第七章:そして、春がくる

第36話 未来

 春日の父親の起訴が確定した。

 実子に対する虐待、および未成年に対する暴行と不同意わいせつ致傷罪である。


 わいせつに関して示談をちらつかせた相手方に、楠木がにっこりとブチ切れていたので、あの父親は徹底的に追い詰められるだろう。楠木は怒らせると厄介だ。


 慌ただしく正月が過ぎ、二月に入った。春日と結衣が正月に泊まりに来ることはなかった。


「春日と結衣ちゃん、正式におばさんに引き取られることになったって」


 日曜の夜、夕飯を食べながら、楠木が言った。


「父親の親権喪失の申し立てもして、おそらく通るだろうから、そのままおばさんの養子に入る予定らしいよ」


「へえ」


 春日からラインで報告を受けていたので、珪はおざなりに返事をする。

 あの事件以来、事情聴取や身辺整理に追われて春日の方が慌ただしく、顔は合わせていない。


「春日の卒業に合わせて引っ越すってさ。父親に実刑がつくか、執行猶予がつくかわからないけど、今後も危害を加えられる可能性もあるってことで、住所の秘匿措置するって」


「おう」


 ストーカーやDVなどの加害者から逃げるために引っ越す場合、新しい住所を他人に知られないよう、閲覧制限をかけることができる。父親が住民票の閲覧を求めても、この措置をしておけば、新住所が知られる心配はない。


 そこまでして逃げなければならないケースだと判断されたということだ。当の父親は、監視もあり、自宅で大人しくしているらしい。春日によってぶちのめされた怪我の程度も甚だしく、まだ退院したばかりなので、早々手出しは出来ないだろう。


 思わぬ流れにはなったが、どちらにしろ、春日は三月にいなくなる。おおむね当初の予定通りである。


 それまでに顔を合わせる機会はあるだろうかと考えていたら、楠木が「珪」と切り出してきた。


「それでさ、うちも引っ越ししようか」


「……また、急だな」


 ちょっとコンビニ行こうか、と言わんばかりの軽さで、重大事案が飛んできた。

 楠木は食後のお茶を飲みながら、のほほんと笑っている。


「今回、うちも結構関わっただろ。あの父親が出てきた時、逆恨みされて、患者さんに不利益あっても困るし。さっさととんずらしようかなと」


「どこに」


「実は茨城の方で、声かけてもらってるんだよ。わりと大きな基幹病院でさ、外科のポスト、そこそこいい条件で提示されてる。お前も気にしてくれてたし、ちょっとまた、勤務医ってやつをやってみようかなって。いい機会だし」


「常連のじじいとばばあはどうすんだよ」


「知り合いの医者にこの診療所譲ろうと思ってる。整形の先生だけど、外科もいける人だから、常連さんたちまるっと引き継げる」


 楠木の中で、引っ越しは決定事項らしい。


 この診療所は、安全基地だ。珪を守るためだけに作られた白い砦。しかし、加害者に住所を知られているという状況は、安全とは程遠い。ここが安全基地としての機能を保てなくなった以上、楠木は迷わずそれを捨てる。


 何もかも捨てさせてばかりだなと思う。


「……お前が、それが必要だって判断するなら、引っ越せばいいんじゃねえの。いつだよ、今月?」


「早いよ。かかりつけのみんなにアナウンスして、引継ぎして……できれば四月かな。遅くても五月」


 穏やかな笑顔が、どこか浮足立っていた。


「楽しみだな」


 裏の無い、真っすぐな希望を乗せた声だった。


「勤務医なんて、久しぶりだよ。診療所じゃ見られない症例を、たくさん診られるんだなと思うと、楽しみでさ。最新のテキストまとめて買っちゃったよ。アマゾンて便利だな」


 どおりで先日、凶器になりそうな重量の段ボールが届いたわけだ。


「このまま開業医ルート確定かと思ってたのに、お前のおかげで、また新しいことに挑戦できる。楽しみだな、珪」


「……そうかよ」


 捨てたのではなく、一番魅力的なものを選んだのだと。

 いつか言われた言葉は、確かに楠木の本心だった。それを思い出せば心配するのも馬鹿らしく、珪は食事を終えて箸を置いた。


「俺も、決めたことがある。ひとつ」


「え、なに」


「大学」


 楠木の前にある麦茶のピッチャーを取って、自分と楠木のコップに注いだ。


「志望学部決めた。茨城に行くなら、そっから通える範囲で志望校探す。通信は三月でやめて、高認受けて、来年度とりあえず受験対策だけして、受験する」


 どうせ通信制高校では単位が取れない。出席が必要なものに、珪は今も出られない。それならいっそ、高認(高等学校卒業程度認定試験)を受けて大学受験資格を取り、来年度の一年間を受験準備に充てて、直接大学受験した方が早い。


「大学受かった後、講義に行けねえと話になんねえから、まぁ、一年かけて、ぼちぼち慣らす。図書館行けるんだから、特定空間に他者と座ってるだけの講義ならいけるはずなんだよ。たぶん」


「珪」


 楠木は、ごんとテーブルに突っ伏した。


「俺、明日休む……一ノ瀬と祝杯あげてくる……」


「なんでだよ」


「お前がとうとう自分の進路の話をした」


 呻くように楠木は言った。


「お前が、ちゃんと、未来の話した……うん、駄目だ、明日は臨時休診にします」


「ざけんな。働け医者。茨城にとんずらするって、クレームえげつねえぞ。対応しろよ、俺は知らねえからな」


 突っ伏したまま復活しない黒髪を眺めて、珪は一度立ち上がった。台所の棚からみかんをふたつ取って来て座り直す。


「通信やめる手続きはしとく。一応最後に模試だけ受けて、志望校絞っとくけど」


「お前ならどこ受けても受かるよ。学力だけは俺が保障する。ほんと昔っから賢かった、お前は」


 骨ばった指がのびてきて、みかんをひとつ取っていった。


「春日には言った?」


「まだ。引っ越しのことも合わせて、今度言っとく」


「引っ越しを機に、春日、うちに嫁に来てくれないかなぁ。朝ご飯が恋しい」


「あいつの叔母にゴアイサツに行ってお願いしてくりゃいいんじゃねえの」


 くだらないボケは聞き流して、珪は楠木のむいたみかんをかすめ取った。

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