そして、春がくる

第28話 あと半年

　大人しくなった焦げ茶を見下ろして、珪は無残な有様になっている点滴を手繰り寄せた。幸い、針は抜けていなかったので、チューブをまとめて腕に貼り直しておく。

「珪に、謝らなあかんことがあって」

　仰向けに寝転んだまま、春日が小さく声を出した。

「初めて会った日。お前、無理やり俺引っ張ってここ連れてきたやろ」

「ああ」

　初対面の日を思い出しながら、珪は照明のリモコンを手に取った。オレンジ色のダウンライトの下で話すには、春日の声が小さすぎた。

「あの時、珪に、いきなり殴られた」

「なんだよ。謝っただろ、あれ」

「俺が謝らなあかんことやった」

　照明を蛍光灯に切り替えれば、室内が明るく照らし出される。

　何かを潜ませるような雰囲気がようやく消え去り、春日は眩しそうに目を細めてから、改めて珪を見上げてきた。

「俺が、最悪に、嫌なこと言うた。お前が我慢できひんような、最悪なこと言うたから、殴られて当然やった。ごめん」

　あの日のことは、珪もよく覚えている。

『一方的に殴られる側の気分、教えたろか？　いっかい経験したらお前も、』

「お前に、もう嫌ってくらい知り尽くしてるお前に、また同じこと経験させたろかって、あれは、珪にとって、絶対許容できひん加害の宣言やったなって。やっと、やっとわかった。今更やけど。ほんまごめん」

　沈痛な面持ちで春日は目礼した。

「お前が二度と俺に会う気ぃなくても、せめてそれだけは、絶対謝らなあかんって思ってた」

「律儀かよ。あれはもう気にしてない。お前も、ほんとに殴るつもりなんかなかっただろ」

　パイプ椅子を引っ張って、春日に向かい合う位置で座る。

「で、そのあたり察したってことは、だいたい俺の話も把握してんだろ。どこまで聞いた？　楠木から」

「ほとんど何も。俺が勝手に動画見て、なんとなく察してるくらい」

　それもまた中途半端だろうと、奏真から聞かされている客観的な情報を並べてやれば、春日はヘドロを飲んだような顔をした。

「えげつなさが段違いすぎた……」

「つっても、実際あんま覚えてねえよ」

　記憶も五感もあらゆるものを切り捨てて、珪はあの数年を生きたから。

「具体的なことは覚えてない。詳細なんざ思い出す気もねえし。今回久しぶりに思い出してしばらくゲロってたけど、お前がしつこく来るから、気付いたらそれどころじゃなくなってたし」

「俺が連日来てくれてて良かったって話やな」

「……まあ、お前が来なくなってからはクソ暇だった」

「デレた！！？」

　目を見開いて、意味の分からない単語を叫んだ春日は、両手で顔を覆って静止した。「はあ？」と聞いても「何でもない」としか言わないので、ひとまず放っておく。

「あんだけ拒絶されたら、さすがに一回距離取るって。作戦変更して、外堀埋める方針でいこ思て。楠木と常連のじいさんばあさん巻き込んで、珪が受付に出て来られるようになってから偶然を装ってバイト中の俺と遭遇する演出をみんなに協力してもろて」

「んなこと考えてたのかお前。諦めたんじゃなかったのかよ」

「諦めるわけないやろ」

　顔から両手を離した春日は、ふんと不貞腐れたように見上げてきた。

「俺が珪を諦めるわけないやろ、アホか」

　その言葉に、どう返せば正解なのか、咄嗟に浮かばなかった。

　思わず視線を逸らした先に、透明なビニール袋がある。そういえばと思い出して、珪はさっさと話題を変えた。

「そういや、お前の夕飯。持って来た」

「あからさまに聞き流された……」

　恨めしそうな声がするも、頑として気にしない。珪は手の平より大きいビニールのパックを取って立ち上がり、点滴スタンドを引いた。

「楠木のスペシャルブレンドだと。これをお前にぶち込んで、俺はさっさと自分の夕飯食ってくる」

「……それ、俺の夕飯？」

「お前の夕飯」

　点滴のパックである。楠木から託されたそれを吊るし、古いものと取り替えて、珪は春日を見下ろした。

「固形物入れていい状態じゃねえからな、お前の腹の中。数日は点滴だとよ」

「しんっど」

　打ちのめされたような情けない声に、思わず笑ってしまった。絶食の辛さは知っている。珪はパイプ椅子に座り直し、空の点滴パックは小さな机の上に放っておいた。

「胃をやってる時に飯食うと、すっげえ血ぃ吐くから、やめたほうがいいぞ」

「経験者の台詞やん」

「楠木に死ぬほど怒られるし」

「怒られた奴の台詞やん……」

「だいぶ気持ち悪かったな、あれ。お前は大人しく点滴食っとけよ」

「そうする」

　疲れたように頷いて、春日は深く息を吐いた。喋り続けて、随分と体力を削ったのかもしれない。横向きになろうと身体をずらしながら「いててて」と言っていて、だいぶ痛いのだろうが、珪にはピンとこない。

　痛いとは、どんなふうだったか。春日が怪我をしている姿を見るたびに、珪はそんなことを思う。

　ぎこちなく寝がえりに成功して、春日はもう一度息を吐いた。

「動けるようになったら、俺も三階行く。結衣のこと見てくれてんねやろ、ありがとな。安静解かれたら、退院まで俺も三階で寝起きしてええの？」

「いいんじゃねえの。病室まで様子見に来るのもめんどくせえし」

「楠木のうちでみんなで寝泊まりとか、絶対おもろいやん。うわー、楽しみ。はよ治そ。安静ってふつかくらいで解かれたりせえへんかな」

　疲れたのか、眠いのか、春日は随分と素直に笑った。

「あと十月さあ、花火大会あるやん？　結衣がめっちゃ楽しみにしてて、うちの親父が夜勤やったら夜出られるから、一緒に行こ。残念ながら夜勤に当たらんかったら夜は出られんけど、夕方に出店回るくらいはしたい」

　気が抜けた声のまま、春日はつらつらと喋った。

「十二月はクリスマスケーキまた一緒に食べたいし、正月、お泊り会したいし。正月は決定な。結衣がまた泊るって張り切ってるから決定や。拒否したら診療所の前でプラカード持って座り込みする」

「お前、本気でしそうで怖ぇな……」

「初詣行きたいし、無駄に雪合戦とかしたいし、ホワイトデーにまた一緒にクレーンゲーム行きたい。よっしゃ、これから半年めっちゃ忙しくなるな」

　あと半年で、春がくる。それまでにやっておきたいことが山ほどあるのだと、春日は笑った。

「残り時間に珪とそうやって過ごせたら、俺これから先百年くらい、どこ行っても踏ん張れる気ぃするわ」

　笑って未来の話をする声に、確かに寂寥が滲んでいたことには、気付かないふりをした。

　◇◇◇

　楠木の家の三階で、朝一番に起きるのは春日だ。

　塾で毎日遅い結衣はギリギリまで寝ている。楠木は目覚ましの爆音の後にのそのそとリビングに起きて来て、珪は待てど暮らせど出てこない。

「おはよう春日……うわぁ今日もご飯がある……朝からちゃんとご飯がある……」

　まだ半分寝ているような顔で、存分に跳ねた黒髪を撫でながら、楠木が顔を出した。春日の安静が解かれて三日目、すなわち、春日が三階で他三人と共に過ごすようになって三日目だ。

　無理をしないという約束で登校も許可され、春日は目下、四人分の朝食を作って片付けてから高校へ向かう生活である。

「すごいな……栄養バランスが整いすぎて怖い……」

「目玉焼きとおひたしとトマトでそんな感動されると、反応に困んねんけど」

「味噌汁までついてる……」

　テーブルの上を見て、寝ぼけながら感嘆した楠木は、一度顔を洗ってようやく目が覚めたらしい。洗面所から出てきた時には、一応目は開いていた。

「毎日ほんとありがとう。春日が嫁に来てくれたらいいのに」

「婿に来ようにも、残念ながら楠木さんちには適齢期のお嬢さんがおらんねん」

「違う、春日が嫁」

「楠木、まだ寝ぼけてる？」

　間抜けな会話をしながら朝食の準備を終える頃に、結衣が目をこすって起きてくるまでがルーティーンだ。洗面所に行く妹を見送り、春日は廊下の奥へ視線を投げた。

「珪は、ほんま朝起きひんな」

「朝は苦手だなぁ。俺よりずっと」

　昨日も今日も、珪は春日が登校した後にようやく起き出してきているらしい。

「朝ちゃんと起きておかんと、リズム狂わん？」

「生活リズム整えるのって、難しいんだよ。ああいう子にとって。夜寝るのも苦手だし、明け方やっと寝られたり、結局寝られなかったり。幼少期に身につけられなかったものを、あとから取り返そうとすると、すごく苦労する」

　穏やかに笑いながら、前置きもなくそんなことを言われる。春日は返事に困って、とりあえず頷いておいた。

　偉そうな態度でふてぶてしく過ごしているように見えて、きっと、春日からは見えない傷が、珪には数えきれないほどある。

「てわけで、春日、ちょっと珪起こしてきて」

「……え、俺？」

　思わず楠木を見上げれば、のほほんとした顔があった。

「せっかく毎朝ご飯作ってもらってるのに、一緒に食べないなんてもったいないだろ」

「いや、でも、それは……大丈夫なん？」

　いろいろな意味を込めて聞き返せば、楠木は「大丈夫、大丈夫」と、根拠のなさそうな軽い返事をくれた。

「たまには荒療治も必要。よろしく」

「荒療治って言うてもうてるやん……」

　無情にも廊下に追いやられ、春日はおそるおそる珪の自室のドアに手をかけた。

　そっと覗けば、ベッドの上で薄手の掛け布団がこんもりとしている。

　初めて覗いた珪の自室は、物が少ない。置いてある家具はシンプルな木枠のベッドと、学習机、そして本棚だけだ。部屋のサイズに比して、本棚がやけに大きかった。壁の二面を占拠して配置されており、その中には大小さまざまな本が並んでいる。

　学習机には、通信高校のものらしき教科書の類が机上棚に並んでいた。使われている形跡はない。代わりに、見たこともないほど分厚い医学書が三冊、机の上に積まれていた。これは読んでいる途中らしい。

　他には、いつも使っているリュックが机の横にかけられているくらいだ。床には一切物が落ちていない。きちんと片付けていると見るべきか、そもそも物が少なすぎて片付ける余地もないと見るべきか。

　物珍しく珪の部屋を観察してから、春日は「珪」と呼び掛けた。返事がないので、仕方なく部屋に足を踏み入れる。

「おーい。朝やでー。起きろ。おーきーろー。いや全然起きひんやん。生きとる？」

　微動だにしないベッドを見下ろして、「よし」と気合いをひとつ。

「ほれほれ、起きろ。けーいー、朝やっ、」

　掛け布団に手をかけて遠慮なく揺すった瞬間、足が飛び出してきた。寸でのところで飛び退いてかわす。掛け布団がばさりと舞って、春日が顔を上げた時には、飛び起きた珪がベッドの上から凝視してきていた。

「……怪我人相手に不意打ちの蹴りしたらあかんて」

「……」

　取り急ぎ、クレームをいれておく。

　ただでさえ大きな瞳を零れそうなほど見開いて、珪は数秒、確認するように春日を眺めた。

　明らかな警戒態勢に、「だから言うたやん楠木！」と内心で焦るも、脳裏に浮かぶ外科医は気の抜けるような笑顔を浮かべているだけだ。

　春日はひとまずその場に座った。背の高い自分では、立っているだけで、寝ている相手への圧迫感がある。

「えーとな、朝。せっかくやから朝ごはん一緒に食べようって、せやから起こしてこいって、楠木が」

「……」

「結衣も起きたし、起きられそうなら、って、ちょおおおおおい」

　不意に珪の肩から力が抜けて、小柄な身体は無言のまま布団の中へ逆戻りした。くるまるように掛け布団に埋もれている。

「えっ、何。どういう反応」

「……寝る」

「寝るんかい」

　布団への逃亡を防ぐため、掛け布団をぐいぐいと引いてみるも、珪は頑として潜り込んだまま出てこない。

　このまま起こして連れて行こうか、ここで無理強いは禁物だろうかと、悩み始めた春日の背後で、唐突に豪快な音が響いた。

「けーいー！　おはよー！　朝やでー！」

　部屋のドアを勢いよく押し開けて、あたり憚らぬ元気な声を響かせながら、結衣が飛び込んできた。跳ねるように駆けこんできた身体が、そのまま遠慮なくベッドの上にダイブしている。

　掛け布団の上に飛び乗った結衣の下から、「ぐっ」と珪の声がした。

「いつまで寝てんねん、毎日毎日。小学生も元気いっぱい目ぇ覚める時間や、珪もはよ起きぃよ！　平日の朝から寝坊するのはリストラされたおっさんやで！」

　多大なる偏見を大声で述べながら、結衣は機嫌良く珪の上で笑っている。掛け布団の下から出てきた手が、結衣のわき腹をむんずと掴んだ。

「うわっ、セクハラ。セクハラや。女子のわき腹触るなんて破廉恥な、ってはははははは、まっ、はははははははっ、やめっ、うきゃー！」

　そのままわき腹をくすぐられた結衣は、毬のようにころりとベッドから落ちた。

「ひどい！　女の扱い分かってへん！　女の子は砂糖菓子やで、もっと丁重に扱って！」

「寝てる人間の上に飛び乗る奴のどこが砂糖菓子なんだよ。自称するなら漬物石にしろ」

　さすがにしっかりと覚醒した声で、珪が言い返した。ようやくベッドの上に起き上がり、眠そうな顔で髪をかき上げている。差し込む朝日の下で金色がきらきらと光って、その光に縁どられた相貌は、いつもより少しだけ幼く見えた。寝起き特有の隙が、普段の強気を押し隠している。

　指先で軽く目をこする珪を見上げて、春日の隣に転がったまま、結衣が「うーわー」と感嘆の声を漏らした。

「寝起きの天使様って絶対こんな姿やわ。なんか見たらあかんもん見てしまった気ぃする。大丈夫かな、目ぇ潰れたりせえへんかな」

「いきなり何を言い出してんだ、お前」

「美人の寝起きの破壊力について真面目に考察してんねん。見てよ、おにいなんて固まってるやん」

「あ？」

　結衣に指さされ、珪が視線を向けてきた。目が合って、灰色の瞳が一度瞬く。

　結衣の言葉はどうしようもなく正しくはあったが、春日は意地で首を横に振った。妹の前で醜態をさらすわけにはいかない。

　しかし、春日が何かを言い返す前に、目の前にあるたぐいまれなる美貌が、ふいに笑った。

　寝起きの緩んだ雰囲気のまま、気が抜けたように、柔らかく笑った。

　ふわりと音が鳴りそうな透明な微笑が、砂糖菓子のような甘さをもって、そこにあった。──その甘さが、目の前で春日に差し出されている。

「……え」

　吸い込まれるように凝視してしまった春日の前で、柔らかな笑みが、一転して意地悪くニヤリと口角を上げた。

「おらよ、眼福。朝からいいモン見られただろ。これでさっきの蹴りはチャラな」

「そーゆーことしたら、あかーーーん！」

　結衣の叫び声と共に、妹の小さな手が、バチンと春日の目を叩き潰し、もとい全力で塞いできた。

「おにいの性癖歪んだらどうしてくれんの！？　自分が美人やって自覚しといて！？　いや、自覚してるからそんな性悪なことするんやな！？　うちと一緒にブロマイドで一攫千金目指すなんてどう！？」

「いでででで、結衣、目、眼球押すな」

「おにいはこんな美人見たら他の人間なんか目に入らんようになるから、あかんて！　他の女全員ジャガイモに見えてまうやろ！　審美眼ぶちあがりすぎて恋愛結婚出来ひんかったらどうすんの！？」

「九歳児がなんつー発言してんねん、落ち着け」

「落ち着くのはおにいや！　落ちたやろ！　おにい今落ちたやろ！」

「おーい、珪起きた？　あ、起きてる。ていうか、何してるの、三人して」

「楠木先生！　おたくの天使様が性悪すぎんねんけど！　純情な高校生たぶらかさんように、ちゃんと教育しといて！」

「え？　なになに、何の話」

　部屋に顔を出した楠木を巻き込んで、朝から非常にやかましい。そのやかましさに、救われた。

　もしも結衣と楠木がいなかったら、自分が何を口走ったか、春日にはとんと自信がなかった。