第6話 臨時バイト

 日本における社会人は、大きくふたつにわけられる。


 年末年始に忙殺される人間か、否か、である。


 春日の父親は、ありがたいことに、忙殺される側の人間であった。十二月下旬から一月の上旬まで、ほとんど家に帰らないような業態になる。


 その鬱憤とストレスで、繁忙期明けの父親の機嫌は最悪の一言であるのだが、ひとまず年末年始、春日と結衣は平穏に暮らせるのだからありがたい。


 十二月二十七日、高校生も小学生も冬休み真っただ中である。春日は結衣を塾に送り出してから、溜まった家事を片付けていった。


 ケーキ屋のバイトはクリスマスをもって終了となった。他のバイトを入れても良かったが、結衣の塾の送迎時間を考えると、なかなか好条件の募集が見つからない。


「隙間時間でやるならウーバーやんなぁ……バイクの免許なくてもチャリで……あのチャリ古いけど動くんかな」


 近所のおばさんからおさがりでもらったママチャリは、年季が入りすぎて、漕ぐだけで異音がする。


 ぼやきながら洗濯を回し、排水溝にハイターをぶちこみ、食器を洗ってシンクを磨く。コンロ周りの油汚れと格闘し、換気扇のフィルターを漬け置きしている間にトイレ掃除を済ませてしまう。


 我ながら、手際が良すぎて感心する。


 昼過ぎまでかけて大掃除を終え、遅い昼飯を何にしようかと考えていたところで、ピロンとスマホが鳴った。


 見れば、ラインの通知が一件。


〈手伝え〉


 春日の友人の中で、こんなにも礼儀のなっていないメッセージを寄越すような人間はいない。


 しかし、顔見知りの中で言えば、不本意ながら、ひとりいる。


 予想通り、通知を寄越した相手は「ケイ」と表示されていた。先日のメッセージには返事も寄越さなかったくせに、いきなり何の用か。


 無視してやろうかと思ったが、それはあまりにも大人げない。


〈何を〉


 結局、ぶっきらぼうに一言だけ返す。


 返事はすぐにきた。


〈診療所の受付。午後の受付開始までに来い〉


〈もうちょい順序だてて説明できひん?〉


〈時給二千円〉


〈行きます〉


 春日は昼食をカロリーメイト二本で終わらせて、異音のするママチャリで疾走した。


 ◇◇◇


 楠木医院は朝九時から外来が開き、昼休憩は十二時から十四時らしい。


 珪がラインを寄越した時点で、十三時半に近かった。春日が診療所に滑り込んだ時には、すでに受付開始を待つ患者がふたり、受付カウンターに陣取っていた。


「だからね、うちの孫が大学生になったからね、珪ちゃんにお似合いだと思うんだけどねぇ」


「あのね、うちの孫もこないだ高校生になったのよ。高校生同士でどうかしらね」


「珪ちゃんも頭いいからほら、やっぱり大学生くらいと付き合ってみるといいんじゃないかねぇ」


「珪ちゃんまだ高校一年生だよ、高校生と付き合ってみて恋愛を知っていかないと」


 まくしたてる年配女性ふたりを相手に、カウンターの内側に立つ珪は、無表情でパソコンをいじっている。返事もしない態度の悪さであるが、女性二人は気にした様子もない。


「ねえそれより、私聞いたのよ珪ちゃん。珪ちゃんとうとう、こないだ彼氏連れてきたんだって?」


「えっ、そうなの? 珪ちゃんに彼氏って、こんな可愛い子に釣り合う人じゃないと、私許さないよ」


 話がおかしな方向に行っている。完全に聞き流す姿勢で手元の作業を続けていた珪が、ふと視線を上げた。


 灰色の瞳が、入り口でスリッパに履き替えた春日を捉えた。


「診察券と保険証そこに置いて座って待ってろ。新人教育してくる」


「あ、ちょっと珪ちゃん、彼氏ってどんな人」


 追いすがる女性の声を綺麗に無視して、珪はカウンターのカーテンを閉めた。直前に小さく手招かれたので、春日は女性たちの背後から隠れるようにカウンターに滑り込む。


 大人が三人立てば手狭になるようなカウンターの中で、珪は盛大に顔をしかめてくれた。


「遅ぇ。あと三分で始まんだよ、馬鹿じゃねえの」


「せめてあと三十分早く連絡寄越せや。うちからチャリ爆走しても二十分かかるぞ、ここまで」


「診察券と保険証受け取って、そこの機械にかざす。保険証番号確認して別人じゃねえこと確かめて、こっちのパソコンに個人情報と通院歴が出るから今日の来院記録を入れる」


 文句はすべて無視されて、珪はまくし立てるように業務内容を説明してきた。


「コート脱げ。その服も。これ着て、これ羽織っとけ。見栄えだけでもマシだろ」


「ちょっ、ちょまっ、いてっ!」


 狭いカウンターの中である。強引にコートとセーターをはぎ取られ、あちこちに腕をぶつけながら、頭から黒いシャツをかぶせられた。最後に、白衣に腕をねじ込まれる。


「楠木のだからちょっとでけえけど、お前もでけえから問題ねえな。トラブルあったら呼べ、俺は裏で雑務してる。楠木は呼ぶなよ。楠木の手ぇ止めると、閉院時間が無駄に延びる」


 珪がそれを言い終えると同時に、診察開始のアナウンスが院内に流れた。


 ◇◇◇


 楠木医院は、近隣住民から大変愛されている診療所のようだった。


 近所の老人がひっきりなしにやって来て、待合室で雑談に花を咲かせ、診察を終えれば「次の受診が楽しみだよ」と笑って帰っていく。穏やかな楠木の人柄に惹かれてか、患者も穏やかな物腰の人ばかりで、受付と会計で大きなトラブルは起こらなかった。


 ただし、あくまでも業務上は、ということである。


「いや、こいつだよ! 間違いねえ! 俺ァ見た!」


「ほんとかい山内さん。アンタ最近、耳だけじゃなくて目も悪いだろ。間違いないかい」


「間違いねえよ! でっけえあんちゃんだなと思ったんだよ! なあ!」


 なあ、と話しかけられて、春日は曖昧な笑みで肩をすくめた。


 会計の段になってカウンターに来た山内老人(御年八十九歳)が、いきなり大声を上げたのだ。


 いわく、「こいつ珪ちゃんのカレシじゃねえか!」と。


 春日が初めてこの診療所に連れて来られた日、待合室にいた老人のひとりであるらしい。


「はーこりゃまた、珪ちゃんもイイ男捕まえたじゃねえか。俺の次にイイ男だな、あんた。名前はなんちゅーんだい。え?」


「春日です。山内さん、お会計、四百七十円」


「春日か! 春日お前、どこで珪ちゃん引っかけたんだ、オイ! あの美人をよくまぁつかまえたもんだな、こいつ!」


「あんたね、春日さん、珪ちゃんのこと大事にするんだよ。あの子はね、本当にいい子でね、私の腰の痛いのだって、珪ちゃんのおかげでずいぶん楽になって」


 山内の隣で、先ほど受付を済ませたばかりの飯坂夫人(御年九十一歳)が、ふごふごと言う。


 声のでかい山内のおかげで、カウンターでの会話は待合室に良く響き渡った。「彼氏?」「珪ちゃんの彼氏らしい」「まぁ~珪ちゃんもそんな歳になって」「ここで働くってこたぁ楠木先生も公認で」ろくでもない誤解が一瞬で広がっていく。


「うるせえな。何してんだよ」


 またタイミングの悪いことに、ちょうど珪が顔を出した。


 山内が勢い込んで、珪に興奮をまくし立てている。聞いている珪は半眼だ。おそらく半分も聞いていない。


「とにかくね、珪ちゃん」


 ふごふごと飯坂夫人が言う。


「あんたはね、幸せにならなきゃいけんよ。あんたもね、大変だったからね。あんたはね、ちゃんと幸せにならにゃいけん」


「そうかよ。俺に幸せになってほしいなら、まず会計をしろ。山内、四百七十円。飯坂のばあさんはそこにいろ、動くな」


 珪の返事はにべもない。

 ようやく山内が財布を取り出して、目元を顰めながら小銭を探し始めた。

 そのわずかの隙に、春日は珪を引っ張ってカウンターの下にしゃがみこんだ。


「おっま、否定しろ。なんで俺が彼氏やねん、お前男やろ。一から十まで否定しろ。さっきから俺の話なんて、じいさんもばあさんも、耳に入ってへん」


「八十九歳と九十一歳だぞ」


 目の前で、冗談のように整った顔が、虚無の表情を乗せた。


「俺の性別を記憶する脳細胞なんて残ってねえよ。老い先短ぇから、若い人間の将来に夢膨らませて妄想するくらいしか楽しみがねえんじゃねえの」


「言い方」


 配慮の欠片もない言葉たちであるが、本人に悪気はなさそうだ。さっさと立ち上がり、山内から小銭を受け取ってしまうので、春日も急いでレジを打った。


 おつりを出す間、「あ」と言った珪が、カウンターから小走りに出ていく。


 飯坂夫人がふごふごと口を震わせながら、待合室のソファに向かって歩き出していた。


「おい! 動くなっつっただろ、耳遠いだけじゃなくて頭もボケたかよ。院内でコケられたらこっちに責任問題降ってくんだぞ、ぜってー転ぶな。掴まれ。杖は? 忘れた? くっそ、診察券に持ち物リスト付箋で貼っとく。次は忘れんな、次忘れたら院内の備品から購入させるからな」


 珪はわずかに腰を折って飯坂夫人の手を取ると、そのままゆっくりと歩き出した。話す内容こそ不機嫌そのものだが、老婆の耳元で、ゆっくりと大きな声で喋っているのは、彼女の聴力を考慮してだろう。


 飯坂夫人の抱えていた荷物を問答無用でひったくっている姿に、どうしようもないほど不器用な優しさがあった。


 思わずその光景を凝視してしまう。


「優しいだろ? ありゃ口の悪さで、若いモンからは誤解されるんじゃねえかと心配してたが、いやまったく、こんなイイ男捕まえてたなんてな。あんたにゃもったいねえ美人だぞ、大事にしろよ」


 随分と失礼な山内の台詞も、あまり耳に入らなかった。


 数週間前、ナイフを持って躊躇なく他人を傷つけていた白い手が、足元のおぼつかない老婆を丁寧に支えて歩いている。


 あまりにも落差のある二面性が、うまく飲み込めない。


「……なんだオイ。惚れ直したってか?」


 山内に顔を覗き込まれて、春日はため息をつきながら「おつりです」と小銭を差し出した。


 ◇◇◇


 受付時間は十八半時までとなっていても、実際に患者がすべて院内から出るのは十九時前後になってからだ。


 最後のひとりを見送って、春日はようやく着慣れない白衣を脱いだ。


「いやー、ほんと助かった。ありがとう。ごめんな、突然呼び出して」


 スタッフルームと書かれた更衣室で、楠木からペットボトルの麦茶を渡された。

 珪の姿はない。「時給二千円」という以外、何一つ春日に説明していないことがばれ、楠木に小言を言われた瞬間にどこかへ逃げて行った。


 どうやら、受付兼看護師の女性が、体調不良で一週間ほど休むことになったらしい。年末年始のこの時期、他から応援を呼ぼうにも、医療職はどこも忙殺されている。


 そこで、ピンチヒッターとして、春日に白羽の矢がたった。


「普段はこういう時、珪にお願いしてるんだけど、やっぱり年末年始って、初診の患者さんが多くてさ。他があいてないから、みんなこっちに流れてくるんだよ。そうすると、こう……珪が受付にいると、トラブルが起こるっていうか」


「あー……」


 春日は納得して頷いた。楠木も苦笑して、「常連さんたちなら安全なんだけどなぁ」とぼやいている。


「今日はまだいいけど、明日からは年末進行になる。他の医療機関が閉まるから。明日からは、春日くんだけで受付回してほしいんだけど、お願いしていいかな」


「まあ、ええですけど」


 なにせ、時給二千円だ。これを蹴るのは惜しい。


「大晦日と、一日、二日は休みだから。三日からまたお願いしたい。そうだな、きりがいいところで、一月六日の金曜日まででどう?」


「いけます。けど、明日から塾も閉まるから、診療時間の間、結衣を三階に置かせてもらうことってできますか? ちゃんと大人しくしとるし、散らかしたりせえへんから」


「もちろんいいよ」


 楠木は快諾してくれた。


「ただ、ご家族は大丈夫かな?」


 事情を知っている故の質問に、春日は苦笑いだ。


「ありがたいことに、年末年始、忙殺される人やねん。一月八日までは帰ってこおへん。それまで、俺と結衣は自由の身やから」


「なら、もうひとつ提案がある」


 楠木はいたずらっぽく笑った。


「もし、君たちさえよければ、大晦日だけでも泊まっていかない? 年末年始の間は、珪もうちにいるから。せっかくなら、おせちはみんなで食べた方がおいしいよ」


「……珪がすんごい顔しそうやけど」


「そりゃ間違いない」


 楠木の笑い声が響いた。


「君たちがもしよければ、って話だよ。来てくれるなら、珪には俺が言っとく」


 大みそかにお泊りと聞けば、結衣は大層はしゃぐだろう。


 喜ぶ妹の顔が浮かんでしまって、春日は躊躇しながらも、楠木の提案に頷いた。


 ◇◇◇


「大みそかの日にさ、春日くんと結衣ちゃん、うちに泊まりに来たらどうかって誘っといた」


 夕飯の席で、楠木がそう言った時、珪は数秒硬直した。

 箸で持ち上げた鶏唐揚げが、そのまま空中で静止する。

 視線だけを向ければ、ダイニングテーブルの向かいには普段と変わらず、のほほんとした楠木の笑顔がある。


「年末年始、毎日バイト入ってもらうことになったからさ。おせちくらいご馳走したいなと。ていうかな、珪。いくらなんでも、春日くんへのライン、言葉足らず過ぎ。人に何かを頼むときは、もう少し丁寧に説明して」


「あいつは泊まるっつったのか」


 珪は持っていた唐揚げを白米の上に置いた。食べる気は一瞬で失せた。


「結衣ちゃんが喜ぶだろうって言ってたよ。珪はすんごい顔するだろうとも」


「わかってんなら来るんじゃねえよクソが」


「春日くんならいいかなって」


 楠木はのどかに味噌汁を飲んでいる。あくまでも軽い様子で話すのは、いつでも珪が拒絶できるようにだ。


 嫌ならすぐに話題を変えていい。楠木はいつも、そんな話し方をする。


「春日くんなら、大丈夫かなと思ってさ。一緒にケーキ食べられたし、並んで受付カウンターにも立てただろ。あの子は、お前を見ても態度変えないもんな」


 ますます食欲が失せて、珪は箸を置いた。


 珪の外見の美醜に頓着せず、この上なく不愛想な態度にもめげず、平然と隣で振る舞う人間は、限りなく少ない。


 さらに都合の良いことに、春日は暴力に明確な忌避を見せた。珪が殴りかかった時すら反撃してこなかったのだから、あの男はおそらく、よほどのことがなければ他人に手を上げない。

 それならば、切り捨てるより、便利に使った方が得である。


 そんなことを思って白羽の矢を立てた結果、話が思わぬ方向に転がってしまった。


「もちろん、珪が無理ならこの話はなかったことにする。どう?」


『無理』なら、なかったことにする。

『嫌』なら、強行させてもらう。

 朗らかに笑う顔に騙されそうになるが、楠木はわりと押しが強い。


 置いた箸に手を伸ばせないまま、珪は楠木を伺い見た。


「……それもリハビリかよ」


「ていうよりは、珪の社会性を育む第一歩、ってとこかな」


 リハビリじゃねえか、という文句は、胸中に留めておいた。


 楠木蒼一朗というこの医者は、間違いなく正式な、珪の主治医である。


 たったひとりの、厄介な小児患者のために、大学病院の地位を捨て、辺鄙な住宅街に小さな診療所を開院した。通ってくる常連はほとんど年寄だ。穏やかで無害で善良な、間違っても珪を傷つけることのない、そういう患者だけを、楠木はかかりつけとして受け持っている。


 出世も地位も、名声も収入も、楠木は求めない。


 この診療所は、ただ、珪のためだけにある。


 珪を守るためだけに。


「お前が、安全だと思える他人を増やすことは、重要だよ。俺も、この先何十年もここにいてやれるわけじゃないし」


「んな長期間、世話になる気はねえよ。高校出たら自立する」


「今の状態じゃ、自立はちょっとさせてあげられないかな」


 楠木は鶏唐揚げに箸を伸ばした。


「今、目ぇ離すと、お前すぐどっかで死んでそうだし」


「唐揚げ食いながら言う台詞じゃねえよ」


 どこまでいってもほのぼのとした空気の楠木に、珪は白旗を上げた。


「大晦日な。あいつら三階に泊まるだろ。俺は一階で寝る」


「一階に引きこもってないで、ご飯の時くらいは顔出してほしいなぁ」


「…………飯の時だけな。結衣がいるなら、顔出さねえと引きずり出しに来そうだし」


「破格の譲歩だな」


 笑う楠木に返事をするのも癪だったので、珪は無言で、少し冷めてしまった白米を口に押し込んだ。

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