第六章:冬、露見

第31話 12月24日

 スマホが着信を告げたのは、夜の七時に近かった。

 マナーモードにしてあるスマホの画面を眺め、珪は瞬いた。春日からの着信である。


 十二月二十四日、世間が浮かれ騒ぐクリスマスイブだ。水曜日の今日、春日はケーキ屋のバイトに入っている。夜の七時半に図書館前で待ち合わせをしていたはずだが、時間の変更でもあったのか。


「なんだよ」


 通話可能エリアに移動して応じれば、電話の向こうから慌ただしい声がした。


『あ、珪! ちょっとごめんやけど、今日七時半、無理そう。店長が倒れた』


「はあ?」


『この時期の無理がたたってん。いきなり倒れてびびった。寝不足なだけやって本人言うてるけど、一応スタッフさんが病院連れてくって。んで、店じまいのもろもろ任されて』


「運のねえ奴だな。稼ぎ時に」


『ほんまそれ。しゃあないから、残ったケーキ全部売り尽くしたるわ。俺の販売スキルが火ぃ噴くで。……って、それはええねんけど、いっこお願いあんねん』


 じゃああとよろしくねー! と、電話の向こうから声がした。スタッフだろう。

 それに気前よく応じて、春日は言いにくそうに切り出した。


『あんな、今日、結衣がはよ帰ってくんねん。親父が遅番で帰り遅いから、ケーキ食べよ言うて、今日だけ塾を早退する予定にしててな。八時に塾まで迎え行く予定やってん。あわよくば珪も巻き込んで、また一緒にケーキ食べたいなと結衣は目論んでたわけやけど』


「そういう予定は事前に本人に確認しろよ……」


『どうせお前、暇やん』


 あけすけに断言する声にイラッとするが、事実なので何も言えない。


『けどこんなトラブルで塾の迎え間に合わなさそうで、もしお前行けそうやったら、お願い出来ひんかなと……』


 通話口の向こうで、申し訳なさそうに両手を合わせる春日の姿が見えた気がした。声だけでこうも豊かに感情を伝えられるのは、この男の長所だと思う。


 すっかり日も落ちた闇の中、浮かれ千切ったこの日に、夜の街を九歳児ひとりで歩かせるわけにはいかない。


 珪は仕方なく了承の返事をして、手早く帰り支度を始めた。スマホのナビは電車かバスを提案してきたが、無視して徒歩で塾へと向かう。八時ぴったりにビルから出てきた結衣は、丸い目をさらに丸くして「うわーーー!」と叫んだ。


「珪やーん! ほんまに珪が来てくれたー! やったー!」


「うるせえ馬鹿。夜だぞ。黙れ」


「珪がなんや常識的なこと言うた!」


 常よりさらに高いテンションで、結衣はくるくると意味もなくその場で回った。もこもことした白いコートが、雪だるまのように小さな身体を丸く包んでいる。


「めっちゃ嬉しい。サンタさん、今年は最高のプレゼントくれた。珪が迎えに来てくれるとかサプライズや、最高」


「春日から連絡いってんだろ」


「ライン来てたけど、珪がほんまに来てくれるかわからんもん。めんどくさくなって来てへんかったらどうしよって思ってた」


「お前は俺を何だと思ってんだよ」


 結衣の塾は、自宅最寄り駅から電車で二駅離れている。駅前という立地は、塾としては優秀だが、クリスマスイブに長居したい場所ではない。あちこちに色めき立った集団がたむろしていて、人口密度が異様に高い。


 結衣を見下ろして「おい」と言えば、素直な焦げ茶の瞳が見上げてきた。


「お前、今日急いで帰る必要あるか?」


「今日? おとん遅番やから、帰ってくるの十一時とかやねん。それまでは大丈夫やけど、何? あ、もしかして一緒にケーキ食べてくれる!?」


「ケーキの用意がねえだろ。春日が持って帰ってくるのを祈っとけ」


「わかった。リクエストしとこ。今年も店長さんのとこのフランボワーズケーキ食べるって決めてんねん、うち」


 スマホを取り出す結衣の背中を押して、珪はさっさと駅から離れた。


「急ぎじゃねえなら、歩くぞ。この時間帯の電車なんざ拷問だろ」


「ああ、わかる。珪って絶対満員電車嫌いなタイプやろ。満員電車乗るくらいなら歩く人や」


「お前は俺の何を知ってんだよ」


 一丁前に腕を組んで頷いてみせる結衣に呆れてしまう。子どもらしい素直で単純な九歳児かと思いきや、何気に観察眼が鋭いので侮れない。


 駅から離れ、線路沿いの道を少し進めば、人混みの喧騒は遠のいた。珪はようやく息を吐き出して、軽くフードをあげる。


「珪が家来るの初めてやん。うわ、緊張する。片付けあんま出来てないけど、気にせんといてよ。おにいがケーキ持って帰ってきたら一緒に食べよ。んで、ゴミ頼むわ。家のゴミ箱に捨てると、おとんが見つけると怒るから」


「それ去年も聞いたけど、意味わかんねえな」


「ぜいたく品なんやって。生活費で無駄すると怒んねん。おにいがバイト代から出して買ってくれてもあかん。だから、何か食べる時は、おにいといつも外で食べてから帰る。こっそりな。ひみつやで」


 ししし、と笑う顔は無邪気なのに、発言内容はシビアだ。


 このふたりが、一刻も早く、理不尽な檻から逃げ出せればいいと思う。それが春日と結衣に何より必要なことだから、珪は何も言わない。引き止めるつもりは毛頭ない。まして、個人的な感情を口に出すなど、最も不要なことである。


 だからただ、早くその日が来るようにと、祈るだけだ。


 ぼんやりと光る星空を見上げながら、線路沿いの道を、結衣と歩いた。珪の胸ほどまでしかない結衣は、白い息を吐きながら、ちょこまかと小動物のように夜道を進んだ。


「珪にな、ずっとお礼言いたかってん」


 数歩走ってみたり、かと思えばその場でくるりと回ってみたり、唐突にスキップを始めたり、結衣の行動には無駄が多い。


「珪のおかげで、おにいが笑ってくれるようになったよ」


「あいつはだいたい笑ってんだろ」


「ちゃうねん。なんかこう、ふつーに笑ってくれるようになったんよ。馬鹿みたいにというか」


「確かに馬鹿だけどな」


「なんか、たぶんすごく、楽なんやろなって。珪の隣が」


 民家の塀によじ登って、その上をつたって歩くという結衣の奇行を、珪はとりあえず眺めた。子どもというのは、こうも無駄で危険な行動を好む生き物なのだろうか。

 新種の生物を見る心地で眺めていたら、結衣は上から見下ろしてきた。


「うちはおにいが守ってくれたけど、おにいを守ってくれる人って、いぃひんかったから。珪と、楠木先生のおかげで、やっとおにいにも逃げ場が出来たんよ。だからほんま、ありがとう」


 珪は結衣を見上げて「そうかよ」とだけ答えた。それ以上の言葉は差し控えた。

 聡い九歳児だ。余計なことを言った日には、いらないことまで見破られかねない。


「とりあえず、降りろ。お前に怪我されると、俺が春日に文句言われる」


 珪が伸ばした手に、結衣は笑いながら飛び込んできた。


 ◇◇◇


 春日と結衣の自宅は、駅に近いマンションだ。以前、自転車を取りに寄った際、外観だけは見たことがあった。


 いざ部屋の中に入ってみれば、広々とした3LDKである。リビングダイニングには、対面キッチン側にダイニングテーブル、窓際にソファとテレビが置かれていた。壁際には収納棚が一面に配置され、整然と物が鎮座している。片付いていないと結衣は言ったが、楠木の自宅に比べれば、モデルハウスのような整頓具合である。


 結衣はコートを脱いで真っ先に暖房のスイッチを入れると、「そこ適当に座ってて」とダイニングテーブルを指さした。


「珪、夕飯食べた? うちまだやけど、一緒に食べる? オムライス作るよ」


「は? お前、オムライス作れんのか? ガキが?」


「ガキとか言う人には一口もやらん」


 早速手を洗ってキッチンに立った結衣が、野菜室からたまねぎを取り出している。


「あれって一般家庭で作れる料理なのかよ」


「珪、今度楠木先生からちゃんと料理教わって。いや、うちとおにいで教えるから基本だけでも覚えて。オムライスなんてケチャップライスに卵かけるだけやで」


「レンジさえ使えれば、飯なんて何でも食えるのに、手間かけて自分で作る必要ねえだろ」


「冷凍食品に頼りすぎると身体に悪いやろ。医者のうちのくせに」


 兄妹そろって似たような苦言を寄越してくる。


「いつもはおにいが作ってくれんねんけど、休みの日とか、うちも作るよ。料理覚えろっておとんに言われて、おにいとかおばさんに、いろいろ教わってん。うちが出来るようになれば、おにいも少しは楽やん」


 手際よく玉ねぎを炒め、細かく切ったハムを投入し、炊飯器から白米を取り出してフライパンへ。一気に重量の増えたフライパンを、結衣は苦心しながらも器用に操った。塩コショウとケチャップを入れて火を止めると、二つの皿に分けて盛る。仕上げに、溶いた卵を薄く焼いて上に載せれば、確かにオムライスらしき物体が出来上がった。


「オムライスってこうやって錬成すんのか」


「もっと感想ないの? 美味しそうとか、上手やねとか」


 口を尖らせて言いながら、カウンター越しに皿を渡された。なんとなく受け取って、ふたつをテーブルに並べる。


「うちの席そっちな。珪はおにいのとこで食べて。うちの前。そうそう。あとこれ、スプーン。はい、コップ。んで、ピッチャー」


「人使い荒いな」


「楠木先生のうちでも、これくらいはやってたやろ。食卓ってのはみんなで準備するもんやねん、ほんまは」


 小さく愚痴って、結衣はすぐに気を取り直したらしい。エプロンを外してキッチンから出てくると、「結衣ちゃんの手料理やで!」と胸を張っている。


 オムライスは湯気を立てていた。冷凍食品以外の手料理を食べるのは、春日が入院していた十月以来と言ってもいい。たまに楠木が作る湯銭のチルドハンバーグ(冷凍ではないところがポイント)や、フライパンに卵を落として放置しただけの目玉焼きが、果たして手料理に分類されるのか、難しいところである。


 何にしろ、春日の料理は美味かったから、きっと結衣の料理の腕も確かだろう。珪にとっては珍しいオムライスという夕飯に、ありがたく相伴させてもらう。


「スープもあると良かったけど、時間ないから省略な。おにいがケーキ買って来たら、それデザートにしよ。また半分こしてくれる? うちモンブラン好きやねんけど、今年は思い切ってフランボワーズにしたから、こうなったら他の種類も制覇して──」


 うきうきと喋る結衣の言葉の合間に、ガチャリと音が聞こえた。玄関からだ。

 鍵の回る音の後に、ドアの開閉音がする。


「あれ? おにい早いな。九時ごろって言うてたのに」


 きょとんとした結衣は、次の瞬間には表情をこわばらせた。あどけない相貌から無邪気が抜け落ちて、緊張に染まる。


「あかん、隠れて、珪、」


 結衣が飛びついてきて、無理やりフードをかぶせられた。必死に周囲を見回したのは、隠れる場所を探したのだろうが、広々としたリビングにそんな都合の良い場所はない。


 玄関からあがった足音は、ただいまも言わないまま、真っすぐにリビングに進んできた。リビングのドアが開けられる音に、隣に立つ結衣が竦んだことが分かった。


「……何をしている? 結衣」


 帰宅後の開口一番、結衣の父親らしきその男は、威圧を隠さずそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る