第22話 俺には、珪だった
楠木医院は、九月に入っても臨時休診が続いていた。
春日はカーテンの引かれた患者用出入り口を横目に、裏にある自宅用出入り口から、楠木家にお邪魔した。
出迎えてくれた楠木は、三階のリビングでドリップ珈琲を淹れてくれた。
「……あ、ドリップ」
「ん?」
出されたマグカップを持って、出会った頃を思い出す。
「最初にここ来た時、珪がドリップ珈琲淹れろとか言うて。そのくせ、どこにあるかわからんって話して、結局インスタントの粉ぶちこんでたなって」
「ああ。あいつ料理ほんとしないからさぁ。教えたいんだけど、全然。興味ないこと、ほんとにびっくりするほど興味ない奴だから」
ダイニングテーブルの向かいに座った楠木の様子は、いつも通りに見えた。
「診療所、いつごろ再開しますか」
「どうかな。まだしばらくかかるかもしれない。珪が落ち着くまで」
命に別条はないという話だけは、先に聞いていた。
それでもまだ、看病に手がかかる状態なのかと聞けば、楠木はそうではないと言う。
「人の出入りがあると落ち着かない。誰も来ないって状況にしてやったほうがいい」
「……俺、来て大丈夫でしたか」
あの日から三週間以上が経っている。
あまりにも音信不通が続いたため、春日は次の一手に出た。すなわち、楠木に突撃である。
珪の状態だけでも聞ければと思って来たが、それが珪の負担になってしまったら本末転倒だ。
「大丈夫。君は無害だって、珪もちゃんとわかってる。ただまぁ、まだ会えるメンタルじゃなくて、二階に立てこもってるけど」
楠木は『無害』という言葉を使った。
珪にとって致命的に『有害』なものが、この世界には、きっとたくさんある。
「もうすぐ一か月だから、怪我はほとんど治ってる。治る前から動いちゃうから、治りは遅いんだけどさ。けどやっぱり、一回心のバランス崩れると、持ち直すまでに時間はかかるから」
「どのくらいかかる?」
「こればっかりはわからないよ。徐々に回復するか、泥沼にはまるか」
「……それまでずっと臨時休診して、収入とか経営は大丈夫なん?」
「経営はどうでもいい」
にこやかに笑いながら、楠木は断言した。
楠木はやべえぞ、と言っていた珪の言葉が頭をよぎった。
「ここはさ、珪の安全基地なんだよ。一応医療機関だからセキュリティしっかりしてるし、ある程度の処置が出来る機器も揃ってる。珪の嫌なものが入ってこない、自分の傷を癒せる、安全な場所。あの子にはそれが必要だったから」
「安全基地……」
「そう。この場所の存在意義は、珪の安全基地であること。あの子が安心できる環境を維持する。診療所はそのための、ただのハコだよ。一応、蓄えはあるから、食べるのには困らない。俺の悪友がアメリカで随分稼いできたからね」
楠木はゆっくりと珈琲を飲むと、「珪からどこまで聞いた?」と尋ねてきた。
「前に育ての親がおって……その人が死んで、楠木さんに引き取られたって。あと、アメリカでメジャーリーガーから投球フォーム教わったって話とか」
「それか。なんと本当なんだよ。羨ましいよな」
あの時、珪から聞いた話をよくよく考えてみれば、ぼんやりと正解にたどり着く。
楠木に引き取られてから四年、育ての親と過ごしたのは七年程度。今の珪は十七歳だから、つまりは、六歳か七歳のころまでは、生みの親といたはずだ。
その生みの親の話を、珪はしない。
あの動画の中の子どもは、どう見ても就学前だった。
「性的虐待の被害児童のための、社会事業の一環だったらしい。普段はそういうの行かないけど、珪の育ての親が野球のにわかファンでね。どうしてもってゴネて、珪は仕方なくついてってやったんだって。本当、どっちが保護者なんだか」
世間話のような口調で、いきなり核心を放り込まれた。
楠木は穏やかな笑みで、春日を見据えてくる。
「気付いてるだろ。なんで気付いたか聞いてもいい?」
「……動画見ました」
「動画?」
「あのおっさんのスマホ。落ちてて。動画再生されてて、たぶん、珪に見せたんやと思う」
「はい?」
楠木の笑みにひびが入った。
笑ったまま頬を引きつらせるという器用な真似をして、「なんて?」と聞き返される。
「いや、だから、動画。落ちてたスマホの中で再生続いてたから、たぶんそれ見せて脅すか何かしたんやろなって」
「なんでこの国は私刑が認められてないんだろうな」
楠木の声に殺意が乗った。常に穏やかなこの医者が、こうも怒気を見せると、ギャップで余計に怖い。
「被害者に動画を見せることはセカンドレイプだ。ものすごく悪質な行為だよ。珪は一切喋ってないから、事情聴取も進まなくてさ。今、君が教えてくれて良かった」
「珪、喋ってないんですか」
「喋れないよ。思い出すだけで死にたくなるものを、なんでわざわざ思い出して言葉に出来ると思う?」
苛立ちを吐き棄てるようにまくしたて、楠木は思い直したように息を吐いた。
お互いに珈琲を飲む間、時計の秒針の針の音がやけによく聞こえた。
「……今回、男の方の主張は、珪に声をかけられて駐輪場に連れていかれて暴行を受けた、って」
「は?」
「腹立つよな。珪が自分から手を出すなんて、絶対にない。けど、何があってあんなことしたのか、珪は一言も喋ってくれなかったから。やっと、珪が我慢できなかった理由がわかった。あとで警察に言っておく。これでもう、言い逃れも出来ないだろ」
「あ、でも、俺、あのスマホぶち壊してもうた……」
肝心の証拠品を、衝動的に粉々にしてしまった。
楠木は苦笑した。
「大丈夫。データは復元できる。通信記録も辿れるし。……でも、そうかぁ。見ちゃったか、珪」
「……たぶん」
「フラッシュバックがひどくて引きこもってる。薬使ってるけど、なんでこんなひどいのかなって思ってたんだよな。見ちゃったら、そりゃそうだよなぁ」
哀し気に笑った楠木は、意味もなくカップを傾けた。中の珈琲をゆらゆらと揺らし、それを見下ろしたまま「春日くん」と切り出してくる。
「君はどうしたい?」
「どう、って」
「厄介なもの抱えた、厄介な子だよ。この先も一生、珪は顔を隠して歩いて、社会には出られないかもしれない。普通の人が送る、普通の生活は、最後まで出来ないかもしれない。きっとこれからも珪はこうやって問題を起こすし、巻き込まれれば君も怪我をする」
珪に殴られた春日の頬は、すでに完治している。けれどこの先、何度でもこういうことが起こると、楠木は予言した。その時、珪の隣にいれば、春日はまた怪我をする。
「珪と友達になってくれてありがとう。けど、君を巻き込むのは、俺も珪も本意じゃないから。潮時だろうし、手を離すなら、今だよ」
「離しませんけど」
思いもよらない助言が始まって、春日は反射で言い返した。
珪が厄介な奴だということは、出会ったその日から知っている。厄介で過激で暴力的で、そのくせ律儀でわかりにくく優しい、見目だけは麗しい金髪天使。
「珪が厄介なことは知ってます。なんでこいつこんな暴力的なんやって、ほんまずっと意味わからんかったけど、今、ちょっとわかる」
ずっと腑に落ちなかった、珪の中にある二面性。その理屈を春日がはっきりと理解したのは、今回の事件を受けてからだった。
「あいつは、凶暴でも、乱暴でも、ない。ただ、自分を守ろうとしてただけや」
ふたりで外を歩くたびに、珪に向けられる視線の多さには気付いていた。いくらフードを被っても、ふとしたはずみに素顔は覗き見える。春日が隣にいても声をかけてくる馬鹿もいるのだ。ましてひとりで歩いている時、珪に近寄る有象無象はどれほどいるだろうかと思う。
そしてその中に、かつての加害者や、動画の視聴者が、いるかもしれない。その恐怖を想像したとき、珪の徹底した攻撃性は、間違いなく必要な自衛手段であった。
殴られる前に殴らなければ、害される。それは珪が骨の髄にまで叩き込まれた経験則だ。
「今回のことで、やっといろいろ、腑に落ちた。やっと、珪のこと、ちょっとわかった気ぃした。だからあいつ、俺の苛立ちとか痛みとか、よおわかってたんやろなって。だから、何回も、俺が欲しい言葉くれたんやなって」
「俺はそんなクソみてえな大人にはならない」「下衆だな」「殺していけばいいじゃねえか」春日の中にある黒い感情を、珪は何度でも軽やかに言葉にしてくれた。そのたびに、腹の底に溜まり澱んでいた何かが、昇華された気がした。
そうして、ある日、珪は言ったのだ。「やりがいはあんじゃねえの」──その一言が、どれほど春日の心を救ったか。
「もうな、こっちは離す気ないねん。あいつラインの返事一回もよこさんし、既読も付けへんし、こうなったら一回乗り込んでやろと思って今日来てんねや。離す気なら最初から来てない。やっと俺のとこに降ってきたのに」
美しい託宣を覚えている。
『救いの手は、わりと、唐突に、降ってきたりするぞ』
あの言葉は、珪の実体験だ。自らが救われた経験を持って、珪は春日に告げた。
いつか、降ってくるかもしれないぞと。
「救いの手は、突然降ってくるもんやって、珪に言われた。珪にとっての救いの手って、育ての親と、楠木さんやろ。今あいつが笑えるのは、そのふたりのおかげやろ。俺には珪だった」
出会いは最悪で、お互いに地雷を踏んだ。さっさとどこかに行けと春日が吐き棄てて、二度と関わってくるなと珪は言い捨てた。
そんな、絶対に相容れなかったはずの金髪天使は、今では当然のように春日の隣に居る。
「珪がいたから、俺は、笑えた。あれは、俺の救いの手や。今更離す気ぃないから」
衝動的にまくしたてた言葉を、楠木は穏やかな笑みで聞いていた。
「──惜しいな。録音しておけばよかった」
「絶対やめて、繊細な思春期の高校生のメンタル死ぬ」
いきなり呑気な台詞が返ってきて、がくりと力が抜けた。敬語をつける気力もなく、もういいやと投げやりな心地でテーブルに突っ伏す。
冷静に己の発言を振り返って、顔から火が出そうになった。
「だから、つまり、俺、できればこれからも珪とフツーに遊びたいっていう、そういう話で」
もごもごと言い訳じみたことを口の中で転がせば、楠木は真面目な声で「うん」と言った。
「俺は珪の主治医だから、あの動画を見た人間が、珪の隣にいるのは望ましくないなと思う。君に見られたっていう事実を思い返すたびに、珪は痛いから」
「……見てへん。一瞬視界には入ったけど、記憶完全にデリートしたからもう一ミリも覚えてへん」
「それが出来たらいいんだけどなぁ。人間の記憶ってのは厄介だよ。忘れたいものほど、忘れられない」
苦笑しながら言われる。
でも、と言い訳を続けようとすれば、楠木は「けど、」と笑った。
「俺は珪の養育者だから、君がこれからも珪の友達でいてくれるのは、本当にありがたいと思ってるよ」
春日は頭を上げた。
「……え、どういうこと? 珪とおってもええってこと?」
「がんばれってこと」
爽やかな、エールだった。
「あいつ、逃げる気だぞ。徹底的に。二度と君に会いたくないって言ってたし」
「いきなり頑なな台詞きたやん」
「今日、君が来ること言ったら、自宅に逃亡しようとしたし。ひとりのときにフラッシュバック起こすとまずいから、帰宅禁止なんだよ。今、二階のオペ室に閉じこもってる」
「オペ室まであんの」
「簡単な手術なら出来るよ。珪の怪我、ほんとたまに洒落にならないから」
楠木は春日を見下ろして、おもむろに「さて、春日」と口を開いた。
他人行儀の一線がさりげなく取り払われ、身近な者への気安さがあった。
「どうする?」
面白がるような声だった。
試されているのか、託されているのか、絶妙に判断しにくい表情だった。
春日は少し考え、ひとまずリュックを手に取った。
「とりあえず、今日は帰る。いきなり来たし、それで顔見せろ言うのも強引やし」
珪の負担になるようなことはしたくない。
今日、この建物に春日が踏み入れたことすら、珪にとってはいっぱいいっぱいの状況であるはずだった。
「また来るって言うといて。閉じこもっててもええけど、次は何か話しよーやって」
できれば早く会いたいんやけど、という本音はしっかりと飲み込んでおいた。
◇◇◇
その翌週、診療所が再開した。
「珪、落ち着いたん?」
バイトの合間に楠木に聞けば、のほほんとした笑みが返ってきた。
「だいぶね。春日が来るって言うから、そっちが気になって、気が逸れてるかんじかな。わかりやすく無視してんだから引き下がれよ、って悪態ついてた。調子戻ってきたみたいで、いい兆候だよ」
「ええことなんやろうけど、微妙に喜びきれへんな……」
事件の発端となった男については、動画のデータが確認されたことが決め手となり、観念して自供を始めたという。しかし、傷害罪での起訴には至らなかった。怪我の程度で言えば珪よりも男が重傷であり、珪の方に罪状がつくことを避けるため、楠木は示談を選択した。
「どう見ても珪の暴行の方が度を越えてたから、こっちが起訴される前に示談で痛み分けにしないと面倒でさ。ポルノ動画の所持についてはしっかり裁いてもらう。ま、そっちはもう関係ないから、今回の件はひとまず終わりかな」
まったく納得のいかない終わり方だが、楠木は「いいんだよ」と穏やかに諭した。
「やっと事情聴取がなくなって、珪が落ち着けるから、これで良かった」
楠木がそう言うのなら、春日は頷くしかない。
バイトを終えて、楠木と秋田が片付けをしている間、春日は三階にお邪魔した。
「けーいー。来たでー。どこに隠れてんのか知らんけど、おることはわかってる。俺の目は誤魔化されへん」
適当なことを言いながら、玄関から先には進まずに、声を張った。
「今日からまたバイト入ることになったから。終わったらお前に声かけにくるわ。嫌なら顔見せてくれんでもええけど、明日は居場所だけ教えといてな。虚空に向けて話すの、なんや虚しくなる」
珪の気が逸れるというのなら、毎日意地でも気を逸らしに来てやろうと思う。
翌日、またバイト終わりに三階に行けば、玄関に紙切れが落ちていた。
『二度と来るな』
「お前さぁ、これご丁寧に紙に書いて置いとくくらいなら、ライン寄越せって。その方が早いやろ」
その日の夜も、ラインに既読はつかなかった。
翌日、楠木の許可を得て、リビングにお邪魔した。珪の姿はなかった。
「へーい、おまちー。俺やでー。今日も虚空に向かって元気に喋ったろー。一応言うとくけど、お前、もし俺が来てしんどいとかやったら楠木に言えよ。お前の負担になるならやめる」
次の日は洗面所を覗いた。風呂場まで確認したが、人の気配はなかった。珪の靴はあったので、楠木の部屋か、珪の自室か、どちらかだろう。春日はダイニングチェアに座り、ポケットから出したお菓子を置いた。
「今日も俺やでー。山内のじいさん来てたよ。珪ちゃんどこやって騒いでたわ。お前、ほんま人気者やな。あ、でも最近、俺もちょっと人気あんねん。珪ちゃんをよろしくってマダムたちがお菓子くれたり……これ、俺が人気あるわけちゃうな」
翌日は台風のため天気が悪く、玄関で話しかけるだけで退散した。
「めっちゃ雨降ってる! 外やばい! 見た!? 天気やばいから一時間前倒しで診療終了するって。俺も早めに帰らせてもらうことになったから、今日はゆっくり喋ってられへん。残念やわー」
次の日に顔を出したリビングは灼熱地獄となっていたので、エアコンをつけた。珪の自室の前だけがひんやりとしていて、涼しい自室に籠城していることは明らかだった。
「台風一過すぎひん? 暑すぎひん? 飯坂のばあさん、熱中症気味で来てはったで。やっぱり見回りって大事やな。今度行ってくる」
春日は廊下に座って一方的な世間話を繰り広げた後、帰り際に軽くドアを叩いた。
「俺の虚しい独り言大会も今日で一週間を迎えるわけやけど、お前平気か? 嫌やったらほんま楠木に言えや。お前からのリアクションないから、俺の好きなようにやってるけど、本気で嫌とか迷惑とかしんどいとかあったら言うてな。特にクレームが出てこぉへんようなら、お前も俺が来るのを楽しみにしてるもんだと解釈する」
さすがに最後の一言は不服だったらしい。
その夜、珪からラインがきた。
〈しつこい。二度と来るなっつった〉
〈やっと返事きたー! 俺が行くことでお前がしんどいならやめる。照れ隠しとかツンデレとか誤魔化しとかやなくて、本当に心底迷惑ならやめる〉
〈今後二度とお前と関わる気はないから、ラインも消しとく。じゃあな〉
〈俺は会いたい〉
畳みかけるように文字を打った。
〈お前が大丈夫になるまで待つから、また会いたい〉
〈俺は会いたくない〉
〈そうかー〉
ぐっさりと心を抉られたが、何でもないように返事を送る。
〈会いたくないとこ無理して顔見せろとか言う気はないから、また会えるようになるまで待ってていい?〉
返事はないが、既読はついた。
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