幕間①

第12話 結衣

 最近、結衣の兄は忙しそうだ。


 普段から、家事とバイトに追われている兄が、最近、とみに忙しそうだ。そしてそれ以上に、楽しそうである。


「やっぱり、珪やと思う? ホゲータ」


 ベッドの中で、両腕で抱えるほど大きなホゲータに話しかける。


 先月のホワイトデーにもらったこのホゲータは、珪が取ってくれたものだという。

 大好きなポケモンの、これほど大きなぬいぐるみ。何より、兄と珪が結衣のために時間を割いてくれたということが嬉しくて、もらった時には思わず飛び上がってしまった。


 すぐさまラインで珪に〈ありがとう! 一生大事にする!〉と送ったら、〈おう〉という素っ気ない返事があった。珪の愛想がないことは通常運転なので、結衣も今更気にしない。


 数日後、ラインがピコンと鳴って、珪から写真が一枚送られてきた。手のひらサイズのホゲータが、見たことのないテーブルの上にちょこんと座っていた。


〈なにそれ?〉


〈でかいホゲータを獲得した礼っつって、春日が寄越した。高二の男がぬいぐるみもらっても迷惑なだけだってお前の兄貴に教え込んどけ〉


 そう言うわりに、ホゲータは丁寧にテーブル脇の壁に寄りかけられて座っている。

 不愛想で口の悪い、目が覚めるほど綺麗な顔をした珪というこの人物は、何気に律儀だ。


〈それ、どこ? 楠木先生のうちのテーブルとちゃう〉


〈お前、探偵になれるんじゃねえか〉


 珪は呆れたような一言をくれた。そのまま、特に間を開けずに言葉が続く。


〈俺のうち。今日は帰ってる〉


〈珪のうち!? 行きたい!〉


〈断る〉


 楠木の家で暮らしているように見える珪は、実際には別に自宅があるという。

 結衣も、月の半分は叔母の家でお世話になっているので、似たようなものかと聞けば、珪は少しだけ考えた後「まぁ、似たようなもんだな」と言った。


 結衣が珪と連絡をとるのは月に数回だが、兄はほとんど毎日、顔を合わせていると思う。

 学校帰りに、珪と落ち合ってから診療所に向かうらしく、二月ごろから兄の話の中に「珪」という言葉がやたら増えた。


 四月になり、三年生に進級した兄は、最近めっぽう忙しい。模試がどうの、補講がどうの、資格試験がどうのと、落ち着きのない生活になっている。それでもバイト時間だけは死守しているから、きっと楽しいのだと思う。


 兄は、部活をしていない。部活にかける時間と金を、父親が認めなかった。

 そして、大学進学もしない。ろくな学力もない奴が大学に行って何になる、と父親が一蹴した。


 兄がろくに勉強できなかったのは、家事と結衣の世話に追われているからで、地頭は間違いなく良い人なのにと、結衣は悔しくて仕方がない。


 バイトに関しては、兄が粘りに粘って、父親に妥協させた。家事をおろそかにしないという約束で、高校一年生から続けている。時間の制約が厳しいため、ほとんどは単発や短期のバイトだ。一部、こっそりと父親に隠れて中学生のころから続けているケーキ屋のバイトなどもあるが、あくまでも例外である。


 苛立つ父親にどれほど殴られても、兄がバイトの許可をもぎ取ったのは、結衣のためだ。


『俺が高校出たら、すぐこの家から逃げるからな』


 ふたりで生活をするための資金を、兄は何が何でも稼がなければならなかった。


 兄が大学を諦めたのも、部活を諦めたのも、将来の夢など描けなかったのも、すべて、結衣のためだ。


「おにいはな、ずーっといっぱいいっぱいやってん」


 腕の中のホゲータに話しかける。つぶらな瞳が、何も言わずに見上げてくる。


「おかんが死んでから、ずーっと。あんなクソおやじ、馬鹿野郎言うて殴り返せば絶対おにいが勝つのに、うちがいるから、おにいはそれが出来ひん」


 結衣が殴られずに済んでいるのは、兄が父親の矛先を甘んじて受けているからだ。

 結衣という人質を盾に、父親は心置きなく兄を殴る。


「うちが殴られる前に、うちのこと助けなあかんって、ずっと必死やってん」


 兄は結衣に笑ってくれるが、その笑顔の裏にはいつも、言葉にもならない焦燥があった。


 責任感と不安と苛立ちに押しつぶされそうな、切羽詰まった空気があった。


 兄にその重責を負わせているのは自分なのだと、そのことが結衣の心痛だった。


「けどな、最近、アホみたいに笑うんよ」


 むぎゅ、とホゲータの頬を押す。多少潰れたホゲータは、それでも愛嬌の塊のような顔をしている。


「あんたがうちのとこに来た日も、おにい、笑ってたやろ。なんや珪が小難しい理屈ならべてクレーンゲーム攻略したとか言うて。遊び心がないとか文句言うてたけど、あれな、おにい、珍しいんやで。普段あんまり、人の愚痴とか言わん人やもん」


 珪の話をする時、兄はよく文句を言う。態度が悪い、口も悪い、今日はこんなことをしやがった……生き生きと話す兄の表情は明るい。口でどれほど文句を言っても、顔は笑っているのだから、結衣も笑ってしまう。


 はち切れそうな焦燥のない、普通の高校生のような顔を、するようになった。


「珪がおにいの友達になってくれてよかったなぁ。おかげで、あんたもうちのとこに来れたんやで。来年、このうちから逃げる時は、絶対一緒に連れてったるからな」


 ここから逃げることは確定している。

 この家にいれば、いつか兄は洒落にならない怪我をする。

 あと一年、息を潜めるように生き抜いて、この地獄から逃げ出すのだ。


 けれど、その時、兄と結衣はあらゆるものを置いていかなければならない。


「……珪も、一緒に来てくれたらええのになぁ」


 この街から逃げるということは、珪に会えなくなるということだ。


 どこか遠い、父親の手の届かない土地で暮らす時、きっと兄の隣に珪はいない。


 そのことが、最近、ずっと結衣の心に引っかかっている。


「うちのせいで、おにいはまた、大事なもんいっこ捨てることになる……」


 ぎゅうとホゲータを抱きしめれば、滑らかな手触りが腕の中でムギュと潰れた。

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