第32話 対峙

 ありきたりなスーツの男である。鞄とコートが見当たらないのは、廊下に落としてきたのだろう。ドサドサという音が先ほど聞こえた。


 随分と白髪の混じった髪を、染めるでもなく、ワックスで軽く撫でつけている。春日と同程度の身長に見えたが、横幅は明らかに男が勝っていた。これを体格が良いというのか、中年太りというのか、微妙なところだ。重量を考えれば、さすがに春日といえど、圧し掛かられたら分が悪いだろうと思う。


 男の顔立ちは、子どもふたりにはあまり似ていなかった。春日と結衣のよく似た整った顔立ちは、母親譲りらしい。喜ばしいことである。


 黙って観察する珪の隣で、結衣は立ちすくんだまま、小さく答えた。


「今日、塾、早く終わって、」


「塾に連絡したら、家庭の都合で早退したと言われた。そんな都合に心当たりはないが?」


「あの、えっと」


「小賢しくなったな。勝手にサボっておいて、男を連れ込んで夕飯か。随分と、悪知恵を付けた。お前も、京介も」


「おにいは関係ないから」


 結衣は震える声で言い張った。


「うちが勝手に早退しただけやから。おにいは関係ない」


「今日、鳥取の森林組合から電話があった」


 父親は珪に一瞥を寄越したが、誰何はしなかった。まるで興味もなさそうにダイニングテーブルの横を通り過ぎ、奥のソファに近づくと、スーツのジャケットを脱いで投げ捨てている。


 振り返って結衣を見据えてきた表情は、怒りというよりは侮蔑に近かった。


「息子さんの就職の件で。何のことだ? いたずら電話かと思えば、そうでもない。本当に内定を取って、すでに研修の日程が組まれていると」


 結衣が息を飲んだ。

 父親に知られる可能性を、春日は片っ端から潰していたはずだ。就職先に親の情報などひとつも渡していないに違いない。それでも、父親に連絡がいったというなら、ルートはひとつしかない。


 春日の通っている高校である。


 春日の口止めが甘かったのか、教員がいらぬお節介をしでかしたのか。どちらにしろ、これでもう、春日と結衣の逃げ道はなくなった。


「新しい住所も決まっているそうだな。不動産に聞けば、入居予定は二名。京介と、結衣、お前だ。言い出したのは京介だろう。父親を欺いて、何をする気だった?」


 親権者であるということは、こういう時に強い。保護者の立場をもって、子どもに関するあらゆる情報を手に入れることが出来る。


「塾をサボり、就職先を隠し、何様のつもりだ。父親の許可もなく勝手が許されるとでも? 本当に、屑のような子どもだな。俺の顔に泥を塗るつもりか」


 男はネクタイを抜き取ると、それを床に叩きつけた。結衣の身体がびくりと竦む。


「勝手が出来ると思うな。森林組合には就職辞退と伝えておいた」


 そんな、という小さな悲鳴が、結衣の口から零れて落ちた。


「京介にはすでに内定先がある。あの医者のもとで働けば、あの屑でも一応、様にはなるだろう。医療関係者というラベルを貼っておけば、それなりに価値が出来る」


 こいつは殴り飛ばしても良いのでは?


 真剣にそう思うが、残念ながら、ここには可否をジャッジしてくれる春日も楠木もいない。


 珪は仕方なく、殴ることは耐え忍んで、代わりに「結衣」と口を挟んだ。

 珪にぴたりとくっついてようやく立っていた結衣は、涙目で振り返ってくる。


「あのな、たぶんこれはもう、無理だぞ。就職先潰されて、こんだけバレたなら、これ以上誤魔化せねえよ」


 逃げ場を潰され、企ては看破された。一介の高校生が誤魔化せる範囲も、取り繕える範囲も、とうに超えている。


「穏便にってあいつは言ってたけど、どう考えても、ここから穏便にはなんねえだろ。もう、逃げるしかねえんじゃねえの。お前がいいなら、俺は今から口出しする」


 ここで逃げなければ、この男は子どもを縛り付けるために、何をするかわからない。支配と監視の目はいよいよ度を超えて、春日と結衣の人生を侵食するだろう。今ここで見切りをつけなければ、逃げるチャンスすら失いかねないように思えた。


 結衣は涙目のままじっと珪を見返して、すぐに口を引き締めて頷いた。


「何だ、お前は」


 ようやく珪に視線を向けてきた男の表情は、まるで道端のゴミを見るかのようであった。


「春日の知り合い」


 珪はそう答えてから、「てめえじゃなくて、京介の方な」と付け加えておいた。


「てめえが毎日清々とサンドバッグにしてる息子と知り合い。最近じゃ、虐待の基準も随分厳しいぞ。出るとこに出りゃ、てめえ一瞬で前科つくんじゃねえか」


「何のことだか」


 嘲笑を隠さない返事を、珪は愚弄をこめて「へえ?」と受けた。自慢にはならないが、相手を小馬鹿にする態度に関して、珪は育ての親から十分に受け継いでいる。


 男の目元が引き攣ったが、珪は気にせず続けた。


「定期的に怪我してんだよな。どう見ても殴られた怪我。虐待にありがちなやつ」


「あいつはすぐ喧嘩をしてくる。それを、まさか父親のせいにしていたとはな。本当に、」


「記録は全部取ってある」


 男の声を遮って、斬り込んだ。


「春日がうちの診療所に初めて来た日から、今日まで一年間、処置の記録は全部カルテにある。怪我の状態と原因、大まかな被害時間も。受傷日時と、マンションエントランスの防犯カメラを揃えれば、春日が自宅内で怪我したっつー事実は確定する。同じくマンションのカメラと、てめえの勤務状況から割り出した自宅滞在日時と合わせれば、春日が怪我をした時間帯にてめえが自宅にいたことも特定できる。証明しようと思えば、証拠はいくらでもある」


 どうせもう、春日と結衣は引き返せない。それなら、珪は持てる武器をすべて並べ立てる。


「……うちの診療所、だと」


「春日が怪我するたびにタダで処置してやってんだよ。楠木に感謝しろよ」


 男は一瞬眉を潜め、あらかたの関係図を把握したらしい。吐き棄てるように舌打ちをしている。


「くだらん。言いがかりだな。どうやら藪医者のようだ、そちらでのバイトは本日付で辞めさせて」


「夜中に春日がうちに運ばれた日があっただろ。ほっといたら死んだぞっていう、あの日」


 楠木を藪呼ばわりされたので、珪は速やかに立ち上がった。

 眉を寄せる男に対峙して、殴らない、と内心で言い聞かせる。


 殴らずに、口頭で、相手を引かせなければならない。いつも春日がやっているように。


「あれ、わりと重傷でな。カルテ見りゃ、一方的にボコられたってすぐわかる。んで、凶器も特定してある。あの日、この部屋にあった、ボールペン、割れたビール瓶、アイロン。春日を拾いに来るついでに、楠木がそれらしいもの全部回収して、検証した。傷口と凶器は一致、こびりついた血痕も確認。で、部屋に脱ぎ捨ててあったてめえの服からも、春日の血痕を確認」


 あの騒ぎの中で、必要なことをすべてこなした楠木の手腕は、さすがとしか言えない。


 すべての証拠の記録をとって、楠木は「これは一番効果的なタイミングで、適切に使おう」と笑っていた。こいつだけは敵に回さないと、珪はその時ひそかに誓った。


「うちの楠木は優秀でな。あの日の春日の症例について、障害速報にレポート出してる。アイロンによる殴打によって生じた外傷性胃粘膜損傷っつータイトル。あの日の春日の受傷状況はとっくに日本中の医者に共有されてて、てめえが今更捏造だ何だ騒いでも意味ねえぞ。で、あの日の凶器からは、当然、春日と結衣と、てめえの指紋しか出てこない。必要なら警察に持ち込んで調べてもらうか」


 これ以上、下手なことをすれば、すぐにでも警察沙汰にすると、珪はわかりやすく警告した。


「前にも、自相に介入されたんだろ。その時は一時保護で、春日と結衣はすぐ家に戻されたってな。今回はわりと致命的な怪我させられてるし、常習性も否めねえし、さすがにもう同居許可はおりねえんじゃねえの」


「小賢しいな」


 男は忌々しそうに吐き棄てた。


「よそ様の教育方針に口を出すなと、あの医者はお前に教えなかったのか?」


「自分の言動が教育だと思ってんなら、てめえの頭の悪さに絶望する。馬鹿と会話する気はねえんだよ、時間の無駄だ。結衣、来い。行くぞ」


「結衣。出ていくなら、許さんぞ」


 男は脅すような口調で言ったが、珪は気にせず、結衣を廊下へと押しやった。


「加害者から逃げるのに、加害者の許可は必要ねえんだよ。馬鹿はひとりでそこで吠えてろ」


「立場をわからせてやっているんだ! 子どもは親の言うことを聞くものだぞ!」


 結衣を掴もうと伸びてきた男の手を叩き落し、珪は男の前に立ち塞がった。体格差がありすぎて、男からは珪の頭頂部しか見えていないと思う。


「そいつらは俺のものだ、どう扱おうと他人から口出しをされるいわれはない!」


 子どもをどう扱おうとも許される、そんな思い上がりにあぐらをかいたひとりの親が、ひとりの子どもを『商品』にした。そのおぞましい傲慢と狂気が、今も珪を縛り付けている。


 そして目の前にいるこの男は、同じ傲慢と狂気をもって、春日と結衣を食いつぶしてきた。


 頬が引き攣るのを自覚して、珪はかろうじて自制した。


 殴るな。


 この状況で殴ればこちらが不利になる。ひいては、春日に余計な負担がかかる。


 喉元までせり上がってきた何百もの罵詈雑言を、寸でのところで無理やり飲み込んで、珪は踵を返した。これ以上顔を見ていると、いよいよ手が出そうだった。


 結衣の後に続いてリビングを出ようとして、


「お前のせいだな」


 襟首を、勢い任せに掴まれた。


「お前が唆した。お前と、あの医者が。余計なことを。証拠をつかんで勝ったつもりか?」


 喉が詰まって、反射でむせた。そのまま半ば投げ捨てるようにリビングに引きずり倒される。


「珪!」


 結衣の悲鳴が聞こえたが、珪は構わず手を振って「行け」と指示した。何をされても、どうせ珪は痛くもかゆくもないので、結衣を逃がすことが先決だった。


「楠木呼んで来い」


 この場に春日を呼ぶわけにはいかない。警察を呼ぶには、残念ながらまだ事件性がない。楠木が来れば、とりあえず何とかするだろう。


「待て!」


「待つのはてめえだボケ」


 結衣に向けて踏み出した男の足を、後ろから引っかけてすくった。つんのめった男が床に手をついている間に、結衣は風のように駆けだして行った。


「何のつもりだ貴様は!」


 醜悪な顔で怒鳴った男は、猛然と詰め寄ってきた。

 その横をすり抜けてリビングから出ようとするも、がっちりと腕をつかまれる。捻じり上げるように珪の右腕を引いて、男は頭上から凄んできた。


「結衣を連れ戻して、余計なことは言わないと誓え。今なら許してやる」


「おー、誓う誓う。これで満足か? 離せよ、くせぇな」


 露骨に馬鹿にした口調で答えてやれば、腕をつかむ手の力は増した。ギチ、と腕から不穏な音がする。


 ここで軽率に何度か殴ってくれれば、珪は大手を振るって被害届を出せる。適当に殴られて、出来れば流血騒ぎになると良い。相手の殺意を問える程度はどのくらいだろうかと考えながら、珪は迷わず男の地雷に踏み込んだ。


「証拠は揃ってる。大人しく反省して改心して死ねよクソが。長期間の虐待と、今ここでの俺への暴行な。ついでに、てめえが過去にやった児童買春も蒸し返してみるか」


 男は答えなかった。明らかに空気は不穏になったが、ここで黙るつもりはない。


「十六歳買ったってな。示談にしてもみ消したらしいけど、いくら払ったんだよ。こっちまで逃げてきたってことは、地元じゃてめえの所業もバレてるってことか? 適当に聞き込みして情報集めて、てめえの勤務先に匿名で投書でもしてやろうか」


「……どこで知った?」


「さあ?」


 春日はあまり具体的な話をしなかったが、断片だけの情報でも、それらしく並べれば十分に効果がある。


「社会的に死にたくなきゃ、今後一切春日と結衣と、ついでに楠木にも、関わるなよ。てめえが今ここで手ぇ離すなら、俺は大人しく出てってやる」


「それがお前の脅迫か」


 男は低く笑った。腕をつかむ手は離されない。


「所詮子どもだな。相手の弱味の握り方を知らない」


「はあ?」


「俺が示談でいくら払ったか教えてやろうか」


 勝ち誇るように、男は言った。


「ゼロだ。双方、この件を今後一切口外しないことで示談書が作成された。なぜかわかるか?」


「さあな。相手が馬鹿だったからじゃねえの」


 どうでもいいので雑に答えれば、男は「ある意味、正解だな」と鼻を鳴らした。


「弱味だ。あのガキは馬鹿だった。俺に弱味を握られて、示談の条件に口なんぞ出せなかった。わかるか? 相手の口をふさぐには、それなりの方法がある」


 掴まれたままの腕を、ぐいと引かれた。フードの至近距離に男の顔がきて、陰湿にささやかれる。


「そしてお前も、馬鹿だった。俺に都合の悪いことを知っているガキを、俺がこのまま離すと思うか?」


「離さないと余計に都合が悪くなるって、てめえの腐れた頭じゃ理解出来ねえのか? すげえ馬鹿だな。死んだほうがいいんじゃねえの」


「口が減らんな」


 真横にある顔が気色悪くて、一歩引いた。逃げる素振りで腕を引いてみれば、右腕を強引に捻じり上げられた。


 肩から景気の良い音がして、途端に腕が重くなる。外されたか、と他人事のように右肩を一瞥して、珪は深々と息を吐いた。


「これで立派な暴行罪だな。おら、どけよ。今から警察行って被害届出してくる」


「やせ我慢が得意のようだが」


 男の声に嘲笑があった。


「残念だが、お前は警察には行けない。誰にもこのことを言えなくなる」


 素早く胸倉をつかまれたが、腕が抜けないので避けようもなかった。大外刈りで足を払われ、後頭部から勢いよくフローリングに叩きつけられる。痛くはないが、衝撃で一瞬視界が白くとんだ。


 フードが落ちた。


 広くなった視界に映った男は、数秒、目を見開いてこちらを見下ろした。その隙に距離を取ろうと床を蹴ったが、それより早く男は太ももに乗り上げてきた。重量オーバーで大腿骨が悲鳴を上げている。


「……結衣の男かと思ったが、取り入ったのは京介の方か?」


 下卑た笑いに、反射的に力が入った。かろうじて押しとどめた左腕が、痙攣したように震えた。


 殴るな。


 珪が殴ったら、春日にまた、あの顔をさせる。


 男は壁際のラックに手を伸ばした。ペン立てにあったハサミを取って、見せつけるように刃先を向けてくる。腹立たしいことこの上ないが、うまいこと刺されておけば、殺人未遂にまで持っていけるかもしれない。致命傷だけ避ければ、問題ない。


 表情を変えない珪を見下ろして、男は勝者の顔で嗤った。


「そのやせ我慢が、いつまで続くか知らないが、お前が頷くまで切り刻むようなことはしない。効率が悪いからな。もっといい方法がある」


 胸倉を押さえつけてきていた男の手が、次の瞬間に翻った。

 首元に突っ込まれたハサミが、セーターもインナーもまとめて半ばまで切り裂いた。 


「たとえばお前の裸の写真を俺が持っていたら、あの医者は俺に逆らわなくなると思わないか?」


「死ねよ」


 珪は即座に跳ね起きた。腹筋だけで上半身を起こし、男が持つハサミに手を伸ばす。


 しかし右腕が上がらず、かつ下半身に乗り上げられた状態では、どう考えても無理があった。


「あのガキも馬鹿だった。動画を撮られているとも知らずに、偉そうに示談金など要求してきた。俺の機嫌ひとつで、ネットに自分の裸が出ると知ってからは、言いなりだったがな」


 男の声が、毒のように耳を汚して、虫唾が走った。


「社会的に死ぬのはお前だ、ガキが。俺が画像をネットに上げれば、お前は一生外を歩けなくなる。俺の手元にデータがある限り、お前もあの医者も、京介も結衣も、俺に逆らえない。相手の弱味というものは、こうやって握るんだ。少しは勉強になったか?」


 完全に衣類を切り開こうと下りてきたハサミを払いのける。手の甲がすっぱりと切れたが、そのまま左手を伸ばして男の首を狙った。この期に及んで、殴らないなどと言う気はなかった。


 男はのけぞってその手をかわすと、入れ違いのように手を伸ばしてきた。分厚い手の平が珪の顔をやすやすと覆い尽くし、そのまま押し倒して床に縫い付けた。


 視界が覆われて前が見えない。服が引っ張られる感覚があった。布が裂ける音がした。ついでに腹に冷たいものが触れたから、刃先は皮膚まで裂いただろう。その冷たさを頼りに手を向ければ、ハサミに触れた。逃がす前に、握り込んだ。力任せに奪い取ったそれを、遠くへ投げ飛ばす。


 手のひらからも、指からも、慣れない感覚が伝わってきた。どうにも指を動かしにくいから、がっつり刃が喰い込んだのかもしれない。


「必死だな」


 嗤い声が降ってくる。


「お前もせっかくだから、動画にしてやろう。お前たちが、絶対に俺に逆らえないような動画に。はは、売ったら金になるかもしれんな。その顔なら」


 死ねよ、ともう一度呟いた声は、男の手に阻まれて消えた。伸ばした手は男に届かない。それでも、恐怖はなかった。


 ただもう、抑えようもない、怒りだけがあった。


 珪は、いい。今ここで男がスマホを取り出そうが、録画をしようが、どうせ楠木が拡散などさせない。こちらの致命傷には程遠いその攻撃は、男の犯罪の証拠として警察で重宝されるだけだ。どうせならしっかり撮って自分の首を絞めあげて、そのまま死ねばいい。


 けれど、この人間のもとで耐え続けた春日の十八年を思えば、吐き気がした。


 父親の素行も所業も抜かりなく把握していた春日は、当然、卑劣な示談も知っていただろう。それを諫めることも許されず、何も知らぬふりをすることでしか、春日は結衣を守れなかった。「誰も助けてくれへんし」と肩をすくめていた言葉の裏に、言葉にもならない痛みがあった。あの日の声を思い出して、どうしてか心臓が痛かった。


 己の無力に打ちのめされながら、それでも結衣を守った春日を、尊敬する。この人間のもとで十八年間を耐えた春日の理性と忍耐を、珪は心底尊敬した。


 珪には到底、我慢など出来そうにない。


 全力で身をよじりながら、珪は顔面を覆う手の、親指を一本、かろうじて引きはがした。


「そんな抵抗で──」


 馬鹿にしたような声は途中で消えた。


 食いちぎる勢いで、珪が指に歯を立てたからだ。


 ぎゃあ、と悲鳴を上げた男は、珪の頭を加減もなく殴り飛ばしてきた。


 ぼたぼたと血を垂らす親指を抱え込んで、男は憤怒の表情で立ち上がる。それを見上げて、珪は心底からの軽蔑を込めて言い捨てた。


「ざまあみろ、クソが」


 揺れる視界の中で、男がダイニングチェアを振りかぶる様子が、かろうじて見えた。

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