第五章:秋、祈りの手

第24話 電話

 春日の連絡先をラインから消去してからは、淡々とした日々だった。


 会いたくない、と送って以降、春日は来ない。バイトには入っているようだが、さすがにはっきりと拒絶を見せれば、三階に押しかけてくることはなくなった。珪はようやく一息ついて、穏やかで単調な日々を享受した。


 外に出る気には到底なれず、朝起きてから、夜寝るまで、本を読んで時間を潰した。図書館から借りていた本は春日が返してくれたようなので、手に取ったのはもっぱら診療所にある医学書である。


「お、また読んでる。面白い?」


 診療を終えた楠木が上がってきた。


 珪はソファに寝転がったまま、適当に「おー」と返す。


「基礎が何も入ってねえから、飛ばし読みだけど」


「今日は何読んでた?」


「耳鼻咽喉科学」


 荷物を置いてスマホを充電器に繋げている楠木に、珪は持っていた分厚い本を開いてみせた。


「なあ。内耳の有毛細胞が電気刺激を生じる仕組みとして、カルシウムイオンの交換が」


「待て待て待て。俺は耳鼻咽喉科は専門じゃない。教えてやるけど、予習させて。一回その本見せて」


「それでも医者かよ」


「医者ってのは、自分の専門以外については素人なの。外科医の俺より、その辺のお母さんの方が子どもの病気に詳しいんだぞ」


「いばるな」


 楠木は珪の手から本を取り上げると、テレビ台に置いてある裏紙の山から数枚の紙を持ってきた。珪の質問に答えるために、裏紙は常備されている。奏真と暮らしていたころからの習慣である。


「構造は理解した?」


「した」


「うん。内有毛細胞があって、外有毛細胞、上に蓋膜、リンパ液の振動が蓋膜を揺らして──」


 そのまま解説になだれ込んでしまったため、夕飯の席に着いたのは二十一時近かった。


 久しぶりに出てきた冷凍から揚げに、千切っただけのレタスがついている。味噌汁はインスタントだ。


「理解が早いんだよなぁ。珪を見てると、知能が高いってことの意味がわかる。医学部にも何人かいたよ、お前みたいな奴。教科書読んだだけで全部覚えるし、一回説明聞いただけで十倍くらい理解するの」


「奏真は?」


「あいつは間違いなくそっち系だったけど、それを補って余りあるほど馬鹿だった」


「相変わらず、誉め言葉がひとつも出てこねえな」


「いや、褒めたいと思ってるんだよ。いい話を聞かせてやりたい。待ってな、あと十年くらいしたら、ひとつくらい、あいつのいい話を思い出せるかもしれない」


 軽口を叩いて笑いながら、夕飯は穏やかに進む。


 この建物の中は安全だ。三階には楠木以外入ってこないし、楠木は珪を害さない。外の世界がどれほど残酷でも、ここにいれば珪は息が出来るから、この小さな箱の中で静かに過ごす。


 ひとりで外に出てどうやって呼吸をしていたのか、うまく思い出せない。


「珪と、こうやって一ノ瀬の話が出来るようになるとは、思わなかった。俺はどうしても遠慮しちゃってたし、お前は切り出しにくかっただろうし。ほんと、春日には感謝してもし足りないな」


「……」


 わかっていて話題を放り込んでくるこの医者は、本当に、いい性格をしている。


「今日もバイト来てくれてさ、山内さんからお小遣いもらってたよ」


「はあ?」


「これで珪ちゃんに美味いもん食わせてやれ! って。お前心配されてんだよ、最近全然顔出さないから。春日、すっかり彼氏だってみんなに信じ込まれて、最近じゃ訂正する気力もなくなったみたい」


「ネームプレートの横にでっかく『彼女募集中』とでも書いとけ」


「珪ちゃん振ったんか! って山内さんが殴りかかるからやめておこう」


 その場面がありありと想像できて、珪は渋々引いた。八十九歳の老人にそんな運動をさせたら、ぽっくり死にかねない。


 楠木は穏やかに笑ったまま、静かに切り出した。


「もう十月になるよ」


 引きこもっている間に夏は終わり、あと三日で十月になる。


「春日がここにいてくれるのも、あと半年だよ。春がきたら、あの子は遠くに行くから」


「わかってる」


 卒業したその日に、あの家から逃げる。


 そのために、必死に耐え続けている奴だ。準備は万全に、周到に整えて、結衣を連れて抜かりなくこの街から消えるだろう。


 一日でも早くその日がきてほしいと、珪は心の底から願っている。


「前にも言った。俺はあいつに二度と会いたくないし、関わりたくない。さっさと卒業して、一生連絡もつかねえようなとこに行ってくれたらいい」


「珪」


 楠木は、寂し気に眉尻を下げた。


「お前のこと、知られたから、気まずい? 動画見られたからしんどい?」


「どうでもいいだろ。とにかく俺は、会いたくない」


「お前が本当に会いたくないなら、俺は口出ししないけど」


 黒曜の瞳が、見透かすように、見下ろしてきた。


「つまらなそうだよ、毎日」


 返事をせずに、珪は唐揚げに箸を伸ばした。黙々と口に運び、手早く食べ終える。


 ごちそうさま、と言って食器を下げれば、楠木はそれ以上追撃してこなかった。


 ◇◇◇


 楠木が食器を洗っている音がする。


 ふたりで暮らすにあたって、当初、家事の分担という意見が出た。結論として、家事はすべて楠木が行うこととなった。珪に家事の才能が壊滅的になかったためである。


 料理と言えば米を炊く程度、食器を洗えば割り、食器の収納箇所はまるで覚えず、洗濯を回そうとすれば頻繁に洗剤を入れ忘れた。掃除をしようにも、面倒くさくなって途中からすべて捨ててしまうので、一時期、珪の自室にはほとんど物がなかった。


 興味がないことに関して、珪は徹底的に注意散漫である。この家で過ごすようになって一週間もしたころには、楠木から家事禁止令が出た。たまに手伝ってくれればいい、というお言葉と共に、珪は家事から解放された。


 ソファに転がって、適当にスマホをいじる。ニュースサイトをぶらついて、無意味に時間を潰した。先ほどのやりとりのあとで、さっさと自室にこもってしまうと、楠木はまた気を揉む。


 つまらなそうだよ、と言われれば、そりゃそうだろと思う。外にも出ずに家にこもって、何を愉快なことがあるものか。頻繁に届いていたどうでもいいラインメッセージは、十日前にブロックして以降、沈黙を貫いている。会話をする相手は楠木しかおらず、日中はただ本を読む。


 この上なく味気ない、退屈極まりない日々だ。


 それでも構わなかった。


 いつか春日が遠くへ行って、珪のことなど忘れて暮らすなら、ずっとここから出られなくても構わなかった。


 ブブ、とスマホが振動した。着信の表示が出る。


[結衣]


 久しぶりに見た名前を眺めて、珪はただ、切れるのを待った。そういえば、結衣をラインから外していなかった。こちらも、さっさとブロックしようと思う。


 着信は一分以上続いた。時刻はすでに二十二時半だ。小学生が起きているには遅い時間である。


 ちゃんと教育しとけよ、と内心でぼやきながら、ひたすら着信表示を眺めていれば、それはやがて諦めたように止まった。


 ラインの連絡先を表示する。結衣を選択して、受信拒否の設定をしかけ、


〈たすけて〉


 ピロン、と結衣からメッセージがきた。


〈でんわでて。たすけて〉


「……」


 あと一歩で拒否設定を押そうとしていた指を、急いで引き戻した。


〈おねがい〉


〈でて〉


〈たすけて〉


 漢字変換の間も惜しいとばかりに、矢継ぎ早にメッセージがきた。


 珪はさすがに起き上がった。結衣を表示して、通話ボタンを押す。それは一秒も待たずにつながった。


『珪……っ!』


 第一声から泣き声だった。


「おう、どうした」


『おっ、おにい、しんじゃう』


「あ?」


『どう、どうしたらいい? どう、うち、なんも、』


「待て、どうした。落ち着け。お前、今どこにいる?」


『マンション、おにいの部屋、ずっとおにいが、血ぃ吐いてて、』


「……は?」


 咄嗟に振り返れば、こちらの様子に気付いたのか、楠木が近寄ってくる。


「どうした? 誰?」


「……結衣。春日が、血ぃ吐いてるって」


「え?」


 珪のスマホを取り上げた楠木は、手早くスピーカーに切り替えた。


「結衣ちゃん、楠木だよ。今は、家にいる?」


『うん、いる。先生、おにいが』


「大丈夫。俺が質問するから、ゆっくり答えてね。お父さんは、いる?」


 楠木はまずそれを確認した。

 そうか、とぼんやり思う。まずは周囲の安全の確認。傷病者救護の鉄則だ。


『いっ、いない、出てった、さっき』


「帰ってくる?」


『たぶん、こない、いっつも怒って出てくと、朝まで帰ってこぉへん』


「うん、わかった。大丈夫だよ。電話してくれて偉かったね、もう大丈夫だからね」


 楠木は結衣を宥めながら、手早く状況を聞き出した。


 父親の機嫌が極めて悪かったこと。春日と口論になったこと。信じられないほど殴ったこと。怒り狂いながら父親が出て行ったこと。自室へ行った春日から返事がなかったこと。部屋に入ってみたら、春日が何度も血を吐いていたこと。


 楠木の指示でテレビ電話に切り替えれば、画面に映る春日はひどい顔色で横になっていた。血まみれの口元から喘鳴が聞こえる。


「救急車を呼んで」


 楠木は迷わず言った。


「大学病院の外科の楠木って言えば救急隊の人に通じるから、大学病院に搬送してもらって。俺も今から行くから」


『でっ、でも、』


 結衣は慄いたように躊躇した。


『そんなことしたら、おとん、怒る』


 馬鹿か、と怒鳴りそうになって、珪は必死に自制した。

 虐待環境におかれている子どもが、親の顔色を窺い、親の機嫌を取るためなら何でもすることは、知っている。本で読んだ知識の中でも、実体験としても、知っている。


 けれど、春日はどう見ても、放置していい状態ではない。


「大丈夫だよ」


 楠木は落ち着いて答えた。


「お父さんには、あとで俺がうまいこと言っておくから。このまま放っておいて死んだりしたら、それこそお父さんには都合が悪いからね。君たちが怒られないように、俺が説明しておく。だから……」


『あかん』


 春日の声が差し込まれた。

 掠れたそれは、はっきりと苦悶の色を乗せている。


『救急車、きたら、ご近所の、目ぇとか、また、気にして、めんどいから』


「春日、」


『けど、さすがにちょっと、やばいから、今から、そっち行って、ええ?』


「……わかった。けど動くなよ、車で迎えに行く。うちに来て対応できなかったら搬送する。いいね?」


 通話が切れると同時に、楠木は車のキーを持って玄関へ向かった。


「珪、秋田さんに電話して、来られそうなら来てって伝えといて。一階の処置室あけて、機械全部電源入れて、モニター一式用意よろしく」


 矢継ぎ早に背中で指示を出して、楠木は飛びだして行った。

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