第33話 逆鱗
ケーキ屋の閉店作業という、実はそれなりに重労働である仕事をこなして、春日は帰路についていた。結衣からリクエストされたフランボワーズケーキとモンブランは、抜かりなく確保してある。
柿島の状態は心配ないらしい。単なる疲労と寝不足だと診断されたらしく、点滴を打って死んだように寝ていると、スタッフから連絡があった。
今から帰る、と結衣に送ったラインに返事はない。既読もつかないから、珪を相手にはしゃいでいるのだろうと思う。今年も三人でケーキを食べられることに感謝しつつ、これが最後だと思えば、物寂しさは否めなかった。
「……にしても、珪も返事よこさんとか、どうなってんねん。仲間外れか。俺だけのけ者か」
電車内で改めてラインをしたというのに、自宅の最寄り駅についても、ふたりから返事はなかった。改札を出て顔をあげれば、マンションはすぐ視界に入る。
あれほど帰りたくなかった自宅に、今日は今すぐたどり着きたい。
足早に駅を出たところで、「おにい!」という声が聞こえた。
「はい? 結衣?」
駅から少し離れれば、さすがに暗い。
街灯に照らされた夜道を駆けてきた結衣は、もう一度、必死の形相で「おにい!」と怒鳴った。
その足に、靴がなかった。コートもマフラーもなく、靴下のまま極寒の夜道を駆け抜けて、結衣は涙腺が決壊した様子で飛び込んできた。
「はよ、はよ帰って、おとんが、」
涙声のまま、半狂乱で結衣はマンションを振り返った。
「全部バレた、もうあかんて、珪が楠木先生呼んでこいって、けどうち、スマホ持ってこられんかった、電話できひんで」
「は? おとん帰ってきた?」
泣きじゃくる結衣は、激しく頷いた。
「おにいの就職先から、電話あったって。全部バレたって。もう、逃げるしかないやろって、珪が言って、珪が、」
珪が、と結衣は繰り返した。
「珪がつかまってる、うちのこと逃がしてくれた、どうしよ、警察電話してええの? 楠木先生?」
「両方」
春日は即答した。ポケットから取り出したスマホを結衣の手に押し付ける。氷のように冷え切った結衣の手は、震えていた。
「まず楠木に電話して指示してもらえ。電話かけながら駅まで行って、駅員室借りて楠木来るまでそこで待ってろ。事情話せば入れてもらえる、夜道ひとりでうろうろするなよ。楠木に連絡ついたら警察も呼べ」
ついでにケーキの箱も押し付けて、春日は身を翻して夜道を走り抜けるとマンションに飛び込んだ。エレベーターを待つ時間も惜しく、階段を駆け上がる。
バレた。就職先から父親に電話があった。父親はそれを問い詰めるために、予定外の時間に帰宅したに違いない。そこに、結衣と、珪がいた。
階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、歯噛みする。珪が父親に遭遇する可能性など、根こそぎ取り払っておかなければならなかった。なぜ結衣を家まで送ってくれなどと言ったのか、数時間前の自分を殴りたい。
浮かれて、安心して、油断していた。
このまますべてうまくいくものだと、馬鹿みたいに楽観していた。
人生とは、理不尽で過酷で無慈悲なものだと、春日はちゃんと知っていたはずなのに。
転がるようにたどり着いた自宅の前で、鍵を取り出すのももどかしく、勢い余って玄関ドアを引けばすんなりと開いた。裸足で逃げ出してきた結衣に、鍵を閉める余裕などなかっただろう。
玄関に一歩踏み込んだところで、それは聞こえた。
硬いもので何かを殴る、くぐもった音だった。
一度で終わらなかったそれは、春日がリビングに踏み込むまでに、三回続いた。
「馬鹿めが」
開け放たれたままのドアからリビングに入る。異様なほど静まり返った部屋に、父親の荒い息だけが聞こえていた。
「俺を、脅そうなんてな、百年早いんだ。お前の口を一生塞ぐことくらい、わけもない」
父親の手から、がたりと椅子が落ちた。
父親の足元に転がっている小柄な人影は、ぴくりとも動かなかった。
綺麗な金色が、まだらに赤く染まっていた。
切り裂かれた衣服が上半身に引っかかっていて、剥き出しになった腹部からも血が流れていた。不自然に凹んでいる右肩と、血まみれの左手と、部屋の隅に転がっている血の付いたハサミが見えた。
すべてがまるで薄布越しにあるかのように、現実味の無い光景だった。
明らかに興奮状態にある父親は、春日に気付かず、尻ポケットからスマホを取り出した。足元に転がる身体に向けて、画面をタップしている。シャッター音が聞こえた。
「後悔させてやる。はは、いい写真だ」
──その時の感情を、何と言ったものか。
すっと頭の芯が冷えた。腹の底で爆発した何かが、瞬く間に凍り付いていった。喉の奥が詰まるような、奇妙な閉塞感があった。
世界中から、音が消えたような、錯覚を覚えた。
気付いた時には足が動いていた。勝手知ったる自宅のキッチンに向かい、包丁をひとつ取った。それを握ったまま、春日は歩いた。
スマホをポケットにしまった父親は、膝をついて珪に手を伸ばした。その手が珪の服を掴む前に、春日は「おい」と声を出した。
驚いたように振り返ってきた父親の横面を、力任せに蹴り飛ばした。
血と、白いものが飛んだ。歯が折れたのだと思う。短い悲鳴を上げた父親がよろめいて尻をついている。身体を支えようと床についた汚い手が、珪の足に触れていた。そのことが、途方もなく許しがたかった。
触るな、という一言は、激情にかき消されて声にもならなかった。
右手の凶器を握り直す。毎日使っている包丁は、春日の手にしっくりと馴染んでいる。目の前の男は何事かを喚きながら起き上がろうとしたが、春日はそれを許さなかった。
振りかぶった包丁を、無造作に叩きつけた。
肩口を深く裂いたそれに男が怯む。春日は一歩踏み込むと、無駄に贅肉の付いた身体を蹴り飛ばして転がした。立ちはだかるように背後に珪を置いて、ようやくひとつ、息をする。
珪は動かない。じわじわと出血が広がっているから、早く救急車を呼ばなくてはと思う。口元にまでべっとりと赤い血がついていて、吐血の可能性に背筋が冷える。
「お前も逆らうのか、屑が!」
憤怒の表情で泡を飛ばして怒鳴った男は、応戦の構えで立ち上がった。
「逃げられると思うな! お前ら全員まとめて後悔させて」
「もうええわ」
掴もうと伸びてきた手を、避けた。殴りかかってきた拳もかわし、隙だらけの脇にカウンターを叩き込む。肋骨の間に指のめり込む感触があった。
呻きながらよろめいた男は、驚愕の表情を浮かべていた。息子が己に敵うとは思ってもいない、幸せな頭の持ち主である。これまで抵抗されなかったのは、己が格闘において優れているからだと盲信していた、愚かな人間。
贅肉まみれの中年が、喧嘩の経験豊富な高校三年生を相手に、体力腕力で敵うわけがないということも知らない馬鹿だ。
「あんたもう喋らんでええよ」
愚鈍な動きで警戒を見せる顔面に、春日は加減せず拳を叩き込んだ。
濁点だらけのうめき声をあげて男がしゃがむ。その身体を蹴り転がして、春日はふと思い出して右足を上げた。脳裏に、一年前の雪の日が浮かんだ。春日の前に落ちてきた、凶暴で美しい小柄な天使は、敵対する相手を破壊することに関して、容赦がない。
あの日の珪に倣って、春日は足元にある鼻血の滴っている顔面に、踵を叩きつけた。
歯が折れたのか、骨が砕けたのか、嫌な感触が足裏に伝わってきた。のたうちまわろうとする身体を追いかけ、首を踏みつけて体重をかける。春日の足の下で、血だらけの赤い顔は、酸欠によりみるみる青くなっていった。
春日がこのまま体重をかけていれば、遠からず足の下の人間は動かなくなるだろう。あの日は春日が止めに入った。今、春日を止める手はない。
「あともうちょいやったのにな」
死に物狂いの形相で春日の足を掴んできた手に、無造作に包丁を突き立てた。刺すのはいいが、引き抜くのには相応の力がいるのだと、そんなことを発見した。
「あと三か月、あんたが大人しくしてたら、俺もおとなしゅう消えてやったのに。結局こんな形で終わるか。なんやもうアホらしいわ。せっかくずっと我慢してきたのに」
ずっと我慢してきた理性も忍耐も、散り散りに吹き飛んでいた。荒れ狂う感情を抑える気も、目の前の男を許す気も、なかった。
「ここで終わりや。あんたも、俺も。しょーもな。ほんま、しょーもない十八年間やったな、お互い」
それが、春日が己の父親に投げた、人生最後の言葉になった。
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