第3話 春日の仕事

 外はすっかり暗くなっていた。


 慣れない道を歩きながら、思い出してスマホを取り出せば、メッセージが数件と、着信が二件。


 急いでコールをかけ直す。


「もしもし。結衣?」


 声に合わせて、白い息がふわりと舞った。


「ごめん、ちょっと立て込んでた。いや、平気や、何でもないよ。バイト長引いてこき使われてきてん。それより、ちゃんとおばさんの家着いたか? 夕飯残さず食べぇよ。宿題も早めに終わらせて」


 わかってる、という幼い声が、怒ったように答えてきた。


 宿題は終わらせたし、もうすぐ夜ご飯だし、デザートにプリンも出してくれるって。そう言う妹の声は明るい。


『……おにいも来たらええのに』


 叔母の家に泊りに行く時、妹はいつもこれを言う。


『プリンやで。プリン。おばさん、おにいも来てええって言うてるよ』


「せやな。今度ちゃんとお礼に行くって言うといて」


 軽くあしらえば、結衣は不満そうに黙り込んだ。通話を切ろうとしたところで『おにい』と呼ばれる。


『……今日は、おとん帰ってくる?』


 怯えたその声がいたたまれない。


 春日は「どうやろ」とうそぶいた。


「最近仕事忙しい言うてたから、帰ってくるかわからん。結衣がおばさんちに泊ることはちゃんと言うてあるから、心配ないよ」


『気ぃつけてね』


 小学二年生が出すには、あまりにも切実な声だった。


『あんまり怪我しないで、気ぃつけてね』


「おう」


 春日は笑って答えてやる。


「大丈夫。それより、ちゃんと寝る前に歯磨きすること。布団蹴り飛ばして風邪ひいたらあかんで。夜更かしはほどほどに」


『わかってるってば!』


 感情豊かに応じてくる声に、救われる。


 今度こそ通話を切って、春日は冬の夜道を走った。


 楠木の診療所の最寄駅から、春日の自宅まで、電車で五駅の距離だった。自宅最寄り駅の改札を抜ければ、すぐに見慣れたマンションが見えてくる。


 駅に近い立地の十階建てマンションは、3LDKの広々とした居住空間があり、このあたりでも高級な部類に入る。一世帯あたりの間取りが広いことと、鉄筋コンクリート製の頑丈な造りのおかげで、防音性能に優れている。騒音トラブルなど起こらない、平穏な物件である。


 改札から駆け出して夜道を走り、エントランスを抜けて、エレベーターに乗り込んだ。三階のボタンを押す。


 三階の廊下の一番奥が、春日の自宅である。玄関の前に走り着き、玄関横の小窓から明かりが漏れているのを見て、ため息が出た。軽く上がった息を整え、重い足を動かして玄関に入る。


「……ただいま」


 玄関には革靴がある。脱ぎ捨てられたそれを端に揃え、廊下に投げ捨てられているコートと、スーツのジャケットを拾った。コートとジャケットをハンガーにかけ、さらに落ちていたビジネスバッグを拾ってリビングに入る。


「どこに行ってた?」


 低い声が聞こえた。出来ることなら聞きたくない、父親の声だ。


 父親は、広いリビングのソファに、こちらに背を向けて座っていた。ジャケットを脱いだだけのスーツ姿で、帰ってからずっと座っていたに違いない。テレビでは、ちょうど明日の天気予報がやっていた。


「ごめん、遅くなって。バイト。今月クリスマスやろ、繁忙期やねん」


「夕飯は」


「すぐ作る。風呂入る?」


 父親のビジネスバッグをラックに置き、中にある折り畳み傘とハンカチ、ごみの類を取り出す。


 ソファから立ち上がる音がしたが、春日は振り返らなかった。


「親よりも遅く帰ってくる子どもがいるか?」


 前触れもなく襟首を引かれた。春日はそれなりに体格の良い方だが、父親もまた、柔道経験者であり恰幅が良い。


 たたらを踏んだところで、思い切り殴られる。左頬だ。先ほど、金髪の少年に殴られたところに重なって、無駄に痛い。


「夕飯も風呂も用意しないまま外をふらつくような屑に育てた覚えはないんだが。俺が帰ってくる前に家のことをやる約束で、バイトをさせてるんだぞ。親の夕飯を作る時間もないようなバイトなら、やめてこい」


 それを言う間に、振り下ろされた打撃の数は両手の指の数を超えた。


 かろうじて腕で頭を守りつつ、ひたすらその嵐を耐える。ここで反撃しようものなら、父親の怒りの矛先は結衣に向かう。


「ごめん、今日だけちょっとイレギュラーで、時間かかっただけ。明日からまた時間通り帰るし」


「だから結衣に家に居ろと言ってるのに、あいつはすぐに」


「結衣はほら、勉強せなあかんやろ」


 小学生になった妹に、父親は一通りの料理の習得を課した。


 子どもを家政婦としか見ていない父親に、何かを期待することは、とうに諦めている。それでも、妹だけは守らなければならない。


「おばさんのおかげで、めっちゃ成績良いやん。もうすぐ年末の試験あるし、そこで成績伸ばしといたら、中学受験でもう一つ上のとこ目指せるかもって」


 研究職に就いている叔母は、春日の亡き母の姉である。こちらの家庭環境を知って、いつでも子どもを引き取ると息巻いてくれた叔母に、春日は妹を託した。勉強を教えるという名目で、月の半分ほど、結衣を預かってもらっている。結衣の成績が順調に伸び続け、有名な私立中学への進学も見えてきたおかげで、父親もこれに関してはあまり口を出さない。


 しかし、父親の世話をする人間が、この家にはいなければならない。


 毎日、父親の朝食を作り、仕事の支度を整えて送り出し、自分は高校の後にバイトを押し込んで、父親の帰宅前には家に帰る。料理と洗濯、風呂掃除やゴミ出し、あらゆる家事は春日の仕事だ。


 これが、現時点で春日と結衣の父親であり、保護者であり、生活費のすべてを稼いでくる人間である限り、反抗は出来ない。高卒ですらない未成年が、保護者の庇護を手放してしまえば、これから先の結衣の人生のハードルが上がってしまう。


 高校を卒業して自立し、結衣を連れて家を出るまで。


 この家で、父親の世話をし、父親の機嫌を取り、父親が持ってくる生活費を失わないために殴られ続けることが、春日の仕事である。

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