第34話 ステイ

 包丁で狙うなら頸動脈、刃渡りが長ければ胸部、心臓。


 珪に言われた言葉を覚えている。白目をむいて大人しくなった顔を見下ろして、心臓を狙うことにした。首を狙って血が飛び散ったら面倒だ。この醜悪な人間のひとかけらたりとも、珪に触れさせたくなかった。


 振り下ろした包丁は、正確に心臓を狙っていたはずだった。


 その刃先が皮膚に届く直前に、いきなり横から衝撃がきた。何かがぶつかってきたような衝撃は、大した威力ではなかったものの、完全に不意を突かれて尻餅をつく。


 ひとつ瞬いた時には、目の前に、金色があった。


「よお、春日。やっと聞こえたかてめえ、何回呼んだと思ってんだボケ」


 春日の世界の中で最も美しい、金髪灰眼の麗人が、鼻先が触れるほどの眼前にいた。


 横から体当たりをされたのだと、ぼんやり把握する。勢いよく春日を弾き飛ばし、そのまま上に乗り上げて、凶器を持った春日の右手に左手を乗せて牽制しつつ、珪は全体重で春日を押さえ込んできた。


「動くな。落ち着け。春日」


 他の一切が目に入らないほど、視界のいっぱいに珪がいて、その薄く艶やかな赤い唇が、魔法のように一言、告げた。


「ステイ」


 たった、三文字だった。


 たった三文字の短い言葉が、抗えない力をもって、春日の激情を絡めとって押さえつけた。


「ステイだ、春日」


 凍える雪の日の曇天のような、深く落ち着いた灰色の瞳が、刺すように春日を見据えていた。目の前で春日を押さえつけてくる、揺らがぬ瞳と声に縋る心地で、春日は必死に息をした。春日の呼吸を促すように、珪はゆっくりと、春日に合わせて、息を吸って、吐いてくれた。


 力任せに握りしめられた右手が、熱かった。


「……ステイ」

 

 錆びついたような思考の中で、珪に言われた言葉を馬鹿みたいに繰り返せば、珪は小さくひとつ頷いた。


「おう、ステイだ、馬鹿。いきなり理性ぶち飛ばしてんじゃねえよ。呼んでも返事もしやがらねえし。落ち着いて会話が可能なら座っとけ、まだ落ち着かねえならぶん殴ってやるから頭出せ」


 ひとまず頷きだけで返事をすれば、珪は春日をぶん殴ることは自重してくれた。血に濡れてべたりとした金髪を、鬱陶しそうに左手でかきあげている。


「……ごめん。お前、病院……あ、楠木が、たぶんもうすぐ来るから、警察も結衣が呼んどるはずやし、」


「わかったから、落ち着け。このままじゃ、警察がきて逮捕されんのお前だぞ」


 珪は春日から視線を外さないまま、そっと春日の右手の指を引いた。親指からゆっくりと開かれて、慎重に包丁を抜き取られる。


「結衣の結婚式で号泣すんだろ。こんなくだらねえことで、今までの努力と我慢をドブに捨てんな」


「くだらなくない」


 珪はぽいと包丁を離して、呆れたように見上げてくる。本人は痛みを感じていないのだろうが、その状態はひどいものだ。右腕は一度も動いていないし、左手と腹からの出血でパーカーはどす黒くなってきている。


 春日はゆっくりと手を伸ばした。無残に千切れている珪の服をそっと掴んで、誤魔化すように引き合わせる。


「くだらなくない。最悪や。お前の一番嫌なことした。……ああ、せや。データ壊しとく」


 忌々しい写真が入っているスマホを、警察が来る前に破壊しておかなければならない。


 立ち上がろうとすれば、「座ってろっつっただろクソが」と殴られた。


「壊してどうすんだ馬鹿が。貴重な証拠だろ、丁重に保存して提出しろ。何のために俺が我慢したと思ってんだ、てめえの父親確実に塀の向こうにぶちこむためだろが」


「なんでお前、いっつも捨て身やねん。どう考えても我慢するとこちゃうやろ」


 我慢した、と言い出した珪にめまいがした。


 珪にそうさせたのは、間違いなく春日だ。


「殴るなってのは、喧嘩の話や。こんな非常事態にまで律儀に応用すんな。自分が危なくなったら、殴れ。お前が痛い思いするくらいなら、いくらでもぶん殴ってええから」


「痛くねえよ」


 珪はまた、それを言った。


「どうせ俺は痛くねえんだから、好きにやらせて罪状重くしといた方がお得だろ」


 痛くないから、いくら怪我をしても、気にしない。問題ない。関係ない。


 その理屈は、珪にとっては正しいのかもしれない。しかし、それを聞かされる春日は、いい加減、我慢の限界だった。


「証拠の写真まであれば、もう言い逃れも出来ねえだろうし、」


「俺が痛い」


 涼しくほざく美しい相貌に、言葉を叩きつけた。


 訝し気に眉を寄せる珪を見下ろし、手を伸ばして包丁を取る。ぬらついた柄を逆手に持って、春日はそれ振り上げた。


 珪には、痛みがない。痛覚がないから、いくら怪我をしても顔色一つ変わらない。実際、今も平然と春日の前で動いている。


 春日は握りしめた包丁を、真っすぐに自分の足に突き立てた。右の太ももに刺さったそれは、三分の一ほどめり込んで、止まった。焼けるような熱さがあって、少し遅れて激痛がきた。


 目の前にある灰色の瞳が、見開かれて、硬直した。


 睨むように珪を凝視して、春日は痛みを無視してもう一度手を振り上げた。握りしめた包丁が、血と油で滑りそうだった。


「──に、してんだ、お前、馬鹿か!?」


 二撃目を入れる前に、珪は飛び掛かってきた。迷わず刃を掴もうと手を伸ばしてくるので、慌てて包丁を投げ捨てる。


「落ち着いてねえならぶん殴ってやるっつっただろ、動くなクソが。つーか、刺したら抜くんじゃねえよ、出血止まんねえだろ。止血しろ、タオルどこだ」


 珍しくまくし立てて、珪は立ち上がろうとした。その手をつかまえて、座らせる。

 動かないままのケイの右手をぐいと引いて、太ももの傷に押し付けた。珪は一瞬気圧されたように手を引こうとして、困惑の表情で見上げてくる。


「痛いやろ」


 自分の痛みは遥か彼方に放り投げて、春日は珪を睨み据えた。


「お前、今、痛いやろ」


 痛覚が死んでいても。自分の痛みはわからなくとも。


 春日の足を見下ろした珪の表情は、確かに一瞬、痛みを堪えるように歪んだから。


「おんなじ理屈で、お前が痛いと、お前は痛くなくても、俺は痛い。めっちゃ痛い、死ぬほど」


 珪が怪我をすれば、春日は、痛い。たとえ珪が痛くなくとも。


 そして、珪も、今、痛いだろう。たとえ痛みがわからなくとも。


「痛くないからいいっていう、その理屈、二度と言うな」


 説き伏せるような言いつけは、語気の強さとは裏腹に、懇願の声音になった。


 掴んだままの手を額に押し戴いて、春日は深く深く、頭を下げた。


「……んな理屈言わせて、我慢させて、ごめん」


 何度謝っても足りない気がした。


 握った手は、冷たかった。春日のために我慢をして、春日のせいで傷ついた、不器用で優しい、細い手だった。

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