幕間②
第16話 楠木(1)
楠木が医学部を卒業して研修医期間を乗り越え、大学病院の医局に配属された先に、その男はいた。
楠木より二年早く配属となっていた一ノ瀬は、楠木よりよっつ年上だった。同年代の若手医師が何人もいる、大規模な組織であるというのに、一ノ瀬が目を付けたのは不幸なことに楠木であった。
「遅え! おっせぇよ楠木、どこで道草食ってやがった!?」
「文句言われる出勤時間じゃないはずですけど」
「いいか、教授が来たら、一ノ瀬は深刻な体調不良で早退したって伝えろ。深刻過ぎて電話にも出られねえし、しばらく雲隠れ、じゃねえや、行方知れずになるって」
「今度は何したんですか」
「あのハゲジジイ、オペ中に不機嫌になる性癖でもあんのか? パワハラとモラハラの手本みてえなジジイだなって言ったらキレやがってよ。自覚ねえのかと思って、カンファの後に渾身のモノマネしてみせたら呼び出し食らって」
「患者の傷口の前に自分の口縫ったほうがいいんじゃないですかね」
「いやそれが、すげー似てるっつって菊田ちゃんたちに大ウケ。忘年会の一発芸、今年は俺が優勝だなこりゃ」
「また呼び出し食らいますよ」
破天荒を絵にかいたような男が、なぜ医師という道を選んだのか、楠木はついぞ知らない。
医局の中で厄介者扱いされながら、憎らしいほどの知識と技術で己の地位を築き上げたような、突飛な医者だった。
「おー、いたいた。楠木くんや、ちょっとツラ貸せや」
「俺の時間を一分無駄にするごとに、俺の担当患者をひとり一ノ瀬に投げるシステムにしようか」
「やべえな。俺の実績がこれ以上増えたら、いよいよアメリカからお声がかかるんじゃねえか。俺がヘッドハンティングされたら、楠木が寂しくて泣いちゃう」
「やっぱり一ノ瀬はまず自分の口を縫ってくるべきだな」
半年もたつ頃には、年上だからといって敬語を使う意義など消失していた。
外科医として順調にキャリアを積んでいった楠木の前には、常に一ノ瀬がいた。
ふざけた言動で各方面からありとあらゆる顰蹙を買うくせに、患者からは妙に評判の良い、そしてどこか憎めない、不思議な男だった。
その一ノ瀬が、見たこともないほど難しい顔で医局の椅子に座っていたのは、楠木が彼と出会ってちょうど十年目の夏だった。新盆で数日の連休をもらっていた楠木は、数日振りに出た医局で、驚いて一ノ瀬を眺めた。
「どうした?」
楠木は珈琲をふたつ淹れ、ひとつを一ノ瀬に差し出した。
一ノ瀬は上の空で「ああ」と言い、そのまま黙ってしまう。
「厄介な症例でもきた?」
「いや」
一ノ瀬は珈琲に手を付けず、手元に置いてあるカルテを投げて寄越した。
「胸糞悪ぃ症例がきた」
楠木が留守の間、救急車でひとりの子どもが運ばれてきた。受けたのは、その日当番に入っていた一ノ瀬だ。状態が悪く、緊急オペになったという。
渡されたカルテに目を通して、楠木は眉を寄せた。
「虐待……性的な」
「おうよ。やべぇプレイしてんだよ、ガキ相手に。もうな、最悪だ。最悪。あんな胸糞悪ぃ外傷、二度とごめんだわ。しかも、薬物乱用の疑い有り。何使われてたと思う?」
「……コデインとか、睡眠薬あたりかな」
「惜しい。デパスとアスピリンのOD」
「本当に最悪だな。通報は?」
「してある。おまわりさんとのおしゃべりで、俺の繊細なハートはボロボロだ。ブラックじゃなくてカフェオレがいい。はちみつ入り」
ふざけた口調ではあるが、一ノ瀬の顔には疲労が滲んでいた。
黙って牛乳とはちみつを用意してやる。
「親は?」
「任意同行っつー名目でしょっぴかれてる。ありゃしばらく出てこねえな。悪質過ぎる」
一ノ瀬は、甘ったるいカフェオレを一気に飲んだ。
「俺ァ超絶優秀なお医者さんだからよ、付着物の検査もしっかり実施しちゃったわけだ。ガキについてた体液は少なくとも四人分」
その言葉で、楠木は珈琲を諦めた。苦すぎて飲めやしない。
「商売道具だ。自分のガキを変態に貸し出してお好みのプレイさせて、趣味悪ぃ動画撮影して、ポルノ販売。がっつり稼いでたらしいぜ。あーあ、なあ楠木、どう思う? 親の精神鑑定の名目で、俺がお呼ばれしねえかな。ついうっかりカリウム静注してもギリ許されんだろ」
「外科医は精神鑑定ではお呼ばれされないよ」
たぶんね、と付け加えておく。
カルテをそっとテーブルに戻した。わずか七歳の子どもの、凄絶な状態は、文字を見るだけで嫌でも伝わってきた。
一ノ瀬がわざとらしく伸びをする。
「これがまた、すげー美人なんだよ。だから獲物にされちまったんだろうなぁ。ガキのくせにすげー美人。ありゃ将来化けるね。あやうく俺の光源氏計画が始動するとこだったわ」
「男の子だよ」
「俺の華麗なジョークだ、ジョーク」
一ノ瀬は普段の豪快な空気もどこへやら、疲れ切った顔でぼやいた。
「軽口叩かねえとやってらんねえんだよ、実際」
◇◇◇
子どもの担当医は一ノ瀬になり、楠木がフォローについた。
虐待を受けた子どもの入院事例は、珍しくはない。とはいえ、ここまでヘビーな環境から救出された子どもを担当するのは、一ノ瀬も楠木も初めてだった。
「絵に! 描いたような! 解離性障害! そのまま教科書に載せろオラァ!」
「うん、落ち着こうか。あ、すみません、大丈夫です。いつもの発作です」
医局に戻ってくるなり吼えた一ノ瀬を、どうどうと椅子に座らせておく。何事かと見やってくる医局の先輩後輩に、楠木は笑顔で会釈を振りまいた。そんな光景が茶飯事になった。
少年の治療と検査が進むにつれて、一ノ瀬の機嫌は降下の一途をたどった。
ストレスからくる解離性障害、具体的には痛覚の麻痺が発覚し、その他視覚や聴覚も極度に鈍い。想像を絶する地獄の中で、五感を遮断するという究極の選択をした子どもの胸中を思えば、一ノ瀬の不機嫌を止める気にもなれなかった。
もとのコンディションが悪すぎたため、子どもの身体的な回復は遅かった。精神や言語の面でも遅れが見られ、専門のケアチームが編成された。カウンセラーや言語聴覚士が子どものリハビリに当たったが、対応は困難を極めた。
「だっから、複数人で部屋に入んなっつってんだろてめえら頭に豆腐でも詰まってんのか!?」
一ノ瀬の怒鳴り声が、連日、医局や会議室に響き渡るようになった。
大人との接触に対して、子どもは明確な拒絶を示した。生い立ちを考えれば当然である。複数人が病室に入ろうものなら、点滴やチューブを引っこ抜いて逃げ出そうとした。
パニックを起こしたある日、逃げようとして窓から飛び降り、一ノ瀬の我慢が限界を超えた。もともと、我慢などハナから出来ない男だ。その日、一ノ瀬は主治医権限および恐喝をフル活用して、あらゆるスタッフを入室禁止とした。
「つーわけで、これからあいつのリハビリ担当はお前だ。よろしく」
「カウンセラーさんとかSTさんとか押しのけて、なんで俺かなぁ」
「お前、なんか知らねえけど大丈夫だろ。あいつ逃げねえし。人畜無害な顔してるから、でっけえぬいぐるみか何かだと思われてんじゃねえの?」
「一ノ瀬は?」
「俺は治療担当。楠木と俺、最高のチームだな。あのガキも元気いっぱい笑顔全開で退院しやがるわ」
子どもは楠木の前で一度も言葉を発しなかったが、指示には大人しく応じた。慣れない心理学や発達学の本を読み漁り、専門家の助言をふんだんに取り入れつつ、必死にリハビリメニューを組んだ。
「よぉよぉ、聞いて驚け楠木! あのガキ、箸使えるようになったぜ!」
「ああ、良かった。最近練習してたから」
「病室にいきなり絵本増えてんだけど、お前? あいつ字ぃ読めねえだろ」
「ひらがなの練習を少しね。本に興味がありそうだったから」
「喋ったァァァ! とうとうガキが喋ったーッ!」
「え? あれ? 俺、発音練習の時すら一音も発してくれないんだけど」
「今日の検査は何するんだって聞いてきやがった。俺の華麗な血培解説が実施されたね」
「だから今日の検査、三十分も押したのか」
何の波長が合ったのか、子どもは一ノ瀬に懐いた。
あまりにもぶっ飛んだ馬鹿すぎて、害をなす人間には到底見えなかったからかもしれない。
「さて、めでたくガキの退院も見えてきたことだが」
「行先決めてあげないとね。親元には返せないから、施設かな」
「俺は最近、猛烈に勉強している」
「一ノ瀬が毎日こっそり猛烈に勉強してることは知ってるよ。また国際学会出るんだろ」
「なんだオイ、よせよお前、照れるじゃねえか。俺が影の努力家だってことは秘密……じゃなくてだな」
一ノ瀬はおもむろに咳払いをした。
「養子制度ってのはなんであんなにクソめんどくせぇんだ?」
「……今度はまた何を言い出したんだろうな、この馬鹿は」
突飛でありながら、行動力だけは無駄に有り余っている男は、退院前にはその子どもを引き取っていた。
「親の親権は停止されたし、俺の戸籍にぶちこんだし、これでもう余計なちゃちゃ入れることも出来ねえだろ。ああいう人間ってのは、一度甘い蜜を吸うと、執念深く追い回してくるからな」
「お前の行動力だけは尊敬する」
「だけって何だ、オイ」
その後、間を置かずに、一ノ瀬はアメリカへ渡った。
アメリカの方で、子どもとの時間を取りながら働ける勤務体制の病院を見つけたらしい。自称優秀な男は、間違いなく優秀であった。業績を引っ提げて申し込み、文句なしに採用されていた。
「そんじゃ、日本の医療はお前に託す!」
出発前、一ノ瀬はふざけてそう言った。
「俺がいなくなったら楠木は寂しくて泣いちゃうよな、わかるぜ。寂しい夜は電話してきていいからな。どうしても会いたくなったら航空券を」
「アメリカに行っても、本を読むんだよ」
暑苦しい馬鹿は放置して、楠木は小さな子どもに言った。
一ノ瀬の腰ほどまでしかない身長に合わせて、その場にしゃがみこむ。
「君はとても頭の良い子だから。本を読めば、それは全部君の血肉になるからね。この先、何か困ったことが起きたとき、それまでに読んできた本が君を助けてくれる」
子どもの知能は極めて高かった。知能検査の結果を見ても、簡易テストの結果を見ても、飛び抜けて高い数値を出していた。この先、望ましい学習環境さえ用意されれば、子どもは間違いなく、極めて優秀な学力を得るだろう。
一方で、対人関係や社会性という点は、壊滅的だった。根本的な対人恐怖があり、他者との交流を全力で避ける。
だからこそ、本を読んでほしかった。己では出来ない経験や体験を、読書を通して疑似体験することは、子どもにとって糧になる。多様な登場人物の言動や心情を読み続けることで、少しでも、社会性や他者理解を獲得してほしかった。
餞別にと、一冊の小説を渡した。差し出したそれを、目も合わせずに受け取って、子どもは一ノ瀬の影に隠れた。結局最後まで、楠木は子どもの声を聞けなかった。
立ち上がって腰を伸ばし、古なじみの悪友に笑いかける。
「それじゃ、元気で」
「おうよ。その寂しさの欠片もないあっさりしたかんじ、最高に楠木って感じするぜ」
「どうせたまには帰ってくるだろ」
日本に来ることもあるだろうし、国際学会で会うこともあるだろう。研修や短期留学という名目で、楠木が数週間アメリカに行ってもいい。
「その時は、一杯付き合うよ」
たとえ距離は離れても、これからだっていくらでも、会う機会はあるのだから。
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