児一匁(ひといちもんめ)

@nimozi

児一匁

 黒板の上についているスピーカーから流れるチャイムは、至る教室でなり、幾つも重なって聞こえ気持ち悪い。その音を掻き消すような大声で帰りの挨拶を先生に向けた俺たちは、一目散にランドセルを背負い、廊下に向かって駆け出した。

 昔はお昼ご飯を食べ終わったらずっと遊べる時間だったのに、高学年になった今では門限までの時間なんて前までの半分しかない。少しでも長く遊ぶために俺らは公園へ向かって競争をしていた。

 少し伸びた髪と重たいランドセルを走るリズムで浮かせ、前に突き出る給食袋を時折後ろに回しながら廊下を駆け回る。時折聞こえる先生の制止を振り切り、簡単に謝罪を伝えてその場を去る。忙しい僕らは一秒たりとも無駄にはできないのだ。

「今日はどこの公園に行く?」

「保育園の隣はどう?」

「そこ今日は雷おじさんいるんじゃない?」

 下駄箱から靴を取り出しながら、目的地を明確にしていく。近所には幾らか公園があり、お気に入りの場所も勿論ある。毎日同じ場所で遊ぶのではなく、その日の気分で場所を変えるのは俺らの拘りだ。しかし、お気に入り以外は雷おじさん(近所では有名な怒りっぽい老人)や、小さな子供達がいるので思うように遊べない。そのため決まって初めにいつもの場所へと向かうのだ。

 梅雨の陰鬱な風を肩で切り、颯爽と歩道を駆け巡る。公園に向かう、それだけで楽しめる俺は遊びの天才に違いない。学校から集合団地を切り抜け、ゴルフ場と住宅街に挟まれた公園を目指す。どんなに遠くを見渡しても、ビルなど見えず、空の端は山が遮っていた。お世辞にも都会とは言えず、しかし田舎というには中途半端なこの街で俺は、自由だった。

 

「今日は何する?」

「昼休みの続きやろうぜ!」

「えー? せっかく公園に来たんだから、遊具鬼(遊具を使った鬼ごっこ)やろうぜ?」

 公園にたどり着き、鞄をベンチの上へ放り投げた。有り余るエネルギーを押えられない俺らは公園に埋められたタイヤの上に足を置き、バランスを取りながら何をするかを話し合っていた。

「昼続きって隠れ鬼だろ? 先生の話もあるし流石に止めておこうぜ」

「え? なにそれ?」

 友達が言ったことが記憶にない俺は思わず聞き返し、呆れた様子で友人たちが教えてくれた。

「先生、最近不審者が出るって言ってたじゃん!」

「あー……なんかいってたような」

「どーせ早く遊びたくて聞いてなかったんだろ」

 確かに言っていた気がする。今日言われたことなのか、それよりも前に言われたことなのかははっきりと覚えていない。しかし、その手の話は何時か言われた気がするほどによく聞く話であるため、覚えていない。不審者、誘拐、大地震。よく聞く話だが身近で起きたことのないそれは俺にとってフィクションでしかなく、聞いても右から左に流れていたのだろう。

「そんなことより、早く遊ぼうぜ。隠れ鬼が無理そうだから、遊具鬼だな!」

 そうに違いない。そう言わんばかりに俺らはタイヤから飛び降り、小さく円を描いた。円の中心に向かって利き手を突き出し、掛け声に合われて一斉に手を振る。振った手は握り拳が一つと平手が三つ。握り拳を出した友達が一瞬悔しそうな顔もするも、直ぐに口角が上がり、カウントを始める。ゲーム開始の合図。彼が10数えきるまでに平手を出した俺らは小さなアスレチックのような遊具に向かい、想定されていないであろう使い方でよじ登っていく。

「ちょっと! そこ登るの反則だろ!」

「い~じゃん。 もうみんな登れるようになったんだし」

 その場の空気で変わり続けるルールに従いながら、俺らは器用に遊具を駆け回る。そんな中、隠れ鬼を否定した友達が、滑り台の上でポツンと道路の方を眺めていた。

「タッチ―! タッチ返し無しね!」

 鬼を渡されたというのに微動だにしない。皆不思議がり、鬼である彼の元へ寄り始める。

「ね~、どうしたの? 今日なんか変じゃない?」

「なんか向こうからみられている気がして」

 そういい、彼が指さす先には黒色のバンが止まっていた。

 黒色のバン。車に詳しくない俺でもこれだけは知っている。特撮モノで悪の組織が使う車。キャンプ好きな親戚のおじちゃんが乗っている車。そして、ドラマの中で誘拐犯が使っている車だ。脳裏に不審者という言葉は浮かんだものの、フィクションの存在に近しいそれが目の前にあることへの興奮が強く、乗っている人への興味が深まった。

「なぁ。誰が乗ってるか見に行こうぜ」

「いやいやいや! 何言ってんだよ! 危ないって!」

「まぁ、確かに気になるけど」

 三者三様にやりたいことを大声で言い合う。そんら俺らに関せず、バンを見つけた彼はモノ惜しげに声を漏らした。

 バンはいつの間にか発進してしまい、もうその場にはいなかった。

「なーんだ。つまらないの」

「ただ、停車していただけだったのかもね」

「タッチ!」

「あ! 卑怯だぞ!」


 結局あの話はフィクションで、いかにも怪しいソレですらなんてことなかった。走り去った車と共に消えた恐怖心。俺らはそのまま日が暮れるまで遊んでいた。

「やべ! そろそろ帰らないと母ちゃんに殺される!」

 1人が時計を見上げ大声を上げた。いつの間にか18時を回っており、友人の家で決められている時刻を過ぎていた。かく言う俺もそろそろ帰らないと母が心配するだろう。きっと皆も同じで、遊具から降りゾロゾロと集まりだしていた。

「じゃあ、そろそろ解散!」

「また明日な!」

 そういい俺らはそれぞれの家に向かって走り出す。一人で走るその道は、楽しいものではない。しかし、歩いていても同じことなので、さっさと帰って昨日読んでた漫画の続きを読みたいと思った。

 しかし、走り出して間もなく足が止まる。俺は黒いバンを見つけた。流石にナンバーまでは覚えていないが、きっと公園で見たアレと同じだろう。道に迷ったのかもしれない。そんな甘い考えと共に先生の言葉が脳裏に走る。それが導火となり、興味が爆発する。

 中にどんな人が乗っているのか気になった俺はその箱に近づく。恐る恐る中を覗くと、運転席には誰もいなかった。

「なんだ。 誰もいないじゃん」

 すこし期待はずれな結果に肩を落とし、帰路に就こうとした瞬間。急に足が浮いた。少し遅れて息苦しさと顎下の圧迫感を感じる。すぐに助けを求めようと口を開けるが、何かが口に突っ込まれ、喋ることができない。あまりに唐突な出来事に頭が真っ白になるが、ある言葉だけが脳に残ってた。


 殺される。


 その言葉は「嫌だ」という文字に押し出され、両目から流れ出した。手足を、腰を、頭を必死に動かし、拘束を解こうとする。しかし、男の力は強く、そのまま後部座席の中へ放り込まれた。

 逃げなきゃな。早くここから出なきゃ。解ってはいるが体が動かない。先ほど流れたそれは全身へとめぐり、体を硬直させる。先ほどまで火照っていた体がうそのように冷たく、体が震える。動けずに縮こまっていたら大きな音と共に車が動き出した。

「……やった。 ついに」

 ざらついた声をした男は息を荒げながら声を上げた。まるで子供が欲しい玩具を手に入れたように喜ぶその様が、今まで抱いていた大人像とあまりに書き離れていた。

 フィクションでの誘拐はこの後、ヒーローが助けに来てくれる。しかし現実そうはいかず、この後に何が起きるのか分かったモノじゃない。何をされるのか分からない恐怖と「逃げなきゃ」という言葉だけが頭の中を堂々巡りしている。

 そんな時。足元に挟まるプラスチックの何かが見えた。それが俺の頭を少しだけ冷静にさせ、とある言葉が前に出た。

「娘さんはどうしたの?」

 男の息が止まる。エンジン音だけが鳴り響く車内に憎悪とも殺意とも違う何かが漂っている気がした。

「なんで娘がいると思う」

 男の声は一変して低く鋭かった。俺はその言葉を出した自分を呪ったが、同時に足元に挟まるプラスチックの存在が気になって仕方がなかった。ピンク色のチャイルドシート。無造作に置かれたそれは使い古されているが、もう使われていないわけではない。破れたシートに縫い付けられた熊のシートがそれを物語っていた。

 もしかしたらこの男には幼い娘がいるのかもしれない。だとしたらなぜ誘拐をするのか不思議で仕方なかった。無論、今の俺は怖くて仕方がない。こんな興味に駆られて動くようなことはできない。即ち、もしかしたら逃がしてもらえるかもしれない。そう思って突き出した言葉だった。

「こんなことしても、娘さん喜ばないよ」

 前の方に赤い光が見え、車は止まる。それと同時にハンドルを握る音が響き、異様な空気へと変わっていく。

「そんなことは分かっている!」

 その空気は男の怒鳴により引火する。赤い光が緑に変わり、着火した勢いで車は急発進した。

 解らない。この男が何を考えているのかが分からない。もしかしたら娘に何かがあったのかもしれない。それに僕を連れ攫うなら僕の知っている誰かが、彼の娘に何かをしたのかもしれない。

 かもしれない。それしか想像できないが、行き場のない不安とあるはずもない責任が込み上げ、徐々に視界が歪んでいく。

「ごめんなさい。 俺の知ってる誰かがおじさんを困らせたんでしょ? ごめんなさい。」

 何の意味もない謝罪が出てくるが、それよりも多く溢れ出る涙には不安の方が多く溶けていた。上ずる声で永遠と謝罪を繰り返す。意味なんてない。効果なんてない。そう思っていても、これ以外の術を俺は知らなかった。

「はぁ。 泣くな。 お前何年生だ?」

「……5年」

「もうお兄さんじゃないか。 お兄さんなんだからそう泣くなよ」

「おじさんのせいじゃん」

 不思議と柔らかい声にかすれた声で返す。先ほどまであんなに怖かったのに、その声色だけは優しかった。

「ねぇ、おじさん」

「……」

「俺じゃないとダメなの?」

「……」

「俺! お母さんとお父さんに会いたい!」

「……」

 泣声混じりの想いが車の中で木魂する。うるさかったエンジン音さえ抑え込んだその声に続いて、乾いた笑い声がした。

「……でろ」

 先ほどまで凭れ掛かっていたドアがゆっくりと開き始める。しかし、俺の足はもう逃げることを諦めていて力が入らなかった。

「まったく。世話が焼けるな」

 彼は車から降り、俺の目の前まで移動する。震える俺の体を重そうに持ち上げ、そのまま運んでいく。

「五年生になるとこんなに重くなるのか」

「……おじさん。なんで」

 俺はそのままアスファルトの上に座らされ、おじさんは車へと向かう。

「両親がいるんだろう。 ちゃんと好きって伝えるんだぞ」

 そう言い残すとおじさんは黒い箱にエンジンをかけ、遠くへ走り去っていった。


 しばらく意味が分からず歩道に座り込んでいた。先ほど座っていたクッション性の良い後部座席なんかより何倍も座り心地の良いそこに体重を預ける。行き場のない気持ちと温度が全てアスファルトに根付いてそこから動くことができない。安心したら腰が抜けて動けなくなる。そういう言葉を聞いたことはあるが、今は安心とかそういった感情だけでなく、もっと複雑に絡み合った何かである。

 ただ茫然としていると、どこかから俺を呼ぶ声が聞こえる。声はだんだん近づいてきて、耳元で弾けるように明確になった。

「おい! 全然帰ってこないから心配したんだぞ!」

「お父さん。おとうさん」

 視界に入った見慣れたその顔に顔が一気に崩れ出す。絡まった感情は「会いたかった」気持ちが全て押し流し、父の胸にしがみついていた。

「おいおい。そんなに泣いてどうした?」

「……迷子になってた」

 父はしがみ付いた俺の尻に手を回し、そのまま立ち上がる。抱き込んだ俺をまるで幼子のようにあやす。しかし、今は微塵も不快に思わなかった。

「迷子って、こんな近所でか?」

「……うん」

 本当のことは言えなかった。行ってしまったら、最後優しくしてくれたおじさんが捕まってしまうかもしれない。きっとそうなると、彼の娘さんが酷く悲しんでしまう。そう思うと、下手な嘘をつきたくなった。

「そうか。 じゃあ、早く家帰るか!」

 父は何か察していたかもしれない。それでも、何も聞かず俺を家まで送ってくれた。温かいその胸に安心し、そのまま眠ってしまいそうだ。

「ねえ。お父さん」

「なんだ?」

「俺ってさ。重い?」

 父は大げさに笑い。まだまだ軽いと言って見せた。きっとあのおじさんも娘さんが俺と同じ年齢になる時には同じことを言うのかもしれない。そう思えると、不思議と笑えて来た。



 次の日の朝。

 あの事件は俺と父さんが隠したことで 明るみに出ていない。しかし、朝のニュースには見知った顔が映し出されていた。

「また、誘拐犯の被害者だって。 あんたも気を付けなさいよ?」

 母がそう言いながら見ているテレビにはあの日、一緒にいたおじさんが写っていた。

「身代金がもらえないからって親子共々殺すなんて怖いわよね」

「そんな、うそだ」

 だっておじさんはあの後誰かを攫ったはずだ。

「うそだ。 うそだ」

 だっておじさんはあんなにも娘さんを大事にしていたはずだ。

「うそだ、うそだ。うそだ!」

 だって、そうじゃないと。おれをみのがすいみがないじゃないか。


 ごめんなさい


 そういいたかった。

 言いたかったのに音が出ない。声を出そうとすると息が苦しい。思わずしゃがみこんだ俺の前に母が駆け寄る。

「ちょっとあんた! どうしたの!?」


 かあさん!


 そう口だけが動き、声にはならなかった。俺の口から激しい呼吸音だけが漏れ、ドンドン頭が回らなくなる。

 なのに、嫌な考えだけは頭から離れなかった。


 俺が。あんな事言わなかったら。誰も死ななかったんじゃないかな。



 その日。俺は学校を休んで病院に行った。よくわからないがPTSDという病気になったようだ。今の僕は声を出すことも文字を書くこともできない。言葉でコミュニケーションをしようとすると胸をさされるような気がする。

 けどそれでいい。こんな危険なもの。もう使いたくないから。


「だって。 そうするしかないだろう」



 無くしてうれしい ひといちもんめ

 虚しい涙と ひといちもんめ

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