幕間④
第29話 春日(1)
人は変わる、と言う。
ある日突然、あるいは徐々に、人は変わる。その言葉は、悪い意味で使われることが多い。
春日の父親も、変わってしまったのだと思う。もしくは、本性が出ただけかもしれない。どちらにしろ、春日にとっては些末なことだ。変わったにしろ、本性が出たにしろ、あの男は妻だけではなく、子どもにも愛情を覚えない、そういう人間だという事実だけが残った。
母親は結衣を生んでからそれほど間を置かずに死んだ。父親は、己が育児を行うとは微塵も思いつかない人間だった。春日は小学校四年生から六年生までの三年間、あまり学校に行けていない。乳幼児期の結衣は保育園に入れられたが、結衣の送迎も、世話も、保育園のあらゆる準備も、すべて春日の仕事だった。
結衣が風邪を引いて保育園を休むたびに、春日も学校を休むことになり、欠席日数は増え続けた。それでも、春日が世話をしなければ、幼い妹があっという間に死んでしまうことは明白だった。本屋で離乳食の本を買う小学生を、店員は「おつかいかな? 偉いね、お兄ちゃん」と微笑ましく見下ろしてきた。それに何も言えない自分を、ひどく惨めに思った。
母親が死んでから、父親は春日に手を上げるようになった。骨折くらいならかろうじて耐えた。一度、内臓のどこかが破裂しただとかで、翌朝の登校途中に倒れて運ばれた。結衣が心配で、三日後に無断で退院した。息を切らせて帰宅した時、妹は散らかったリビングの床に転がっていた。ほとんど物の入っていなかった冷蔵庫の中の食べ物は食べ尽くされ、冷凍の魚を生のままかじった形跡があった。米を炊く方法も知らない幼稚園児が、父親の帰らない家の中で、空腹と闘いながら必死に生きた三日間だった。
家を出ると決めたのは、その時だ。春日があと数日長く入院していたら、結衣は死んでいた。
中学校にいる時間のほとんどを、勉強にあてた。朝も、休み時間も、昼食中も教科書を読んだ。体育は頻繁に仮病を使って保健室に逃げ込み、参考書を読んだ。一分一秒が惜しかった。
就職して家を出るだけではなく、その後、結衣を養育しなければならない。中途半端な学歴ではろくな就職先がない。春日が選んだ高校は、県内屈指とは言わずとも、十分に進学校であった。
高校に合格した日、「あと三年」と結衣に言った。
「あと三年で、逃げるから、準備しとけ」
小学校入学を目前に控えた六歳児は、歳に似合わぬ落ち着きを見せて、「うん」と頷いた。
そこからはバイトに明け暮れた。金はいくらあっても足りなかった。小学生になった結衣が優秀な学力を見せて、勉強の大義名分を持って叔母の家に避難できるようになったことは、春日にとって僥倖だった。
父親の暴力はエスカレートしていったが、高校に入って身長が伸び、体格がしっかりしたことで、大怪我は回避できるようになった。殴られ続けてきたおかげか、相手の動きを見る目は養われて、喧嘩は意外と得意だった。
暴行は苦手だ。正確に言えば、反吐が出る。抵抗しない相手を一方的に殴るような図は、吐き気がした。嫌でも身体が動いてしまって、そういったトラブルに仲裁に入る回数は多かった。
高校二年生の冬、雪がちらついていたあの日も、嫌々ながら首を突っ込むことを選んだ。どう見ても抵抗出来ない小柄な女性を、ガラの悪い男四人が囲んでいれば、見過ごすなど出来るわけがない。
春日の人生の転機は、そこだったのだと思う。
小柄ではあるが大人しくなどない、猛烈に美人ではあるが猛烈に凶暴な、口も態度も悪い金髪天使が、春日の前に降ってきた日だ。
◇◇◇
楠木の家で過ごした二週間の入院後、父親の態度は一変した。
暴れる回数が減り、殴られる回数はさらに減った。その分、口撃が増え、逐一嫌味を零し些細なことで詰めてくるようになったが、春日にとっては何ということもない。殴られなくなり、自室に常備していた湿布やガーゼの出番が激減した。素晴らしいことである。
楠木は頻繁に父親に連絡を取っているようだ。就職にあたっての相談として、待遇や福利厚生など、それらしき話題を提供してくれているらしい。楠木から電話があった日、父親は機嫌が良い。さかしらに「医療従事者の心得」など、ご高説を述べてくる。春日はそつなく相槌を打ちながらビールを注いで、機嫌良く酔っぱらった父親はさっさと寝てくれる。これまた素晴らしい。
十月最終週の花火大会は、無事に行くことが出来た。楠木のところで研修があると言えば、父親は春日だけではなく、結衣がそちらに同席することも認めた。楠木の口添えのおかげである。娘が将来医者になるという夢を描いて、父親は楠木を全面的に信用しているらしい。楠木の名刺に何が書いてあったのか、気になる。
「あいつ、元は大学病院の外科部長」
花火大会の日、夜空に咲く大輪の花を見上げながら聞いてみれば、珪はあっさり答えた。
「医学博士持ってて准教授やってた」
「……え、准教授ってめっちゃ偉い人?」
「そこそこ。んで、今も水曜と金曜の午後は大学病院の非常勤でオペ入ってる。だから診療所、水曜と金曜の午後休みだろ」
「ああ。だからこないだ、大学病院の楠木って言うてたんや」
「学会とか厚労省の研究会とかあちこちの理事だったり役員だったり指導医だったり、よく知らねえけど肩書はクソほど持ってるし、国際学会で何かの研究の賞も取ってる」
「……その人が、あんな診療所でほのぼのとお年寄り相手に暮らしてる?」
「もったいねえだろ」
珪は愉快そうに笑った。
秋の花火大会は地元では有名なもので、人出が多い。観覧スポットは軒並み見物人でごった返していて、そこに珪を連れて踏み入れるつもりはなかった。さてどこで見ようかと思案していた春日に、珪は「人が少なくて高くて、見晴らしが良い場所ならある」と言った。
高校三年生の秋、春日は生まれて初めて、大学病院の屋上で花火を見た。
こんな目的で入って良いのかと恐縮すれば、許可をくれた楠木は苦笑した。
『珪の定期検査、いつも診療所でやってるんだけど、今日は大学病院でやるって言い出してさ。普段、大学病院嫌いなくせに。何かと思ったら、これだったんだな。通院で来てる患者が、診療が長引いて、帰りがけについでに屋上で花火見ていくってことなら、誰も文句言わない。付き添いで一緒に来ていた春日と結衣ちゃんがそこに同席しても、まったく問題ない』
屋上には花火の見物に来た患者がそれなりにいたが、地上の観覧スポットと比べれば閑散としている。快適な花火見物に、結衣はさっそくシートを敷いて、ジュースとお菓子を満喫していた。
「ありがとうな」
春日が声をかければ、花火を見上げている整った横顔が、振り返りもせずに「何が」と答えてくる。
「ここで見るためにお前が小賢しいことやってくれたって、楠木に聞いた。大学病院、嫌いなんやろ」
「嫌い。待ち時間が長すぎる」
「ああ、そういう……」
非常に庶民的な理由であった。
「けど、どうせ夜までいるなら、何時間待っても関係ねえし。結局三時ごろには終わって、楠木の部屋で寝てた」
「楠木の部屋って何」
「あいつ肩書だけは一応ここの関係者だからな。研究室、っつーかただの控室だけど、持ってる」
「大学病院に自分の部屋あるって、普通に偉い人やん……」
父親の態度も納得である。
「偉くねえよ。組織に属してない外部の人間が、中途半端にくっついてるだけだ。正規ルートにいりゃ、そのうち教授になっただろうに」
それを言う珪の声に、以前のような影はなかった。
「すげー馬鹿。あれはお人好しなんじゃなくて、根本的に馬鹿なんだと思う。奏真と同じ」
悪口を言いながら、そこにあるのは間違いようもない親愛だった。花火に照らし出されて闇に浮かぶ珪の横顔は穏やかで、思わず春日も笑ってしまう。
「良かったな」
珪が、こうして穏やかに、愛情を受け取れるようになって、良かった。
「楠木と、お前の育ての親と、そろって馬鹿でいてくれて、良かったな、珪」
ひとりの子どものためになりふり構わず動ける強さを馬鹿というなら、それは誉め言葉に他ならない。
珪はちらりと視線を寄越してきた。
「お前も馬鹿だぞ」
「あのな、人に面と向かって馬鹿とか言うたらあかん…………いやちょお待って珪、何? もっかい。もっかい言うて。その馬鹿ってそういう意味?」
「どういう意味だよ。近寄んな、うぜえ。おい結衣! てめえの兄貴がセクハラしてくる」
「ああ、ごめんな、おにい珪のこと大好きやねん。おおらかに受け止めてやって」
「セクハラ肯定派か、お前。最近のガキはどういう義務教育受けてんだ」
「セクハラ前提で話進めんといてくれん!?」
珪と結衣の仲が良いことは喜ばしいが、最近どうにも、被害が自分にきている気がする。
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