幕間③

第23話 珪

 真綿で首を締められているようだ、と思う。


 生きることは、珪にとって大仕事だ。この世界は常に息苦しくて、息をするだけでも大変な重労働である。十年前に止まるはずだった心臓を、どこぞの馬鹿な外科医が繋ぎ止めてくれたおかげで、今日も何故か生きている。


 外を歩くことは、猛獣の檻に踏み出す心地に近い。間違いなくどこかに敵がいて、虎視眈々とこちらを狙っている。加害者はどこにいるかわからず、こちらは相手の顔を知らないのに、相手はこちらの顔を知っている。あまりにも分が悪い、クズゲーム。


 だからこそ、身を守る術は必須だった。殴られそうになったら殴れ、と教えた育ての親は、楠木から「加減ってものを教えるべきなんだよ」と説教されていたが、珪は全面的に奏真の考えに賛成である。


 昔のことはあまり覚えていない。息苦しかったことだけ、覚えている。断片的な記憶は反吐が出るような汚臭を放って、思い出すたびに息ができなくなる。残虐な場面は思い出せるのに、痛みの記憶はとんとなかった。痛かったという事実は覚えているが、どう痛かったのか思い出せない。思い出さない方がいい気がしているから、考えないことにしている。


 痛覚の麻痺という症状に、珪の素行が相まって、楠木は手を焼いているだろうと思う。奏真は珪がトラブルを起こして帰ろうものなら、「うちのガキに手ぇ出したボケはどこのどいつだオラァ!」と相手方に乗り込んで行ったので、余計にトラブルになった。珪の性格の大部分は、奏真の悪いところを継いでいると思う。


 敵だらけの息苦しい世界の中で、奏真の隣は、安全だった。息苦しくない場所があるのだと、珪はそこで初めて知った。


 楠木が用意してくれた診療所の中も、やはり息がしやすかった。誰にも脅かされない白い建物は、珪を守るために作られた、確実な安全基地だった。


 アメリカと違い、あの動画の関係者が格段に多いだろう日本の中で、フードは必須だった。外を歩けば、何かのはずみに珪の顔を認識した人間の多くが、声をかけてきた。声をかけられるたびに、とうとう見つかったかと身構えた。


 一度身構えれば、目の前の人間は、敵にしか見えなくなる。トラブルも、喧嘩も、アメリカにいたころの比ではなかった。


 あの日も、そうだった。


 面倒な場面に首を突っ込んできた焦げ茶の馬鹿は、フードを取り払った珪を見て、息を飲んだ。ありきたりな、とっくに見飽きた、反応だった。


 こいつも目の色を変えるようなら殴り潰しておこう、と考えていた珪の前で、その馬鹿はあろうことか、言った。


『猛烈に美人なとこ悪いけど、その顔張り倒してええかな』


 目の色も、態度も、声音も変えず、その男は会話を続けた。


 珪の外見に一切頓着せず接してくる人間は、数えるほどしかいない。奏真と、楠木。それから看護師の秋田くらいだ。


 けれど春日は、数少ないその中のひとりに、当然のように並んだ。何度会っても、何度話しても、ただの一度も、珪の首を真綿で締めなかった。息苦しいものを、一切寄越さなかった。


 クレーンゲームも、水風船も、生まれて初めてやった。自転車の二人乗りにはそれなりのコツがいるのだと知った。人当たりが良く会話が得意な春日のおかげで、珪が喧嘩をする回数は激減した。ステイ、と言われることは腹立たしいが、とりあえず黙ってじっとしておけば、珪の不快なものは春日が適当に散らしてくれた。


 殴らなくても、殴られなかった。身を守る努力が、必要なかった。


 極めて平和で、穏やかで、信じられないほど呼吸が楽な日々だった。


 ──だから、珪は返事を送ったのだ。


〈俺は会いたくない〉


 それは、嘘偽りのない、珪の本心である。

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