第21話 傷

 改めて出た屋外は、ひんやりとした風が吹き抜けていた。先ほどまでの快晴はどこへやら、頭上に一気に黒い雲が広がってきている。ここ数年で日本にもすっかり定着した、スコールが近い。


「俺、駐輪場の方行ってみるわ。おらんかったら一回館内に戻る」


「おっけ。んじゃ、俺バス停の方。見つけたらラインしてやるから」


「サンキューな」


「任せろ! 世界一美人拝んでやんぜ!」


「下手に絡むと返り討ちにされるから気ぃつけ……聞いてないな」


 走り去る兼崎を見送って、春日は駐輪場へと急いだ。


 どう考えても、トラブルの予感がする。ナンパをあしらっている程度ならいいが、初対面の日のような流血沙汰が起きていたら。


「電話くらい出ぇよ、アホンダラ」


 コールし続けている電話は、繋がる気配がない。


 図書館の駐輪場をのぞけば、人影はなかった。すぐに踵を返そうとして、ふと、数十メートル離れた位置に『市営駐輪場』の文字が見えた。ずいぶんと古めかしいそれは、錆びだらけの鉄筋で覆われた二階建てだ。窓がいくつかあるだけで、中が見えない。


 なんとなく、といった曖昧なものではなく、確信だった。


 根拠もない確信に押されて、図書館駐輪場の柵を飛び越え、植え込みを突っ切り、市営駐輪場までの最短ルートを走る。鬱蒼とした植え込みの先に見えた入り口に、『閉鎖中』の看板が引っかかっていた。年季の入った建物だろうから、安全管理のため閉鎖されているのだと思う。


 チェーンで閉鎖された入り口に滑り込んだところで、音が聞こえた。

 鈍く、くぐもった音だ。合間に、怒鳴るような声。珪のものではない。


 厚く立ち込めた黒い雲で、陽の光が弱い。暗い屋内に目が慣れるまでに、数秒かかった。


 人影が、ふたつあった。ワイシャツ姿の男が、小柄なパーカーの人物を壁に叩きつけて、右腕を振りかぶっていた。


「珪ッ!」


 ドスッという、鈍い音がした。人体を殴った時の音。


 殴られた珪は、一切ひるまなかった。男を振りほどくことは、体格的に不可能だ。大人しく壁に押し付けられたまま、珪は自らの右手を背後の窓ガラスに叩きつけた。


 ガシャンという音と共に、くすんだガラスが砕け散った。珪の腕から血しぶきが飛ぶ。赤く染まった手は躊躇なくガラスの破片をつかみ取ると、それを目の前の男に──男の顔面に、叩きつけた。


 絶叫は、雨音にかき消された。


 勢いよく降り始めた夏の夕立が、周囲の音をすべて包み込んで、重苦しい空気が立ち込める。


 崩れ落ちた男の身体を蹴り飛ばし、珪はガラスを握り直した。珪の腕からぼたぼたと落ちる血が、雨のようだった。


「──珪、待て! ステイ! やめろ!」


 一瞬、空気に呑まれていた春日は、ハッとして駆け出した。


 転がる男は顔面を押さえて呻いている。その手は、左目を覆っていた。まさか、眼球を狙ったのか。取り返しのつかない箇所を。


「何してんねんお前、落ち着け!」


 近づいてみれば、珪の格好もひどいものだった。Tシャツの襟が千切れて肩から落ちている。ミミズ腫れのような赤い線が三本、鎖骨のあたりについて流血していた。靴は片方脱げているし、髪の毛はまるで鷲掴みにされたかのように乱れている。首についているはっきりとした手の痕が、何をされたか如実に示していた。


 迷わず男に向けて一歩踏み出した珪の肩を、春日は力任せに引いた。


 やめろ、と言うつもりだった。


 いつものように、珪を止めて、春日が何とかこの場をとりなして、お前はまず落ち着けと言い聞かせて、──いつも、珪は、春日が言えば止まるから。


「珪、」


「触んな」


 完全に油断していた。


 無防備に手を伸ばした春日の横顔に、容赦のない裏拳が入った。ぐわん、と視界が揺れて、たまらずに倒れ込む。珪に殴り飛ばされたのだと、遅れて思い至った。


 一瞬見えた珪の横顔は、造り物のように凍え切っていた。美しく怜悧な、ぞっとするほどの無表情。


 珪はうずくまる男の頭を音が出るほど強く踏みつけると、その場にしゃがんだ。


「まずは、目ぇ潰す」


 言うやいなや、その手は動いていた。血だらけのガラスが振り下ろされ、二度目の絶叫が響く。顔面を押さえた男の両手の間から、血が溢れていた。


「次、耳。聴覚ってどうやったら潰せるんだろうな。耳の奥に突っ込んで内耳潰せるような棒、持ってねえんだけど」


 淡々とした声とは裏腹に、全力だとわかる激しさで、珪は男の耳にガラスを突っ込んだ。


「……珪、」


 絞り出した春日の声は、行き場のないまま霧散した。


 男の耳を潰した珪は、暴れる男の鳩尾に拳を叩き込み、一瞬立ち上がると男の胸部に膝から落ちた。全体重を乗せた膝が、男の肋骨を折る音が聞こえた。


 死に物狂いの男が珪の髪を握りこむ。ガクンと首を引かれた珪は、いっそ丁寧な手つきで男の腕に手を添えると、そこにガラス片を突き立てた。力任せに引き下ろしたガラス片が、男の腕を盛大に裂いた。


 男のものなのか、珪のものなのか、ふたりの下に赤い血だまりが出来始めていた。


 春日は、必死に息をした。過呼吸になりそうなことを自覚して、努めてゆっくりと吐いて、吸う。


 激烈な暴力が目の前で行使されて、足が凍ったように動かない。行きがかり上喧嘩をすることも、父親に殴られることも慣れているが、今、珪が繰り出しているものは、まったく別種の暴力だった。


 禍々しい怨嗟と憎悪を乗せた、鳥肌が立つほどにどす黒い殺意だった。


 激しい雨の音に包まれて、ここだけ別世界のようだ。

 必死に反撃を試みる男の手は、何度も珪に届いている。床に散ったガラス片を持ち、闇雲に振り回す男の手が、どれほど身体を傷つけようとも、珪は表情を変えなかった。


 やめろ、と言いたかった。


 このままでは本当に殺してしまう。珪自身も、とっくに血だらけだ。


 いつもなら春日の声で止まるのに、何故今日に限って、これほど。


 チカチカと、視界の端で何かが光っていた。座り込んだ春日の、ちょうど手が届く距離に、スマホが落ちていた。珪のものではないから、男が落としたものだろう。


 スマホの画面で、動画が再生されていた。音は聞こえない。見るともなく見た動画の中に、子どもが見えた。


 苦悶の表情で泣き叫んでいる子どもに、大人がのしかかっていた。その一瞬の映像が見えてしまって、春日は咄嗟に視線を逸らした。


 バクバクと、心臓が嫌な音を立てていた。


「いいだろ、別に。俺はたぶん、今のお前より痛かった」


 雨音の中に、珪の声がする。


 ずぶ濡れになって笑っていたあの日とは似ても似つかない、氷のような声。


「俺が死ぬほど痛い目にあって、なのにそれを消費したお前が無傷なんて、不公平だろ。なあ。ガキが泣き叫んでるの見て抜いてるくせに、自分が痛めつけられるのは嫌だなんて、わがままだと思わねえか?」


 動画の中の子どもは、綺麗な顔立ちをしていた。涙と涎と、知りたくもない液体に汚れてなお、美しい造形だった。


 髪の色が違っていても、見間違えるわけがなかった。


「お前が喜んで見てたあの動画の中のガキはな、今のお前よりよっぽど、痛かったぞ。お前がそれを理解するまで、とりあえず、次は指でも潰すか。二度とスマホ触れねえように」


 この男は、動画を持っていた。

 そして、珪を見つけた。

 強請るつもりだったのか、脅すつもりだったのか、ろくでもない魂胆で、珪に声をかけた。


 人気のないこの場所に連れ込んだのは、おそらく男の方だ。大人しくついてきた珪は、ここで静かに理性をぶち切ったのだろう。


 春日は、鉛のように重い腕を持ちあげた。

 のろのろと手を伸ばし、落ちているスマホを拾い上げる。再生が続く動画から視線を逸らし、一度強く握りこむと、一気に地面に叩きつけた。


 バキリと、機械の板はあっけなく真っ二つに折れた。


 近くに転がっていたコンクリートの欠片を拾い、スマホの上に打ち下ろした。何度も何度も、原形が亡くなるまで叩き潰し、やがて部品がバラバラになって散らばってから、ようやく手を止める。


 こんなことをしても、意味はない。


 一度ネットの海に拡散された動画は、絶対に消えない。それを手に入れるルートは確実に存在し続け、これから先も、あの動画は閲覧され続ける。


 珪がいつも顔を隠している理由を、ようやく知った。


 日常の生活ですれ違う人間の中の誰が、あの動画を見ているか、わからないからだ。自分の知らない、不特定多数の人間が、自分のおぞましい動画を閲覧し、消費している。──それは一体、どれほどの恐怖と絶望か。決して目に見えない、悪辣な暴力に、これまでも、これからも、珪は晒され続ける。


 遠くの空から雷鳴が聞こえた。


 気付けば、男は動かなくなっていた。


 男に馬乗りになったまま、珪は肩で息をしている。金髪に血が擦れていた。


 ガラス片を握りしめている血だらけの右手が、震えていた。


「……珪」


 雨音に包まれた静かな薄暗がりの中で、春日は小さく声を出した。


 座っていることもおぼつかないほどのめまいと、喉元までせり上がっている吐き気が、果たして目の前で繰り広げられた暴力のせいなのか、あるいは今見た動画のせいなのか、判断はつかない。


 ただ、世の中には、春日の想像を容易く凌駕するほどの残酷な現実があるのだと、知った。


「……帰ろ。楠木さん、待ってる」


 立ち上がろうとして、世界が揺れた。

 歩けずに膝をつき、ずりずりと、床を這うように珪に寄った。


「一緒に帰ろ。俺が隣におったら、お前のめんどくさいもん、もう寄ってこぉへんから」


 待ち合わせをすると、珪は必ず時間を守ってそこにいた。

 これからは図書館に迎えに(正確には捕獲に)来る、と伝えた日、「はあ?」と言いながらも、拒絶はしなかった。


 春日を隣におくことで、珪は己を守っていた。お前がいると面倒事が減る、と満足そうに言っていた、あれはせいぜいナンパや喧嘩の話かと思っていたのに。


 半年間、並んで歩き続けた診療所への道は、珪にとって、どれほど貴重なものだっただろう。安心して外を歩く、それだけのことが、珪には到底難しい。だからこそ、毎日、珪は春日を待っていた。


 そうやって確かに珪の防護壁になっていた春日が、よりによって今日、遅れたから。


 珪は今、血だらけの手で、震えている。


「ごめん」


 春日はポケットからハンカチを引っ張り出した。血の気の引いた指先に力が入らず、二度失敗して、三度目でやっと取り出せた。


「手。血。拭こ」


 少し迷ってから、珪の手にハンカチをかぶせた。本当は指をほどいてガラスを離してやりたかったが、それ以上近づいていいのかわからなかった。


 触るな、と言われた。

 あの動画を見てしまった今、珪に触れる勇気が出ない。


 珪の下で、男は一応呼吸をしていた。救急車を呼ぶべきか、あるいは警察か、もしくは先に楠木を呼んだ方がいいだろうか。


 鈍い頭でぼんやりと考えていたら、珪がゆっくりと顔を上げた。


 こんな時でもその顔は非の打ちどころなく美しくて、どうしようもなく悲しかった。


 何を言えばいいのかわからず、春日はただ、「ごめん」と繰り返した。


 遅れてごめん。


 見てしまってごめん。


 気付いてしまって、ごめん。


 痛みを堪えたような表情が、じっと春日に向けられていた。


 固く引き結ばれた珪の口から、最後まで、言葉はひとつも出てこなかった。


 ◇◇◇


 目の前で、兼崎の細い目がおろおろと右往左往していた。


「よー春日、平気か? そろそろ平気? まだ無理そげ? なんか食う? 今なら俺の秘蔵のカロリーメイトが」


「兼崎。吐いた人間にいきなり固形物を食わせるのは望ましくない。まずは水分だ」


「んなこと言っても、俺今、さっき自販機で買ったおしるこしかねえし」


「なぜ真夏にそんなものを買ってるんだ、貴様」


 黒磯が眼鏡を押し上げて呆れた声を出した。


 三人そろって座っているのは、警察署内の一室である。

 あの後、春日を探して走り回っていた兼崎が、駐輪場に飛び込んできた。血まみれの大惨事に大声を上げた兼崎は、速やかに一一〇をダイヤルしようとした。行動力だけはある奴だ。


 その兼崎をかろうじて留め、春日は楠木に電話を入れた。この状態の珪が他人と接触したら、また問題を起こす気がしてならなかった。


 楠木が駆けつけたころには黒磯も合流し、春日は友人二人に引きずられてその場から引き離された。


『何アレ何アレ死んでんの? なあ死んでんの? 春日クン、殺人現場目撃しちゃったの?』


『やはり緊急事態だ。春日、パニックになる気持ちもわかるが、まずは通報だ。こういう時は落ち着いて一一七を』


『黒磯ちゃん、それ天気予報! 天気予報聞く番号! 落ち着いて!』


 駆けつけた警察官と救急隊によって、男は救急車に乗せられ、珪と楠木は警察車両で病院へと向かったようだった。


 目撃者となってしまった春日たち三人は、事情聴取のため警察署へと連れていかれ、その建物に一歩入ったところで春日は吐いた。


「な、今日無理なら明日でもいいってケーカンの人言ってたから。俺と黒磯ちゃんだけ話してくるから、お前もう帰った方がいいって」


 救護室らしき部屋のベッドに腰かけたまま、春日は緩く首を横に振った。


「ええよ、平気。てか、今歩くとまた吐きそう」


「それ平気って言わねーから。まったく、俺たちの春日クンがこんなひでー顔になっちゃって」


「誰の春日クンや、誰の」


 黒磯がおもむろに「質問だが」と口を開いた。


「春日が探していたのは、あの加害者で間違いないのか?」


「そーそー、それよ。おま、パーカーって言ってたじゃん。あいつ? あの血だらけのやべー奴?」


 あの場の状況を見れば、どう考えても加害者は珪になる。客観的にそう見えていたのだと、今更思い至った。


「……加害者ちゃう」


 経緯を見ていたわけではないが、嫌でも想像はつく。


「あのおっさんが先にあいつに声かけてん。あんなとこ連れ込んで、俺が行ったとき、あいつ胸倉掴まれて殴られてて。服破られてたし、首血ぃ出てたし。言うたやろ、顔だけは、アホほど良い奴やから、……襲われそうになって、だから、死に物狂いで反撃しただけやと思う」


 一言話すごとに、吐きそうだった。

 薄暗がりと、激しい雨音が、頭の中に渦巻いている。


 兼崎が両腕をさすった。


「え、それ、アレ? 狙われたってこと? おっさんに? 変態に? 最悪じゃね!? お前の友達大丈夫だった!?」


「そういうことなら同情の余地もないな。やはりそういう人間は一律に去勢すべきだ」


 騒ぐ兼崎と、重々しく頷く黒磯は、そろって春日の肩を叩いてくれた。


「春日の友人に不利な証言はしない。大船に乗ったつもりでいてくれ」


「おうよ。俺らめちゃくちゃおっさんディスってくっから。俺も電車で変態に痴漢されたことあっから。マジ最悪だぜアレ、優しい兼崎クンも変態だけはぜつゆる。あーあーキモイ。さぶいぼ。ほらみて黒磯ちゃん、さぶいぼ」


「見せるな。気色が悪い」


「ひどくね!?」


 気のいい友人に心の底から感謝して、春日はあらためて「兼崎」と呼んだ。


「おっ、なになに春日クン。お礼? いいってことよ、俺とお前の仲」


「やっぱ吐きそう」


「ノォォォォォォ!」


 俊敏な動作で兼崎が差し出してきたビニール袋に、春日は残りの胃の中身をぶちまけた。


 ◇◇◇


 その後、診療所はしばらく臨時休診となった。

 バイトの再開時期については改めて連絡する、と楠木からラインがあった。今は来るなということだ。


〈怪我治ってきた?〉


 一週間ほど大人しく待ってから、春日は珪にラインを送った。


〈お前が落とした荷物、拾ってあるから、いつ返しに行ったらいい?〉


 あの日、珪のリュックは、どさくさの中で春日が拾った。返す余裕もなく持ちかえってしまったので、早めに返しに行きたい。


 珪から返事はなかった。


〈結衣が夏休みの宿題の工作、珪に見せたいって。そのうち見てやって〉


〈今日暑すぎひん? 勝手に山内さんとこ行ったけど、珪ちゃんどこやって怒られた。なんで俺が怒られんねん〉


〈図書の貸し出しって二週間やったよな? お前のリュックに入ってた本、返却期限、明日やけど、俺返しといていい?〉


〈一応、今日返してきたで。また読みたかったらまた借りろ。行く時は一緒に行く〉


〈珪〉


〈けーいー〉


〈俺またお前と一緒に図書館行ったり、バイト行ったり、馬鹿な事したり、したいんやけど。お前がまた会えるようになるまで気長に待っといていい?〉


 いくら送っても返事はなく、既読もつかないまま、夏休みが終わった。

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