第三章:春、ふたり乗りの距離

第13話 エゴ

 進級直後の慌ただしさも、五月に入れば多少薄れた。


 進路希望調査を出し終え、担任との面談が終われば、就職希望の春日は一旦小休止となる。就職情報には目を光らせておく必要があるものの、模試や塾でてんやわんやの同級生を見れば、自分はまだマシな方だと思う。


 四月に一度だけ、全員強制で受けさせられた模試では、適当に書いた国立大学でB判定が出た。結果通知を数秒見下ろして、春日はその紙を丸めてごみ箱に捨てた。


 五月の横浜は温かい。コートも必要ない気温の中、すっかり通い慣れてしまった診療所への道を歩く。


 今日は珍しく、珪からラインの返事がなかった。本日の生息図書館はだいたい予想がつくものの、空振りしたら時間の無駄になる。放課後の二時間しか入れない診療所のバイトは、今のところ、春日の唯一の収入源だ。


 結局、先に診療所に行っている旨を送っておいて、久しぶりにひとりでこの道を歩いた。


 珪と歩けば短い道も、ひとりで黙々と歩いてみると、やけに長い。

 なんだかなあ、と思いながらたどり着いた診療所は、騒然としていた。


「ん?」


 待合室には常連メンバーが揃っている。診療所の常連というのもおかしな話だが、不思議なことに、高頻度で出没する固定メンバーはだいたい決まっている。

 老人たちはそわそわと処置室のドアを見やっては、落ち着かない様子で声を交わしていた。


「珪ちゃん、またかね」


「大丈夫かねぇ」


「救急車呼んだ方がよくないかい」


 本人たちはひそひそと話しているつもりのようだが、何せ全員耳が遠いので、声はでかい。


 異様な雰囲気の診療所にそっと入ってみれば、「あー!」と山内老人が指さしてきた。なぜかその手には雑巾がある。


「おいテメエッ! カレシ! おまえ、何してたんだこのウスラトンカチが!」


「はいっ!?」


 山内老人はぶんぶんと腕を振り回して処置室を指さした。


「さっさと行って手伝え、唐変木!」


「何が!?」


「珪ちゃんがてぇへんなんだよ、この、バカタレッ!」


 頭ごなしに怒鳴ってくる山内老人は、やけに慌てていた。

 説明を求めることは諦めて、急いで処置室に駆け寄り、スライドドアを開ける。

 途端に、血の匂いがした。


「大丈夫だからねぇ」


 飯坂夫人の、ふごふごとした声がする。


「もう大丈夫だからねぇ、珪ちゃん。もう大丈夫。あんたちゃんと帰って来て、偉かったねぇ」


 処置のための素っ気ないベッドの横にパイプ椅子を置いて、ちょこんと飯坂夫人が座っていた。御年九十一歳、その身長は春日の半分ほどしかなく、座るとさらにミニマムになる。


 しわしわの枯れ枝のような細い手が、よしよしと、両手で握った何かをさすっていた。


 それが、白くて細い誰かの右手だと、遅れて気付く。


 血がこびりついた小さな手を、飯坂夫人は慰めるようにさすり続けている。


「ガーゼ足りないかな。拭き綿」


「はい」


 低い声は楠木だ。返事をしたのは看護師兼受付の秋田かず枝。楠木と共にこの診療所を立ち上げたベテラン看護師で、大学病院で看護部長を務めていたという貫禄のある女性である。


 滅菌ガウンを着て手袋、マスク、キャップまで被っている楠木と秋田の出で立ちは、まるで手術室の医者のようだった。


 楠木が見下ろすベッドの上に、見慣れた金色がある。


「…………珪?」


 ようやく、春日は声を出した。


 素っ気ないベッドの上に、小柄な身体があった。仰向けのまま微動だにしないそれは、上半身の服をはぎ取られて、横になっている。処置室の床にはボロ雑巾のようになったパーカーとTシャツが落ちていて、その周囲にもベッドの周りにも、血痕が擦れていた。


「穿刺」


「はい」


 淡々とした楠木の声が、血生臭い部屋の中に響いていた。


 珪の身体は動かない。酸素マスクを当てられた顔に、血の気がなかった。目の上がひどく腫れていて、ああまたこのドアホは、せっかく美人なのに、と現実逃避のようなことを考える。


 上半身のあちこちが変色していた。春日も実体験として知っている、あれは力任せに殴られた跡だ。その打撲痕の隙間を縫うように、出血がいくつもある。切り傷なのか刺し傷なのか、うっすらとした出血が止まらずに滲み出ていた。


 楠木は手を止めると、一度顔を上げた。

 ベッド横のモニターを確認し、秋田が何かを用意するほんの数秒の空白に、春日に視線を投げてくる。


「春日くん」


 いつも通りの落ち着いた声だが、いつもの和やかさは鳴りを潜めていた。


「ごめん、悪いんだけど、受付お願いできるかな。今いる患者さんたち、今日は帰ってもらって。このあともう、閉めるから。臨時休診の札出しておいて」


 説明をしている暇はないと、楠木の態度が告げている。

 返事が出来ずに立ち尽くす春日の手を、ふいに何かが包んだ。


「大丈夫だからねぇ」


 飯坂夫人が、ふごふごと、春日の手を握ってくれていた。


「ちゃぁんと、帰ってきたもの。楠木先生がいるから、珪ちゃん、大丈夫。あんたも、シャンとせなあかんよ。珪ちゃんは、大丈夫」


 よしよしと背中まで撫でられる。本当は頭を撫でたかったようなのだが、一瞬手を伸ばした飯坂夫人は、すぐに身長が足りないことに思い至ったらしい。


 がらりと、処置室のドアが控えめに開けられた。山内老人が顔を出す。


「楠木先生、こっちの掃除、終わったぜ。血痕ひとつ残ってねえ、ピッカピカってもんだ」


「ああ、ありがとうございます」


 楠木は顔をあげずに答えた。手を止めない楠木を見て、山内が顔をしかめる。


「やっぱり、救急車呼びますかい。ちょっとマズイんじゃ」


「いえ」


 かぶせるような返事だった。


「ここで対応できます。こういう事態には、備えているので」


 もう一度「春日くん」と促され、春日は小さく返事をして、鉛のような足を無理やり動かして処置室を出た。


 ◇◇◇


 心配して渋る老人たちを、なだめすかして帰宅させ、「臨時休診」の札を下げる。

 受付にあるパソコンのデータ整理をして本日の会計を確定させ、待合室やトイレの掃除と消毒作業をし、溜まっているタオル類を洗濯機に突っ込んでスイッチを入れた。


 無心でひたすら身体を動かしているうちに、いつの間にか陽が沈んでいた。窓から差し込んできていたオレンジ色の夕日が、すっと薄暗い色に変色する。


「春日くん、終わったわよ。ああ、ありがとう、洗濯」


 振り返れば、ガウンを脱いだ秋田が近寄ってきた。


 春日の肩ほどまでしかない身長の秋田は、どう見ても、体重では春日に勝っている。まさに貫禄という言葉を体現しているかのような、頼もしい看護師である。


「これは廃棄処分。裂けてるし破れてるし、血まみれだし。まったく、服を無駄にして」


 秋田が抱えているのは珪の服だ。パーカーとTシャツ、ジーパンを、「感染性廃棄物」と書かれたゴミ箱に放り込んでいる。


「……珪は?」


「大丈夫よ。あの子あれでしぶといから、どうせすぐ動き回るでしょ」


 恰幅のいいおばちゃん看護師は、ざっくばらんな性格だが、下手な誤魔化しはしない。


「で、私これからちょっと、大学病院の方に行ってくるから。時間があるなら、一回顔出してあげるんだよ。そろそろ起きると思うから」


 茶封筒を持った秋田は、悠然と裏口から出て行った。

 手持無沙汰に突っ立っていたところで、「春日くん」と楠木に呼ばれる。


「ちょっといい? まだ時間ある?」


「あります」


 清掃されて綺麗になった処置室のベッドに、珪が寝ていた。

 酸素マスクをつけたまま、入院患者のようなガウンを着て、普段の様子は見る影もない。


「とりあえず落ち着いた。ちょっと見ててくれるかな。俺、病室の用意してくるから」


「はい、あの……こいつ、大丈夫ですか」


「大丈夫だよ」


 楠木の声が、普段通りに柔らかかった。

 それに、ようやくほっとした。


「派手に喧嘩してきたんだよ。多勢に無勢で、ぼっこぼこだったみたいでさ。それでも相手蹴散らして帰ってくるんだから、すごいんだか何なんだか」


 ぽんと肩を叩かれる。


「ごめんな、君が苦手なもの見せて。大丈夫?」


「大丈夫です」


 楠木はペットボトルの水を手渡してくれた。何口が流し込むことで、せり上がってきそうな気持ち悪さを飲み下す。春日はパイプ椅子に座って息を吐いて、何かを誤魔化すようにキャップをいじった。


「……こういうの、よくあるんですか」


「うん?」


「怪我して帰ってくるの」


 待合室の老人たちの、「珪ちゃん、またかい」という言葉が耳に残っている。


 楠木は静かに笑った。


「あるよ。ここまで酷いのは、久しぶりだけど。小さな怪我はしょっちゅう」


「やめさせないんですか」


 責めるような口調になった。


 養育者だというのなら、楠木は珪の素行に責任ある立場のはずだ。それなのに、楠木は珪が怪我をして帰っても、喧嘩をして帰っても、諫める様子もなく「またかぁ」と笑うだけである。


「喧嘩すんなって言うて、こいつが聞くかは知らんけど、ちゃんと叱っていかんと、」


「珪から喧嘩を吹っ掛けたことなんか一度もないよ」


 薄く笑って答えた楠木の声が、重かった。

 ベッドの横に立ったまま、楠木は珪を見下ろしている。


「外ですれ違う他人の全員が、珪のことを無視してくれたら、珪は喧嘩も怪我もせずに帰ってくるよ。でも、現実はそうじゃない」


 珪はいつも、フードを被って顔を隠して歩く。

 それでも、素顔を隠しきれるわけではない。


「今日は声かけられて車に連れ込まれそうになったって。で、ぞろぞろ仲間が出て来て囲まれたって。そういう人間相手に、無抵抗でいていいとは、俺は思わないんだよなぁ」


 そういう人間を相手に、無抵抗でいればどうなるか、十分に知っているような声だった。


「珪が自分から他人に関わることなんかない。他人に興味ない子だし、そもそも人が嫌いだし。ただ、絡まれたら、加減ができない。殴って制圧して、身の安全を確保するっていう方法しか知らない。そもそも、身を守るために必要なら、反撃を躊躇するなって、珪は教わってる」


 楠木は一瞬、目を細めた。

 遠くにいる誰かを思い浮かべるような表情だった。


「珪にとって、この社会は、反撃しなきゃいけない場面が多すぎる。珪が無抵抗で害されるくらいなら、相手にどれだけの怪我負わせてでも無事に帰って来てほしいんだよ、俺は」


 楠木は静かな口調で言い切ってから、「エゴだよ」と付け加えて笑った。


 ◇◇◇


 楠木が出て行ってシンと静かになった部屋の中に、モニターの音だけが規則的に響いていた。

 珪が目を開けたのは、それから数分もしないうちだ。

 眩しそうに薄目を開けて、灰色の瞳が周囲を彷徨ったあと、春日をとらえる。


「……なんでてめえがいんだよ」


「……俺、バイトの時間やし」


 珪はうんざりとした様子で視線を逸らすと、前触れもなく起き上がった。


「いやちゃうやろお前なんで起きる!?」


 腕には点滴がついている。酸素マスクもついているし、患者用のガウンの隙間から伸びているチューブは、おそらく胸部のどこかにつながっている。どう考えても、動いていい状況ではない。


 ベッドに押し戻そうと腕を伸ばしたら、払いのけられた。


「楠木は?」


「え? えーと、何やっけ、あ、病室の用意してくるからちょっと見ててくれって」


 どうにも回転の鈍い頭の中から、先ほどの会話を引っ張り出す。珪は舌打ちをひとつして、改めてぐるりと処置室を見回した。次いで、自分の身体を確認するように見下ろしている。


「寝とけって。おま、ほんま死にそうやったで。身体あちこちやばい色になってんで。大人しくしとかな、また血ぃ出るよ」


「うっぜ。お前に関係ねえだろ。さっさと帰れよ、バイトの時間終わってんぞ」


「無理」


 珪がうろんな視線を向けてくる。


「さすがに、この状態のお前置いて帰るのは、無理。せめて楠木さん来るまで見張っとく」


 放っておくと、さっさと立ち上がって歩き出しかねない顔をしているのだ。

 楠木が春日に見張りを頼んだ意味がよくわかる。


「無理して起き上がらんと、寝とけや。絶対肋骨折れてるから。あばらのとこやばい色やったし。肋骨折れるとめっちゃ痛くない? 俺昔、死ぬかと思ってんけど」


「痛くねえよ」


「んなわけないから、せめて寝ろ。頼むから寝ろ。見てる俺が痛い」


 珪の呼吸は少し早い。酸素マスクを着けているのは、自力だけでは呼吸が不十分だからだ。

 首にはぐるぐるに包帯が巻かれているし、胸部から伸びているチューブの中を、赤混じりの液体が流れている。身体のどこかにチューブを刺して、体内に溜まった血か何かを排出しているのだと、なんとなくわかる。


 そんなとんでもない処置までされておいて、身体中を痣だらけにしておいて、動かないでほしい。本当に、見ている方が痛い。


 顔をゆがめる春日を睨み上げて、珪は突然、拳を繰り出してきた。


 ドスッとわき腹に一発。


「いって! じゃなくて、動くなアホ!」


「お前、それ痛ぇだろ」


 言うやいなや、珪は立ち上がった。酸素マスクを投げ捨てている。


「俺は、痛くねえよ。死にそうな顔してるとこ悪いけどな、俺は、痛くねえんだよ。お前に心配される必要はねえし、お前にんな鬱陶しい顔されても苛つくだけだし、どうせ怪我なんてそのうち治る。楠木がいるし」


「俺のことを信頼してくれてるのは嬉しいけど、今動くのはドクターストップだなぁ」


 珪の表情があからさまに「げっ」となった。


 にこやかに入ってきた楠木は、無言の笑顔だけで珪をベッドに戻らせ、有無を言わさずに酸素マスクを付け直した。文句を百ほど飲み込んだ顔をして、珪は大人しく横になっている。

 相変わらず、この横暴天使は、楠木にだけは逆らわない。


 珪の肩口まで掛け布団をしっかりかけてから、楠木は春日を振り返ってきた。


「ごめん。こいつ口も態度も悪い上に考えるより先に手が出て。今のは珪なりの『心配しないで』っていうメッセージだから」


「違ぇよ」


 即座に珪が言い返している。


「お前は、これ以上動くつもりなら大学病院に搬送して入院させるからな」


「……」


 楠木が強い。


 完敗した様子で黙る珪を見下ろして、楠木は笑って椅子を用意した。春日の隣に座り、珪の掛け布団を軽く叩いている。


「春日くん、今珪からも聞いたと思うけどさ」


 何気ないような、開示だった。


「痛くないんだよ。珪は、痛覚がない」


 何も言えずに、ただ困惑する。


 怪我をして、それでも平然と動いていた姿を思い出す。「痛くない」と繰り返していた、あれは強がりでも、誤魔化しでもなく。


「今も、これだけ怪我してても、痛くない。胸腔にチューブ突き刺すような処置も、麻酔無しで出来る。今、肋骨折れて肺にちょっと穴が開いて胸腔に血が溜まって、打撲と切り傷どっさりな上に足首もヒビ入ってるけど、平気で元気いっぱい走れちゃう」


 予想の十倍ほど重傷だった。


 それでも、珪は「痛くない」。


「ほんとにいろいろ、心配かけてごめん。とりあえず、今日はもう帰った方がいい。受付さばいてくれてありがとう、助かったよ」


「遅くなるとまた殴られるぞ」


 珪が口を挟んだ。


「お前は不便だな。殴られるたびに痛ぇなんて」


「珪」


 たしなめた楠木の声に、珪は素直に口を閉じている。


 患者が入院するための病室は、一階の奥にあるらしい。そこに珪を放り込み、楠木は春日の背中を叩いて立たせてくれた。


「まだ気分悪かったら、送ろうか? 一応、車あるから」


「いや、ええです。あいつ診ててやって」


 スタッフ用の裏口まで進んでから、春日は足を止めた。見送りに来てくれた楠木を振り返れないまま、緩慢な動作でドアノブに手をかける。


 そのままたっぷり数秒、逡巡してから、ようやく「……なんで?」と口に出せた。


「痛くないっていうのは、なんで?」


「生きるためかな」


 楠木の答えは難解だった。


「珪が生きるために、それが必要だったからだよ」


 気を付けて、と言って手を振った楠木の態度が、それ以上聞くことを拒絶していた。

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