第17話 楠木(2)

 楠木が一ノ瀬に再会したのは、それからおよそ六年後だった。


「……どうせまたそのうち会うだろうとは、思ってたけど」


 お互いに順調な出世コースを歩み、多忙な立場になり、日米の行き来などとてもする暇がなかった。代わりに定期的な連絡は取り合っていて、近況報告は欠かさなかった。


 その一ノ瀬から、突然、日本に帰ると連絡がきた。

 一時的な帰国ではなく、アメリカの家を手放して、今後は日本で過ごすという。


「こういう再会は嬉しくないな」


「だよなぁ。ウルトラ優秀な俺もさすがにこれは予想外」


 病室のベッドの上で、入院患者のガウンを着て、一ノ瀬は剛毅に笑った。


 余命一年もない人間の様子には、到底見えなかった。


 肺がんが発見され、脳幹に転移が見つかった。それは実質、余命宣告だ。いかに優秀な脳外科医であろうと、脳幹に根を張った腫瘍には手を出せない。


「今回の検査結果は、一ノ瀬がアメリカで受けたものと、そう変わりない。うまく薬が効けば、一年」


 一ノ瀬は優秀な医師である。楠木の先輩で、輝かしい実績を持ち、臨床の現場で修羅場を潜り抜けてきた脳外科医だ。無駄な誤魔化しは不要だった。


「早ければ、三か月」


「おー、良い見立てだ。お前もやるようになったな」


「もう六年も経ってるからね」


 いつの間にか後輩が増え、部下ができ、責任ある立場に足を突っ込んでいる。


「あの子は?」


「家で待ってる。一泊二日の検査入院に付き添いはいらねえだろ」


「元気になった?」


「なった、なった。くっそ生意気になった。今じゃたまに喧嘩で負ける」


「喧嘩なんてするのか」


「いやそれが、筋が良いのなんの。的確に急所狙ってきやがるし、小柄なりに下から攻撃してきて防ぎにくいし、重心移動マスターして大の大人でも平然と背負い投げるように」


「お前はどういう教育をしてるのかな」


 呆れた楠木に、一ノ瀬はがははと笑った。


「自衛手段だ。どうせあいつはこの先、一生、めんどくせえ輩に絡まれ続ける。あの顔じゃ仕方ねえ。嫌でもトラブルは起こるだろうし、その時、身を守る技術は必須だろ」


「だからって、喧嘩か」


「平和的に会話で解決できるような奴じゃねえからな。今でも口下手だ。つーか、口が悪い。すげー悪くなった。なんでだ?」


「一ノ瀬と暮らしてるからだよ」


 検査入院の後、一ノ瀬は定期的に通院をしながら、非常勤で大学病院の仕事に入るようになった。「あいつの教育費、貯めておかねえと」と言う言葉に、何も返せなかった。


 話があると言って呼び出されたのは、一ノ瀬が帰国して三か月後だった。

 幹線道路から少し離れた位置にある、駅から遠い一軒家は、一ノ瀬が帰国してから中古で購入したものだ。子どもに遺すためのものだと、言われずともわかる。


 その一軒家にお邪魔した日、意外にも整頓されているリビングのダイニングテーブルに向かい合って座り、一ノ瀬は書類の束を差し出してきた。


「楠木にやる。俺からのラブレターだ。愛情と真心と執念をこれでもかと込めておいた」


「何ひとつ嬉しくないんだけど、何かな」


 馬鹿な台詞には取り合わず、書類をめくる。

 数種類の生命保険の、契約書だった。


「俺が入ってた生命保険、受取人を全部楠木にしといた」


「うん?」


「勧誘のねーちゃんが可愛くてついつい契約しちまったもんもあってな、それなりの額になる。んで、こっちの通帳、これも俺の死亡後はお前のモンになる。遺産相続ってやつな」


「遺産って、それはあの子に」


「もちろんそれは別にある。あいつが今後、大学卒業まで困らねえように、たっぷり貯めた俺のへそくり通帳を渡す手はずにしてある。だから、楠木には、これだ」


 遺言書はもう書いた、と一ノ瀬は胸を張った。


「いらねえ資産だ株だは、全部金に換えておく。で、ここに入れておく。俺の生命保険で降りてくる金と合わせれば、かなりの額になる」


 目の前で、破天荒な男が、頭を下げた。


「珪を引き取ってくれ」


 ◇◇◇


 葬儀場に来た人間の数は、予想をはるかに超えて多かった。


 一ノ瀬に血縁者はおらず、形式上、喪主は一ノ瀬の息子にあたる珪となるが、実際には楠木が切り盛りした。通夜から葬儀、出棺に至るまで、珪は自宅から出てこなかった。


 小さな箱に収まった遺骨を抱え、楠木は一ノ瀬の家へ戻った。


 ソファの隅に、小柄な影が丸まっていた。リビングの照明の下で、綺麗な金色が反射している。


 アメリカから帰ってきた時、子どもは髪を染めていた。白人の多い環境だったから感化されたのかと思いきや、向こうでは元の黒髪で過ごしていたらしい。


 日本に帰ってくるにあたって、染めた。生みの親や、かつて関係した加害者たちから、少しでも隠れおおせるための、一ノ瀬の案だったという。髪色が変われば、すぐには同一人物だと気付かれにくい。


 豪快で奔放で馬鹿なくせに、そういったところで、一ノ瀬という男は本当に濃やかだった。


「葬儀、終わったよ。遺骨はここに置いておく。本当はお墓とか、手続きしなきゃいけないんだけど、今はまだいいよ。落ち着いたら考えよう」


 ダイニングテーブルに、箱をそっと置いた。


「今後のことは、一ノ瀬から聞いてると思うけど、一応、俺が後見人になる予定。あいつは養子縁組しろってうるさかったけど、やっぱり君の家族は一ノ瀬だし、俺はそこを壊したくない。未成年後見人っていう制度があって、保護者のいない未成年者の養育をする立場なんだ。親じゃないけど、まあ、養育者みたいなものかな。もし、君がよければ、その手続きをしようと思ってる」


 当時、珪は十四歳だった。保護者も養育者もいなければ、児童養護施設で暮らすことになる。


「俺の連絡先、知ってるよね。聞きたいことがあったり、困ったことがあったら、いつでも連絡入れといていいよ。後見人のことも、君の希望が決まったら教えてくれるかな。もちろん、俺以外の後見人を希望してもいいし、児童養護施設に入って生活する方法もある。そのあたりの選択肢も、一ノ瀬から聞いてると思うけど」


 遺産の整理や各種手続きは、一ノ瀬が生前に弁護士に依頼していた。


 珪から連絡が入ったのは、葬儀から八日後だった。


『後見人、お前でいい』


 素っ気ない一文だった。


 ◇◇◇


 未成年後見人の手続きを済ませた翌日、楠木は珪を呼び出して、とある閑静な住宅街に足を運んだ。駅から緩い上り坂を上った途中に、白い建物がある。


 その白い建物を指さして、楠木は珪を見下ろした。


「手始めに、ここを買った」


「…………は?」


 前触れもなく報告すれば、さすがに疑問詞が返ってきた。手続きのために必要なやりとりを交わすなかで、この数日、楠木はようやく珪の声を知った。


 とはいえ、会話数はまだ極めて少ない。


「一階と二階を診療所、三階を自宅にする。リフォーム工事は終わってるから、あとは機材の搬入」


 もともと、整形外科が入っていた、居抜き物件だ。中古で安く手に入った。設備を置くスペースも十分にある。


「春から開業する。一応、引っ越しは来月の予定だけど、君の荷物は最低限運んでおけばいい。基本的にここで寝泊まりしてもらうことにはなるけど、君の家は一ノ瀬のあの家だから、好きな時に帰っていい。そうだな、目安として、月の半分はこっちで寝泊まりするようにしようか。一応、俺の監督責任もあるから」


 未成年後見人は、身辺監護も義務となる。まだ中学生ともなれば当然同居すべきだが、珪から一ノ瀬を奪うつもりは毛頭ない。


 珪は怪訝そうに白い建物を見上げている。


「開業?」


「うん。大学病院勤務じゃ、あまりにも時間がないからさ。開業してのんびりやろうかなと思って。設備充実させたから、君の検査もここで出来る。定期通院で大学病院に行く必要もなくなるよ」


 建物の中に踏み入れれば、内装はすっかり診療所だ。


 一階には診察室と、レントゲンなどの簡単な検査室、二階にはCTやMRIといった大掛かりな検査室に加えて、簡易の手術室も完備した。すべて合わせて億に迫る資金は、一ノ瀬の保険金で賄った。どうせたっぷりあるのだからと、楠木は惜しみなく投資した。


 以前から、珪の問題行動は繰り返されていたが、一ノ瀬の容態が悪化したこの半年は顕著だった。憂さ晴らしのように喧嘩をしては、一ノ瀬に引きずられて大学病院の外科に放り込まれてきた。痛覚がないというのは厄介だ。一度は脾臓が破裂していて、あわや緊急事態だった。


 故に、楠木は万全を期した。少なくとも外科処置であれば、ほとんどはこの診療所で賄える。


 三階の自室となるスペースも見て回って、建物を出た。


「いつからこれ準備してた?」


「うん? そうだなぁ、半年くらい前からかな」


 一ノ瀬から生命保険の書類を渡された日、その足で、楠木は不動産に駆け込んでいる。

 珪を引き取るのなら、必要な準備は山ほどあった。半年でここまで整えたのは、我ながらよくやったと思う。


 楠木の返事を受けて、珪はますます眉を寄せた。


「俺を引き取ることになったから、お前、大学病院辞めるんだろ」


 大人の事情を、この子どもはよくよく察している。


「俺がもしお前を蹴って施設に入ってたら、この診療所どうするつもりだったんだよ。全部無駄になんぞ。何千万も使ってとんでもねえ賭けしたな」


 まるで一ノ瀬のようだった。

 口調も、言葉の選び方も、気にするところまで、瓜二つだ。

 口が悪くなったと嘆いていたあの悪友は、今頃どこかで「俺そっくりだろ」と笑っているだろう。


「大丈夫だよ」


 楠木は、思わず笑ってしまった。


 一ノ瀬の面影をしっかりと受け継いでいるこの子どもを、大切にしたいと思った。


「君は、俺を選ぶって、わかってたから」


 一ノ瀬が存命の間、楠木は何度も一ノ瀬の家に通った。


 事務的な堅苦しい話から、くだらない昔話まで、話題は尽きなかった。


 一度だけ、珪の部屋を見せてもらったことがある。本人は不在にしていて、一ノ瀬が悪だくみをした悪ガキの顔で「いいモン見せてやる」と楠木を手招いた。


 物が少ない部屋の中に、大きな本棚があった。突っ込まれている本はジャンルがバラバラで、手当たり次第に手に取って買ってきたようなラインナップだ。本人の趣味や興味が反映されている本棚ではなく、おそらくは、本人にまだ趣味も興味も芽生えていないのだと思う。


 それでも、珪は本を読んでいた。小説から実用書、専門書、図鑑まで、さまざまな本が並んでいた。


 本棚の端に、ひときわくたびれた本があった。思わず手に取って、表紙を眺めた。


 出国の直前、楠木が渡したその小説は、何度も読み込まれたことが如実にわかる、たわみと日焼けがついていた。


 楠木の声は、あの日の小さな子どもに、ちゃんと届いていた。


 白い建物を見上げていた珪が、ふいと視線を寄越してきた。


 灰色の虹彩は、陽の光に反射すると、薄い青にも見える。髪の色は染めているが、その瞳の色は生まれつきだ。珍しく美しい色だと思う。


「……なに?」


 黙って見上げられ、楠木は聞き返した。


 珪はまじまじと楠木を眺め、「べつに」と言った。


「奏真が言ってた通りだなと思った」


「なんて?」


「楠木は人畜無害な顔してヤベエ奴だから、甘く見るなって」


「……誉め言葉じゃない気がするな」


 腐れ縁の悪友の、最後まで憎らしい言葉を受けて、楠木は晴れやかな気分で笑った。

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