幸せな男

猫煮

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 言葉を接合する瞬間、脳に深く根を張ったインプランンタブルデバイスからの報酬が脳内を駆け巡った。


 依存性の高い合成エンドルフィンの報酬系に対する使用を法で禁じたのは、彼の祖父、代議士であったトマス三世である。その後の報酬系として、反応性を制御可能なオピオイド(theta-opoid)が用いられるようになってからは、犯罪率の十年平均が相対比12.8%低下したこともあり、祖父は尊敬を集めたままこの世を去った。彼はその偉大な祖父の名を受け継いでトマス四世と名乗っているが、これは両親から送られた最初の名ではない。彼もまたトマス三世の仕事に比肩する成果を期待され、親族一同の決議によってトマスの名を名乗ることが許されたのである。


 このような決定が成された理由は、彼が流通管理局の人工知能に対するペア・オペレータとして働いている点に依るところが大きい。多くの優れたオペレータがそうであるように、トマスもまた詩人としての適正が高かったが、これは古い意味(poet)ではなく近年の流行語(poemer)の意味である。 poemerなる単語自体はかつて東の島国で使われていた侮蔑的表現であり、近年の再流行においても良い意味で使われない場面もしばしばあったが、言葉を扱う能力を十分に備えない『市民』たちの妬みを根拠とした悪意を含むものであったため、詩人たちには一層の優越感を与える以上の効果をもたらさなかった。


 それよりも詩人(つまりここではオペレータの意味)たちに情欲をはるかに超えるような興奮を与えるのは、何と言っても言葉の接合が完全に決定され、一つの文章として人工知能へと取り込まれていく瞬間である。単語の原子が意味を持って言葉の分子となり、文章の実体として現れ、自分以外の知能がそれを認識するプロセスの美しさときたら! ある詩人曰く、どのような雄大な自然現象よりも壮大であり、どれほどの人間がオペレーション以外の行為で得られる幸福感とも比較にならないほどの多幸感をもたらす行為であるという。


 最もトマスはこの見解に対して懐疑的ではあったが、それは自らの血統に由来する人工報酬系についての知見がもたらす偏見に依るものだと理解していたため、ことさらに言い立てるような無駄な行為は謹んでいた。このような些細な対立によって、デバイスからの報酬を得る機会を減らすことは何に優先してでも避けるべきことだったからだ。


 彼のインプランタブルデバイスは彼の年齢相応に二十三世代前のレガシーハードウェアであったが、二十七世代前の傑作機でありバイオプリンテッドタイプの始祖でもあるアストロジャーニー製デバイスの直系の子孫であり、二十八世代前のユーザーがしばしば高額の代価を支払って行うような大規模のナノマシン施術を必要としない程度には優れた性能を有していた。トマス三世の報酬系規制前後の混乱期に作られたデバイスであることもあり、その報酬系のリミッターは物理的な制約によって現行品よりもゆるく設定されていたため、この仕様による幸福感の強化を彼自身は歓迎すらしていたのである。


 言葉を操ることで与えられるその強化された幸せは、幼かった彼をトマス四世へと育て上げるのに十分すぎる役割を果たした。よりシンプルで、よりミニマルで、よりダイレクトな言葉の使い方によってオペレータの仕事をこなす限り、彼は快楽をしばしば享受する機会に恵まれたからである。


 この外因的な成長は国家機関における彼の立場を保証するに至った。すなわち、オペレーティングのための個人用デスクの支給である。この個人用デスクはそのゆりかご状の内部にいる使用者の身体を清潔に保つため、デスクが支給されない非直接的オペレータ(人に対するオペレータ)達がオペレーティング時に陥る、自らの排泄物とよだれ濡れの惨めな姿をさらすことはない。


 個人用デスクの作用によって保たれた清潔感そのままに、トマスは勤務時間の強制的な終了と共にゆりかごの中からのっそりと這い出した。その姿は全裸であったが、これはデスクの使用上の必然である。その体の上に今朝方来てきたホワイトのシャツとブラックのスーツを纏わせると、今日の特に優れた働きに対する正当な報酬として与えられた幸福感の余韻を噛み締めながら、彼は退勤システムの承認を受けて帰路へとついた。この幸福の中にあっては、たとえ肌を刺すような凍てつく風吹き荒ぶ夜道に浮浪者の死体が何人か転がっていたとしても、トマスの歩みを鈍らせることはできない。それどころか、彼の最近のお気に入りの曲を鼻歌で奏でるほどの陽気さをもたらした。最も彼はその曲を国営のソーシャルネットワークシステム上で流れてきたコマーシャルで聞いたのみだっためにサビのメロディしか知らなかったが、そのわずか五秒程度の短いフレーズを繰り返すことは、星の見えない淀んだ雲の下、街灯の下だけが昼間のごとく明るい悪路をものともしない勇気を彼に与えていたのである。


 良い勤め人であるトマスの帰路は往々にしてこのような調子でスムースに進行したが、途中に通る公園にて立ち止まることが稀にあった。これがどのような場合に起きるかといえば、その公園のベンチに見慣れた少年が座っている場合である。そして、今日はこの稀な場合に該当した。


「やあ、こんばんは」


 トマスが旧態依然である社会通念上の礼儀上しかたなく少年に声を掛けると、生白い顔をした背の低いその少年は街灯の明かりに照らして読んでいた本からチラと目線を上げてトマスの顔を見たが、すぐに本へと目を戻す。その礼節を知らない態度に、彼の幸福感はいささか減衰したが、声を上げて怒りだすに足るほどではない。少年の名前はダニエルといって、仕立ての良い洋服は防寒加工が十分にされており、トマスのそれよりもよほど資産のある家庭の子供であることが一目瞭然である。それだけに夜半に公園のベンチに座っている光景が奇妙であった。トマスも始めて出会った際は事件性を疑い、通報者への報酬であるオピオイド拡散を目的としてポリスへの連絡をしたものであったが、その後も不定期に彼が現れることを見るに、なんの酔狂かは知らないが彼自身の意志で夜の公園へと訪れているようである。


 しかし、それよりも奇妙なのは彼が現れる際は必ず本を伴うという点だ。


 本、あの無駄に大きく、全く洗練されていない情報伝達手段。たかだか数百文字でまとめることができる主張を、手を変え品を変えて引き伸ばし、繰り返し、書きなぐる過去の負債。言葉の結合の頻度によって快楽を得るように調整されたトマスにとっては、本というものはこのような無用の長物であった。しかし、この思想というのは広く社会に浸透した一般的なものであって、多くの人には本(それも紙の本)などというものは価値のない粗大ごみ同然のものということも事実である。したがって、トマスにとってのダニエルは、良家の子息であるにも関わらずゴミ漁りに精を出す愚かで哀れな動物であった。もちろん、彼がダニエルに話しかける理由も友情に似た感情からではなく、必死で食事を探すやせ細った野良猫に食べかけで油でギトギトのチュロスを投げつけるような理由である。彼はこのことを何ら恥じる必要はないと考えていた。


「今日は何を読んでいるんだい?」


 彼の幸せに後押しされた嗜虐心でトマスが尋ねると、ダニエルは無言で茶色の革で装丁された本を傾けて背表紙を見せる。それを見たトマスは思わず笑いだしてしまった。そこには金文字で『聖書』(The Bible)と書かれていたからだ。


「ダニエル、君ね。きっと頭が狂っているんだな。どんな本でもそいつに比べればまだ価値があるだろうに、よりにもよって聖書なんかを読むなんて」


 嘲るトマスの声に、ダニエルは顔を上げて、その口汚く罵る口元を諦めと哀れみの情感だけが乗った瞳で見つめた。少年の感情に気が付くことなく、トマスは尚も笑って続ける。


「聖書。ああ、ハウツー本だね。『神を信じます』と言うためだけのシンプルな本だ。何ページあったっけ?  3ページ、あるいは 5ページだったか。まさか二桁もページ数があるなんてことは言わないだろうね」


 飲料用アルコール、インプラント技術の未発達だった時代に高揚感を得るためにしばしば使われた薬物、の過剰摂取がもたらすのと同型の幸福感の溢れが、トマスを饒舌にしていた。本が読めるだけの明かりを提供する街灯の、半導体素子の準位移行によってもたらされる鋭い光に照らされてなお(あるいはそのために)、ダニエルの目元は薄暗く陰っていたが、依然として憐憫の感情が乗ったその視線に、ここでトマスはようやく気が付く。


「別に意地悪で言っているんじゃないぜ。ただ、君が『哀れ』なものだから、ちょいと教えてやろうと思っただけさ」


 言ってから、トマスはあまりにも子供じみた癇癪をやってしまったかと後悔したが、ペア・オペレータとしてのメンツからそれを表に出すことはしなかった。


「パパと同じことを言うんだ」


 驚くほど平坦な声で応えたのはダニエルである。


「パパもそう言うんだ。『可哀想に、まだわからないのか』って」


「お母さんはなんて言うんだい?」


 トマスが尋ねると、ダニエルは目を伏せて言った。


「ママは …… 本にも面白いものはあるって。だけど、パパが何を言っても味方はしてくれない」


「ははあ、だからこんな夜中に抜け出して、公園で一人、本を読んでいるってわけだ」


 得心したトマスはいやらしい笑みを浮かべて頷く。


「君、それはお父さんが正しいだろうね。お母さんの方も少しいかれてるな。文字を追いかけたって何も面白いもんか。重要なのは、伝わってくることだけなんだから、過去の人達がまとめてくれたもっと進歩的なコンテンツに触れるべきだぜ。そんな幼稚な物に縋ってる歳でもないだろう?」


 トマスにしては珍しく詳細まで語った罵倒だったが、ダニエルは眉一つ動かさずに応じる。


「でも、文章と文章の間、単語と単語の間、意味と意味の間から伝わってくるもの。それが僕には楽しいんだ」


「そんなものは君が勝手に思ってるだけだろう? 良いさ、仮に君の言う通りだとして、それこそ本がくだらないものって証だよ。完全に論理付けられて法に裏打ちされた文章からは、何一つ余計なものが漏れ出てこないんだからな」


 それを聞いてダニエルは黙り込んでしまう。トマスはやり込めてやったと幼稚な征服感に浸り、それを感じる自分にわずかばかりの恥じらいを催したが、そんな心も次の発言で凍てついてしまった。


「 …… あんたも可愛そうな人なんだ」


 彼が正規の対人工知能オペレータである証の襟章を見ながらダニエルが憐れんで言った文句に、トマスはひどく侮辱された気分に陥った。トマスが勢いに任せて彼を殴りつけなかったのは、自らの地位に対する自負と、公園に設置された五百十一台の監視カメラの存在のためである。


「可愛そうだって? とんでもない。私はこの街で一番幸福な人間だよ。今日だって、インプラントの報酬系を限度ギリギリまで活性化する許可が出たぐらい優秀なんだからな」


 変わりにと、彼は自分の優位性をこれでもかとアピールしたが、ダニエルはこれ以上話すことはないと言うかのように手元の本へと目を戻し、彼のどんな声にも視線を上げることはなかった。ひどく不愉快な気分になったトマスは、最後の意趣返しにと言い放つ。


「まあ、君は好きにしていれば良いさ。そうだ、笑わせてくれたお礼に君に報酬系の一時活性化権限を少しだけ付与してあげよう」


 この許可を付与する権限は、少なくとも対人工知能のチーム・オペレータの統括責任者以上の能力を持つ一部の人間にしか与えられない権限であり、トマスの優位性は尚もダニエルに示されようとしていた。しかし、ダニエルは彼の声に耳を傾けず、付与された権限も使う様子がない。ますます苛立ったトマスは、吐き捨てた。


「それじゃあ、おやすみ。私なら、 Dr.CCHの宗教学概論の動画を見るだろうがね。あれはクリスティアニティの他にもブディズムやシントーまで網羅しているから」


 そしてダニエルの反応も見ずに帰路を急いだ。しかし、彼が反応を見るために残ったとしても、ダニエルは何ら心に響いた様子もなく本をめくっているだけだったから、時間の浪費という意味では正しい選択をしたと言えるだろう。


 家までの道をたどる中、心の底に凝った吐き気を催すような感情がトマスの顔を苦みに歪ませていた。それまで当たり障りのない会話、といっても多くは彼が一方的に話すだけだったが、で済ませていた所を、今日に限ってプライベートな話をしすぎたと内省していたトマス。喉奥に詰まった感情がいつまでも溶けないことに不安を感じて確認すると、報酬系の活性化が一日の限度まで行われていたことに気が付く。代替手段を講じなければと思いながらもたどり着いた家の扉を開けてリビングへと入ると、女がソファで宙を見ながら虚ろに笑っていた。


「ただいま」


 トマスは幸福感で誤魔化していた疲労の隠せぬ声で女に語りかけたが、女は反応を返さない。


「イザベル、ただいま」


 そう言われてようやく、女は話しかけられていたことに気が付いたようにトマスを見た。女はトマスの妻である。しかし、女の名前をトマスは知らない。ただ、人口調整局の人工知能が提示した女になんとなくイザベルと名付けて(彼が熱を上げていたポルノ女優の名前)、そのまま呼んでいるだけであり、女の方もこれは同様である。しかし、インプランタブルデバイスが耳から入ってきたイザベルという音を彼女の自認する名前に変換して脳に届けているのであった。関係性に必要なものは識別子であるために、この仕組みにはなんの支障も存在しないのだ。


「おかえりなさい、トマス。なにか問題でも?」


「いや、そういうわけじゃないんだがね」


「そう、なら良かったわ」


 簡素な受け答えの後に座り直したイザベルは、再び宙を見つめる。まるで関心がないように見えるが、これで人並み(もちろんこの時代の)にはピクニックやショッピング、セックスなどをする関係ではある。しかし、今宵のトマスにしてみればこの態度はいささか困るものであった。


「その、相談に乗ってほしいんだが」


「相談相手なら、ボットがいるじゃない」


「そういうわけにもいかないんだ。いや、故障とかそういうわけじゃないんだが」


 イザベルの言う通り、通常ならば個人用の対話ボットに話しかければ済むことである。しかし、今彼が胸に抱えた疑問は、最適な解が必ずしも必要とは限らないものであった。


「何かしら。言っておきますけど、性行為はお断りよ。今忙しいんですからね」


「そのことではないんだが、そのだな。私達は模範的な市民で、幸福度の高い生活ををしているよな」


「ええ、あなたのお仕事のお陰で、不自由なく、刺激的な生活をさせてもらっていますもの。それで?」


「ならば、私達の生活は間違っていないよな。つまり、惨めでないという意味だが」


「もちろん。こないだだって、隣の奥様に羨ましがられたのよ。誰が見たって、正しい幸福な生活ですわ。それで?」


「では、皆が私達の生活を羨むと考えても良いわけか?」


「もう、まだるっこしいわね!」


 要領を得ないトマスの発言に、業を煮やしたイザベルは語気を強くする。不快感で刻まれたシワは彼女の美貌を損なっていたが、幸いなことにこのシワが痕として残ったとしても、トマスの収入と彼女の今の顔を整えた医師にかかれば、整形手術で取り除くことは容易い。しかし、その施術もベーカリーからパンを一斤といった具合に気安く行えるような値段ではないため、イザベルはすぐに不安げな顔つきになる。


「あなた、今日はおかしいわよ。頭かデバイスのどこかでも痛めたんじゃないでしょうね。私、あなたが職を失うなんてごめんですよ?」


「ああ、悪かったよ。そういうわけじゃないんだ、多分だが。これはなんというか、馬鹿みたいな話なんだが」


 トマスの前置きにイザベルが無言で続きを促すと、トマスは少し口ごもってから続けた。


「本、つまり小説や伝記なんかを楽しむのはおかしい事だよな?」


 イザベルはその問にしばらく呆気にとられていたが、インプランタブルデバイスの自己診断が正常であることを確認すると、腹を抱えて笑い出した。


「何を言っているのよ。当たり前じゃない」


「ああ、可笑しい」と言いながら尚も笑い転げるイザベルの姿を見て、トマスは心の底から安心した。そして腰が砕けたように力が抜け、ソファにもたれかかる。その様子を見たイザベルは目に涙を浮かべながらも笑い続けて問いかけた。


「いったい何があったら、そんなトンチキな疑問が出てくるのよ。あんな情報密度が低すぎる役立たず、一部の研究者と好事家が見得と意地で読むようなものじゃない」


「前に話した公園の少年、彼が本は楽しいと、しかも私のことを『可愛そう』なんて言うものだから、未知の何かが発見されたのかと不安になってね」


 ようやく落ち着いたトマスが疲れた笑顔で言うと、イザベルはようやくいたわる顔になり、彼の頭を抱き寄せた。


「可哀想に。はぐれ者との会話ほど不幸なことはないわ。あんな非合理な生き物、絶滅させてしまえば良いのに」


「ああ、私も少年があそこまでのはぐれ者だとは思わなかった。しかし、イザベル。その表現は差別的だぞ。彼らだって現行法の下では市民なんだ、生存の権利を行使する機会は与えられるべきだ」


「ええ、そうね。ごめんなさい。私見を挟みすぎたわ」


 イザベルのこの素直に非を認める姿勢を、トマスはことさらに好ましく思っていた。彼の同僚の中には、なぜこれでオペレータになれたのか、流通管理局の採用基準について疑わざるをえないような、偏見に凝り固まった人間も居るためことさらにである。もちろん、このふるまいも彼女が『妻』としての役割を果たすために行っていることをトマスは知っていたが、それを十全にこなせる人間は極めて稀有であることも彼は知っていた。このような優れた人材を家族として迎えられることは、彼の人生が間違っていないことを人口調整局ならびに職業管理局の人工知能が保証していることを示しており、そのことがトマスを更に安心させた。


「きっと、気落ちしているでしょうね。ほら、あなたにもアクセス権を分けてあげるわ。認定済みの快楽誘導プログラム、デトックスまで保証内よ」


「ああ、ちょうど欲しかったんだ」


 トマスは疲れ切った声で応え、快楽誘導プログラムへとアクセスした。その途端、彼は途方もない悦楽に見舞われる。とはいえ、このプログラムが彼の脳に致命的な破壊をもたらすことはない。なぜならば、このプログラムは原始的なドラッグとは全く異なるもの、さらに言えば化学物質による受容体の刺激を直接の原理としていないからだ。


 このプログラムの正体、それは言葉である。言葉と言っても、今本を開ければ飛び込んでくるような生易しい言葉ではない。もっと根本的で、もっと抽象的で、ありえないほど連続的な言葉、トマスがオペレータとしての仕事で扱っている言葉そのものである。この言葉はちょうど脳内にストックされ、変異し、結合と離脱を繰り返している。その言葉が結合し、意識にとって未発見であるような状態を形作ることで、トマス達は喜びを覚えるようにデザインされていた。ただし、この性質はこの数百年で形成されたものではなく、遥かに長い時間スパン、例えば森から野原へと人が生息域を移したような時期から連綿とデザインされた性質である。そして、ヒトの最も重要な発明のキモは、この言葉を部分的にでも共有可能な形で出力することを可能にした点であった。


 ヒトが言葉に与えたこの特性は歴史とともに洗練され、インプランタブルデバイスの普及に従って、限りなく直接的な共有が可能なまでになった。その暴力的な情報の渦と言ったら! ナイーブに言うならば、脳の取りうる状態がたった一瞬の内に倍に拡張されるようなものである。その状態数は、実際上はいささか落ち着いた領域に収まるが、それでも一つの脳みそでは実現し得ないような未知を意識への翻訳を待たずに発見できるのだ。そこに我というものは存在せず、ひたすらに未知の刺激だけが湧き上がってくる。


 快楽誘導プログラムはこの原理を利用し、ランダムな言葉を一定の指向性で結合させ、インプランタブルデバイスを通じて脳に直接送り込むことで快楽を誘導する。このプログラムの素晴らしい所は、実際に快楽を誘導するのは全て脳の自然な作用に尽きるという点だろう。余分な化学物質が残留しないため、終了時に別の指向性を持った言葉で脳の状態空間上の点を引き戻してやれば、物理的な痕跡は事実上残らないのである。さらには、実際の作用上は使用者の脳内にある言葉へと翻訳されるために、思想への汚染が最低限にとどまるという点もこのプログラムの優れた点であった。オペレータが言葉を自ら接合する際はこの作用の上に意識の動作が上乗せされ、さらにデバイスから拡散される報酬系の快楽までも上乗せされるのだから、トマスが幸福な人物であるということに疑いようはない。そして、快楽の誘導は使用者の過去を参照するに等しい動作を含む以上、彼は至上の快楽の中にいるはずだ。


 そのはずなのだが、トマスは胸の中に残る凝りを洗い流せずにいた。ダニエルに向けられた、あの憐憫の情である。その眼差しは、トマスの脳が快楽の連続に白旗を上げ、強制的に睡眠を選択するその直前まで彼を見つめ続けていた。


 それからというもの、トマスの幸福には一点の影がシミのようにこびり付いた。昼は言葉の連なりを見出す報酬として与えられる絶対的な幸福感、夜は快楽導入剤や密度の高い情報群を脳に通す事による人知を超えた快楽、それらによって真に光の中で笑おうとしても、僅かな哀れみが彼を蝕むのである。その影が与え続けたストレスは、ある晩、再びダニエルと遭遇することでその頭をもたげた。


「やあ、こんばんは」


 この日に限っては、トマスは目的を持ってダニエルへと話しかけた。彼が初めてトマスへと見せた感情の真意を問いただすためである。ダニエルは相変わらずチラと目線を上げてトマスの顔を見たが、すぐに視線を茶色い革表紙の本へと戻した。それに構わず、トマスは声を重ねる。


「覚えているかな、君は以前私を可愛そうだと言ったね。それは君の手にある本に書いてあったことなのかな?」


 問いかけにダニエルは無感動な表情でトマスを見つめて応えた。


「読んで見れば良いだろ」


「私はそんなに暇じゃないんでね」


 苛立ち紛れのトマスにダニエルは眉をひそめると、ため息をついて言った。


「書いてある本もあるし、書いてない本もある。一つの本にしたって、書いてある時も、書いてない時もある。僕がどんな本を何度読んだって、同じことは書いていなかった。だから、あんた自身が読まないといけないんだ」


「なんだって」


 トマスは驚いたように話し始めたが、僅かな単語を言い終わる前にそれは笑いをこらえた声へと変わっていた。


「やはり本は出来損ないだ。もっと早く、もっと確実に、もっと普遍的な情報がなけりゃ、言葉の使い道もありゃしない。やはり君がいかれてただけだったな」


 嘲るトマスに、ダニエルは再び憐れみの目を向けて言う。


「『何をしているのか自分でわからない』んだ。寂しい人、孤独な人だ。あなたは赦されなくてはならない人だ」


「ああ、君に許される必要はないとも。全く無駄な心配だった」


 文字面はまるで突き放したように語るトマスだったが、その語気は頼りなく、哀れみの視線から自分を隠すように顔を背けつつの文句だった。そして、孤独という言葉を努めて意識に入れないようにしながら、逃げ出すように背を向け、捨て台詞を吐く。


「君のような居場所のない、孤独なはぐれ者にはその出来損ない、『何者でもない』本がお似合いということなんだろう」


「言葉の先に誰もいないと思うなら、どうして僕に話しかけたんだ?」


 トマスはその言葉に胸の内の凝りが蠢くのを感じたが、何も答えず、街灯が照らす光の外へと歩み出て、夜の闇へと消えていった。

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