第27話 頼む
楠木医院には、入院用の部屋がひとつだけある。言わずもがな、珪専用のものだ。これまで幾度となく放り込まれたその部屋に、珪以外が入院するなど、初である。
音を立てないようにスライドドアを開ければ、光量を絞った部屋の中にベッドが見えた。長身の男が静かに寝ている。
これ幸いと、珪は足音を殺して近づいた。さっさと用事を済ませて出るに限る。
およそ二か月ぶりに見た春日の顔は、日焼けをしていた。夏の間、外出が多かったのかもしれない。その端正な顔立ちの右頬と右こめかみには湿布とテープが貼られ、左の耳の下から顎にかけて大きくガーゼが当てられていた。
搬送されてきた時に嫌でも手伝わされたので、春日の状態はおおまかに把握している。耳から顎にかけて、盛大な裂傷があった。ガラスか瓶か、そういったもので殴られた傷だ。おそらく、痕が残ると思う。
死ねばいいのに、とひとりごちた。
子どもを嬲る大人は一人残らず死ねばいいのに。
どれほど呪っても大人はのうのうと生きていて、自ら手を下せば捕まるのはこちらだ。世の中がくそったれすぎる。
「あと一年早ければギリ少年法でいけたんだけどな……」
「……お前は何をひとりで不穏なこと呟いてんねん」
独り言に返事があって、珪は速やかに踵を返した。
回れ右をして即座にその場を離れようとするも、伸びてきた腕が珪の服をつかまえる方が早かった。
「いででででで動くと痛い、めっちゃ痛い、待て、動くな、止まれアホ」
「てめえが離せボケ。黙って寝てろ目ぇ開けんなクソが」
「ちょっ、待っ、点滴抜ける、うわテープ切れた、え、どうしたらええの」
「動くなっつってんだよ馬鹿が」
「お前が引っ張るからやろ!」
「てめえが掴むからだろ」
突然の動きに引っ張られた点滴の管が宙を舞い、腕に固定していたテープが引っ張られて千切れている。
それでも手を離さなかった春日は、怪我人にあるまじき膂力で無理やり腕を引いた。さすがに体格差があれば力負けする。強引にベッドサイドまで引き寄せられ、珪は取り急ぎ、苛立ち紛れに焦げ茶の頭をぶん殴っておいた。
「怪我人殴る奴おる!?」
「離せ」
「お前が無理なら離すけど、無理やなかったら、ちょい我慢しといて」
こんなところで楠木の真似をするなと言いたい。
ここで無理だと答えたら、春日はきっと、二度と珪に手を伸ばさない。
咄嗟に黙ってしまった自分の口を恨めしく思っていれば、目の前で焦げ茶の頭が大げさに項垂れた。
「あー、もー、やっと捕まえた。やっと」
「寝たふりか。いい度胸してんな。一生寝かしといてやろうか」
「あかん。その拳は降ろそ。暴力は良くない。珪を寄越すから寝たふりして待っとけって、優しいお医者さんが言うてくれてん」
「クッッッッソ」
のほほんと笑う長身の外科医に、内心であらん限りの罵倒を投げつけておいた。人畜無害な顔をしておいて、楠木は頑固だ。楠木が春日の味方に付いたなら、珪に勝ち目は薄い。
春日は珪の腕を離さないまま、満足そうに頷いた。
「楠木、めっちゃええ人やな。お前ほんまええ人に育ててもらってるわ」
「うるせえよ。詐欺師っつーんだ、あんなのは」
そこで何故か春日はぶはっと笑った。「結衣が珪に懐いた理由がわかるわぁ」などとほざいている。
「珪と、もう一回、ちゃんと話したかってん。しんどかったら切り上げて出てってええから、もしちょっとだけでも大丈夫やったら、今だけ、付き合うてな」
この二か月で、何度も聞いた言葉だった。
『しんどかったら言うて。無理ならやめる』
ラインでも、三階に押しかけてきていた時期も、春日は飽きるほどその言葉を繰り返していた。
何を心配しているのかはわかる。珪との距離感を必死に掴もうとしているのだから、こちらの昔話については、ある程度把握しているのだと思う。
「……とりあえず、それ離せ。無理じゃねえけど、それは好きじゃない」
「ああ、うん。ごめん」
服を掴む手を見下ろして要求すれば、春日はあっさりと手を引いた。
「で、話? 手短に話せよ。十文字以内」
「なんで会いたくない?」
きっちり十文字で返答された。
ベッドの上で上半身を起こした春日は、縫い留めるような視線を向けてくる。手を離されてもなお動けなかったのは、その視線のせいかもしれない。
「俺が余計な事知ってるから、一緒にいるとしんどいって言うなら、ええよ。嫌なこと我慢させるつもりはないし、俺が珪の負担になるなら、もう会わん。……けど、」
焦げ茶の瞳が、何かを見透かそうとするように、じっと珪を見つめていた。
「たぶん、そういう理由とちゃうやろ。会いたくないとは言うけど、お前一回も、『迷惑』とか『しんどい』とかは、言わんかった」
春日は断言した。珪は視線を逸らす。
「お前が、俺のこと嫌になったんとちゃうなら、なんで会いたくないのか知りたい。解決出来そうなら解決して、俺はまたお前と過ごしたい。理由、どうしても言われへん?」
誠実な声だった。
真正面から珪に向き合おうとしてくる姿勢は、奏真や楠木とよく似ていて、信用こそすれ、負担などない。春日の隣は、息苦しくない。
だからこそ、もう会いたくない。
「……お前だろ」
「ん?」
「しんどいのは、お前だろ」
呟くように言葉を落とせば、春日は怪訝そうな顔をした。
その顔に、雨の日の駐輪場の風景が重なる。雨音が連れてくる静寂と、むせかえるような血の匂いと、赤黒い液体にまみれた床。その中で、最後に顔をあげて見た、春日の表情を、覚えている。
「あの時、やべえ顔してたぞ。死にそうな顔色。座ってんのも覚束ねえような状態で、自分が刺されたような顔して。お前本気でああいう状況苦手なんだな」
喧嘩には慣れているが、暴行には拒絶反応を示す。
ややこしい春日の性質は、一応、知ったつもりでいた。春日が家庭で置かれている状況に似た、誰かが一方的に殴られ続けるような場面が苦手なのだろうと、知っていた。
それでも、止まれなかった。
途中で春日が来たことすら、ほとんど認識していなかった。何か別の声がして、邪魔をされて、殴り飛ばしたことも、すべて無意識のうちだった。意識は完全に目の前の敵に過集中していて、周囲の音は消えていた。
ようやく動かなくなった人体を前にして、オーバーヒートしていた頭に若干の余裕が生まれた時、やっと、そういえば春日がいたのだと、思い出した。
「俺は、また、やる。ああいう人間はこれからも絶対に出てくるし、そのたびに俺は、お前が死ぬほど苦手な状況作って、その時隣にいるお前は、また、あの顔をする」
一生消えない十字架がある。
否応なく背負わされたそれは、珪の背中でさんさんと光って、ここに獲物がいると、かつての加害者たちに知らしめる。外に出て歩く限り、いつか必ずまた関係者に遭遇し、その時、珪はまた同じことをする。
真綿で首を締められ続けるこの世界で、春日の隣は、苦しくなかった。
けれど。
「俺といると、お前は苦しいだろ」
またあの顔を見せられるくらいなら、珪は二度と春日に会いたくない。
さっさとこの街から消えて、どこか遠くで、珪のことなど忘れて暮らしてくれればいいと思う。
きっとそこなら、春日は二度と、あの顔をせずにすむだろうから。
春日は数秒瞠目し、それから何度か瞬いて、考えるように見上げてきた。
「……お前、俺の事心配して会いたくないとか言うてたん?」
「心配してねえよ。またあの顔されんのがうぜえだけ」
不本意な単語を否定するも、春日は聞いている様子もなく、ぱっと笑った。
「そんなら俺、最高の解決策思いついた。聞きたい?」
「聞きたくない。理由は話した。戻る」
「待って待って待って、いでででで」
足を引こうとすれば、春日は慌てた様子で手を伸ばしてきた。そのくせ、服を掴む直前に先ほどのやりとりを思い出したのか、中途半端に空中で右手が止まる。
結局、その手はちょいちょいと手招きをするにとどまった。
「あのな、朗報や。聞いて驚け。なんとお前は、俺と一緒にいると、喧嘩せえへん」
「する。した」
「あれは俺がおらんかったから、スイッチ入ってもうただけやろ。俺が隣にいたら止めたし、ちゃんとステイさせた」
当然のように断言される。
「俺をまた巻き込むかもって心配してくれてんねやろ。けど、俺が隣にいれば、お前は絶対、今回みたいな喧嘩はせえへん。ていうか、させへん。だから、一緒にいたらええだけの話やん。お前がいくら絡まれても、俺が全部あしらってやるから、お前も絶対、俺と一緒の方が効率的やで」
「効率の話はしてねえよ。確率の話をしてる」
「んな小難しい話やなくて、俺はお前がおらんとしんどいって話してんねん」
噛みつくように言い返されて、珪は返す言葉に詰まった。
「珪と一緒にいて苦しいわけないやろ。俺は、お前の隣が、一番楽や。お前おらん毎日とかしんどすぎてあかんって言うてんねん、わかる? お前に会われへんようになるくらいなら、なんぼでも喧嘩巻き込まれたるし、いくら怪我したって笑い飛ばしたるわ」
「ざけんな。それで怪我されたらこっちが寝覚め悪ぃ」
「なら喧嘩すんなドアホ」
端的に言い返されて、またしても返事に窮する。
「珪は悪くないよ。お前なんも悪くないのに、世の中に下衆が多すぎるって話やろ。そいつら片っ端から殴り潰すっていうなら俺は賛成やけど、んなことしてお前がまた怪我するのも嫌な思いするのも、ちょっと許せへんし」
止まる様子もなく言葉をまくし立てながら、春日は珪から視線を離さなかった。
「だから、一緒におったらええやん。俺が隣にいて、喧嘩出来ると思うなや。珪に近づいてくる嫌なもん、全部蹴散らしてやるから、お前は難しいこと考えずにまた俺と一緒に図書館通ったらええだけの話やって」
春日は拝むように片手をあげた。
「な。頼む。俺は、珪がいい。あと半年しかない。もし、まだ、俺と一緒にいてもしんどくないなら、せめてあと半年、一緒にいさせてや」
差し出された手が、言葉にならないほどの緊張感をまとって、そこにあった。頼むからこの手を取れと、春日は全身で訴えている。
その手を見下ろして、これが祈りか、と思った。
何かを願って、祈る時、きっと、人はこうして手を伸ばす。十年前の自分に与えられた救いの手が、春日のこの手にも、いつか降ってくるようにと、珪は静かに祈っている。
今、この手に応じれば、珪の手はほんの少しだけでも、春日の救いになりうるだろうか。
「……ひとつ、言っとく」
「うん。何?」
この手を取って、救われるのは、果たしてどちらの方か。そんなことは、考えたら負けだ。
「俺は、お前といても、しんどくねえよ」
差し出された祈りの手を取れば、春日は気が抜けたように、ベッドにぼふんと転がった。
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