第35話 ありがとう

 春日が珪の手を離せるまで、珪は辛抱強く待ってくれた。


 やっとの思いで指を開き、ごわついた手をズボンで拭いた。またしても「動くな」と春日に言いおいた珪は、勝手に洗面所をあさるとタオルを数枚取ってきた。それを春日の太ももの傷に押し当て、次いで父親の顔をのぞき込んでいる。


「……死んだ?」


「動脈やってねえから死にはしねえだろ。三叉神経と顔面神経は死んだかもな。麻痺が残ろうが嚥下障害起こそうがどうでもいいけど」


 平然と言いながら、珪は雑な手つきで男の口にタオルを突っ込んだ。無理やり開いた口の中を覗き込んで、大儀そうに男の頭を横向けている。


「口腔内に異物もねえし、横向けときゃ窒息もしねえし、問題ねえよ。綺麗に顎は割れてるけど、お前が殺人犯になる心配は、とりあえずない」


 慣れた口調でそう言って、珪はさっさと春日の隣に戻ってきた。


「お前、手慣れてんな……」


「メジャーな外傷は経験済みだからな、処置の基本は知ってる。最近ずっと医学書ばっか読んでたし」


 何事もなかったように座る珪は、自身こそとんでもない状態である。ひとまずタオルを持って、どこから止血をすればいいのかと聞けば、本人はきょとんとした後に「……手?」と疑問形で答えてきた。


「なんで疑問形」


「腹は切れてるだけだし、頭も止血しにくいだろ。今ここでとりあえず止血するなら手……なんだこれ結構血ぃ出てんな」


「今更気付いたん!? お前血だらけやで、大人しく」


「どおりで揺れると」


 何やら納得したように頷いた金色の頭が、そのままおもむろに床に落ちた。


「珪!?」


 崩れるように倒れた身体に血の気が引いた。

 青くなって飛びつけば、横になったまま、本人だけがけろりとしている。


「めまいと吐き気で、頭打ったからかと思ってたけど、出血で血圧落ちてんだなこれ……寝てりゃ治る」


「ほんまに寝てりゃ治る!?」


「そのうち楠木が来るから治る……」


「楠木への信頼が半端ないな!」


 微塵も危機感を持っていない様子だが、顔色は致命的に白い。

 春日は珪の左手にタオルを巻きつけて押さえこみ、腹にもタオルを押し付けた。頭は怖くて触れない。


 あまりにも普段と変わりない珪の様子が、逆に怖かった。痛覚がないということは、自身の状態を正確に把握できないということだ。痛みを訴えない珪が、実際にどの程度の重傷度なのか、素人の春日にはわからない。


「ごめんな、ほんまごめん、巻き込んでごめん」


 今日、珪がここに来たのも、父親と鉢会ったのも、暴行を受けたのも、すべて春日の浅慮が招いた結果だ。


「気ぃ抜いてた。油断した。ごめん」


「『ごめん』じゃねえだろ」


 不機嫌そうな声が答えた。


「お前が穏便にしたかったところ、俺が勝手に見切りつけて喧嘩売った。お前が言うべきは『余計なことすんなクソが』、もしくは、この結果で良かったなら感謝か礼だろ。ちなみに俺はお前の父親が確実に起訴される状況作れたから満足してる。示談なんざ死んでもさせねえ」


 にやりと笑いながら「ぜってー社会的に殺す」と呟く姿は、どうしようもないほど、珪だった。


 過激で凶暴で、不器用に優しい、春日の前に降ってきた救いの手だ。


 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。

 楠木が先か、警察が先か。どちらでもいいから、早くこの無鉄砲な馬鹿を救急車に放り込んでほしい。白い頬から血の気が引いて、青ざめている。

 それでも損なわれない美貌を見下ろして、春日はゆっくり「珪」と呼んだ。


「巻き込んでごめん。怪我させてごめん。……ありがとう。お前が見切りつけてくれたから、結衣が逃げられた」


 珪は間違いなく、最善の判断をしてくれた。

 もう引き返せない春日と結衣が、二度と父親と関わらずにすむように、必要なことを、珪に出来る最大限を、してくれた。


「あやうく、お前に二度と会われへんようになるとこやった。ありがとう。あと、後先考えない捨て身の行動については、この後話があります」


「あーすっげえめまいする。声も聞こえねえな。うっとうしい話は聞こえねえ」


「聞こえてるやろドアホ。……いや、ほんまに? めまい? やばい? ちょ、どっち!?」


 目を閉じてしまった珪に慌てふためいて、春日はちょうど駆け込んできた楠木に、厄介な問題児を放り投げた。

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