第5話 ケーキ同盟
楠木医院は、自宅併設の造りとなっていた。先日、珪に連れられて来たときにはゆっくりと見る暇もなかったが、一階と二階が診療所、三階が自宅スペースらしい。
診療所の裏手にある自宅用玄関から入って階段を上り、廊下を進んで突き当りのドアを開ければ、広いリビングダイニングの空間が開けている。入ってすぐの左手に対面式のキッチンがあり、さらに進めばキッチンカウンターの向こうに四人掛けのダイニングテーブルが置かれていた。右手側にはこれまた広い空間があり、ソファとローテーブル、大型の薄型テレビが配置されている。
広い空間のあちこちに、三段ラックやガスストーブ、段ボール、キャリケースなどが散乱していた。
その、生活感に溢れた楠木家のリビングのダイニングテーブルで、春日は何故か珪と向かい合って座っている。春日の隣に座った結衣が、慎重な手つきで、白い箱からケーキをみっつ取り出した。
結衣はきゅっと口を結びながら各人の前にそれぞれのケーキを差配し、珪のフランボワーズケーキを見て天を仰いだ。
「うわー! それめっちゃ美味しそう! それ絶対美味しい! 裏にクリーム隠れてるとか反則や! うちもそれにすれば良かったぁぁぁ!」
「うるっせえな、叫ぶな。黙れ」
間髪入れずに悪態をついた珪は、極めておざなりな手つきで、自分の前に置かれたケーキを結衣に押しやった。
「食いたいなら食えよ。やる」
「ほんまに!? あんた天使みたいな顔して中身も天使やな!? よっしゃ、半分こしよ! うちのモンブランも半分あげる!」
結衣が歓声をあげている。
ケーキ屋のバイトを終え、すっかり夕飯時となった時間帯、春日と結衣がいるのは、楠木の自宅である。
あの後、千円札は丁重に辞退し、春日は自分の財布を持って、結衣と珪にケーキを選ばせた。至上の美少女(ただし外見に限る)を前にして「嫌じゃなかったら店長が奢っちゃうよ!?」と舞い上がる店長はスルーしておいた。
熟考の末にモンブランを選んだ結衣と、どうでもよさそうにフランボワーズを選んだ珪を連れ、駅に向かって歩いている途中で、春日は気付いた。
春日の自宅で食べるわけにはいかない。ゴミ箱にケーキの箱などあった日には、父親に何を言われるかわからない。例年であれば結衣と食べてから帰るのだが、今年はイレギュラーがありすぎて失念していた。
うちに持って帰っても食べられへん、と半べそになった結衣を見下ろし、何を思ったか、珪は「来い」と言って診療所に乗り込んだ。「珪のうちなん?」と聞いた結衣に「違う」と返事をしていたにしては、まるで家主のごとき態度である。
「……で、どういう風の吹き回しやねん。お前に親切にされると怖い」
無造作についているテレビの音に隠れて、春日は珪にぼそりと言った。
珪は足を組んで椅子に座ったまま、モンブランに食らいつく結衣を眺めている。
「渡した詫びの品を確実に消費させねえと、無駄な遺恨が生じるだろ」
「生じるか……?」
「お前の妹に使いっ走り頼んだ手前もあるし」
「お前さ、もしかして意外と律儀なタイプ?」
珪はちらりと春日に視線を寄越してきた。長いまつ毛が灰色の虹彩に影を落としている。人形のような造形美の双眸が一度瞬いて、馬鹿にしたようにふっと鼻で笑った。
この野郎。
咄嗟に喧嘩を買いたくなるが、妹の手前、踏みとどまった。結衣の前では、品行方正な兄として振る舞いたい。
「珪、お茶もらえる? 出来れば牛乳飲みたいなぁ、ある?」
モンブランを食べ尽くした結衣は、フランボワーズに手を出す前に、ちゃっかりとそんなことを言い出した。
「知らね。勝手に冷蔵庫見てこい」
「おにい、牛乳ちょうだい」
「俺コーヒーな」
揃って人に注文をつけてくるふたりには、悪気というものが一切見えない。
春日は仕方なく立ち上がり、金髪美人のフードをぐいと引いた。
「お前も、来い、阿呆。他人の台所なんていっこもわからんわ。まずコップどこやねん」
楠木家のキッチンは、非常に所帯じみていた。
洗い桶に食器がたまり、シンクにも、朝食に使ったとおぼしき皿が置き去りにされている。生ごみは小さな袋に入ったまま、まな板の横に放置され、空の牛乳パックがその隣に鎮座していた。
そういった状態には目もくれず、珪は慣れた様子で食器棚を漁ると、マグカップを三つ取り出した。春日も冷蔵庫を開け、封の切られていない牛乳を発見する。
「あ、牛乳あった。結衣にもらうで」
「好きにしろよ。珈琲も探せ。どっかにある」
「どこや」
さっぱり位置関係を把握していないらしい珪を置いて、結局、春日は戸棚の引き出しからインスタントコーヒーを発掘した。
「ドリップじゃねえのかよ」
「ドリップ珈琲淹れてほしかったら、まず粉とフィルター発見せえよ」
「どっかにあんだよ。飯の時に楠木がよく淹れてるし」
「お前、ここ住んでんの?」
珪はスプーンも使わずに、インスタントコーヒーの瓶を傾けてカップに粉をぶちこんでいる。
「住んでねえけど、よく泊まる。怪我治るまで自宅禁止っつって帰してくんねえ」
「そうや、怪我。平気なん? 普通に動いてるけど」
「痛くねえから問題ない」
「問題なくなくない?」
「日本語喋れよ」
馬鹿にしたような台詞とともにケトルを渡され、春日は渋々、水を入れてセットしてやった。
「下の診療所、六時半で受付終了してる」
「うん?」
沸いた湯をマグカップに入れたところで、突然そんなことを言われた。珪は棚から出したはちみつを珈琲に入れ、さらに牛乳を適当に足して、スプーンで雑にかき回している。
「七時過ぎたら患者もはけるから、楠木のとこ行ってこい」
「……うん?」
首をかしげる春日を横目でちらりと見上げ、珪は不機嫌を顔に出した。
「そのツラの痣には覚えがあるけどな、腕にある趣味悪ぃ痣は俺じゃねえぞ」
「……あー、うん」
春日は思わず袖口を引いて手首まで隠した。
頬に限っては執拗に冷やしたため、痣の程度はだいぶ軽いが、数日前に振り下ろされた嵐の痕跡は、両腕にしっかり残っている。盛大な打撲は長袖の下に隠れているはずだが、何かのはずみに気付かれたらしい。
「お前がどっかの喧嘩に首突っ込んで怪我してんなら、野垂れ死んでも興味ねえけど」
珪は不機嫌な顔のままだ。春日の両腕に視線を寄越す、ビスクドールのような横顔に、明確な嫌悪が乗っていた。
「その怪我は、喧嘩で出来るもんじゃねえよ」
◇◇◇
お言葉に甘えて、十九時を過ぎてから一階の診療所に顔を出せば、楠木は驚いたように目を丸くした。
「珪がうちで友達と一緒にケーキ食べた!?」
事情を聴いて、ひっくり返ったような声を出している。
「えっ、そっ、珪? 珪が? 君たちと? ケーキを……うちで……えええ……」
「勝手にあがりこんですんません。一声かけろって言うても、仕事の邪魔になるからいいって」
「いや、それはいいんだよ。ここは珪のうちみたいなもんだし、いいんだけど、それより、うわー……とうとう珪が他人と時間を共有できるようになった……」
楠木は感極まったように声を詰まらせている。
「なんや、こないだの詫びやって。楠木さんに言われたからって、めっちゃくちゃ不貞腐れながら、ケーキ寄越してきて」
「ちゃんと謝った?」
「殴って悪かった、って吐き棄てられました」
楠木はこらえきれないように笑った。「ごめんな、あいつ態度悪くて」と言う声は、柔らかい。
保護者ではないけれど、養育者。珪を語る楠木の表情には親愛があった。
「たぶん本人、詫び入れてさっさと終わらせるつもりやったと思うんですけど、買ったケーキ食べるところないって妹が半べそかいて、そしたら、診療所来いって言い出して」
バイト先であったことと、ここまでの流れを、ざっくりと話す。
「……あれたぶん、楠木さんに俺の怪我診せるためやったんかなって」
確実にケーキを消費させるため、という言葉は嘘ではないだろう。むしろそれが主目的ではあるはずだ。
けれど、その理由に隠れて、ほんの一端、春日の怪我を考慮したことは間違いない。
楠木は目じりを下げて笑った。
「珪はさ、君も見た通り、ちょっと……ていうかものすごく、暴力に躊躇の無い子でさ。平気で傷害事件起こすし、相手に洒落にならない怪我させるし、自分も洒落にならない怪我して帰ってくるし」
ぺりぺりと湿布の袋が開けられる。
トレーナーを脱いで肌着一枚になった春日の前で、楠木は手慣れた様子で湿布やテープを用意していった。
「けど、そのくせ、暴力振るう人間は心底嫌いっていう、厄介な子なんだよ」
「自分は平気で人の顎踏み割っといて?」
「嫌なもの見せて本当に申し訳ない」
楠木は恐縮したように頭を下げた。
「暴力振るう人間が嫌いだから、殴られる前に動かなくなるまで殴り潰しておこうっていう、ある種の防衛本能なんだよ。だからきっと、君の妹さんには普通に接してただろ。小さい子どもは、珪に暴力なんて振るわないから」
ふむ、と春日は思い返す。
態度に問題はあれど、珪は結衣を相手にある程度の配慮を見せていた気がする。おつかいをこなした結衣にケーキを食べる場所を用意してくれて、自分のケーキもあっさりと譲っていた。
今も、珪は結衣の相手を引き受けて、三階でお喋りな妹に付き合ってくれている。
楠木は春日の腕を取ると、視線の高さまで持ち上げてみせた。
「君のこの怪我は、他害から身を守ろうとして、特に頭部を守ろうとして、ついた傷だよ。重度の打撲と筋挫傷、全治は一か月かな」
腕のいたるところにある痣は、青を通り越して、どす黒くなっている。もう慣れたと言ってしまえばそれまでだが、動きに支障があることだけが不便だ。
ひとつひとつの痣を確認しながら、楠木は手早く湿布を貼ってくれた。
「喧嘩出来るはずの君が、これだけの数の傷を作ったってことは、一方的に君を殴り続けた誰かがいるってことだよ。しかもこれ、今回だけじゃなさそうだし。こっちの怪我とか、あとこれとか、結構前のやつだね。それだけ常習性があって、君が抵抗できない相手となると、まぁ、だいたい予想はつくわけで。そういうことする大人とか、珪、すんごい嫌いだからさぁ。苛立ち紛れに俺のとこに放り込んだんじゃないかな」
思わず「えー」と声が漏れた。
「俺のうちの繊細でナイーブな内情がお察しされてるってこと?」
「たぶんね。珪は感情論は死ぬほど苦手だけど、論理的な推考なら信じらんないほど的確だよ」
「あかーん」
うちではケーキ食べられへん。そう言ってしょげかえった結衣に、珪は理由を聞かなかった。
とっくに察していたのだと思う。
楠木はまた笑って、春日の左肘にテーピングを巻いてくれた。
「君はあんまり、こういうのを人には見せたくないだろうけど、また怪我したらうちにおいで。診療時間が終わってからね。珪が迷惑かけた上に、ケーキまで奢ってもらっちゃったんだから、湿布やテープくらいサービスするよ」
その申し出は、ありがたく受け取っておくことにした。実際問題、どれほど怪我をしても、医療費が怖くて病院になど行けていない。
「で、もしよければ、また上で珪と時間潰してやって。珪が他人と過ごすなんて、ほんともう、天変地異。珪に初めて友達が出来るかもしれない瞬間に、今俺は立ち会ってる」
「あいつ他に友達おれへんの?」
自分が珪の友達かについては置いておくこととする。顔見知り、という程度なら頷いてやってもいい。
「いないんだよなぁ。君と一緒に過ごせたって聞いて、本当に驚いてるよ、俺は」
「俺も好きであいつに付き合うてるわけやないんですけど」
初対面も、今回も、完全に成り行きである。
そして珪は、春日にとって、出来れば二度と関わりたくない部類の人間である。
……少なくとも、今日の夕方まではそうだった。
トレーナーに腕を通し、片付けを進める楠木を眺める。
「あいつ、どっちが本性やねん。結衣の分までケーキ買おうとしたり、俺の怪我気にしてくれたり、ちょっとまともなとこあるやんとは思ったけど」
「しょっぱなの印象が強すぎちゃったかぁ」
「地獄絵図でした。俺が止めんかったら、下手したら殺してたんちゃう」
「かもしれない」
楠木は気負いもなくそう言った。
その可能性があることを知っていながら、楠木は珪を否定しない。
「ああいう厄介な子だから、君に、無理に珪と友達になってくれとは言わないよ。ただ、もしまた会うことがあったら、普通に話してやってほしい。それだけでいい」
楠木はそれで話を終わらせて、「はい、おしまい」と言いながら、予備の湿布をいくつかくれた。
◇◇◇
結衣と並んで夜道を歩く。
十二月の夜は冷え込むが、隣を歩く妹は汗をかきそうな様子ではしゃいでいた。
「ケーキ美味しかったな! フランボワーズ大正解やったわ、来年はうちもあれにする! 来年食べるときは、珪も呼んでよ! またケーキ半分こすんねん!」
三階で珪と待っていた結衣は、すっかり金髪美人に懐いたらしい。あの不愛想な奴を相手に、めげずにあれこれと会話をしたようで、春日の知らない珪の情報が結衣からぽんぽんと飛び出してきた。
いわく、通信制の高校に通う一年生だということ。
自宅は別にあり、一人暮らしだということ。
髪の色は染めているのだということ。
「染めてるのにあのキューティクル、詐欺やと思わん? さらっさらやったで。さらっさら」
豪胆にも、結衣は珪の髪までいじり倒してきたらしい。
「一人暮らし言うから、親は? って聞いたら、楠木先生が養育者やって。親はいてへんて。なんや養育者の、ナントカ義務? があって、月の半分は楠木先生んちで暮らしてるって」
「お前、取調官の才能あるんちゃう」
妹の意外な特技に呆れながら、春日は思い立ってスマホを取り出した。
恐るべきことに、結衣は珪とライン交換までこなしていた。強制的に春日もライングループに招待され、春日と結衣と珪、三人のグループが作成されている。グループ名は『ケーキ同盟』、作成者は結衣だ。
少し考え、春日はグループではなく、珪個人に宛てて、メッセージを送信した。
〈結衣の相手してくれてありがとう。普段勉強ばっかりさせてるから、息抜きになったと思う〉
次いで「感謝」と手を合わせているスタンプをひとつ。
〈楠木さんにもありがとうって伝えといて〉
当たり障りのないメッセージは、数分後に既読が付き、結局返事はこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます