第11話 春日がいたから

 捨て台詞を吐いて引いて行った相手を見送り、春日は軽く汗を拭いた。

 駆けつけてきた店員と警備員に事情を説明し、スタッフ用の控室を貸してもらう。

 大人しく春日の後ろでホゲータを抱えていた珪は、やはり大人しく控室についてきた。


「で、どうしたお前。自分で言うといてアレやけど、お前がほんまに止まるとか思わんかった」


 待て、と言って飛び込んでみたものの、この暴力天使が本当に止まるとは計算外だった。


 パイプ椅子に座った珪は、早々にホゲータをテーブルに置いた。血が飛んでいる左の肩口につかないよう、慎重に右手で持っていたホゲータだ。結衣へのプレゼントが汚れないよう、丁寧に扱ってくれていた。


 そうしたさりげない配慮や心遣いが出来るくせに、躊躇なく他人の眼球を殴り潰そうと手を上げてしまう、過激な暴力性が腑に落ちない。


「怪我やばくて動かれへんかったとか? お前さ、わざと殴られるのやめぇよ。殴るために殴られるとか、わけわからんで」


 珪は、自分からは手を出さない。

 必ず相手に最初の一手を出させておいて、反撃に正当性を持たせようとする。

 警察沙汰になった時のため、ひいては楠木に迷惑をかけないためだ。


 だからといって、防御もせずに大の男に力任せに殴られるなど、春日には理解できない精神である。大の男に力任せに殴られ続けてきた身として、「アホか」と言いたい。


「うーわー、顔。おま、せっかくの美人が、顔にんな殴られた痕あったらあかんて。芸術への冒涜や。冷やすもん借りてくる、待っとけ」


「いらね」


 珪は素っ気なくそう言った。

 右の頬が赤く腫れて、唇の端は見事に切れている。それでも損なわれない美貌は感嘆の一言であるが、これを放置するなど言語道断だろう。


「はよ冷やしておかんと、あとが痛いやん。腫れてからじゃ面倒やろ」


「痛くねえよ。ほっとけ」


 店員が持って来てくれた救急箱の中から、ガーゼを適当に取り出して、珪はそれを口に突っ込んだ。何度か噛むように口の中の血を含ませて、ベッと捨てている。


「その顔で歩いたら職質されるぞ」


「されねえ。帰る」


「おい」


 珪はベージュのくたびれたリュックを背負うと、面倒くさそうに立ち上がった。ばさりとフードをかぶってしまえば、その顔は綺麗に影の中だ。


「だから、怪我だの血だのは、隠せばOKって問題やないからな?」


「お前も帰れよ。時間だろ」


 父親が帰宅する時間まで、もうあまりない。

 送ると言い張った春日の言葉を断固拒否して、珪はおざなりにホゲータを指さした。


「それやるんだろ。今日また父親の機嫌損ねたら、ホゲータどころじゃなくなるぞ」


 そう言われてしまうと弱い。

 せめてもと電車までは一緒に歩き、珪の最寄駅よりいつつ早い駅で、春日は下りた。


 ◇◇◇


「おかえり~、うわぁまたやったなぁ」


 楠木の家のリビングに入るなり、中に居た家主は目を丸くして、のほほんと笑った。


 コートは玄関のハンガーにかけてきたので、顔を隠すものはない。まだ口の中に血の味がしていて、珪は返事の前に洗面台に向かうと、血と唾を吐き出した。


「手ぇ洗ってこいよー。夕飯、唐揚げだぞー」


「またかよ」


 楠木は冷凍食品の唐揚げにはまっているらしく、最近は週に一度は唐揚げが出る。

 手を洗い終えてリビングに戻れば、有無を言わさず楠木の目の前に立たされた。


「はい、あーんして。うわ、口の中切れてる。歯はある?」


「ある。折れてねえ」


「よし、服脱いで。寒かったら暖房温度上げて。ズボンも脱ぐ」


「大丈夫だっつの」


「お前の大丈夫は当てにならない」


 にこやかに、ばっさりと斬り捨てられる。


「大丈夫って言って尺骨バッキリ折れてた奴の言葉は信じません」


「昔の話だろ」


「今もだよ」


 怪我をして帰ってきた日、楠木は必ず、珪の服をひっぺがして入念に目視で身体所見を確認する。


「今も、怪我しててもお前はわからないだろ。痛みがわからないっていうのは、致命的なんだよ。大怪我してても自分で気付けないんだから」


 痛覚に対する極端な鈍麻。珪の症状はそれにあたる。


 触覚はあっても、痛覚がない。殴られようと刺されようと、触れた感覚があるだけで、珪にとってはまるで「痛くない」。おかげで、喧嘩の後、楠木の家に帰ってから発見される怪我が後を絶たない。


 ここで「痛くない方が便利だろ」などと言えば本気の説教が始まるので、珪は黙った。


「腕あげて。肘曲げて、指も曲げて、伸ばして、うん。脚も、歩いて帰ってこれたんだよな? 動きに違和感は?」


「ねえよ」


「見た感じ、外傷はないかな。背中も見るぞー」


 ぐるりと回転させられ、事細かに動きを確かめられた。

 最後に髪をかきあげて頭部まで確認し、楠木は苦笑する。


「はい、もういっこ発見。おでこ、どうしたこれ」


「……あー」


 ごそごそと服を着直しながら、思わず唸る。


「……春日に思いっきり頭突きした」


「そりゃまた、なんで」


 楠木が驚いたように見下ろしてくる。

 珪は居心地悪く視線を逸らした。


「喧嘩してるとこに割り込んできて、止めようとしてきて、邪魔だったから」


「喧嘩止めようとして入ってきてくれたのに?」


「……邪魔だなと思って」


「お前の沸点の低さは、そろそろ改善してほしいな」


 座るように促され、ダイニングチェアに腰を下ろす。向かいに座った楠木は、何も言わずに向き合ってきた。


 いよいよ居心地が悪い。


 珪の喧嘩を楠木が黙認しているのは、それがあくまでも珪の自己防衛手段だからだ。己の身を守るために必要なら、暴力もやむなしというのが、楠木の理屈である。


 しかし本日、珪が春日に頭突きをかましたことに、何一つ正当な理由がない。


 あきらかな八つ当たりであり、理不尽な暴力であり、珪はあの時の己の行動について何ら弁解できない。


 当の春日はあっさり忘れたような顔をして帰って行ったが、よくあの場で逆上せずに、冷静に対処したものだと思う。立場が逆なら、珪は即座に殴り返していた。


「次会ったら、ちゃんとごめんなさいを言うこと」


「わかってる……」


 ひどく疲れた気がして、珪はテーブルに突っ伏した。夕飯の準備中だったらしく、テーブルの上には中途半端に小皿とコップと箸が出ている。


 伸びてきた楠木の手が、軽く頭を叩いてきた。


「珍しいな、そんな落ち込むの。友達怪我させちゃってびっくりした?」


 友達ではないし、びっくりなどしていないし、そもそも落ち込んでない。

 頬にテーブルの冷たさを感じながら、珪はぼそぼそと言葉を落とす。


「……殴られそうになったら、殴られる前に殴らねえと、殴られるだろ」


「うん?」


「絶対殴ってこれねえように、叩き潰して動かなくしておかねえと、安全が確保できねえだろ」


「うーん。まあ、うん」


 己に降りかかる暴力を排除する。そのためには、相手が動かなくなるまで、徹底的に攻撃する。


 それ以外の方法などない、はずだった。


「どうした? 何かあった?」


「……あいつは殴ってなかったのに」


 見上げた背中を思い出す。

 軽快に喋りながら、一切の手を出さず、ただ、圧倒的な力量差を見せつけて。


「一回も殴ってねえのに、余裕で負かしてて、結局、相手は逃げてって」


 暴力を、暴力以外の手段で、あの男は排除した。

 あの時、暴力の渦中であったというのに、春日の後ろは間違いなく安全地帯だった。


「俺が動かなくても、何も、俺にまで届かなかった。あいつがいたから」


 珪が殴らなくても、珪は殴られなかった。身を守るための武器の一切が、必要なかった。


 まとまらない思考のまま、未推敲の言葉をぽつぽつと落とせば、楠木は心得たように「そうか」と笑った。


「春日くんがいたから、珪が頑張らなくても、大丈夫だったんだな」


 その言葉は極めて不愉快ではあったものの、きっとこの上なく正しいのだと、思う。

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