第7話 大晦日

 大晦日は快晴に恵まれた。


 春日はボストンバッグを肩にかけ、楠木の自宅へお邪魔した。大きなリュックを背負った結衣が「お邪魔します!」と行儀良くもはしゃいだ声を出している。


「おにいがお世話になってます、これ、つまらないものですが」


「おお、これはご丁寧に。こちらこそ春日君にはお世話になっています、楠木です」


 ちぐはぐな挨拶を終え、リビングの端にリュックを下ろした結衣は、元気よく周囲を見回した。


「楠木先生、珪は?」


「一階にいるよ。高校の課題があるとか言って」


「大晦日まで勉強してんの!? 休むことも大事って塾の先生も言うてたよ、呼んでくる!」


 言い終える前に、ポニーテールの残像が部屋を飛び出していった。楠木は「元気な妹さんだなぁ」と笑っている。


 それに苦笑で答えつつ、春日は結衣のリュックの隣に鞄を下ろした。見回したリビングは、テーブルの上に書類や筆記用具が置かれていたり、テレビ台の上に充電器、ペットボトル、裏紙の束などが脈絡なく置かれていたりと、相変わらず生活感に溢れている。


「ええの?」


「何が?」


「どうせ珪のやつ、俺と顔合わせるの嫌で籠城してんねやろ」


 厚かましくも大晦日に押しかけた春日に、珪が苛立っていることは間違いない。


 楠木はのほほんと笑って「いいんだよ」と言った。


「多少強引にでも連れて来ようと思ってたんだ。高校の課題なんてどうせ嘘だろうし。結衣ちゃんが呼びに行ってくれたなら、俺が言うより効果ありそう」


「あいつに友達増やすため?」


 何気なく聞けば、楠木は悩むような笑みを見せた。


「前にも言ったけど、君に何か無理強いしたいわけじゃない。突然バイトに入ってくれて本当に助かったから、そのお礼っていうのも本当。友達云々は気にしないでさ、今日と明日、珪と普通に過ごしてやってくれないかな。まあ、態度は悪いんだけど、どうか気にせず」


 結衣が三階のリビングに戻ってきたのは、飛び出して行ってから、わずか数分後だった。その隣には、うんざりとした顔の金髪天使が立っている。


 胸を張って「呼んできた!」と言う結衣の横で、珪は露骨に春日を睨み据えてきた。


「てめえ、妹にどういう教育してやがんだ」


「めっちゃええ子やろ? 世界一可愛いええ子やで、文句ある?」


「浮かれ千切って階段でスキップするなって教え込んどけ。転がり落ちるところだったぞ」


「いやほんまごめん。マジで?」


 結衣に聞けば「珪がキャッチしてくれた」とほくほく顔だ。あまりにも危なっかしい八歳児を相手に、安全確保のため、仕方なく珪がついてきたという経緯らしい。


「年越しそば作るから、結衣ちゃん、手伝ってもらえるかな。珪、春日くんに客間案内してきて。荷物運ぶの手伝っておいで」


「……廊下に出て右手のドアふたつめ。部屋の中のもんは好きに使え」


「珪。案内。荷物を運ぶ。はい、いってらっしゃい」


 にっこりと笑う楠木を見返し、珪はこれ見よがしにため息をついた。しかし意外にも、素直に結衣のリュックを持ち上げている。春日に声もかけずに廊下へ出ていってしまうので、春日はボストンバッグを取ると急いで珪の背中を追った。


「ここな。布団はそれ。テレビとエアコンのリモコンはそこ。コンセントこっちにあるから充電は好きにしろよ」


 極めて素っ気なく言いながら、珪は結衣のリュックを部屋の隅に軽く置いた。放り投げるような真似をするかと思いきや、さりげなく丁寧な手つきだった。


「おー、ありがとう。突然来てごめんやけど、一晩世話になるわ」


「すげぇ迷惑。図々しく来てんじゃねえよ、厚かましい奴だな」


 率直な意見の切れ味は鋭いが、下手に嫌味を言われるよりは、いっそ気楽だ。この態度を相手に機嫌を取るのも馬鹿らしく、春日も率直に言い返した。


「結衣が、おせち食べたことなくてさぁ。無駄な贅沢やって、買わせてもらえへん。年末のかまぼこの値段、お前知ってる? えっぐいで。せやから、ここでおせち食べさせてもらえるって言うなら、お前に睨まれようと文句言われようと、俺は全然かまへん」


「食い意地かよ」


「正月にはおせち食べるもんやって、経験させたいやん。大事やろ、そういう季節の行事とか」 


 普通の家庭の子どもが経験することを、結衣にも出来る限り経験させたい。春日が大切にしているその考えは、どうやら珪には響かなかったらしい。


「くっだらね」と言い捨てて部屋を出て行った背中を見送り、春日は軽く肩をすくめた。


 ◇◇◇


 結衣と楠木が作ったという年越しそばは、鴨肉が乗った贅沢なものだった。


「茹でるだけの冷凍品だから、俺はお湯を沸かしただけ。結衣ちゃんがネギ切ってくれた」


「楠木先生、包丁の持ち方からちゃうねん。ネギ切ったことある?」


「うーん、メスなら上手に切れるんだけどな……」


「それ人体の話だろ。今はネギ切る話してんだよ」


 職業病のような話をしながら、夕飯は和やかに進んだ。人生初の鴨肉に感動しきりの結衣を見て、珪はまたどうでもよさそうに、結衣に鴨肉を譲ってくれた。


 ここまでくれば、結衣が珪に懐くことも当然の帰結である。


「珪とお風呂入る」


 夕食後に結衣が放ったその一言に、春日と珪は同時に動きを止めた。


 結衣はバスタオルを両腕に抱え、リビングのど真ん中に仁王立ちしている。

 ダイニングテーブルでのほほんと晩酌をしている楠木は笑うばかりで、その隣に座る珪は一瞬、春日に視線を寄越してきた。


 無言のアイコンタクトは、一秒にも満たなかったが、意思疎通は十分にできた。


 黙り込む男たちを見回して、結衣がもう一度「珪とお風呂入る」と繰り返したところで、春日と珪は同時に口を開いた。


「絶対あかん」


「絶対に断る」


 春日と珪の意見が、初めて一致した瞬間であった。


「大人しくひとりで入ってこい。七歳以上の混浴は条例で禁止されてる」


「そうなん? それは知らんけど、とにかく他の男と風呂なんか絶対あかんよ。お前女の子やで、恥じらいもって。ひとんちの風呂でよおわからんなら、俺が一緒に入ったるし」


「嫌や、うちは珪と入る。珪と入りたい。おにいは嫌」


 妹からの容赦のない一言に、春日はぐっと胸を押さえた。不意の致命傷である。

 その春日の向かいで、珪は椅子に座ったまま顰め面をしている。


「風呂なんか他人と入るもんじゃねえだろ。いきなり意味わかんねえこと言い出してんじゃねえよ」


「せっかく泊まりにきたんやで! お風呂も一緒がいい! 絶対楽しいよ!?」


「駄目だ。ひとりで入れ。出てきたあと、髪だけ拭いてやる」


 妥協案として差し出された提案に、結衣は最終的に頷いた。「すぐ出るから待ってて!」と言いながら、洗面用具を持って風呂場にすっ飛んでいく。


 その後に結衣から落とされた「珪と一緒に寝る」という爆弾発言に、またしても春日と珪は声を揃えて「あかん」「断る」と言うはめになるのだが、おしなべて大晦日は賑やかに過ぎていった。


 ◇◇◇


 静かになったリビングで、春日はキッチンに立っていた。シンクに溜まった食器を洗い、水切り籠に並べていく。それを拭いて食器棚に戻しているのは楠木だ。珪は結衣に連行され、今頃客間で、寝かしつけに奮闘しているはずである。


「結衣ちゃんは、すっかり珪に懐いたなぁ」


 楠木はこらえきれないように笑っている。


「さっさと一階に逃げるつもりでいたのに、結衣ちゃんに引っ張り回されて、結局寝かしつけまでするとは。一緒に寝るって言われて、すんごい困ってたよ。あんな珪の顔、見たことない」


「あいつ寝かしつけとか出来るんかな。結衣、興奮してずっと喋ってる気ぃするんですけど」


 一緒に寝ると言い張る結衣に、珪は「寝るまでなら一緒にいてやる」と、またしても妥協案を差し出していた。結衣の突飛な要求を一蹴せず、歩み寄れる範囲を明示して応じる姿は、口の悪さとは裏腹に、誠実だった。


「……なんや思ったより、珪がまともでした」


「うん?」


「気に入らんことあると、とりあえず殴ってくる奴やって思ってたから、結衣にあんだけ譲歩してくれんのが意外っていうか」


 楠木は「ああ、うん」と満足そうに笑った。


「優しい子だよ、珪は」


「…………どのへんが?」


 思わず漏れてしまった本音に、楠木はまた笑っている。


「年越しそばとか、おせちとか、全然興味ないのに、ああやって付き合ってくれるところとか」


「確かに、全然興味ないですね。こういう行事大事やでって言ったら、くっだらねって吐き棄てられました」


「口が悪いなぁ」


 食器を洗い終えて手持無沙汰になったので、春日はやかんに水を張ってコンロにかけた。楠木は蕎麦の丼を食器棚にしまっている。


「興味がないっていうより、知らないんだよ。こういうイベントとか行事を、全然経験してこなかった子だから」


「全然?」


「そう。だから今更、大事だって言われても、よくわからないんだと思う。それでも俺がこういうの大事にしたいって言えば付き合ってくれるし、結衣ちゃんにそれを経験させたいんだって春日くんが言えば、ああして一緒に食卓にもついてくれる」


「くっだらね」と言い捨てながら、珪は律儀に年越しそばをすすっていた。その意味に気づかされてしまえば、春日は閉口するしかない。


 やかんのお湯が沸くまでの間、しばしの沈黙が流れた。やがて沸騰したところに麦茶の茶葉を放り込み、火を止める。がちゃりと、リビングの扉が静かに開けられた。珪が滑るように入ってくる。


「おつかれ、珪。結衣ちゃん、寝た?」


「寝た。信じらんねえほど喋って、いきなり寝た。一瞬死んだかと思った」


 疲れた顔で言う珪は、そのままダイニングチェアに座っている。春日は沸かしたての麦茶をマグカップにいれて、そそと珪の前に置いた。


「お疲れ。いやほんま、結衣の相手ありがとう。体力使うやろ」


「あれを毎日相手にしてるお前の体力が信じらんねえな」


「普段はあそこまでハイテンションでもないって。今日、興奮してんねん。楽しすぎて」


 楠木に「座ってていいよ」と促され、ありがたく珪の向かいに座らせてもらう。

 こうして向かい合って座っている分には、珪は落ち着いた印象が強い。おそらく性格はズボラな方で、フットワークも重いだろう。客間の案内を口頭だけで終わらせようとした横着っぷりである。


 それなのに、あの喧嘩っ早さはどういうことか。喧嘩に対するフットワークだけが軽すぎる。


「ギャップ萌え狙うにしても、もうちょい限度とか方向性とかさぁ」


「あ?」


 不機嫌な声が聞こえてきたが、春日は気にせずテーブルに頬を乗せた。エアコンのおかげで部屋は十分に暖かく、腹も満たされ、何よりここは安全だ。父親は今、ここにない。


 穏やかな睡魔に引かれてテーブルに潰れていれば、げしと足を蹴られた。


「寝るなら部屋行けよ、邪魔くせえな」


「お前の口と態度さぁ……結衣にはあんな優しいくせに俺に厳しすぎる」


「あ? 優しくねえよ、頭腐ってんのかボケ」


 続けざまにげしげしと蹴られ、春日は緩慢に視線をあげた。向かいに座る珪は、頬杖をついたまま見下ろしてくる。


「ガキの相手ってのは、ああするもんだろ。基本は好きにさせて、向こうからの働きかけに応じて、要求が出てくりゃ現実的な落としどころを提示する」


「育児書のマニュアルみたいなこと言いよんな……お前ひょっとしてマニュアル人間か……」


 半分寝ている頭で適当な相槌を打てば、珪はふいと視線を逸らした。


「少なくとも、殴りつけて服従させるようなやり方する大人は、死ねばいいと思う」


 淡々と紡がれた言葉に、春日は思わず身を固くする。


「一度殴られたガキは絶対にそれを忘れない。俺はそんなクソみてえな大人にはならない」


 怒気のこもった声だった。恨みを吐くように言う珪を、春日は身を起こしてまじまじと眺めた。


 胸の内を覗かれたのかと思った。


 こんな大人にはならない。こんな屑にはならない。

 父親を見るたびに春日の胸中に浮かんでいた怒りと決意を、珪は今、一字一句違わぬほどの正確さで言葉に出した。


 半ば呆然とした心地で、春日はかろうじて「……それは、」と声を捻り出した。


「……それは、ええ心意気やと、思う」


 間抜けた春日の台詞を馬鹿にするでもなく、珪は春日を見ないまま、「だろ」と一言だけ返してきた。

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