第10話 穏便

 ばかでかいぬいぐるみは、ばかでかいが故に、持ち帰り用の袋に入らなかった。

 結局、抱えて持つことになる。

 ばかでかいぬいぐるみを持った、図体のでかい男は、上機嫌だ。


「いやぁ、お前の新たな才能を開花させてもうた。珪なら出来ると思っててん。なんや器用そうやもんな。クレーンゲームは器用さと勘が大事」


「あんなもん物理だろ。重心と角度計算すりゃ誰でも取れる」


「一万つぎ込んでも取れへんかった俺への嫌味か、それ」


 広いゲームセンターの中は、十八時を目前に、いよいよ混みあっていた。

 でかい春日は目立つから良いが、小柄な珪は人混みを歩くだけで重労働だ。ひっきりなしに目の前を横切る有象無象をかき分けて進む。


「一万もつぎこむ前に学習しろよ。何回かやりゃ、コツくらい……」


 ひときわ大きな声で話す数人の集団が目の前に来て、渋々避けた。それから視線をあげれば、目立つはずの焦げ茶が見えない。


「……」


 とりあえず、舌打ちをひとつ。

 あとで殴ると決め、珪は仕方なく歩き出した。ともかく、このやかましい空間から出たい。

 数歩もいかないうちに、横から飛び出してきた男に、ドンとぶつかった。


「いってぇな!」


 頭上から怒声が降ってくる。


 フードをぐいと引き下げて、俯き加減に歩いていた珪にも、非はあっただろう。

 とはいえ、「てめえが避けろよ」が本音である。

 大学生ほどに見える相手は、その場で足を止めると、あからさまに絡んできた。


「いてえって。おい。ぶつかったんだから謝れよ、なあ」


「うるせえな。てめえが避けりゃいい話だろ、馬鹿が」


「んだと?」


 男は三人連れだったらしい。連れのひとりが無遠慮に右腕をつかみ上げてくる。

 掴まれた二の腕がみしりと鳴ったので、珪は速やかに左腕を振りかぶった。


 相手の顎に、下から一撃。確実に脳を揺らしたその一撃で、男は容易く崩れ落ちた。


 ざわ、と周囲の人間がどよめいた。小さな悲鳴が聞こえる。


 色めき立って殴り掛かろうとしてくる残りのふたりのうち、ひとりの拳は甘んじて受け入れた。頬に落ちてきたそれに、口内が切れて血の味がする。衝撃で揺れた頭を持ち直し、カウンターの一撃を相手の鳩尾へ。揺らいだ体勢に蹴りを入れて押し倒し、仰向けの眼球へ向けて拳を、


「待てコラ、ストップ! 待て! ステイ!」


 俺は犬じゃねえよ殺すぞてめえ。


 犬のコマンドのような単語で指示してきた馬鹿に、反射的に内心で言い返してしまった。


 咄嗟に苛立ちの矛先がすべてそちらに向いて、気が逸れる。


 遠巻きに喧嘩を見守っている野次馬の隙間から飛び出してきた春日は、力ずくで珪を相手の上から引きはがした。


「あかんて! 喧嘩すんな! 殴るな! 洒落にならん急所狙うな、落ち着け!」


 襟首をつかんだまま眼前で怒鳴られ、珪の短い導火線は容易く燃え尽きた。


 すい、と頭を引く。


 お? と瞬いた目の前の間抜け面に、珪は渾身の頭突きを食らわせた。


「いっ……ッ!」


「邪魔すんな」


 悶絶する馬鹿を放置して、跳ね起きる。


 上から押さえつけようと伸びてきた男の腕が見えた。その腕を取って指をへし折りつつ背負い投げるところまで瞬時にシミュレーションを組みたてて、──視界が、オレンジ色に染まった。


「持っとけ!」


 顔面に柔らかい何かが押し付けられている。


 先ほどまで抱えていたホゲータを珪に無理やり押し付けて、春日はフードの上から頭を押さえ付けてきた。


「あーあー大事なプレゼントやなー! 汚れたりほつれたりしたら困るなー! これ以上ゲームにつぎ込む金持ってへんなー! 落として汚したらほんま怒るからなお前」


 ふざけたような大声の後に、ぼそっと付け加えられた一言こそ、本音だ。


 咄嗟に受け取ってしまった柔らかな感触が、腕の中にある。意外なほど滑らかな手触りは悪くなかった。口の中に血の味がして、急いでホゲータから顔を離した。血など付いたら、結衣に渡せない。


 珪に向けて飛び掛かってきた相手を、春日は軽く転がした。


「あんたらもほら、ちょっと落ち着こ。な。ここはひとつ穏便に」


 がなる相手の罵声の合間に、普段通りの春日の声がする。相手は軽率に標的を変えて春日に殴りかかっているが、春日は引く気を見せなかった。


 なんとなくホゲータを離せないまま、珪は手持無沙汰に春日を眺めた。


 まるで大人と子どもだった。やみくもに暴れる相手の手や足を、春日は器用にひょいひょいと避けている。喧嘩が出来る奴だとは思っていたが、こうも身のこなしが巧いとは知らなかった。喧嘩は得意だと言っていた言葉が、腑に落ちる。


 相手を無闇に殴り倒さずともその場を収められるほど、力量があるということだ。


 ここに春日がいる限り、相手の二人がどれだけ逆上しても、その手は珪まで届かない。


 ここにいれば、殴らなくても、殴られない。


「せやな、うん、わかるわかる。こいつの態度悪いのはほんまわかる、ごめんて。けど、ぶつかったのはしゃあないやん。こんだけ混んでたら避けられへんこともあるって。お互い様ちゃう?」


 相手の声は耳を滑っていくのに、春日の声はよく聞こえた。


 背後に置いた珪を、前に出す気はないらしい。春日は珪の前に陣取った位置取りを崩さず、どうどうと動物をいなすように、相手に向けて手を動かした。


 相手は忌々し気に何かを吐き棄てながら、数歩離れた位置で止まった。その姿勢に、警戒が見える。春日は防ぐばかりで一度も手を上げていないが、どちらが優勢かは明らかだった。


「んで、先に手ぇ出したのそっちやんな。俺見てたし、防犯カメラもあるから、そこんとこハッキリさせたいなら店員さんにカメラ確認してもらお」


 あくまでも穏便な口調で、春日は言った。


「絡まれて手ぇ出されたら、そら咄嗟に反撃くらいするって。正当防衛は、基本的に法律で認められてるらしいで。俺そのへんよおわからんから、必要なら警察呼んで間に入ってもらう?」


 それは非常に下手から提案された、たちの悪い脅迫だった。


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