第四章:夏、雨と傷

第19話 水風船

 夏が襲い掛かってくる。


 そんな馬鹿げたフレーズが頭をよぎり、春日はリュックに手を突っ込んだ。ペットボトルのスポーツドリンクは、とっくにぬるくなっている。


 未開封のそれをあけ、隣にいる金髪に手渡した。


「生きてるかー」


「死んでる……」


 斜め下から、息も絶え絶えの声が答えた。珪は春日が渡した飲み物をひったくり、浴びるように飲んでいる。


 夏本番に片足を突っ込んだ、七月。じんじんじんじんとセミが鳴きまくる猛暑の中を、珪と並んでひたすら歩く。駅まではまだ遠い。


「楠木さん、往診とか、してはるんやな。忙しそうやのに」


「往診じゃねえよ、ただの見回りだろ。夏に年寄りを放置すると、家の中でエアコンつけねえとかいう愚行で死ぬ馬鹿が発生する」


「言い方」


 ひとり暮らしをしている常連の年寄りの様子を見て回ってきてほしい。

 本日、春日が楠木からお願いされたバイトの内容である。


 ここ数日で突然暑くなったから、きちんと水分をとること、エアコンを適切に使うこと、という啓発も兼ねた見回りだという。


 啓発とはいうが、実際には、珪は遠慮なく相手の家に上がり込んで勝手に冷房のスイッチを入れていた。


『いいか、エアコンのリモコンは俺があずかる。夏が終わったら返してやる。寝る時は絶対にこの部屋で寝ろ。水分は一日に二リットル以上、一日分ずつここにペットボトル並べておくから、一日が終わるまでに飲み切れよ。あ? 電気代? 二か月エアコン付けっぱなしにする電気代より、てめえの葬式代の方が百倍かかんだろ、ふざけんな』


 この態度で『珪ちゃん、また来てねぇ』とありがたがられるのだから、年寄りの感性というものは、春日にはよくわからない。


 夏休み目前、高校の授業は短縮課程が増えて昼過ぎには終わる。ぎらついた太陽が照りつける十四時から見回りを開始し、五軒の家を周り終えたのは十六時半だ。まだまだ日は沈まず、容赦なく日光が肌を焼く。


 そして、徒歩移動が多かった故か、珪の体力がいよいよ底を突きそうになっていた。


「だから言うたやん、暑いって。パーカーとか自殺行為やで」


「うるせえ、UVカットの長袖は夏の屋外に最適解だ」


「せめてフード取れって。ほんま熱中症で倒れるぞ」


「フード取るくらいなら死ぬ」


「なんでやねん」


 これだけ暑い日だというのに、珪は頑としてフードをかぶっている。

 UVカットがどうたらは知らないが、どう考えても暑い。


 通りかかった小さな公園の木陰に逃げ込み、ふたりそろって座り込んだ。夕方だというのに人影もないのは、この猛暑の中で遊ぶ猛者などいないからだろう。


「七月にこの気温て、八月どうなんねやろ。地球溶けるんちゃう」


「くっそ、てめえがチャリ持って来れば楽だったのに」


「壊れたんやからしゃーないやろ。二人乗りなんて、あの繊細なチャリには無茶やった」


 先日の二人乗りを受けて、古いママチャリはとうとう壊れた。チェーンが千切れた上にペダルが割れたので、修理するより、新しく買った方が安い。


「てかな、お前が余計なトラブル起こさんかったら、もっと早く終わったと思う」


「ざけんな。あれは俺は悪くねえ」


 訪問に行った一軒の家で、先客があった。

 スーツ姿の男はエアコンの訪問販売をしていると言い、家主である老人は契約書にハンコを押したところだった。なんとなく嫌な予感がして話を聞けば、どこからどう聞いても立派な悪徳業者であり、春日は即座にクーリングオフを主張しようとしたのだが。


 隣で話を聞いていた珪は、一言も発する間もなく、春日が振り返った時にはスーツの男が持っていた契約書を破り捨てていた。


「お前の主張は正しいけど、言動があかんねん。どう考えても火に油、ていうより火に火薬ぶちこみにいってるやん」


 激怒した男の胸倉を、珪が掴み上げたところで、春日は「ステイ!」と叫んで小柄な狂犬を取り押さえた。いいから待て、と言いおけば毛を逆立てながらも大人しく座ったので、その後の交渉は春日が引きついだ。


 まずは丁重に謝罪をし、玄関の土間に散らかった契約書を拾い集め、内容をすべてスマホで撮影してから男に名刺を要求した。叔父が弁護士だという大嘘をつきながら、今回の契約について一度相談させてほしいと慇懃無礼に申し出てみれば、男は憎々し気に立ち去って行った。押印してしまった契約書の類は、すべて回収させてもらった。


「お前はさ、殴る以外の解決策を学習せえよ。無駄にトラブル大きくする必要ないやろ」


「殴ってねえだろ」


 不貞腐れた声が答えた。


「殴ってねえし、暴れてもねえし、喋ってもねえよ。完璧だろ。どこに文句あんだ」


「そらそうやけどさぁ。ギリギリアウトな気もするけど、まあ。殴ってはない。偉い」


「だろ」


 随分と低いハードルで勝負している気もするが、本人は偉そうに己の功績を主張してくる。


 言われてみれば、最近は珪が喧嘩をする姿を見ていない。小さなトラブルは頻繁にあるものの、春日が止めれば、珪は止まる。


「まあ、せやな。最近お前、喧嘩してへん。偉い偉い。褒めてやろ。子どもは褒めて伸ばすもんやってよお言うもんな」


 ぐりぐりとフードの上から金髪を撫でまわしてみれば、即座にわき腹を軽くどつかれた。春日は思わず悶絶する。


「~~~!」


「あ? ……あー、今日は腹か」


 一瞬怪訝そうにした珪は、すぐに納得した表情で、春日のワイシャツの裾をまくりあげてきた。左のわき腹、あばらのすぐ下に、赤黒い痣がある。


「アホかてめえ。ボディは守れよ」


「言うほど簡単やないって……いででで」


「いつだこれ。二日前? なら内臓は問題ねえな。内臓やってたら二日も持たずにぶっ倒れるし」


「もしかして経験者かお前……これあばら折れてると思う?」


「知らねえよ。あばら折れたくらいじゃ死なねえだろ」


「なら、楠木さんのとこ行かんでええかな」


 慈悲も同情もなく、ついでにさして興味もなさそうに、珪はあっさりとワイシャツから手を離した。


 春日がどんな怪我をしていようと、珪はまったくもって無関心だ。お見舞いの言葉ひとつ寄越さず、傷を見ても顔色ひとつ変えない。あまりにも興味をもたれないから、隠す方が馬鹿馬鹿しくなって、今では春日の方から「楠木さんに診せた方がいい?」などと相談するようになってしまった。

 なにせこの金髪天使、外傷の経験値なら、間違いなく春日より高い。受診の必要性についても、春日よりもよほど正確に理解している。


 珪は「診せるほどじゃねえだろ」と判断をくれて、ペットボトルに残っていたスポーツ飲料を飲み干した。


「この見回りって、今まではお前ひとりで回ってたん?」


 面白くもない話題はさっさと終わらせて、春日は本日のバイト内容に話を戻した。珪もまた、春日の怪我などあっさり忘れたように、気楽に首を横に振る。


「いや、楠木が行ってた。俺はたまに同行させられる程度」


「同行?」


「俺が来ねえならエアコンつけねえとかいう暴論振りかざす馬鹿がたまに、山内とか」


「あー……」


 今度珪ちゃんを危ねぇ目に合わせたらタダじゃおかねえぞ! と騒いでいた山内を思い出す。春日に一切非はないはずなのに、なぜかめちゃくちゃ怒られた。理不尽である。


「お前、人気者やなぁ」


「残りの人生に楽しみがなさすぎて、手近にいる見た目の良い愛玩動物とりあえず愛でて充足感得たいんだろ」


「言い方。見た目良いとか自分で言う」


「いいだろ。俺より美人がいるなら連れて来い」


「自信……」


 実際問題、これほど整った顔をした人類を、春日は他に見たことはない。白い頬が赤く上気していて、本当に、見た目だけなら絶世の美人だ。


「けど中身がなぁ」


「おう、清楚で謙虚で奥ゆかしい俺の性格に何か文句あるか」


「楠木さんがあんなに温厚なのに、なんでこいつはこんな性格になってまったんやろ。事故やで」


 珪は飲みきったペットボトルを投げて寄越してきた。


「俺は育ての親に似た。楠木も、あいつああ見えて、やべえぞ。甘く見るなよ」


「そうなん? てか、お前の育ての親って楠木さんちゃうん」


「違う。楠木が俺を引き取ってまだ四年くらいだし」


 珪は何気ないように言うが、春日の頭の中は大混乱である。


「え、なら育ての親って、前に言ってた保護者? それとは別? どういう関係図やねん、登場人物多いな。てか、父の日に物渡すのまずかった? 関係性に無駄な緊張感生み出してない?」


 父の日に物を贈って、腹を割って話してこいと言ったのは春日だ。

 あれから珪は何も報告をしてきていないが、複雑な関係性のところに余計な冷や水を入れてしまっただろうか。


「楠木の口が軽くなった」


 珪はバタバタと手で顔を扇ぎながら言う。


「俺の育ての親、楠木の腐れ縁だったんだと。その縁があって俺を引き取ることになったらしいけど。俺は、俺の育ての親と暮らしたのが六年か七年くらいしかなくて、あいつのことあんまり知らねえんだよ。口と態度が悪くて声がでけえってくらいしか。で、あいつの昔話を、最近たまに楠木がするようになった」


「うん。めっちゃ難しいけど、うん。ええよ。まだついていける」


 雑過ぎる珪の説明を、春日はかろうじて飲み込んでいく。


「俺が、俺の育ての親に会った経緯は、あんま愉快なモンじゃねえし、それなのにあいつはさっさと死にやがるし、楠木も遠慮してんだろ。今までほとんどあいつの話なんかしなかった。それが、最近、たまにしれっと話すようになって」


「うん」


「カスハラ患者と喧嘩しすぎて訴訟抱えてたとか、ある日突然坊主になって出勤してきた話とか、行きつけのゲイバーの店長がすげえ格好で医局に乗り込んできた話とか」


「おう……全部気になるけど、坊主って何」


「飲み屋で知り合った野郎と飲み勝負して負けたんだと。酒代全部払った上に坊主にされたらしい」


「どういう世界……」


「『せっかくならいい話を聞かせてやりたいけど、俺の思い出の中の一ノ瀬が全部ろくでもない』って楠木は言ってた」


「おもろい人やってんなぁ」


 珪は「だろ」と晴れやかに笑う。


「俺はあいつのことあんまり知らねえから、俺の知らないあいつの話を聞けるようになったのは、楽しい」


 日差しはまだ弱まりそうになかった。木陰を通り抜ける風も生ぬるい。

 何もないこの時間が心地良くて、春日は仰向けに転がると目を閉じた。


 生みの親は、という質問は差し控えた。珪があえて口に出さないのなら、春日が踏み込んでいい領域ではない。珪と楠木の関係が、珪にとって望ましい方向へ動いたのなら、それだけで十分である。


「──あ、」


 隣から小さな声が聞こえた。


 何かに気付いたような声の後、衣擦れの音がして、足音が遠ざかっていく。珪がどこかへ行ったらしい。


 薄目を開けてみれば、荷物は置いてあった。ということは、すぐに戻ってくる。春日は気にせず目を閉じた。自宅でよく眠れた試しがないので、万年寝不足が常である。今ここで、この心地良さに浸って目を閉じる時間は、手放しがたい。


 ──だというのに、平和は唐突に破られた。


 バシャン! という破裂音とともに、水の塊が降ってきた。


「ちょおおおい! 何!?」


 跳ね起きて見た先で、数歩離れた位置に立つ珪が、にやりと笑って見上げてきていた。その手に、いくつもの水風船。


「あっちーだろ。涼ませてやる、感謝しろよ」


「おま、それどこから持ってきた、って待て待てまっ、このっ!」


 やけに正確なコントロールで投げつけられる水風船は、ひとつ残らず春日に当たった。着弾のたびに破裂して、水しぶきが襲い掛かってくる。


「そこにあった。どっかのガキが忘れてったんだろ」


 砂場の横にある水道を指して、珪が言う。


 春日は迷わず空のペットボトルを掴むと、水道へ走った。満水にしたそれを持ち、ついでに、足元にまだ残っていた未使用の水風船も装弾する。


 振り返った先で、珪は別の水道を陣取って水風船を用意していた。いくつも拾っていたらしい。


「あーめっちゃ涼しいわー。ほんまありがとう、こらもう全力でお礼せなあかん」


「いらねえ。それ以上近づいたら先に帰るからな」


「逃がすかボケ」


 速やかに踵を返した背中に向けて、春日は振りかぶって水風船を投げつけた。


 十分ほど経過したころには、ぼたぼたと髪から水滴が流れ、春日は濡れ鼠である。

 残りひとつの水風船を抱え、恨みがましく唸る。


「ええいこの、ちょこまかと」


「てめえはでかいからいいな。狙いやすい」


 対峙する珪もずぶ濡れだ。濡れたフードが頬に張り付いている。


「なんでお前はそんなコントロールええねん。野球経験者か」


「メジャーリーガーにフォーム教えてもらったことがある」


「あからさまな嘘つくなアホ」


「ガチだぞ」


「……え、ガチ? なんで? どこで?」


「アメリカで」


「お前から出てくる情報がいっつも唐突すぎんねん。どういうこと」


「俺の育ての親、アメリカで医者やってたって言っただろ」


「言うてへん。一回もんなこと言うてへん。お前まさか帰国子女? だから金髪──いってえ!」


 ばっしゃん。


 話題に喰いついて気が逸れたところに、来た。顔面に着弾した。

 鼻を押さえて叫ぶ春日を眺めて、珪は腹を抱えてしゃがみ込んだ。爆笑が聞こえる。


「こっの、顔を狙うなボケ!」


 怒りに任せて投げつけた水風船は珪の頭に直撃したが、それも気にせず笑い続けている様子に、毒気を抜かれた。


 はあ、とため息を一つ。


「ほらもう、立って。さっさと帰らんと、楠木さん待ってる」


「くっそ、スマホ構えとけばよかった。今の写真撮って結衣に送ってやればよかった」


「絶対やめろ。お前のリュックになめくじ詰めるぞ」


 恐ろしいことを言い出す悪魔に、念のため釘をさしておく。


 手を出せば、珪は素直にそれを取った。引っ張り立たせてみても、まだ笑っている。ツボに入ったらしい。


「あーあ。びちゃびちゃやな。電車乗れんのかな、これ」


「乗れるだろ。周囲の人間引いていって快適に移動できんじゃねえの」


「周囲の人間ドン引きさせる行為は慎みたいとこやねん……」


 他者の迷惑について一切興味がなさそうな珪は、一度フードを取って、髪を振った。濡れた金色が夏の太陽に反射して、きらきらと、光の粒が舞うようだった。


「あー、笑った。苦しい。久しぶりに笑った」


 笑い声が、夏の太陽よりずっと、明るかった。

 笑った、というその顔が、本当にあどけなく笑っていたから。


「……」


 春日は、思わず、静止した。


「とりあえず、駅まで歩くうちに乾くだろ。こんだけ暑いし。乾かなかったら適当に診療所の着替え借りて……おい?」


 反応のない春日に気付いたのか、珪は怪訝そうに見上げてきた。絵になりすぎる上目遣いを見下ろして、これこそ写真に撮っておくべきでは? と思う。


 まじまじと珪を見下ろせば、奇跡の美貌がふいに警戒の色をまとった。「なんだよ」と言う声に棘がある。


 その様子をじっくり眺めて、春日はおもむろに両手で己の顔を擦った。


「……あっぶな。一瞬お前が天使に見えた。やっぱ疲れてんのかな、俺の眼球が幻覚見せてくる」


「あ?」


「水なんか撒いたから蜃気楼が出たんやわ。はー、あかんあかん。幻覚。狂犬がチワワに見える錯覚って何か名前ありそう」


 珪はむっとしたように眉を寄せた。


「どっからどう見ても俺の外見は美の結晶だろが、お前の眼球は正常だ。狂ってんのは頭だろ」


「天誅」


 生意気を言う金髪をどつけば、珪はやはり笑いながら木陰へ逃げた。リュックを肩にかけ、改めてフードを被っている。


「まーたそれかぶる」


「うるせえな。俺が顔晒して歩いたら何時間たっても診療所にたどり着かねえんだよ」


「信憑性ありすぎて嫌な自信やな」


 日差しはなお暑かった。


 ずぶ濡れになりながら歩いた駅への道が、もっと遠ければいいのにと、思った。

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