第26話 切れないように
楠木が三階のリビングに入れば、意外な光景が広がっていた。
「ちゃうちゃうちゃうちゃう。そこちゃう。こっちや、こっち。ここに書くねん」
「うるっせえな、いいだろどっちでも」
「よお見て。こっち『氏名』ってあるやん。そっちは学年書くとこやって。うち、三年二組な」
「それも書くのかよ」
「当たり前やん。学校めっちゃ人おんねんで。学年と名前書かんと、誰のかわからんやろ」
「そもそも自分で書けよクソが……」
「珪めっちゃ字ぃ綺麗なんやもん」
リビングのダイニングテーブルで、珪と結衣が頭を付き合わせて何かを見下ろしていた。
「な。こんなことになって傷心の女の子のために力になってや。明日までに持って行かなあかんし」
「ほんとに傷心してんのかお前。浮かれてアヒルまで持って来ておいて」
「お風呂にアヒルは必須やん! 今度こそ珪と入んねん!」
「断る」
珪の後ろから覗き込んでみれば、その手元にリコーダーがあった。
振り返ってきた珪が、これ幸いとネームペンを押し付けてくる。
「楠木。任せた。俺は部屋に戻る」
「あーかーん! 珪がいい! 珪書いて!」
立ち上がろうとした珪の背中に、結衣が容赦なくのしかかっている。「ぐっ」と珪が唸った。
「……何してたのかな?」
「リコーダー配られてて、名前書いて明日までに持っていくんよ! 珪に書いてもらう!」
「なんで俺だよ。自分で書けボケ」
「珪に綺麗に書いてもらって、これ書いてくれた人めっちゃ綺麗やねんでうちの友達やねんでってみんなに自慢してカースト駆け上るためやろ!」
「お前本気で図太いよな」
うんざりとぼやいた珪は、結局は結衣の勢いに負けていた。渋々名前を書いてやり、投げるようにリコーダーを渡している。
喜んで客間に戻って行った結衣を見送り、楠木はひとまず珪の向かいに座った。
「お前が部屋から出て来られるとは思わなかった」
「出てくる気なんざなかった。あいつが無理やり押しかけてきた」
「部屋に?」
「大事件だ、一生のお願いだ、他に頼める奴がいない、さんざん嘆いて用件が『名前書け』だぞ。どうなってんだ」
「結衣ちゃんは珪を懐柔する才能があるな」
結衣の態度が空元気であることは明白だ。
それでもいつも通りに振る舞おうとする九歳児に、さすがに珪も譲歩したらしい。
「春日は?」
「意識ははっきりしてたよ。食事はまだ出来ないけど、とにかくゆっくり休めば回復する。二週間あれば家に帰れる」
「帰すのか」
珪が視線を向けてきた。
「警察入れろよ。傷害だろ、あんなもん。一発逮捕で養育者が叔母に移って解決じゃねえの」
「客観的にはそうなんだけどなぁ」
楠木は天井を仰いだ。
「それは、春日にとっては解決じゃないんだよ、たぶん。とにかく自分が頑張って、結衣ちゃんを連れて逃げるっていうのが、今の春日の原動力だろ。その目標があるから踏ん張れてるんだよ、あの子は。警察が入って父親を連れてって、頑張る必要がなくなったら、たぶん、切れる」
「キレる?」
「そっちじゃなくて。頑張ってた糸が、ぷつんて切れちゃうんだよ。空っぽになっちゃう」
疑問符を浮かべる珪を見て、楠木は姿勢を戻して座り直した。
「虐待環境から救出された子どもは、ぼんやり過ごすことがある。一日中ぼーっとして、何もしないで、座ってるだけ。珪も、一時期、そうだったよ」
「……そうか?」
「うん。病院に来て最初の頃は文字通りの手負いの獣で、警戒心ひどかったけど、一ノ瀬しか病室に入らなくなってから、安全だって理解しただろ。その頃から、一時期、本当にぼんやりしてたんだよ。意識レベル心配になるくらい」
病室の中で、呼びかけにも問いかけにも応じず、人形のように座り続けていた姿を覚えている。楠木は一ノ瀬とふたり、あわや精神疾患かと教科書の類をひっくり返した。過酷な環境からの反動のようなものだと教えてくれたのは、病院に出入りしていた児童養護施設の関係者だった。
「ある種の放心状態なのかな。生きることに必死だった環境が終わって、何もしなくても大丈夫になると、何をしていいかわからなくなる。何もしなくても殴られない、ってお前ぼそっと言ってたらしいよ。一ノ瀬、大笑いして『好きなだけボーっとしてろ』って、本当に好きなだけ珪のこと放心させてて、さすがにご飯は食べさせろって俺言ったんだけど」
何もしなくても殴られない。
その言葉の重さに打ちのめされた自分は、まだまだ若かったと、今振り返って思う。
子どもの地獄を理解することは出来ない。想像も及ばない。わかった気になって接しては駄目だと、強く律した。
同時に、わからなくても出来ることはいくらでもあると、一ノ瀬から学んだ。
「今、糸が切れると、春日はきっとそうなるよ。就活の大事な時期に、何も手につかなくなったら、これから先のあの子の人生が変わる。就職さえ出来れば逃げ勝ちで、それまで春日がこのまま踏ん張るっていうなら、できるだけ手伝おうかなと思ってさ。あと半年、あの父親があまり派手に暴れないように、適当に俺から定期連絡入れて世間話して、監視の目が付いてるって父親に自覚させるくらいなら、出来るから」
「……わりと効果的だな」
「うん。ああいう人間は世間体を気にする」
早朝に押しかけてきた男は、きっちりとスーツを着ていた。
昨夜、電話口で春日が『ご近所の目を気にする』とも言っていたように、他者からの目に神経質な人間だろう。春日の傷は、ほとんどが服の下に隠れる位置についている。楠木が頻繁に春日と会っていることを示すだけでも、あの父親は暴力を控えざるをえない。
珪はそれ以上反論は寄越さず、代わりに呆れたような視線をくれた。
「お前が医局で順調に出世した理由がわかった」
「だろ。ついでに、一ノ瀬が日本じゃ出世しなかった理由もよくわかる」
「嫌っつーほどわかるな。あいつがいたら今頃春日の父親殴り飛ばしてる」
「それで問題が大きくなって、余計に春日に負担がかかるところまで、よーくわかる。いやぁ、よかった。珪が一ノ瀬よりはまともな神経持っててくれてよかった」
「……」
珪はそっと視線を逸らしていたが、楠木は気付かないふりをした。それこそ、今朝のあの場に珪がいたら、楠木の制止など聞きもせずに殴りかかったに違いない。
本当によく似た親子である。
「さて。夕飯作りますか。結衣ちゃんいるから、冷凍食品だけってわけにもなぁ。あ、珪、春日に夕飯持ってってあげて」
「いやだ」
「じゃあ結衣ちゃんに夕飯作ってあげて」
「……米だけでいいか」
「成長期の子に白米だけでいいわけないよな」
「……」
「というわけで、手分けしよう。珪に春日を頼みたい。無理ならいいよ」
いつもの言葉を添えれば、珪はあからさまに渋面になった。どうやら、無理ではないらしい。
珪が春日を拒絶している理由に、楠木は今も思い当たらない。動画を見られたことはかなり大きなストレスになっているだろうが、どうも、それだけではなさそうで。
珪が『無理』ではないのなら、楠木としては、春日の味方につきたいところである。
「今、まだ寝てるだろうから。こそっと入って置いてくるだけでもいいよ。とにかく一回、行っておいで」
ポンポンと背中を叩いて促せば、珪は嫌々といった様子で頷いた。
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