第37話 「知ってる」

 春日がようやく楠木医院に顔を出せたのは、二月も下旬に入ってからだった。


 火曜の十時半という、何とも中途半端な時間である。楠木は診療中だったが、珪は自室にいたようで、久しぶりに顔を合わせた。


 二月の横浜の空は晴れ渡っているが、空気は刺すように冷たい。雪が降らない分、寒気が身に染みるのだと、北海道出身の教師がぼやいていた。冷えた身体をエアコンの温風で温めながら、無意識のうちにまっすぐにキッチンに入ってしまったのは、もはや癖のようなものである。


 そうして、相変わらず整頓されていないキッチンをざっと片付け、はちみつ入りのカフェオレを淹れ、ダイニングテーブルに向かい合って座ったところで、珪から爆弾発言がきた。


「引っ越すぅ!?」


「おう」と言う珪は優雅にカップを傾けている。


「えっ、なん、なんで? もしかして俺のせい? 俺ってか、親父のせい? やんな? それしかないもんな?」


「だな」


 ここで誤魔化さずに肯定してくるあたり、珪は素直だ。オブラートというものを知らない。


「茨城だと。勤務医に戻るっつって、アパート探してる。引っ越しは四月以降だから、お前の方が先だな」


「俺ちょっと楠木に土下座してくる……」


 あまりの衝撃に、春日はよろめいて立ち上がった。


 楠木が引っ越しを決断した理由は、聞くまでもない。ここが珪にとっての安全基地ではなくなったからだ。加害者が自分の父親だと思えば、いっそもう、首をくくりたい。


「ごめん、ほんまごめん。どうしよ、あ、引っ越し費用、俺持つから」


 あの事件で、春日に罪状はついていない。父親の悪意が明らかだったからだ。


 珪の指の傷からは骨が見えていた。椅子で殴られた頭は裂傷に加えてひびまで入っていて、命の危険を感じたと言う春日と珪の証言(無論、心にもない)は、重く受け止められた。結果、包丁を持って反撃をした春日の行動は、必要な自衛であったと認められた。仕上げにスマホから血まみれの珪の写真まで出てきたとなれば、父親に弁解の余地などない。


 父親に弁解の余地を与えないために、珪は事情聴取で、事細かに経緯を証言したらしい。担当検事からそれを知らされた時、泣きたくなった。春日のために珪が抱えた負担の重さを思えば、謝罪だけでは到底足りない。


 ましてや、この安全基地すら、追い出すことになるなど。


 血の気の引く思いで頭を下げれば、即座に後頭部を引っ叩かれた。


「うざい。謝罪はいらねえっつってんだろ。次言ったら罰金な、一回につき三千円」


「絶妙にリアルな金額くるやん……」


 座れ、と言われて渋々座った。


「楠木が決めた。あいつ、一度決めたらてこでも動かねえよ。お前が今更騒ごうが謝ろうが意味ねえぞ。大人しくしとけ。引っ越し費用なんか渡したら説教始まるからな」


「いっそもう、説教されたい気分……お前も楠木も、ちっとも文句言わんし」


「馬鹿かよ。楠木の説教食らうくらいなら、俺は山内のじいさんの妄言に三時間付き合った方がマシだ」


 ああ、と春日は思い出した。


「そういや、お前説教されたらしいもんな。こないだの捨て身作戦」


『やっと春日の父親に罪状つけられるってことで、すんごい楽しそうなんだよ……。もともとそのつもりで煽って怪我させられにいったようなもんだし。そこはめちゃくちゃ説教しといたけど』とは楠木の言だ。


 珪は露骨に顔をそむけた。


「黙れ。あれは説教じゃなくて拷問っつーんだ、その件は二度と蒸し返すなよ。楠木の前でその話題出したら絶交する」


「必死やん」


 視線を逸らしてまくしたてる様子を見るに、楠木の「めちゃくちゃ説教しといた」は、それなりに効果があったらしい。致命傷だけ避ければ問題ない、などとほざいたらしいが、もしもまたそれを実行したらぶん殴ろうと思っている。


 けれどあれ以来、「痛くないからいい」という言葉だけは、珪は一度も言わなかった。


 珪が立ち上がって、キッチンから何かを取ってきた。テーブルの上に無造作に置かれたのは、いつつの小ぶりなミカンだ。山内老人からのおすそ分けで、ひと箱もらったという。


 手持無沙汰にそれを剥きながら、春日はしみじみと肩を落とした。


「にしても、引っ越しかぁ……ほんま申し訳ない……」


「いいんじゃねえの、別に。楠木は浮かれてる。楽しみだとよ。俺も、住所なんざどこでもいいし」


 そう言う珪の声は気楽だ。


「茨城なら、通える範囲に医学部ある大学もあったから、進学も問題ねえし」


「なんて?」


 唐突な単語が耳を通っていって、あやうく聞き逃すところだった。かろうじてつかまえて、語の意味を吟味し、春日は素で聞き返した。


「いがくぶ?」


「おう。とりあえず医師免許取ることにした」


 初対面の人間の顎かち割ってた奴が? というツッコミはかろうじて飲み込んだ。


 初手から相手の眼鏡握りつぶして脅迫してた奴が? という言葉も自制した。


 その他、言いたい言葉を余さずすべて喉の奥でもみ消して、春日はやっとの思いで一言だけ聞いた。


「……お前が?」


「なんだよその目は」


 ジト目で睨まれるも、春日は「いやいやいや」と手を振った。


「だってお前、医学部って、え、医者? 医者になるってこと? お前が?」


「だから、何だよ。文句あんのか」


「いや、お前怪我人治すより、怪我人量産する方の人間やん」


「人聞き悪いこと言うな」


 まるで心外とばかりに眉を寄せて、珪はミカンを口に放り込んでいる。

 春日はふたつめのミカンを剥きながら、「ええ~」と意味のない声を出した。


「なんでまた、医者……欠片も似合わん……いや似合うけど。お前に白衣は似合うけどもな。キャラとかけ離れ過ぎてて。何、やっぱ楠木の跡継ぎとか考えてんの?」


「いや? 全然。あいつがこのあとまた開業するか知らねえし」


「じゃあなんで」


 春日の驚きなどどこ吹く風で、珪はあっさりと答えた。


「怪我すると痛ぇんだなと思って」


「……うん、せやな?」


 意味は分からないが、ひとまず頷いておく。珪は同意を得たとばかりに頷いて、ミカンに手を伸ばしながら続けた。


「俺はたぶん、痛いのめちゃくちゃ嫌いなんだよ」


「うん?」


「だから捨てたんだと思う」


 痛覚は捨てた、と珪は言う。


 それが、意図的に出来る所業ではないことくらい、わかる。捨てなければ生きていけないような環境に置かれた子どもが、死に物狂いの生存戦略として、本能的に五感を切り捨てた。そこに至るまでの地獄を思えば、かける言葉も見当たらない。


 何も言えない春日の前で、珪は次々にミカンをつまんでいる。


「けど、ほとんどの人間は、怪我すると痛いんだなと思って」


「うん」


「それは、すげえ嫌だろうなと思って」


「……うん」


 春日はそっと、息を飲んだ。


 珪が、他者の痛みを想像するような発言をするなど、初めてだった。

 相手にどれほどの怪我をさせても、春日がどれほど怪我をしていても、珪が顔色一つ変えなかったのは、他者の痛みに鈍感だからだ。


 自分が痛くないからこそ、相手の痛みを想像しにくい。そういう面が、少なからずあった。


 その珪が、当たり前のように、「怪我をすると痛い」と口にした。


「それを治せるなら、医者は悪くねえなと。怪我なんて、治るに越したことはねえだろ。痛いのは嫌だし」


 衝撃で言葉も出ない春日の前で、珪は剥かれた最後のミカンを口に入れた。


 そうして、半眼で見上げられる。


「俺はこないだ、めちゃくちゃ久しぶりに、すげぇ痛くて、二度とごめんだと思ったし」


「ごめん」


 春日はテーブルに突っ伏した。


 焼けるような足の痛みを感じながら、血まみれた珪の手を握りしめて、『痛いやろ』と睨み据えた、あの時。

 あれは、珪にとってどれほど久しぶりの『痛み』だっただろう。予告もなく強引に珪の痛みを引きずり出して、あまつさえ説教をかました春日の所業は、今思えば随分な暴挙だった。


 良心の呵責に耐えられずに謝罪をすれば、「三千円」という無慈悲な言葉と共に、容赦なく財布から千円札が抜き取られた。


 大人しく罰金を払い、みっつめのミカンを剥きながら、春日はそっと聞いた。


「……痛かったか、あれ」


「痛かったな、かなり」


 不貞腐れたように答えて、珪はまたミカンに手を伸ばしてくる。目を合わせようとしないその顔を見下ろして、春日は小さく笑ってしまった。


「そら、良かった」


「良くねえよボケ。二度とすんなよてめえ。次やったらそのまま致命傷にしてやるからな」


「なんでお前、徹頭徹尾凶暴なんや。医者目指す奴の台詞ちゃうで」


 残りふたつのミカンをまとめて剥いてしまってから、春日はしみじみと、珪を眺めた。


「……けど、痛いのが嫌やって思い出せたなら、お前けっこう、良い医者になるかもな」


 楠木のような医者になるのか、あるいは、育ての親のような破天荒な医者になるのか。それを隣で見届けられないことが、残念だった。


 春日のむくミカンを次々に平らげながら、珪は思い出したように「そういえば」と聞いてきた。


「お前の引っ越し先って県内か?」


「いや、関西。大阪。俺も結衣も大阪出身やし、あっちの方が過ごしやすいやろって、おばさんが。今の所属から出向って形で、関西の研究所に入ってくれることになって」


「へえ。良かったな。地元に戻れるなら、いろいろ便利だろ。やっと自由になったんだし、好きなことして過ごせばいいんじゃねえの」


 いっそ拍子抜けするほどの気の無さで、珪はあっさりとそう言った。

「良かったな」と言われれば、春日は「うん」としか言えない。


 剥いたみかんはほとんど珪に取られたが、最後の一粒だけは死守して口に放り込み、春日は時計を見上げた。診療所の昼休みまで、あと三十分ほどある。


「さて。俺、ちょっと受付に顔出してくるわ。三月で引っ越すって、常連さんたちにぼちぼち挨拶始めたいし。お前も受付手伝う?」


「めんどくせ。お前の引っ越し挨拶でゴタつくだろ、ぜってー行かねえ」


「そんなら、昼休みにまた上がってくるから、待っとけ。俺がさっさと帰ったら寂しいもんな。昼飯も作ってやろか?」


「オムライス食いたい」


「うお、意外なリクエスト」


 立ち上がってミカンの皮を捨て、冷蔵庫の中身を確認しておく。ソーセージと玉ねぎと卵があったので、最低限の形にはなりそうである。


 キッチンに立ってリビングに背を向け、炊飯器の中の米を確認する素振りで、春日はぐっと、口を引き結んだ。


「……米足りひん。早炊きで炊いといて。三合でええわ」


「おー」


 珪の返事はいつも通りだ。


 春日を引き留める言葉も、名残惜しい様子も、珪は一度も出していない。

 春日がこの地から離れることが、春日にとって必要なことだと知っているから、珪は決して余計なことは言わない。春日の未練になるような言動など、微塵も見せない。


 いつも通りに振る舞おうとする態度の中で、「寂しいもんな」というふざけた言葉を否定できない小さな綻びが、珪が春日に示せる、精一杯の本音だった。


 炊飯器の蓋をしめて、春日は珪を振り返った。


「珪」


「なんだよ」


「大事なこと言うの忘れてた」


「あ?」


 寂しい、惜しい、別れがたい。

 どれほど言葉を並べても足りない感情は、結局、たった一言に集約される。


「大好きやで」


 飾りも何もなく言葉を投げた。

 限界まで水を注がれたコップの淵から、ほんの一滴零れ落ちてしまったような、抑えきれない衝動だった。

 親愛でも、友愛でも、情愛でも、何でも良かった。隣に居たいと心底願った、唯一だった。

 

 大好きだ。──どうしても、どうあがいても、手放したくないほどに。


 ダイニングチェアに座ったままの珪は、軽く眉をあげて春日を見返すと、ふっと目を眇めて笑ってくれた。


「知ってる」

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