第30話 春日(2)

 十月の花火大会が終わり、十一月中旬には、春日に内定通知がきた。


「鳥取?」


「そう。鳥取の森林組合。面接全部オンラインやってん。ええ時代になったよなぁ」


 水曜日の午後、楠木医院は休診だ。

 春日は学校帰りに、診療所の三階にお邪魔した。就職の内定が出たと報告するためだ。楠木は大学病院に行っているとのことで、そちらにはあとでラインを入れておこうと思う。


 出迎えてくれた珪は、ラフなジャージに薄手のニット姿だった。絵に描いたような部屋着である。外に出ることがないので、フードのある服を着ている姿を、最近はまるで見ていない。


 珪はまだ、図書館に行かない。


 花火大会の日には外出したが、あれは楠木がいる大学病院という場所で、春日が同行したからだと思う。それ以外で、珪が外に出ている様子はない。診療所の受付には、最近やっと出てくるようになった。何でもないように患者に応対しているが、途中で疲れたようにいなくなる日も多い。


 外の世界は、『有害』なもので満ちている。

 夏の夕方、雨音に包まれた駐輪場で抉られた傷を、珪は少しずつ、少しずつ癒している。


「俺、体格良いし、わりと体力あるし、バイト経験豊富やからコミュニケーションスキルもある方やん。ああいう仕事向いてるやろなって」


「半分公共事業だからな、森林組合。安定してんじゃねえの」


「せやろ。他にもいくつか受けたけど、やっぱ鳥取が一番ええなって。遠いし、交通の便悪いし、田舎やし、魅力度ランキング低いし、目立たん県やし」


「ディスってんな」


「そういうとこの方が、安心やん。探されても、なるべく見つからんところ」


 正直、職種は何でもよかった。ここから離れて、父親に見つからない土地に行ければ、他のことは二の次だ。鳥取県の田舎に就職が決まったことは、春日にとって、大満足の結果である。


 リュックを置いて手を洗い、久しぶりに楠木家のキッチンに立った。放置されている生ごみ袋を縛ってゴミ箱に捨て、空の牛乳パックを切り開いて畳む。ケトルでお湯を沸かしている間に冷蔵庫を確認して、見えたしめじと油揚げ、豆腐を取り出した。野菜室から人参と大根も拝借する。小松菜あたりが欲しいところだが、まともな料理をする人間がいないこの家では、葉物野菜はレタスしか常備されていない。


 沸いたお湯で珈琲を淹れ、牛乳とはちみつを足した。それを珪に出してやる。


「夕飯、鍋でええ?」


「主婦かよ」


「ここんちの食生活の悲惨さにドン引きしてんねん、俺。作り置きしてくから、楠木と一緒にちゃんと食べぇよ。あーあ、来る途中でスーパー寄ればよかった。野菜もっと食え。あと、肉も食え。冷凍から揚げばっかりじゃ不健康やろ、医者の家のくせに」


「主婦だな」


 野菜を切って鍋に入れ、だし汁で煮込む間、春日も座って珈琲を飲む。


 十一月の日の入りは早い。十六時半を過ぎた夕方は、すっかり暗くなっている。外を歩くのにもコートが必須になって、春日は先週、真冬のコートをクローゼットから取り出した。もうすぐ、珪と出会って一年が経つ。


 珪が立ち上がってカーテンを閉めている間、春日はリュックからプリントを一枚引っ張り出した。


「これ。俺の就職先。鳥取に来ることがあったら寄ってな」


「行くことなんかねえよ、あんな辺鄙なとこ」


「人の新天地をディスんなや」


「先にディスってたの、お前だろ」


 戻ってきた珪はプリントを一瞥し、それを楠木の席に置いた。


 座り直してマグカップを持つ姿を、なんとなく眺める。珪の外見はすっかり見慣れたつもりでいるが、ふとした時に、驚くほど美しく映る。カップを見下ろして伏せた目元のまつ毛が、ふわりと音を立てそうなほど長かった。


「何だよ。鑑賞料取るぞ」


「この眼福にあずかれるのもあとちょっとやなぁと思って。俺の癒しタイムがなくなる」


 春日は素直に白状した。


「お前がわざわざ会いに来てくれるとは思ってないから、俺の仕事が落ち着いたら遊び来るわ。交通費えぐいから、数年に一回とかになるかもやけど」


 寂しい。惜しい。別れがたい。


 胸中に浮かぶ言葉はどれも煩わしくて、春日は見て見ぬふりをする。感傷に浸っていても、生きてはいけない。


 生きるために、逃げるのだ。やりがいがあると言ってくれた珪の言葉を、一生のお守りにしようと思う。


「ま、ライン繋がっとるしな。お前がまた受信拒否とかいう暴挙に出ぇへん限り、テレビ電話なり何なり──」


「お前、週末暇か?」


 突然、そんなことを言われた。


「週末? 今週? 日曜なら」


「十時に来い。出かける」


「はい? どこに」


「就職祝い。餞別くれてやる、好きなもん選べよ」


 いつかも聞いたような、高飛車な物言いである。


 春日は二重の意味で驚愕した。


「珪がそんなもんくれるとか、天変地異やん、こわ。どうした」


「お前の就職決まったら祝杯あげるって、楠木が張り切ってる。ここに泊まりに来られる日とか、そのうち聞かれんじゃねえの。夕飯好きなもんたかれよ、寿司だろうが焼肉だろうが喜んで払う気だぞ、あいつ」


「うわ、よっしゃ。めっちゃ楽しみ。泊まれる日な、確認しとく」


「で、世話になったんだから就職祝いぐらい渡せっつわれた」


「お前ほんまに、楠木に素直やな」


 楠木の差し金とはいえ、珪が春日に何かを贈ろうという気になってくれたのは、素直に嬉しい。


 好意はありがたく受け取るとして、春日は一応確認した。


「出かけるって、どこ? 人混み嫌やろ。適当に欲しいもん選んでおくから、ネット通販とか」


「図書館に行きたい」


 珪は何ということもない様子で、言った。


「いい加減、診療所にある医学書も読み尽くした。読むモンがねえ。図書館に行きたいから、お前の就職祝いは、そのついで」


「ついでかい」


 可愛げのない言葉ではあるが、珪にとっては大きな決断だろう。

 珪が外に出ることの負担とリスクは、春日の想像を超える。それでも、春日がいれば、図書館にも買い物にも行けると判断してくれた。


「永遠に引きこもってるわけにもいかねえし。お前がいるうちにリハビリしておかねえと、今後が不便だ」


「あー、まあ、なぁ」


 春日は、もうすぐいなくなる。珪は惜しむ様子も、寂しがる様子もまったくない。それでも、珪なりに、春日のいない日常に向けて動き出そうとしていた。


 立ち止まってはいられない。自分たちには、もう、あと四か月しかない。


 春日は了承を告げて、メモ帳とペンを拝借した。


『楠木へ。夕飯は鍋。具を食べ終わったら米を入れて卵でとじて雑炊にして食べて』


 確かにこれでは主婦だなと、内心で笑ってしまった。


 ◇◇◇


 あっという間に十二月になった。


 就職祝いに、楠木は春日と結衣を焼肉に連れて行ってくれた。生まれてこの方、一度も行ったことがない、高級店だった。外食などほんの数回しか経験のない結衣は、あまりにも興奮しすぎて、帰ってから熱を出した。楽しすぎたらしい。


 珪の図書館に付き合う日が多くなった。フードを被って俯いて歩く珪の隣を、春日はのんびりと歩いた。くだらない話をしながら歩く診療所までの道が、もっとずっと長ければいいのにと、思わない日はない。


 就職祝いとして、春日は珪にホゲータを望んだ。「結衣と珪が持ってて、俺だけ持ってないのずるいやん」と言えば「意味わかんねえな」と斬り捨てられたが、珪はあっさりと手のひらサイズのぬいぐるみを購入してくれた。


 ショッピングモールに行っての買い物で、珪の様子は普段と変わりなかった。春日がトイレに行った僅かの隙に声をかけられていたのは、想定内だ。「はいはい、ステイステイ」「それ言うなっつってんだろ」八つ当たりのようにわき腹をどつかれたが、大人しく相手を無視して春日に対応を丸投げしてきたので、百点である。


 いろいろと大丈夫そうだなと安堵して、いつか珪に渡したものと同じホゲータを連れて、家に帰った。


 穏やかで、賑やかで、過ぎ去るのが惜しいほど、満ち足りた日々だった。父親の暴行は鳴りを潜め、進路は決まり、ほとんど毎日珪と顔を合わせて時間を過ごす。


 鳥取の不動産に連絡を取ってアパートも決めた。高校生がアパート契約をするにあたって、保証人には楠木が名乗り出てくれた。四月で十八歳を迎えていた春日は一応成人扱いになるものの、保証人の有る無しでは、保証金が大きく変わる。


 順調だった。


 名残惜しい時間を、噛み締めるように大切に過ごした。珪と過ごす最後の時間が、これから先の春日の人生の錨になり、支えになると、わかっていた。残りの三か月、くだらない会話も、些細な表情も、隣で見た景色も、何ひとつ忘れないよう過ごしたかった。


 そうして、やがて春がきたとき、身体中に大切な思い出を詰め込んで、ここを去る。


 きっとその時、自分は笑ってさよならを言えるだろう。


 生まれてこの方、経験したことがないほど、穏やかで幸いな日々だったから。



 ──だから、気が緩んでいた。

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