム部分の横にスライドが見つかるはずだ』

『待てよ……

 あった!よし、今ジャックインする』


『OK……

 クソッ、たかがプロトタイプケースに何てICE積んでやがる』


『おい、アッサフールの連中がどんどん近付いて来てやがる!』

 ラッセルの首筋には冷や汗が垂れ始めた。

 まずい。場合によっては緊急発進して、追手を撒かなければならないが……

『今、今終わった!

 トラッカーの信号は別の車に偽装した。大丈夫だ、発進しろ!

 ルートは設定した、指定地点で地下に潜れ』

『了解!』


 ヴァスケスはサフラー制服の帽子を脱ぎ捨て、襟を下げて偽装を捨て去ると、ヴァンを後ろに発進させ、指定された第二ゲートの方へ車を回した。

 結構な騒ぎになったペリドット・ウォーター・モールには警察が寄せ掛け、午前7時の街は早すぎる喧騒に包まれ騒然としていた。


 遥か遠くにPWMと警察車両のサイレンは消え去って行き、ドップラー効果すら感じられなくなった時、漸くラッセルは息を吐き、ケースに覆いかぶさっていた姿勢を崩した。


『ECL1PSE、グレンはどうなってる?それとあんたは?』

『グレンは予定の経路で脱出した。事前に抗生物質をくれてやったはずだが、未だに刺された腰が痛いと呻いている。

 俺の方はボットをグレンの車に乗せて回収した。トラッカー偽装した車はまだ適当に引き摺り回している。

 既に向こうは何者かに持ち出されたことを把握している。後は適当なところに駐車して、特殊部隊が何も存在しないのを確認しに詰めかけてくるのを待つだけだな』


 運転していたヴァスケスの中に、安堵感と達成感がこみ上げた。


「Fooooooooo!

 やったぜ!これで引退できるッ!」

「ヴァスケスお前、引退が目的だったのか?」

「じゃあよ、ラッセル、まだこの業界で働くつもりなのか?

 インプラントもさっさと抜いて、適当なところで金を手に雲隠れするのがこのビジネスの勝ち方ってやつだぞ」


 彼の脳裡には既に金の使い道が、ただ一つの決まりきった道が浮かんでいる。


「まあ、俺はまだ他の生き方とかは知らんから、何が良い生き方とかいうつもりはない。

 それにお前の引退も成功の一つの形だろうが、俺は天涯孤独だ。引退しても大概面白いこともないからな」


 そう言うラッセルの顔は、この70近い男がそれまで見せてきたより遥かに皺の寄ったものに見えた。


「ああ、そうか……」

「まあお前は確か家族が居るんだろ。

 稼業を抜けてどっか越せば、まあ面倒な付き合いは始まるかもしれんが、安心させてはやれるだろう」

「そうだな……

 はぁー、全くカミさんと娘には迷惑かけたぜ」

「これが終われば大切にできる機会が来るだろう」

「ああ……」


 全く以て、まともに愛してやれた期間は短かった。リマに居たときもヴァスケスはと言えば仕事ばかりで、離婚されなかったのが不思議なくらいである。


「国際指名手配されて5年、今は娘も8歳。

 ようやくリマに戻れる」

『あー、感動的な話をしているところ申し訳ないが、クライアントにブツを引き渡すまで仕事は終わらないからな。

 アレクサンドラ地区の地下鉄駅横で車が待ってる。地下鉄線のメンテナンスシャフトを経由してそこに出るまで、仕事は一応終わりじゃない。

 捕らぬ狸の皮算用にならないように気を付けた方が良い』


 これがプロのコミットメントと言うものなのだろう。

 ヴァスケスはそう考え、人生で2度と使うことが無いだろうと考えていた呼び名でこの若いハッカーを呼ぶことにした。


『OK、ボス』

『その呼び名はグランデ向けだ』

『いや、グランデであろうと、この呼び名では呼ばない。

 あんたのスキル、本気でエッジだ。

 コーポICEを独力で突破したり、フルスペックのサーヴァーに囲まれたガチガチのネットランナーをあの時間で落としたりする人、初めて見たよ』

『ICEの方は訂正しないでおく。過剰な謙遜は周囲を不愉快にするだろうしな。

 フルスペックのサーヴァーについては、本人にジャックインすれば形無しさ』


 ヴァスケスには、ECL1PSEがまだ謙遜しているように聞こえた。

 これまでの印象ではネットランナーと言うのは往々にしてサイバージャンキーで、こちらより知能で上回っているという無言の自信と言うか、どことなく周囲を特定の切り口で見下しているような雰囲気を感じたものだが、ECL1PSEはあまり自分を高く評価しない類らしい。


 まあ、その自己評価をしつこく訂正に行くほどでもない。


『いずれにせよ、あんたが関わったおかげでまともな引退が出来そうなのは確かだ。感謝するよ』

『受け取っておこう。ただしクライアントとの面会後にな』


———— ———— ———— ————


「あー、クッソ、なんであのメンテナンスシャフトやたらドブ臭かったんだ?」

「換気系が下水と統一されてたんじゃないのか」

「そんなアホなことする奴が……

 いや、待てよ、この街だとそんな業務全部機械化されてんのか。じゃあ関係ないんだな……」

「そういうこった」


 現在ラッセルとヴァスケスは、駅のトイレで服を替えていた。

 元々ヴァンの中でサフラーの制服は脱いではいたが、その後地下道を通る過程でドブの匂いが染みつき、清掃業者でも出さないような臭気を漂わせていたので、流石にクライアントに会う前に変えることにしたのである。

 下着まで臭気が染みついてるのを確認した二人は、まあそんなこともあるか、とある種諦めに近い心境に至った。


 グレンであれば他人のクソに足をうずめて戦っていたとかなんとか言うのだろうが、そこまで劣悪な経験は二人にはない。

 とはいえこの程度服が汚れるのは経験済みだ。不快感は消えないが慣れはする。


 トイレから出た二人は合流地点の駅横へと向かった。

 過密な高層ビルが最早空に覆いかぶさるように広がり、高架と、摩天楼の磨き上げられたコンクリートの表面の隙間を光が通って下へ漏れ出してくる。

 僅かな光に照らされた駅の脇のスペースにはコーポらしいゴツいクーペと、その前に一人の男が待っていた。

 腫れぼったい顔をしたその男がクライアントだとヴァスケスは最初誤解したが、程なくそれが顔が腫れ上がったグレンであることに気付いた。


「グレン、お前、それ……」

「クソ蜂どもさ。脱出する時になって顔を刺してきやがって」


 そう言いながらグレンはもう一つの腫れが酷い部位である腰にエアハイポを当て、注射した。


「抗生物質の利きが悪かった。ナノマシン突っ込まなきゃ治らん」

「そのエアハイポの中身がそうか?」

「おう。腰はまだマシになるが……

 クソ」

「……災難だったな」


 グレンはうんざりした風に首を振ると、車の向こうを顎で指した。

 そこには二人の男が壁に凭れ掛かっていた。


 いかにもコーポらしいスーツに身を包み、煙草を吸っていた男は視線を感じたのか顔を上げると、

「おお、来たか、内容物に損傷ないだろうな」

「大した振動は加えられていない。

 思ったよりも重い荷で焦ったが、もう少し詳細な情報はなかったのか?」

「連中の情報セキュリティは固かったと認めなければならないな。

 恐らくその重みはナノボットの冷却と環境保持だろう。

 そいつはそこの車のスタッシュに積み込んでくれ。後は我々が預かる」


 つまり仕事は終わりだ。

 最後まで残っていた肩の荷が下りた、というに相応しい安堵と達成感を3人は感じた。

 そこで脇のもう一人の男はスーツの男の方に目をやり、

「では依頼はこれで完了と」

「ああ。報酬は即時で入る。ほら」


 3人のGUIに入金通知が流れた。依頼解決料、36万PD。

 圧倒的な額だ。ヴァスケスの脳裡にはその金が、口座に積載されたどの履歴をも上回る額で堂々と記録されたのを受けて、家族と営める新生活の想像がとめどなく溢れ出した。

 彼は家族にホロ通話を掛けそうにさえなった。


「それでは、これで依頼は完了だ」

 それだけ述べて、スーツの男は車に乗り込むと去って行った。

 ラッセルは残った男を不思議に思い尋ねる。


「……あんたはコウサカの人間じゃないのか?」

「いや。

 さて、リアルワールドで会うのは初めてだな。

 ECL1PSEだ」


 3人に驚愕が走った。目の前の、ラティーノくらいの浅黒い肌をした青年は明らかに成人しておらず、若く突っ走りそうな雰囲気を満面に湛えた男だったからだ。

 確かに声は若かったが、これほどまでに若いとは想像していなかった3人は、黒い手袋に包まれた彼の指がキーボードかコントロールパネルを求めるように壁をなぞり、折れ曲がって遊ぶのを見やった。

 ヴァスケスはある種感嘆の意をも込めて呟いた。


「その歳で……コーポのICEを突破して、ネットランナーを処理して、あれほどの仕事をこなしてきたと?」

「ネットランナー界隈では」


 ECL1PSEは壁を押して踵に体重を載せ、歩き出した。


「年齢では実力を測れない。才能と経験の比重が屡々グリッチすることで有名でね。まあでも、俺では勝てない人間も多いよ。個人的には残念ながら」

 そう言って去ろうとした彼の背にグレンが言葉を投げかけた。

「これからパーティをやるのはどうかと考えていたところなんだ」

「参加の提案なら……」

「あんたがなぜ俺達の顔を見に来たのか、質問したい。加えて」

 ラッセルが言葉を継ぐ。

「あんたの……語れる類の仕事にも興味がある。才幹と言うやつを見せつけてくれよ」


 ネットランナーは振り返り、残念だ、と言うように顔を伏せた。

「誘いはありがたいが、乗れない。

 まだ仕事が残っている」


「了解。

 まあ、なんだ、それが終わった後にでも連絡してくれ」


 ラッセル達は車を呼ぶべく、地下鉄駅の正面入り口方面へ歩き去って行った。


———— ———— ———— ————


 シンガポール東部のアパートで、一人の男がネットランニングチェアから身を起こした。

 彼、ECL1PSEの仕事は、ラッセル達に言った通りまだ終わっていない。

 この類で付き物の、証拠の徹底的な隠滅がタスクとして残存している。


 目下隠蔽が必要なのは誘導に利用した車、ネットランナーにアクセスするため使ったボット、シンガポールの交通誘導システムへのアクセスログ、この三つだ。


 車はドライヴレコーダの記録をすべて削除し、カーチェイスに備えて付けたカスタムも外した。すぐにでも中古車市場に流すなりスクラップにするなり出来る。

 ネットランナーにアクセスするために使ったボットの方はこれから確認が必要だった。元々は軍事用のスパイボットだ。外面をカスタムし、清掃用に見えるようにしているが、中身は反響通信モジュールやらケヴラー・コンポジットのアクチュエーターなどが集った機密の塊に近い物品だ。


 勿論販路は限られ、今作戦のボットの場合はブラックマーケットからの入手品。ギャングの手を通って出所である企業の追跡はないが、販路が限られているだけに購入ルートの特定から絞り込みに入られる可能性がある。


 アクセスログの方だが、侵入経路を特定された場合、ECL1PSE本人に到達できなくともセキュリティ強化によって以降のシステム操作に困難が生じるという問題がある。

 しかしこのログに関しては、直接の損害に繋がることは少ないだろうと彼は考えていた。そもそも過密のシンガポールにおいて車を使うケースは減少している。

 今回はナノボットという比較的大型の(ボット本体は分子サイズだが、ケースや状態維持装置などが嵩張る)ターゲットだったため車両を使ったが、他のケースでは精々データを遠隔で送信して終了とか、データ欠片を盗ってくるだけとか、そういった場合が多いため大概逃走手段は徒歩になるのだ。

 よってセキュリティ強化は、アクセス頻度自体が高くない以上、普段の仕事の阻害にもなり辛い。


 一方ECL1PSE本人に到達する可能性も、彼がカバーアップのために通した遠隔ドメインの量や、パスコード突破策などは現実、隠蔽工作が行き届いている。

 そもそも今回のクライアントの目的————企業間の大規模諜報戦のトリガー————を鑑みるに、ターゲットのサフール社が公的機関に属する交通誘導システムに介入してくる可能性は低かった。

 尤も内通者を利用してログから特定しようとするのであれば別だが、トリガーされた諜報戦において、企業人材でもないネットランナーを追う意味は低い。

 企業のエージェントも、ECL1PSEに到達する前にフィクサーのエミリオに辿り着き、追跡を停止するだろう。

 かけるセーフティネットは、監視としてシステム侵入のために利用した経路に「ブザー」を置いておくだけだ。


 従って最大の問題はボットである。

 グレンの車に乗せて回収したボットは現在、ECL1PSEの部屋に置かれている。全通信が遮断されているため、もしボットにPWMのランナーが何か仕掛けていようと、問題ではない。


 彼は首を回し、改めてボットを確認しに立ち上がって歩き出した。

 サイバースペース上に無数に配した監視点と収集AIの信号をバイザーに移して確認しながら、ボットを手に取り、点検してみる。


 問題点は、彼の視覚系がスキャンによって直ちにとらえてくれた。

 ボットの反響通信モジュールに欠損。

 欠損状況を確認してみれば、通信が不可能になる損傷だ。

 恐らくサブモジュールに途中から切り替わっていたのだろう。タイミングによっては通信モジュールが切り替わったことに気付かないのはあり得る話だ。しかしそれをここで犯していたのは致命的だった。


 反響通信モジュールが利用不可になっている状態でサブ通信モジュールに切り替えた。ではこの時動作ログの発信は……

 周波数帯は、メインモジュールと利用部分は被っている。

 そう、被っている。余計な、予定していない周波の信号が出ている。


 この周波数変化がキャプチャーされていれば、このパーツ欠落が会場で起こったものだと断定する場合、破損パーツが拾われる可能性が存在し……


《FB26:不詳人物を検出》


 ブラックマーケットの販路監視に仕掛けていたブザーからだ。

 監視点の一つから対象のプロパティを取得しようとする。


 周辺状況を確認して出るのは一つ。

 確実に、企業エージェントだとみて差し支えない。

 取得情報によればマルコム社から物品横流しに来たように見えるが、マルコムのブラックマーケット販路は、監視点があるメダンのマーケットでは小規模で、かつ大規模ディーラーとのものに固定されている。大規模ディーラーが、今回のボットを含む軍事機密品の売買のような深いセクターを、小規模資本相手に見せることは少ない。

 加えて内部セキュリティの固さ。マーケットに来る時点で多少サイバーセキュリティ対策はしているだろうが、ここまで固く張っているのは通常稀だ。スクレイプした情報とログから検索をかけても既存の情報以上に出てこない。


 よって事態は最も不味い方向に進んでいるのだと認識する。彼はエミリオにコールを掛けた。


『緊急事案の発生だ。ボットのパーツが欠損していた。会場で落下した可能性がある。

 同時にブラックマーケットに不穏人物が入って来た。販路調査からこちらを特定しようとしている可能性がある』

『了解した。実行部隊3人には島を抜ける経路を用意しておく。

 ECL1PSE、そちらに保護が必要か?』

『島を抜ける前に隠滅しておきたいものが幾つかある。

 保護は不要だ。こちらで逃走経路を作る。オーヴァー』


 彼は早速動き出した。まずこの拠点とボットを処分してしまわなくてはならない。

 何しろコーポレートの諜報活動はリソース勝負なのだ。既にあの強盗を切っ掛けに諜報戦が展開されているならば、偽装アンダーカヴァーエージェントが複数放たれ、実行部隊含めターゲットを嗅ぎまわり、それに対してクライアント側が嗅ぎまわる人間からサフール社の防諜を一網打尽にするべく行動を開始している事だろう。


 そんな戦いに巻き込まれてはたまったものではない。

 個人のネットランナーでは実行できることに限界があった。コーポレート同士は勝手に戦っていればいい。それに押しつぶされないよう速やかに非難することが重要なのだ。


 ネットランニングチェアに残る生体データを抹消するべく次亜塩素酸でDNAを破壊、サーヴァー群はリブートとデータ抹消を突っ込み、ボットは携え、外套を着てアパートを出た。


 この後の経路は決まっている。ボットに対する最も有効な手立ては海没だ。

 塩水に漬かるようには出来ていない。


 幸いなるかなアパートから海岸は近いのであって、ビーチパークに紛れて投棄を行うのは容易いだろう。

 加えてブザーの撤去である。メダンのブラックマーケットのブザーは遠隔で機能を停止させた。後のブザーだが、残しておいても問題はない。

 最後に滞在記録の消去だ。偽装身分に到達される前に消去するには、省庁ビルとネットワークが接続されている複合省庁タワーに侵入する必要がある。


 彼は先ず、ボットを海洋投棄するべく最寄りの海岸へと向かった。


———— ———— ———— ————


 もしミスがあったとするならば、敵を見誤ったことだった。

 

 彼のプランは途中までうまく行った。彼はボットの解体可能部分を切り離して内部を出来るだけ露出させた後、首尾よく海洋投棄して破壊し、完了した。

 そして滞在記録の消去。彼はそのため、現在補修工事が進む複合省庁タワーの地下、配線点検用のセクターに侵入していた。

 点検用の盤に接続し、端末を操作してセキュリティを掻い潜っていく。

 ICEを確認した。このようなケースのために盗んで保管していた省庁職員のパスキーで通過し、セキュリティをブリーチする。


 彼は大体首尾よく偽装身分として登録していた滞在証明の内容を書き換えた。

 しかし、それで仕事が完了とは行かなかったのだ。


 突如としてICEの攻撃を受けた。

 素早く接続を切断したときには、既に現在位置に足音が迫っているのを確認した。

 メンテナンス用のトンネルは完全な閉所である。ここで捕捉されてしまっては逃げようがない。


 従って彼がすべきは迅速な脱出であり、その類のことではまた、ECL1PSEはプロフェッショナルだった。

 足音と反響から位置と速度を断定し、手遅れになる前に点検用の盤があった壁のくぼみアルコーヴを抜けた彼は、特殊開発材料のソールに足音の消音を頼り、見つかることなくメンテナンスシャフトからダクトに抜け、地下のスペースから脱出して見せた。

 脱出は上手く行った。近付いてきた足音が、経路を限定する誘導だったという一点を除けば。

 メンテナンス用のドアから地下駐車場に出た彼の頭に、ピストルの銃口が突きつけられた。

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