第18話 楠木(3)

 リビングのドアが開く音がして、楠木は顔を上げた。


 軽い足音と共に、珪が入ってくる。時計を見れば十九時だ。

 日曜日の今日は用事があると言って、朝から春日と出かけていた。よく気の回る焦げ茶の髪の青年は、この問題児をきっちり適正な時間に帰らせてくれたようだ。この半年、本当に、あの青年には頭が上がらない。


「おかえり、珪」


「おー」


 珪を引き取って、四年目になる。他人行儀なぎこちなさは、お互いにすっかり消えているが、今でも珪は「ただいま」とは言わない。珪が「ただいま」と言って帰る家はひとつしかなく、楠木は、それでいいと思っている。


 千切っていたレタスをすべて皿に盛ってしまって、切っておいたトマトを乗せた。解凍しておいた魚の切り身をグリルに放り込んで火を付ければ、あとは待つだけだ。米は炊いてある。


 楠木は料理が苦手である。珪は言うまでもなく料理などしない。よって、このふたり暮らしでは、葉物を千切っただけのサラダと、冷凍食品が、大活躍している。


「魚焼けたらご飯にしようか。お腹空いてる? 何か食べてきた?」


 洗面所で手を洗う珪に声をかけるも、返事がなかった。おや、と思う。


「珪? また喧嘩してきた?」


「なんでだよ」


 不貞腐れた顔で出てきた珪は、そのままリビングの椅子に座った。


「いや、返事ないから。また怪我してるのかと」


「してねえ。春日がいるのに出来るわけねえだろ。あのボケ、始まる前に邪魔してくる」


「最高の友達だな。今度春日くんに何か贈ろう。何がいいかな、湿布詰め合わせ?」


「それ嫌味になんねえか」


 会話はいつも通りだが、珪は楠木と目を合わせなかった。


 ふむ、と楠木は思案する。とりあえず珪の向かいに腰を下ろせば、珪はますます視線を逸らした。


「で、どうした?」


「……あー、」


 何かを言いよどみ、珪はおざなりにリュックを手繰り寄せると、中から何かを引っ張り出した。


 控えめにラッピングされた、文庫本サイズの何かだ。


 それを、ぐいと差し出される。


「やる」


「うん?」


「今日、父の日だからちょうどいいだろって春日が言って」


「……うん?」


 ずいと押しやられたそれを、条件反射で受け取る。


 珪はようやく視線をあげた。


「俺は、お前を父親だと思ったことはねえけど」


 灰色の瞳が、いつかと同じように、真っすぐに楠木を見上げていた。


「お前が後見人になってくれて、良かったとは、思ってる」


 君は俺を選ぶ、と楠木は言った。それはうぬぼれではなく、確定事項であった。


 珪には、それ以外の選択肢など、初めからなかったのだから。


 凄絶な経験をしたこの子どもは、知らない人間が大勢いる施設など、選ばない。選べない。


「……うん」


 初めから不可能な選択肢を並べて、さも自分で選ばせたような顔をして、楠木は今、ここにいる。


 とっくに承服していたはずの罪悪感が、ちらりと顔を出した。


 声に詰まった楠木に気付かず、珪はようやく肩の荷が下りたような顔で、軽く続けた。


「ただ、お前に全部捨てさせたのは、悪かったと思ってる。出来るだけ早く自立する。俺がいなくなれば、お前、また大学病院なりどっかの外科なり、行けるだろ」


「行かないよ」


 楠木は即答した。珪がそんなことを気にしていたとは、初耳である。


「俺はもう、大学に戻る気はないよ。このままここで、のんびりやっていくつもりだし」


「もったいねえだろ。せっかく腕も業績もあるのに」


「大学病院なんかに戻ったら、お前が帰ってきた時に『おかえり』って言えないだろ」


「はあ?」


 珪は盛大に眉を寄せた。こういう何気ない表情が、一ノ瀬そっくりだ。


 よくよく考えてみれば、珪とこういった話をしたことはない。

 珪にとっては、楠木はあくまでも後見人でしかない。半ば事務的に、あるいは義務的に、ここで生活を始めたものと思っていた。それなのに、まさか楠木のキャリアに負い目を感じていたなど。


「お前、知らないだろ。大学病院の医局なんて、魔境だよ、魔境。一ノ瀬みたいなわけのわからない生き物が跋扈ばっこしてる異世界。話どころか常識も通じないような、理不尽のるつぼ」


「すげえ文句出てくるな」


「出てからやっと気づくんだよ。自分は蟲毒こどくの中にいたんだって。あやうく競争を勝ち抜いて最強の化け物外科医になるところだった」


「お前、何気に自己評価めちゃくちゃ高いよな」


「俺は客観的に見て優秀だったからね」


 一ノ瀬奏真という優秀な外科医に引っ張り回され、希少症例から、国際学会での発表まで、あらゆることをやらされた。楠木の知識と技術の根幹には、豪放なひとりの医者がいる。


「大学病院はさ、すごいところだよ。本当に優秀な医者がいて、世界最先端の治療ができる。地域医療を支える根幹で、あそこでしか学べないことは、山ほどある」


 大学病院を否定するつもりはない。あれは日本の医療を支える大きな、そして必要不可欠な柱だ。


「けど、あそこにいたら出来ないことも、ある。たとえば、お前に『おかえり』って言うこと」


「いらねえよ」


「俺には必要だったんだよ」


 いつでも珪に「おかえり」と言いたかった。


 それは楠木の個人的なわがままだ。


「一ノ瀬珪が、どんなふうに成長して、どんな大人になるのか、見届けたかった。俺の親友の忘れ形見が、少しでも健やかに育ってくれるように、出来ることは全部やりたかった。何より俺は、」


 擦り切れてよれた、一冊の小説。


 珪への接し方に迷うたびに、あの本が、楠木の羅針盤だった。


「俺の言葉を聞いて、一生懸命本を読み続けてくれてる子が、大切だよ。わかりにくいけど素直で真っすぐな優しい子だなと思うし、」


「わかったもういい」


 声をねじ込んで制止してきた珪に、にっこりと笑いかける。照れる珪など、滅多に見られるものではない。


「お前の成長を隣で見守る以上におもしろい仕事なんて、この世に無いよ。俺はキャリアを全部捨てたんじゃなくて、もっと魅力的なキャリアを見つけたから、喜んで乗り換えただけだよ。お前のおかげで、大学に居たら知らなかったたくさんのことを知れた。ありがとう」


 何かを犠牲にしたつもりはない。

 望んで選んだ、楠木が一番やりたかったことだ。


「そういえば、言ってなかったなぁ。俺はお前を息子扱いする気はないけど、喜んで養育者を引き受けるくらい、大切だよ。あ、一応、お前の結婚式では、父親席にちゃんと一ノ瀬の遺影を置いて、俺は親戚のおじさんポジションで大人しくしてるから」


「親戚は名乗る気か」


「後見人じゃ味気ないだろ」


 そもそも後見人が結婚式に出るものなのか、そのあたりの常識は知らない。

 しかし、大切なたったひとりの子どもの晴れ姿となれば、どれほど非常識でも押しかけるつもりだ。


 珪は呆れたようにそっぽを向いた。


「……まぁ、もしそうなったら、」


 ぶっきらぼうな声の中に、確かに、温かさがあった。


「家族の席には座っとけよ」


「……え」


 思わず、珪を見つめた。


 楠木は、珪の家族ではない。血縁的にも、法的にも、この先も絶対に家族にはならない。珪の家族は一ノ瀬奏真というたったひとりで、楠木は、それでいいと思っている。


 この子どもがようやく手に入れた、優しく温かい家族の形を壊すつもりなど、毛頭なかった。


 それでも珪は、楠木を、家族だと。


 返事も出来ないまま頭を抱えて、楠木はゴンとテーブルに突っ伏した。「あー」と意味もない声が出る。


「明日ちょっと、お前の家にお邪魔させて。一ノ瀬に酒供えてくる。ふたりで祝杯を挙げようと思う」


 一ノ瀬の墓は作られていない。遺骨は遺影と位牌とともに、珪の自宅にある仏壇に置かれている。


「月曜だぞ。診察あんだろ」


「臨時休診する」


「ざけんな。働け医者」


 辛辣な言葉が照れ隠しであることは明らかだ。


 珪はそっぽを向いたまま、あらためて楠木にぐいと包みを押し付けてきた。


 そっと開いてみれば、それは一冊の小説だった。いつか楠木が珪に渡した、子供向けの冒険小説。


「お前に借りてたやつ。読みすぎてボロボロになった。新しいの返す」


「俺はあげたつもりだったんだけど」


「お前からもらうものが多すぎる。返せるものは、返す。これからも、なるべく」


 珪は他所でバイトをしていない。診療所の受付にたまに入るくらいで、そのバイト代も大したものではない。


 大した額でもないその中から、本を買って、渡してくれた。よりにもよって父の日に。


 いよいよ涙腺が危なくなってきた。


「奏真に返せなかった分も、山ほどある。まとめてお前に返す。俺が全部返し終わるまで、せいぜい長生きしとけよ」


 追撃されたその言葉に、とうとう涙腺が悲鳴を上げた。


 顔をあげられなくなった楠木の前で、珪はしばらく黙った後、ふいに「焦げ臭い」と言った。


 その日食べた夕飯の、黒く焦げた魚の味を、楠木は一生忘れないと思う。

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