第8話 託宣

 楠木医院でのバイトは、ありがたいことに、正月以降も継続となった。あまりの時給の良さに楠木に相談してみれば、あっさりと快諾されたのである。


 平日の夕方、授業が終わってからのほんの二時間だけという、なんとも贅沢な働き方だ。短時間しか入れないことに恐縮していれば、「夕方は混雑するから助かるよ」と、まったくありがたいお言葉までもらえた。仏様のような医者である。


「うーあー、さっむ!」


 二月の外気は、身体の芯から熱を奪っていく。


 ダッフルコートの前を引き合わせ、マフラーに首をうずめて、春日は駆けるように足を進めた。進める先に、横浜市中央図書館がある。


 建物の入り口近くにある『横浜市中央図書館』のモニュメントの横に、カーキ色のモッズコートが、フードを深くかぶって立っていた。


「今日もここやな。中央図書館好きやろ」


「蔵書量が多いのは利点だよな。明日は市立大学附属市民総合医療センター図書室にいる」


「何度聞いても覚えられへん。名前長すぎひん?」


 春日がバイトに入るにあたり、楠木はひとつ『お願い』をしてきた。

『うちに来るとき、珪をつかまえて来てくんない?』と。


 聞けばこの問題児、日中は市内の図書館を転々としているらしい。出歩く分には好きにしていいが、しょっちゅう帰りが遅くなり、それに伴ってトラブルに巻き込まれるケースが後を絶たないという。


『門限なんて言う気はないけど、やっぱり夕飯までに帰ってきてくれてると安心だからさ』


 それ以降、春日は授業が終わると、毎日違う図書館に出没している珪を捕獲に行き、そのまま診療所のバイトに向かう日々だ。昼過ぎに「今日どこ?」とラインを送れば、意外にも素直に返事がきて、待ち合わせ時間にはしっかり図書館前でカーキのモッズコートが立っている。


「お前、通信制やろ? うちで勉強せえへんの?」


「課題は全部終わらせてある。高一の内容なんてザコだろ。専門書読んでた方が楽しい」


「もしかして勉強できるタイプか」


「お前よりは出来るんじゃねえの」


 鼻で笑うように言われた。


「最近の試験の結果見せぇよ。絶対見せぇよ。平均点で勝負な」


「試験って百点以外出ねえだろ」


「……今日の夕飯何にしよかな。寒いからシチューかな」


「おい。てめえは何点なんだよ、最近の試験」


 図書館の最寄駅から電車に乗り、診療所の最寄り駅で降りる。

 ここまで一か月以上、市内のあらゆる図書館に足を運び続けているおかげで、各図書館から診療所までのルートもすっかり頭に入った。


「昨日、結衣から連絡きた。十四日の夜に塾まで来いっつーんだけど、お前の教育どうなってんだ?」


「あー、それちゃうねん。珪に渡したいものあるから、時間ほしいんやって。あいつ、塾の帰りくらいしか、自由時間ないから」


 小学二年生にあるまじき勉強時間を課され、結衣に余暇などほとんどない。


「塾の迎え自体は俺行くから、お前も悪いけど、もし時間大丈夫やったら顔だけ見せに来てやって」


「なんで平日夜だよ。休日の昼間にしろ」


「どーしても十四日じゃないとあかんのや。いいから、夜九時、塾の前。よろしく。あ、あと、土曜に買い物行く言うたやん? あれ、午後やなくて午前でもいい?」


 診療所のバイトをするにあたり、楠木のインナーやら白衣やらスクラブやらを借りていたが、いい加減、サイズの合った自分のものを用意した方がいい。受付の服装として無難なものなど知らないので、珪に目利きを頼んだ。


 一拍も置かずに断ろうとした珪の後ろで、にこにこと笑った楠木が「行っといで」と言ったので、珪は苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。


「どっちでもいい。午前なら十時半以降」


「なら、十時半にそっち行くわ。お前ひとりで歩かせるとめんどい」


「うるせえ」


 なし崩し的に『顔見知り』から『ほぼ毎日顔を合わせる奴』になってしまった破格の美人は、立っていればナンパされ、歩いていてもナンパされ、電車に乗れば高頻度で痴漢されそうになっている。最後のひとつについては、本人が躊躇なく相手の指をへし折るせいで、トラブルが生じることも茶飯事だ。珪はいつも、その顔を隠すように、フードを被って顔を伏せて歩く。


 しかし隣に春日がいると、そういった面倒は激減するらしい。


 毎日図書館に捕獲に来る春日を、素直に待っているのは、帰路の面倒事を回避したいからだと思う。


「今日は何借りたん?」


「言語学。とりあえず生成言語学と、音韻論と、音声医学いくつかと」


「お前はどこを目指してんねん、マジで」


 毎日、珪が借りる本には脈絡がない。


 隣を歩くフードの下から、投げやりな声が聞こえた。


「高卒で自立は却下された。大学行くしかなさそうだし、興味ある学科選べっつわれても、興味なんてねぇし。とりあえず一通り目ぇ通して、無難なとこ選ぶ」


「自主性が微塵もない進路選択やな。惰性で大学行っても金の無駄になるだけちゃう」


「仕方ねえだろ。楠木が行けっつーんだよ」


「お前、楠木さんの言うことだけ、やたらよお聞くの何なん。こないだも素直やったし」


 楠木の言葉に、珪は反抗しない。うっすらとした違和感を口に出せば、珪は「うっぜ」と横向いた。不機嫌に寄せられた眉間の皺が、それ以上の立ち入りを拒絶していた。


 春日はリュックを背負い直し、ことさら明るい声で話題を変える。


「てか、大学か。俺高卒になるのに、お前が大卒になるのウケる。給料ええとこに就職したら飯奢ってや」


「大学行かねえのかよ。一般校の大学進学率、かなり高ぇんだろ」


「行ってる暇ないやろ」


 同級生のほとんどは進学を希望しているが、春日は入学以降、就職希望を変えていない。


「高校卒業したら速攻で就職して、結衣連れてうち出る。仕事なんてなんでもええわ。とにかく、一日でも早く自立して、あの家から結衣を出してやらんと」


 父親の扶養から抜け、絶縁し、結衣を連れ出して養育する。

 今はまだ、結衣が殴られることはないが、それも時間の問題だ。何より、春日が殴られている間、声を殺して布団をかぶっている結衣が、切ない。


 珪は「ふぅん」と気のない返事を寄越した。


「夢も希望もねえけど、現実的なルートだな」


「お前にだけは言われたくない」


 駅から離れれば、閑静な住宅街が続く。緩い上り坂を、小柄な不良少年と並んで歩いた。


「夢と希望だけあっても飯は食われへんし、救いの手は降ってこおへんし、今の法制度じゃ俺も結衣もあいつが保護者ってこと変えられへん。結衣が怯えんで夜寝られるようになるなら、夢だの希望だのどうでもええわ」


「叔母のとこにたまに行ってんだろ。そのまま扶養してもらえばいいんじゃねえの」


 結衣があれこれと喋ったのか、珪は随分とこちらの家庭事情を把握している。


 春日は忌々しく首を横に振った。


「親父が許可せえへん。優秀な娘手放したくないんやろ。結衣を進学校に入れて自慢したいだけのクソや。だから結衣は殴らん。それだけは助かってるけど」


「クソか」


「クソやで。おかん病気の間に不倫して、おかん死んでからは児童買春に手ぇ出して、大阪におられんようになって、こっちに逃げてきた屑。隠してるつもりか知らんけど、んなもん嫌でもわかる」


「下衆だな」


 春日よりも強い言葉で言い捨ててくれたアルトの声が、心地よかった。


 下衆やろ、と答えて初めて、その言葉が父親にこの上なく相応しいと気付く。


「十六歳の女の子買った下衆や。示談でもみ消したらしいけど。んな奴のとこに、結衣なんか置いとけるか。いつ手ぇ出されるかわからん。来年、卒業したその日に、家出る。それまでなんとか保たせる」


 こんな話を口に出せる相手など、今まで春日の隣にはいなかった。


 同情されることも、心配させることも、あらゆる感情を向けられることが疎ましくて、春日は己の家庭について他人に話したことはない。


 それなのに、今、こうも容易く口が動くのは。


「ついでに殺していけばいいじゃねえか。適当に殴られてから手ぇ滑ったっつって包丁刺しとけば、なんとかなるんじゃねえの」


 ──珪が、こういう奴だとわかっているからだ。


 春日は大袈裟に肩をすくめてみせた。


「お前、そのアドバイスは絶対に俺以外にしたらあかんで。ほんまに追い込まれてる奴だと、本気にして実行するからな」


「実行しろよ。まどろっこしいな。包丁で狙うなら頸動脈、刃渡りが長ければ胸部」


「あーかーん」


 並べ立てられる物騒な言葉に、とうとう笑ってしまった。他の誰かとは絶対に出来ない不謹慎な話も、珪は平然と口にするから、春日は少しだけ胸が軽くなる。


「俺がんなことしたら、結衣どうなんねん。兄貴が父親殺したとか、絶対あかん。結衣が結婚するときに相手側家族に疎まれるような火種は、死んでも回避せなあかん」


「もう結衣の結婚のこと考えてんのか。うっぜ」


「うざくなくない!?」


 率先して犯罪を勧めてくる阿呆の頭を小突いて、春日は足を速めた。診療所のバイトの時間が迫っていた。


「ま、こんな高二に出来ることなんて少ないわ。バイトして金貯めて、あの家から逃げる準備整えて、あと一年、乗り切るしかない。誰も助けてくれへんし、結衣を助けてやれるの、俺だけやし」


 誰も助けてくれない。


 叔母がどれほど言っても、父親は便利なサンドバッグと優秀な娘を手放さない。現行の制度では、親権を持っている人間が強い。たとえ虐待として児童相談所に一時保護されても、どうせ父親は反省したふりをして、自分たちはすぐにあの家に戻される。もう、過去にやっている。


 あの家から逃げ出すためには、春日が、必要なことをすべてやるしかない。


 救いの手は、降ってこない。


 緩い上り坂の途中に、診療所が見えた。ちょうど出てきた老人は、山内だろうか。見つかるとまた面倒なので、春日は若干足を遅めた。


 そうして、ふと、隣を歩くカーキのコートが見えないことに気付く。


「珪?」


 振り返れば、数歩後ろで、珪が足を止めていた。


 俯いていた顔があげられて、大きな瞳の、灰色の虹彩が、真っすぐに春日を見上げていた。


「……救いの手は、」


 かすかに掠れた声で、それは紡がれた。


「わりと、唐突に、降ってきたりするぞ。たまに」


 いつもの皮肉も不機嫌もなく、ただ静かに、珪は言った。


 美しい相貌の、美しい口から落ちた、美しい託宣だった。

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