【臨月に書いた文章】未来の産休に向けて

柳なつき

私は産休を取ることにした

 産休を取ることにした。

 と言っても、雇用されて勤めているわけではないので社会保険上の産休ではない。社会保険上の産休に準じた、産後8週間の休みである。


 第一子の出産の際には、産休らしい産休はほとんど取らなかった。産院の病室にパソコンも持ち込んだし、体調が良ければパソコンを開いたりもしていた。

 退院後は第一子の世話をしながらではあったけれど、文章を書いたりもしたし、意外といけるなというのが当時の正直な感想だった。

 産休らしい産休は取らず、するすると、なんとなく普段の生活に戻っていってしまった。


 しかし。そのせいかどうかわからないが、私はとにかく産後の不調が長引いた。

 よくわからないが頭が痛い。よくわからないが身体が痛い。よくわからないが思考が鈍い。疲れやすい。メニエール病をもっているのでもともと動悸やめまいはあったが、酷くなった。

 日常生活にも支障が出るようになり、婦人科や内科など、かかりつけの病院が増えた。


 産後2年近く経って、やっと少しすっきりしてきた。こんなにも身体は軽かったか。頭は働くものであったか。もともと別に体力がある方でも思考力がある方でもないが、一度すべてが鈍った後では感動的なほど色んなことが軽やかにスムーズに感じられた。


 そういったことも含め、保健師さんや助産師さんに相談したところ、産後はやはり休んだ方が回復するとアドバイスを貰った。


 第一子の際、産後ろくに休まなかったことが、その後ずるずる長引いた産後の体調不良とどれだけ厳密に因果関係があるのかはわからない。

 しかし、関係があることは否定できないのではないか、だったら、今回はしっかり休もう、そう考えた。


 保健師さんとも相談し、悩んだ末、期間は8週間と決めた。 

 最低、3週間。でも休めるならもっと休めるとなお良い──と、言われたので。


 だが、産休というのは勇気が要る。すくなくとも私にとっては、勇気の要ることだった。

 なにせ8週間まるまる休むというのは本当に久しぶりだ。

 その間、やっていることをすべてストップすることになる。


 出産という営みを単に個人的なことというより共同体の行為でもあると考えるのであれば、必ずしも私は「迷惑をかけている」わけではないかもしれないが、しかし、やはり個人の心情としては「色んな人に迷惑をかけている」となる。


 出産に関する融通、配慮、理解。次世代を産むことを共同体の責任として考えれば「当然」かもしれないが、個人の心情としてやはりそこまでまだ「当然」とは割り切れないのだ(妊娠そして出産を経る女性がそのように感じてしまう社会構造自体が本当は歪んでいるのだ、と思わなくもないが、そのことについてはまた別の機会にまとめられたらまとめたい)。


 なにより、自分自身の人生が、可能性が、やはり両手のなかからこぼれ落ちていくように感じる。

 もちろん、子どもをもつのは望んだことで、休むのも当然のことで、必要なこと。いわば、仕方のないこと。


 しかし、8週間。まるまる2ヶ月である。この期間の長さをどう捉えるかはひとによるかもしれないが、すくなくとも私は、大きく長い時間だと思う。


 もちろん、だったら産休など最低限にして動いてしまえばいい、という意見もあるだろう。実際、そうして特に問題なかった人もいるのだろう。

 しかし、私には難しかった。前回実際にそうして、そのせいかわからないが、2年近くというもっと長い時間を体調不良のまま過ごした。


 妊娠そして出産というのはとかく難しいところがある。私は専門外の人間なのでどこまで厳密に正しいかはわからないが、お世話になっている産婦人科の先生は、こんなことをおっしゃっていた。


「産婦人科分野というのは、極端に言えば、百年くらい遅れてしまっている。人類はまず、ウイルスや結核、癌といった、命にかかわる病気から克服しなければならなかった。安全に出産する技術は発達した。命にかかわるから。だけれど、産む女性の体調不良や、その因果関係、そういったものはすくなくとも命にはかかわらない。命にかかわらない問題は、医学的にはどうしても優先順位が低くなる。加えて、女性がこんなに働く時代は歴史上かつてなかった。だから、産む女性の、命にかかわらない体調不良については医学的にはかなり研究が遅れている。これからの分野と言える」


 私だってそれはもちろん、先に命にかかわる問題を解決するべきだったと思う。マミーブレインや産前産後の体調不良より、ウイルス、結核、癌、そして安全な出産だ。人類の発展としても、そのような順番で進んでいくことを願う。


 しかし、では、私が生きているうちにはその因果関係は判然としないのだろうか。 医学的にまだ研究途上で証明できない。それだけの理由で、「医学的に正しいとは言い切れない」という理由で、妊娠や出産による体調不良の多くが「事実」ではなく単なる「可能性」として処理されてしまうのだろうか。


 子どもを産む。その営みが、尊く幸福なはずの営みが、こんなにも「私」という個人を、「私」という人間の人生を侵食していく。

 子どもが、侵食していくわけではない。

 子どもを産む。その営みが、私という個人を人間を侵食することを、いまの社会では、止めきれない。


 百年後に期待しようね、と割り切ることもできなくて。


 いったい、どうすればいいのだろう。子どもを授かるということは、とても恵まれていること。わかっている。よくわかっている。子どものために行動する必要がある、時間や様々な資源を捧げる必要がある、そのこともわかっている。

 しかし、妊娠出産育児というおめでたいことの裏で、というよりは同時に、個人の時間と可能性がさらさらとこぼれ落ちていく。

 それは、100パーセント得られたものであるかはわからなくて、あくまでも「得られるはずだったかもしれない」ものだから、補填はされず、ゼロになる。


 得られたはずの可能性が散る。花びらのように、ひらひらと。 あるいは、両手からこぼれる。砂のように、さらさらと。


 そう思うのは、あまりにも傲慢なのだろうか。


 結婚していなくたって、妊娠していなくたって、子どもをもたなくたって。やってきたことや努力が実るかどうかは、誰にもわからない。

 何かをやろうとしている際、それは達成されるまで常に「可能性」でしかなくて、実現しなかったことの原因すべてを結婚や妊娠や子どもをもつことに帰することはできない。


 しかし、では結婚しない方が「有利」、子どもをもたない方が「有利」、そんな状況であっていいのか。あるいは、何かを実現させたいがために、結婚や子どもをもつことを「選ばない」、そうせざるを得ない状況であっていいのか。


 私は今回産休を取る。社会は、やっと妊娠や出産や子どもをもつことに伴って発生する「マイナス」をゼロに近づけようとする環境になりつつある──マイナスとは、たとえば身近なことで言えば、解雇とかハラスメントとか打ち切りとか、そういったこと。

 それだって人類の進歩と考えれば偉大だ。


 だけれど、贅沢に映るかもしれないけれど、得られるかもしれなかったプラスに思いを馳せて沈むことのない産休を取りたい。


 いまはまだ贅沢に映るかもしれない。けれど、百年後は違うと信じている。そのために、いま書き残している。


 本当は贅沢ではない。子どもを産み育てること、次世代につないでいくことを、個人の問題ではなく共同体の責任と捉えるのであれば。 個人の問題、と捉える限り、子どもを産み育てようとする人びとの悩みはすべて「贅沢」とされてさらさらこぼれ落ち、どこにも行けないまま世界の底へと沈み込んでゆくのだ。

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