第2話 楠木医院
来い、という彼の言葉に逆らえなかったのは、何も春日が小心者だからではない。
むんずと春日の腕を掴んできた手が、意外なほど華奢だったからでもない。
ひとえに、血だらけの小柄な人物の腕を、力づくで振り払っても良いものか、迷ったからである。
迷う間にも彼は有無を言わさず歩き続けてしまうので、春日は仕方なくバイト先に急遽欠勤の電話をいれて平謝りし、諦めの境地で小柄な背中の後ろを歩いた。放っておいて、途中で倒れられても寝覚めが悪い。
ちらつく雪はほとんど積もることなく溶けていくので、道路はしっとりと濡れている。街灯の点いた暗い道を、小さな水たまりを避けながら歩くうちに、ひとつの建物にたどり着いた。
住宅街の中にある、三階建ての建物だった。白い壁のシンプルな建物は、一見、モダンな個人宅にも見えるが、よく見れば『楠木外科・整形外科』と看板が出ており、診療所であるらしい。入り口と書かれた自動ドアをくぐれば、近所の老人らしき数人が、待合室で和やかに座っていた。凍える屋外とは一転、暖房の効いた屋内は頬が緩むほど温かい。
穏やかなその空間に、彼は土足で乗り込んだ。腕を引かれたままの春日も、必然、その後に続くことになる。
「ちょっ、ちょちょ待って、何? あ、怪我? おま、怪我診てもらうならまず受付に」
「あらぁ、
ソファに座っていた年配の女性が、親し気な笑顔を向けてきた。
「おかえりなさい。今日は早いのねぇ。お友達?」
「違ぇ」
彼の返事は素っ気なかったが、知り合いに特有の気安さがあった。女性の方も慣れているようで、「あらあら、照れちゃって」などと言っている。
その言葉には返事をせずに、彼は『検査室』と書かれている部屋のスライドドアを開けた。ノックもしない。
「
ぶっきらぼうな声で言っている。
踏み込んだ部屋の中に、白衣の男がいた。身長が百八十ある春日より、さらに頭半分ほど高い、かなりの長身である。癖毛なのか寝ぐせなのか、絶妙にわかりにくいくるくるとした黒髪が、振り返ってきた。
のほほんとした雰囲気を周囲に垂れ流しているような、柔和な笑顔の男だった。楠木と呼ばれたその医者は、春日の腕を引いたままの彼を見て、黒い目を瞬かせている。
「おかえり、珪。急患ってのは、お前? その子?」
「こいつ」
「いやどう考えてもお前や、お前」
春日は考える前に突っ込んだ。怪我などひとつもしていない春日より、だらだらと血を流しているこいつの方が、間違いなく急患である。
だというのに、彼は突き飛ばすように春日を楠木に押し付けた。
「死にそうな顔色してんだろ。どこ怪我したか知らねえけど、とりあえず楠木に診せとけばだいたい治る」
「えっ、俺の事心配して病院連れて来てくれたん!?」
彼は心底鬱陶しそうに顔をしかめた。
「お前が帰る途中でぶっ倒れて病院に担ぎ込まれる事態になったら、事件性かぎつけて警察が出てくるかもしんねえだろ。余計なこと喋りやがったら殺すからな」
「一瞬でもお前がええ奴やと思った俺が馬鹿やった」
なんだかもう力が抜けて、春日は手近な椅子に勝手に座らせてもらった。顔色が悪いという彼の判断は的確だろう。今、猛烈に気持ちが悪い。
「えーと、どこ怪我したかわかる? 見せてもらっていい?」
楠木が目の前にしゃがんでくれた。見上げてくる瞳は綺麗な黒曜だ。穏やかで人の良さそうなこの医者と、平気で傷害事件を起こす少年が、どのような関係なのか、さっぱりわからない。
「いや、俺怪我してへん。ちょっと、疲れたから、椅子だけ借りてええですか。んで、怪我してんの、そいつ。そいつあかん。死ぬんちゃう? 平気?」
「珪?」
振り返った楠木の視線の先で、珪という名前らしい少年は、雑な手つきでコートを脱いだ。
途端に、血に染まった白いセーターがあらわになる。
改めて「うげ」と漏らしてしまった春日の前で、楠木は朗らかに「またやっちゃったかぁ~」と苦笑した。
「状態は?」
「動脈はやってない。傷も浅いから臓器の損傷もなし。ちゃんと避けた」
「致命傷をちゃんと避けられるくらいなら、まず、凶器そのものをちゃんと避けようか」
話す間に、珪はさっさとベッドに腰かけ、血圧計らしきものを自分の腕に巻いている。致命傷ではないとはいえ、なかなかの出血量だ。それなのに、美しい造形のその表情に、苦痛のひとつもない。
楠木が手際よく処置をする間、経緯の説明をしたのは春日である。珪は「喧嘩した」の一言で終わらせたため、「ごめん、説明お願いしていい?」と楠木に頼まれた。
春日が揉め事を目撃してから、この診療所に至るまでの出来事をざっくりと話す間に、楠木は珪の処置を終わらせた。ガーゼとテープで入念に傷口を保護された珪は、やはり痛みなどなさそうに、平然と座っている。
その隣で、パイプ椅子に座った楠木が深々と頭を下げた。
「ほんっとーに申し訳ない」
猛烈な恐縮を乗せた声だった。
「こんな気分の悪い出来事に付き合わせて、本当にもう、どうお詫びをしたらいいのか。本当に申し訳ない」
「なんで楠木が謝んだよ」
珪が不貞腐れた。
「お前関係ねえだろ。保護者でもあるまいし」
「俺はお前の保護者じゃないけど、養育者ではあるんだよなぁ」
答える楠木はやはり苦笑だ。
「そしてありがとう、こいつのこと気にかけてくれて。いやほんと、君がいてくれて良かった。あやうく傷害事件どころか殺人事件になるところだった」
「殺さねえっつの」
しみじみと言う楠木に、珪が律儀に反論している。
「正当防衛のお膳立てはした。先に手ぇ出したのはあっちだし、先に武器振り回したのもあっちだ。こっちが法的に不利になる立ち回りはしない。お前に迷惑はかけない」
「俺の迷惑はどうでもいいんだよ」
よっこらせ、と楠木は立ち上がる。高い位置から金髪を見下ろして、困ったように笑うと、珪の頭をぐるりと撫でた。
「とりあえず、ちゃんとここ来て偉かった。しばらく動くなよ。診療時間終わるまで待ってな」
それで話を終わらせて、楠木は改めて春日の顔をのぞき込んできた。
「君も、少しは顔色マシになったかな。いきなり目の前で刃傷沙汰見せられたら、そりゃ気分も悪くなるよ。収まるまでここにいていいから。あ、飲み物持ってくる」
大きな背中が、思い出したように奥の通路に消えていく。
それを横目で眺めて、珪が口を開いた。
「喧嘩見たぐらいで、んな死にそうな顔すんなら、最初から首突っ込んでくんじゃねえよ馬鹿が。俺の手間が増えた」
「俺、喧嘩はけっこう得意やで」
ここで言い返すのも癪だったが、黙っていることも出来なかった。
何か言ってやりたいという幼稚な攻撃性は、先ほど暴力現場にさらされた不快感のせいかもしれない。
「けどお前のあれは、喧嘩ちゃうやろ。もう動けへんような相手の顔面踏み潰すのは、喧嘩やなくて暴力や。明らかに必要ない暴行やん、胸糞悪い。一方的に殴られる側の気分、教えたろか? いっかい経験したらお前も──」
ふいに、珪が顔を上げた。
美しい双眸にある、灰色の瞳が、激情とも呼ぶべき色をしていた。
まばたきひとつする暇もなく、眼前に金色があった。
ベッドから飛び出した小柄な身体が密着するほどそばに居て、次の瞬間には強烈な右ストレートが春日の顔面にきまった。倒れ込んだ背中がどこかにぶつかって、ガシャンと大きな音がした。
「珪ッ!」
口の中に血の味が広がる。揺れる視界の中で、楠木が珪を抱えるように取り押さえている様子が見えた。
「……結局お前みたいな奴は、そうやって、全部暴力で解決しようとする」
春日は口に溜まる血を、袖に吐き出した。
「ほんま無理。そういう暴力、俺いっちゃん嫌いやねん、反吐が出る。さっきからずっと、嫌なもん見せられて、いい加減、吐きそう」
「うん、ごめん、そうだよな。嫌な思いさせて本当にごめん。ほんとわかる、君の気持は本当にわかるんだけど、ちょっと待ってくれるかな、ごめん」
楠木が早口でそう言った。
その腕の下に拘束された金髪は、俯いたまま動かない。
「帰る」
春日はリュックを引っ掴んだ。
「すんません、帰ります。お邪魔しました」
そのまま、振り返らずに検査室を出た。
待合室にいた女性が、やはり穏やかに「あら、帰るの?」と声をかけてくる。
「これからも珪ちゃんのことよろしくねぇ。あの子に友達なんて初めてよ」
あんな奴に友達なんて一生できひんやろ、と口に出さなかったのは、春日のなけなしの自制であった。
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