第15話 約束
中図書館は湾岸近くにある、横浜市立図書館のひとつである。普段の生活圏内から微妙に離れた位置にあり、かつ、最寄駅からも遠いため、アクセスは悪い。
駅からバスを乗り継いでたどり着いた図書館の中に、白いパーカー姿が見えた。
珪は窓際の席を陣取って、大量の本を積み上げながら、黙々と読みふけっている。さすがにこの時期になると暑いのか、パーカーは薄手のものに変わっていた。それでも、フードはしっかりかぶっている。
春日はそっと近づいて、向かい合う席に腰を下ろした。
「……まだ時間じゃねえぞ」
「病み上がりのお前を放置する勇気なかってん。これでまた喧嘩したら次こそ死ぬ」
「もう治ってる。問題ない」
春日は黙ってスマホを取り出した。ラインの画面を開いて珪に向ける。
〈いつの間にか勝手に出てっちゃったみたいで。まだ治りきってないのに。捕獲したら連絡ほしい〉
「これ、ほんまに問題ない?」
珪から届いた昼のラインと前後して、楠木から届いたメッセージだ。養育者の苦労がにじみ出ている。
珪は小さく舌打ちをすると、手元の本に視線を戻した。
春日はリュックを下ろして隣の椅子に置くと、ひとまず楠木に確保完了のラインを送った。
「……お前、あんま楠木さんに心配かけんなや。あんな良い人、そうそうおらんで」
常々思っていたことを、なんとなく口に出してみる。
「反抗期なのかもしれんけどさぁ、怪我も治ってへんまま勝手に病室抜け出したら心配かけることくらいわかるやろ」
「診察が押してんだよ」
「うん?」
珪は本を見下ろしたまま、忌々し気に舌打ちをひとつ。
「いちいち病室に来るから診察が押してる」
「……えーと、それは、あれやんな。お前の口下手にも慣れてきたで、俺」
春日は椅子に座り直し、一度額に指をあてた。
「楠木さんがよく病室に様子見に来てくれるから、他の患者さんの診察時間がおして、患者さんにも楠木さんにも迷惑かけてるっていう意味でOK?」
「非効率だろ。患者からのクレームとか経営とか全然考えてねえ、あの馬鹿」
「だから勝手に病室抜け出してきたわけか……」
果たして馬鹿はどっちかと問いたい。
「迷惑かけたくないってのはわかったけど、それ、結果としてめっちゃ心配かけてるやん。あかんって」
「心配する要素がねえだろ。死ぬわけでもあるまいし」
「お前、自分の常日頃の言動を顧みてからそういう台詞言おうな。あんまり好き勝手やって、そのうち愛想尽かされても知らんよ」
「尽かさねえよ」
微塵も揺らがぬ断言が返ってきて、春日は鼻白んだ。
机に積み上げられた本を一冊取って、見るともなくパラパラめくる。
「まあ、楠木さん、たしかにお前のこと大事にしてるけどさぁ」
「俺がどっかで殺人事件起こしたって、あいつは愛想尽かさねえよ。俺が成人するまでは意地でも養育者でいるつもりでいる」
「いや、それは過信ちゃう。ものには限度ってもんが」
「それがあいつの約束だから」
珪の声は素っ気なかった。
「約束?」
「俺を引き取るっていう約束」
「引き取る?」
珪はひとつ息を吐いた。
そうして、手元の本に視線を落としたまま、他人事のように話し始める。
「俺の保護者が死ぬ時に、あとは全部任せたって、厄介事まとめて押し付けられたのが楠木だ。俺を引き受けるために仕事辞めて、あんな辺鄙なとこに診療所なんか開いて、しかも俺がどんだけ怪我してきてもいいようにって設備にアホほど金かけてる。レントゲンにCTにMRIまで完備して、そのくせ患者はほとんど取らねえし。よぼよぼの年寄ばっか常連にさせて、若い患者なんてほとんど来ねえだろ。なんでだと思う」
いきなり饒舌になって、春日は内心で瞬いた。
珪の保護者が亡くなっているとは初耳である。
「えー……そういう方針のクリニックやから?」
「俺がトラブル起こさねえようにだよ。ジジイとババア相手なら、半分ボケてるような連中だから、喧嘩になりようがねえだろ」
こいつは本当に、悪気がなくても口が悪い。
珪はようやく本を閉じた。
その本を見下ろして、話は続く。
「楠木はもともと大学病院にいた脳外科医だ。そこで大人しくしときゃ間違いなく出世ルートだった。業績も多いし、国際学会で発表もしてるような医者だった。なのに、あいつはそこまで積み上げたモン全部放り出して、あんな辺鄙な診療所に引きこもった。押し付けられたガキの世話するためだけに。死にかけの知り合いに頼まれたからっつー、くっだらねえ理由で。で、今でも律儀にそいつとの約束を守ってる」
くだらないと、吐き棄てるように言った声に、自嘲があった。
「あいつは貧乏くじ引かされただけだ。そのくせ頑固だから、やると決まったら徹底的にやる。俺が成人するまでは、俺が何しようと、あいつは絶対に俺を切り捨てない。そういう約束だから」
「楠木さんがお前を大事にしてんの、愛情やなくて義務感やと思ってる?」
珪は視線をあげないまま、「さぁな」と答えたが、本音がどこにあるかは明らかだ。
だからか、と春日は合点した。
だから珪は、楠木に反抗しない。大学に行けと言われれば手当たり次第に専門書を手に取って学部に悩み、春日と買い物に行けと言われれば苦虫を嚙みつぶしながらも了承する。
それは、楠木への恩や感謝というよりは、後ろめたさに見えた。ひとりの優秀な医者に、多くのものを捨てさせた、罪悪感からくる贖罪に近いのかもしれない。
「ものすごく余計なおせっかい言うていい?」
「断る」
「じゃあ勝手に言うから、お前は聞き流してくれてええけど」
春日は気にせず続けた。
「約束っていう理由だけで、お前みたいな超絶厄介な問題児育てられるような人間、たぶんおらんよ」
問題行動が絶えない子どもを、まして赤の他人を、楠木は常に笑顔で「おかえり」と出迎えている。
そこにあるものが、愛情以外の何だというのか。
春日の家にはない温かいものが、確かに、珪と楠木の間にはあるのに。
「楠木さんはたぶん、大事なもの全部捨てたんやなくて、一番大事なものひとつ、選んだだけやで。貧乏くじじゃなくて、大当たりのクジ自分から引きにいって、一番大事なもんちゃんと大事にするために、必要なことするって決めたんちゃう」
のほほんと笑う穏やかなあの医者は、同情や義務感で軽率な判断はしない。春日の家庭事情を知っても口を出してこないのは、下手な介入は逆効果になると察しているからだ。
口も手も出さない代わりに、いつでも診ると言ってくれた。それだけの応対が、春日にとってどれほどありがたかったか、到底言葉にならない。
その楠木が、築いてきたものをすべて手放してでも、珪を取った。
それは同情ではありえない。楠木の中で、他のあらゆるものと珪を天秤にかけたとき、その比重が迷わず珪の方に傾いたからだ。
「お前が楠木さんのこと大事にしてるのは見ててわかるし、楠木さんがお前のこと大事にしてるのも、見てればわかるわ。今度聞いてみ。ちょうど来週、父の日やし、なんかちょっとしたもん渡して、なんでお前引き受けてくれたのか腹割って話してみいよ。んで、せやな、もしお前が言うとおり、義務感でしかなかったら、俺の負けってことで焼肉奢ったろ」
果たしてこの天邪鬼が、『腹を割って話す』などという高等技術を使えるのかは知らないが、アドバイスくらいしてやってもいいだろう。
そしてここから先は、珪と楠木の問題だ。これ以上、口を出す権利は、春日にはない。
春日はテーブルの上に積み上げられた本を軽く叩いた。
「ほら、帰るぞ。俺にメール寄越したってことは、迎え来いってことやろが。来てやったから、さっさと帰って寝ろドアホ。高校生にもなって体調管理できひん奴は馬鹿かアホのどっちかやで」
「馬鹿に言われたくねえな」
「誰が馬鹿やコラ」
貸出手続きをして図書館を出る。念のため、珪のリュックはぶんどっておいた。今日も何やら分厚い専門書を借りたらしく、怪我人が持っていい重量ではない。
梅雨も間近な空はどんよりと曇っているが、幸い、雨はまだ降らないだろう。
「んで、体調どうなん。普通に歩ける?」
「来るときは歩けた。図書館について座ったら立てなくなった。たぶん酸欠」
「おまえ真正のドアホやん……」
「二週間ありゃ血気胸なんて治ると思うだろ普通」
「知らんわドアホ。動かれへんからとりあえず座って本でも読んどこって思ったやろ。帰りは適当に俺を呼び出したらええわって思ったやろ。のんきか。もうちょい危機感持って。自分の身体の声に耳を傾けて」
しかし残念ながら、珪は自分の身体の声どころか、春日の声にも、耳を傾ける様子はない。
「お前チャリ持ってたよな」
春日は半眼で隣のフードを見下ろした。
「……俺んちによってチャリ取って来いと。んで、後ろに乗せて運べと」
「駅から楠木んち遠いだろ。歩いたらまた酸素足りなくなって楠木に文句言われる」
「楠木さんに迷惑かけへんために、俺に多大なる迷惑かけるの、なんなん? 俺のこと便利屋か何かと思ってる?」
「便利だと思ってる」
一切の悪びれもなく、曇りなき眼で言い切った珪は、本日も掛け値なしに絶世の美人だ。
春日は数秒、珪を眺め、結局、その顔に負ける形で深々と息を吐いた。
「……交換条件、ひとつ」
「あ? なんだよ」
「お前、あんま喧嘩すんなや」
珪が見事な渋面になった。
「見てて気持ち良いもんでもないし、こないだみたいな怪我されたらこっちの寿命縮むし。絡まれたら適当にあしらって逃げろ。手ぇ出すな。……とりあえず、徐々に、なるべくでええから」
あからさまに視線を逸らした珪の顔をのぞき込み、「頼むわ」と念押しすれば、舌打ちと共に「そうかよ」と返事があった。明確な諾の返事を寄越さないあたり、約束する自信はないらしい。
ある意味素直なその返事に笑ってしまって、春日は珪を連れてマンションの最寄り駅まで移動した。敷地内の駐輪場から自転車を引っ張り出す。
あちこちが錆びついて色も褪せている古いママチャリは、二人乗りという暴挙を受け、甲高い悲鳴をあげながら診療所までの坂道を上り切った。
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