第25話 詐欺師

 春日が目を覚ました時、隣には結衣がいた。


 泣きはらした顔でまた泣き出した妹を宥め、なんとか状況を聞いたところによると、ここは楠木の診療所にある病室らしい。時計は午前四時を指していた。


 結衣に呼ばれた楠木が入ってきて、一通りの処置の説明をしてくれた。昨夜からぶっ通しで春日の処置に当たってくれたという楠木は、疲労の欠片も見せず、いつも通りに穏やかな笑みだった。医者という生き物のタフさを垣間見た気がした。


「まだ寝てていいよ。結衣ちゃんも、ベッドあるからね」


 春日のベッドの隣に、簡易ベッドが用意されていた。結衣が寝た形跡はない。


 帰る、と言おうとしたが、うまく声がでなかった。


 父親は荷物を持たずに出て行ったから、出社前に一度帰宅する。その時、子どもたちがいなければ、何をしでかすかわからない。


 俺だけ帰るから、結衣みてて。


 掠れた声でそう頼めば、楠木はにこりと笑って、春日の掛け布団をポンと叩いてきた。


「お父さんには、俺の携帯番号置いてきたから、帰宅したら俺に連絡があると思う。君たちに連絡があっても、返事しないで、電話も出ないでおいてくれるかな。ややこしいことになるから。お父さんのことは、俺がちゃんとやっておくから、大丈夫だよ。まず、君たちは寝ること。朝になったら起こしてあげるから」


 ポンポンと春日の布団を叩いてから、楠木は結衣を簡易ベッドに寝かしつけた。その布団も、ポンポンと叩いている。


「大丈夫だよ。心配ない。こういう面倒なことは、場数踏んでる大人に任せて、ゆっくり寝な」


 大丈夫だよ、という声が耳に染み渡った。


 そんなことを言ってくれる大人が、今までいただろうか。


 春日の家庭事情を知っている大人は叔母だけで、叔母は精一杯結衣を守ってくれている。親権について父親と争っていた時期もあるが、結局は法律に負けた。「ごめん」と泣いてくれた叔母は、春日と結衣のために出来ることなら何でもすると言ってくれたが、「大丈夫」だとは言わなかった。


 大丈夫ではないことを、十分に知っていたからだ。


 そして、大丈夫ではないことを十分に知っていながら、楠木は「大丈夫だよ」と笑う。


 その言葉には、不思議なほど説得力があった。


 この人は、態度も素行も口も悪い、あれだけ厄介な子どもすら、今日まで守ってきたのだから。


 ◇◇◇


 次に目を覚ました時、外は夕焼け空だった。


「あ、おにい。起きた」


 結衣が覗き込んでくる。昨夜は泣きはらしていた顔も、今はいつも通りに見えた。よく見れば着替えもしていて、ある程度落ち着いて身の回りのことが出来る状態になったようだ。


「おー……めっちゃ寝てた……」


「起きたら呼んでって言われてるから、楠木先生呼んでくる」


「結衣」


 駆けだそうとする結衣を呼び止める。


「おとんは?」


「それな」


 結衣は、振り返るなり、突然達観した表情を浮かべた。しずしずと隣に戻って来て、パイプ椅子にすとんと座っている。


「おにい。結論から言う」


「お、おう」


「おにいは二週間、ここに入院します」


「ここ? 診療所?」


「うちはその間、ここで暮らします」


「はい?」


「おにいは卒業後、この診療所に正式採用されて働きます」


「結衣。頼む。順番に説明して。結論だけ言われても意味わからん」


「楠木先生やばいわ」


 結衣はしみじみと言った。小学生にあるまじき哀愁が漂っている。


 悟りを開いたような表情で経緯を述べた結衣によると、早朝、楠木の携帯に春日の父親から連絡が入ったらしい。その三十分後には、父親は診療所の待合室に押しかけてきた。


 楠木は結衣を連れて父親に相対した。「うちがちゃんとここにおるよって、わかってもらうためやって」。結衣は楠木の後ろに隠れるようにして、待合室の広い空間で、父親と楠木とのやりとりを見ていた。


 怒鳴り散らす父親に、楠木は鷹揚に笑って、春日がこの診療所でバイトをしていることを伝えた。


「バイトの連絡でおにいに電話したらやばそうで、救急車嫌がったからとりあえず自分のとこで処置したって、楠木先生、おとんに説明してくれて」


『あのまま朝まで放置していれば手遅れになるところでした。春日君はお父様に連絡できる状態ではありませんでしたし、結衣ちゃんもいっぱいいっぱいでしたから、お父様への連絡が遅くなったこと、お詫びします』


「一応な、楠木先生、昨日うちに来た時におとんに電話入れてくれてたんやって。おとん出ぇへんかったけど。連絡したけど繋がらんかったから救命優先したって楠木先生言うてな。おとん、ほっといたら死んだでって言われたし、あんまそれ以上言われへんみたいで、『そういうことなら』とか『世話になった』とか、なんや偉そうに」


 開業医ということであからさまに見下した姿勢を見せていた父親は、楠木の差し出した名刺を見て、いきなり態度を軟化させたという。


「楠木の名刺、何が書いてあったん」


「知らんよ。見えなかったし」


 楠木は春日の怪我の原因には一切突っ込まず、するりと話題を変えた。


『うちは医療関係ということで、バイトはなかなか採らないんですけどね、春日君はずっとお願いしたいくらいですよ。本当によく働いてくれますし、患者様からも評判が良くて。お父様の教育の賜物だと、よくこちらでも話しているんです。卒業後、よければ私の診療所に正式に採用させていただけないかなと思ったり』


 息子所有物を褒められてまんざらでもなかった父親は、医療職という言葉を気に入ったらしい。楠木の一言に興味を示した。


『ええ、医療職です。医療事務と、できれば働きながら資格を取って医療補助なんかも。本当ですか? それはありがたい。でしたら、この話は改めて、春日君と進めさせていただきます』


 本人不在の場で、いきなり春日の就職先は内定したらしい。

 褒めておだてた挙句に、父親の満足する内定先まで提示した楠木は、「ところで」と続けた。


『妹さんがいらっしゃいますよね。聞けば、妹さんは医学部を目指しているとか。お父様は聞いてらっしゃらない?』


 なお、結衣は医学部など目指していない。

 いけしゃあしゃあと嘘八百を並べながら、楠木は穏やかに笑う。


『どうでしょうか、春日君がうちに入院している間、妹さんを私の方で預かるというのは。いえ、まだ小学生ながら、医者を目指して毎日塾で勉強していると聞いているので、応援してあげたくて。この機会に医者の仕事を近くで見てもらえば、医学部へのモチベーションにもなるでしょう。春日君が入院している間、お父様も、ご家庭とお仕事とでお忙しいでしょうし。お子さんをお預かりするくらいはできますし、そういった小回りが利くところが、診療所の利点ですので』


 終始にこやかに対応した楠木は、笑顔で父親を見送った。


 結衣の世話などするわけもない父親は、二週間家政婦がいなくなる不便と、娘が医者になるという将来を天秤にかけ、医者を取ったらしい。「では、よろしく」と、来た時とは正反対の機嫌で帰って行ったという。


 春日のいない家で、結衣を父親とふたりきりにするなど、言語道断だ。それを見越した楠木の、ありがたすぎる采配だった。


「うちな、楠木先生にこにこしてて大好きやねんけどな」


 結衣はふぅと息を吐いた。


「詐欺師ってこうやって人をだまくらかすんやなって、すっごく勉強になった」


「そうか……」


「参考にしようと思う」


「するな」


 後になってやってきた楠木は、話を聞いて声を出して笑った。


「詐欺師か。結衣ちゃんの参考になれたなら良かった」


「良くない。けどほんま、助かった。ありがとう。んで、お世話になります」


 時刻は十八時を少しまわったところだ。本来なら診療時間中だというのに、楠木は外来を早めに閉めて、こちらに来てくれたに違いない。迷惑をかけることに恐縮しつつ、ベッドの上で軽く頭を下げれば、楠木はまだ笑いながら「うん」と頷いた。


「とりあえず二週間入院、最初の一週間は安静な。今回春日、内臓やってるから」


「内臓」


「胃。外傷性胃粘膜損傷っていう、だいぶ珍しい症例だったよ。外力で胃壁に裂傷が生じて、それでげぼげぼ血ぃ吐いてたわけ。殴られるってより、なにか細いもので狙って突かないと、なかなか生じないと思うんだけど」


「あー……なんか持ってた気ぃする……あんま見る余裕なかったけど」


 最初は素手で殴っていた父親は、途中から手近なものを手当たり次第に武器にした。完全に正気を手放したような形相で暴れていて、ビール瓶を振りかぶられた時には、さすがに肝が冷えた。


「一応オペして出血は止めたけど、念のため、経過観察でしばらくは頻繁にエコーする。あともう、打撲。全身打撲と、裂傷。ガラス……瓶かな? 殴られただろ。よく頭守ったよ、偉かった」


 言われて改めて自分の身体を見下ろしてみれば、包帯とガーゼで、だいぶ大事になっていた。


 腕に繋がった点滴は数日このままだという。


「あと、俺、ここに就職する話になったって聞いたんやけど」


「ああ、それ。嘘」


 楠木はさらりと言った。


「でも、そう言っておけば春日は動きやすいかなって。就職先のことでお父さんに聞かれた時、ここってことにしとけば、楽だろ。実際は就活しながら、表面上はここに内定って体にしときな。俺も、何か聞かれたらそれっぽく答えておくから」


「めっちゃありがとう……」


 思わず両手を合わせて拝んでしまった。


 結衣は三階にいるという。日中は父親のいない隙に家に戻って、お泊りセットを取ってきたらしい。春日の衣類や洗面道具もしっかり準備されていて、頼もしい妹である。


 珪も三階にいるのかと聞けば、「いるけど、顔は出してないだろうなぁ」と苦笑された。


「けど、珪、ほっとしてたよ」


 楠木は立ち上がると、点滴の速度を調整した。思い出したように体温計を渡される。


「昨日はさすがに人手が足りなくて、秋田さんが駆けつけてくれるまで、珪に手伝ってもらったんだけど。覚えてる? 覚えてないよな、意識なかったし。珍しく『大丈夫だよな』って俺に確認してくるの。青い顔して」


 血圧を測定し、楠木はバインダーに数字をかき込んだ。


「珪も、親に殺されかけた子だから、君の状況とか父親とかに、思うところは山ほどあるんだと思うよ。中途半端な介入は逆効果だって知ってるから、何も言わないけど。今回のこと、警察沙汰にする気はある?」


「いや……できれば穏便に」


 あと、たった半年だ。


 あと半年踏ん張ることで、地獄は終わる。結衣の父親に余計な前科がつくこともなく、結衣の戸籍にいらぬ痕がつくこともなく、何にも影響を与えずに、ふたりで遠くへ逃げ去れる。


「俺のバイト先が病院やってわかって、楠木とも話したなら、あいつも、そうそう目立つ怪我させてこぉへんと思うし。俺の就職先内定して、結衣が医者になるって聞いて、ご機嫌やろうし。できれば、このまま、波風立てずに、済ませたい」


「だろうなぁ」


 楠木は否定も肯定もしなかった。


 体温計と血圧計を抱えると、「あとで夕飯持ってくるよ」と言って、出て行った。

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