そして、春がくる

山崎あんこ

序:春日と珪

第1話 路地

 街にはクリスマスソングが流れていた。


 十二月の冷え込む空気の中に、ちらちらと雪が舞っている。時刻は十六時だというのに、すでに周囲は薄暗く、ほどなく街灯が点くだろう。街灯より一足早く、クリスマスカラーのイルミネーションが夕方の街を照らしており、舞う雪をカラフルに染めていた。


 横浜の街は、今日も人で賑わっている。赤レンガ倉庫や横浜中華街といった観光地からは離れているが、観光客と地元住民が入り乱れる大通りは、十分に活気があった。


 学校帰りの高校生や、買い物途中の主婦、塾に向かう中学生などに紛れて、背の高い男子高校生が歩いていた。学生服の上に紺色のダッフルコートを着込み、えんじ色のマフラーを巻いている。緩く癖のある焦げ茶の髪が、冬の風に吹かれて揺れ、彼は寒そうに首をすくめた。


 通学用の黒いリュックを背負ったまま、足早に歩いていた彼は、何もないところでふと足を止めた。


 大通りにある、書店と量販店の間。細い路地となるその奥を、ちらりと見やっている。


 彼以外、誰も足を止めない。


 彼だけが何かに気付き、しばし逡巡するようにその場に立ち尽くし、──結局、彼は諦めたように肩を落とすと、するりとその路地に入って行った。


 ◇◇◇


 高校の授業を終え、バイトに向かっていた春日かすが京介きょうすけは、大通りの途中で足を止めた。後ろから歩いてきていた女性が、不審そうな視線をくれながら春日を追い越していく。その女性に軽く頭を下げて、春日は路地の奥を見た。どんよりとした冬の夕方、薄暗い路地の奥から、声が聞こえてきていた。


 春日は三秒ほど悩んだ後、渋々と進行方向を変えた。大通りを進んでいた歩みを止めて、声のする路地に入っていく。


 進んだ先に、人影があった。人目につかない道の奥で、派手な服装の男が四人、小柄なひとりを囲んでいる。ちょっとだけ、時間は取らせない、楽しませてやる、等の台詞を聞くに、かつあげではなく、悪質なナンパらしい。


 小柄なひとりは腕を掴まれ、じっと黙って立っていた。カーキのモッズコートを羽織り、コートのフードを深くかぶっていて、俯いた顔は見えない。声も出せずに立ち尽くしている様子を見るに、だいぶ委縮しているらしい。


「あー、えーと、ちょっとごめんやけど」


 春日はすたすたと近寄って、あくまでも軽く声をかけた。


「なんや物騒な雰囲気やけど、平気?」


「あ?」


 振り返って凄んできた男たちの顔は、お世辞にも知的とは言い難かった。

 不審と苛立ちを隠さない彼らの態度に、春日は肩をすくめてみせる。


「あんたらが紳士的にその子をお誘いしてるようには見えへんのやけど」


「なんだ? てめえは。関係ねえ奴はすっこんでろ。殺すぞ」


 ダミ声で返されたのは、あまりにも使い古された常套句だ。


「うーん。台詞がありがちやなぁ。もっと頭良い言葉遣いしてみぃひん?」


 あからさまに失笑した春日の態度は、彼らには許しがたかったらしい。


「ぶっ殺すぞテメエ!」


 先ほどと同じ台詞を復唱して、ひとりが大股で近寄ってきた。染めすぎて色が抜けたような明るい茶髪に、お決まりのごついピアスとネックレス、絵に描いたような悪人面という三拍子そろったその男は、無駄に派手な腰のベルトから、小さなサバイバルナイフを取り出している。


 春日はやはり、失笑した。長身の春日相手ならともかく、奥にいる小柄な女性相手にもこれをちらつかせるつもりだったのかと思えば、軽蔑するしかない。


 屑やなぁ、と口に出さなかったのは、配慮ではなく、これ以上会話をするのが面倒だったからだ。


 春日は軽く一歩踏み出すと、ナイフを振りかぶった男の右手を、蹴り飛ばした。弾かれたナイフが軽い音を立てて飛んでいく。驚愕の表情で動きに迷いを見せた男の軸足を、手早く蹴り払えば、その身体は容易く地面に転がった。


「ナイフとか使つこたらあかんて。ほんまに人殺してもうたら、人生終わりやで。もっと命大事にしよーや」


 壁にぶつかって跳ね返ってきたナイフを、一応拾う。転んだ男は怒り狂って立ち上がったが、その頃には、春日は男の目の前にいた。


「ちょっと静かにしとこなー」


 春日の右拳は、男の顎に当たって覿面に脳を揺らした。白目をむいた男が崩れ落ちるように倒れ込む。ボクシングで言うところのK.O、これで数分は立ち上がれない。


「くっそ!」


 事の顛末を見ていた他の三人は、速やかに撤退を決め込もうとした。慌てた様子で路地の奥へ走り去ろうとしている。無理やり腕を引かれた小柄なひとりが、抵抗するように身じろいだ。それをなお強引に引きずって、腕を掴んだ男は「来いよ!」と怒鳴るや、小さな頭をフードの上から容赦なく殴った。


 ゴッ、と鈍い音がした。


 衝撃でフードが落ちる。その中から現れたのは、綺麗な金髪だった。肩口ほどまであるさらりとした金髪に隠れて、顔が見えない。


 ただ、口元だけが、見えた。


 赤く艶めいた、形の良い唇が、絵に描いたようににやりと口角を上げた。


 怯えている被害者、という文字面には、あまりにもそぐわない、獰猛な笑みだった。


「……ん?」


 春日は足を止めた。


 次の瞬間には、金髪の腕を掴んでいた男が、宙を舞った。お手本のような重心移動の、一本背負いだ。小柄なその人物は、己より二回り以上体格の良い男を豪快に投げ飛ばし、地に落ちた背中に乗り上げて、右腕を捻じり上げている。


「いっ、でででででで!」


 悲鳴を上げる男に構わず、その人物は抱えた右腕に体重をかけた。ゴキッ、と鈍い音がした。


 外れた肩を抱えて、ぎゃあ、と男が喚く。


 もがいて逃げ出そうとする男の背中に、とどめとばかりに踵が落とされた。容赦なく全体重を乗せて繰り出された踵落としは、正確に腎臓を打った。男が声も出せずに悶絶する。


 間違いなく、そこが人体の急所と分かった上で狙っただろう。軽やかに相手を制圧したその人物は、はだけてしまったモッズコートを鬱陶しそうに脱ぎ捨てている。くすんだ白のセーターが、小柄な体躯を包んでいた。


「先に手ぇ出したのはそっちだったな」


 金髪の隙間から、声が聞こえた。高くもなく低くもない、綺麗なアルトの声だ。


「つーわけで、これは正当防衛だ。俺はか弱くて繊細で臆病な小心者だから、お前らが二度と絡んでこねえように、つい徹底的に叩きのめして再起不能にしちまうけど、まぁそれも正当防衛だな」


 声音と口調からするに、意外にも男であるらしい。


 ずいぶんと過激な正当防衛を主張した彼は、その宣言の通り、うずくまる男を蹴り転がした。仰向けにした男の首を、容赦なくスニーカーで踏みつけている。慈悲も躊躇もない暴力は、こういった行為に慣れている人間の動きだった。


「んで? 楽しませてくれるっつったな。てめえの股間に付いてる粗末なモンで、何をどう楽しませるって? 寝言は死んでから言えよクソが。俺はんな戯言に付き合うより、今ここでてめえの股間切り落とすほうが、よっぽど楽しいな」


 下を向いて喋る彼の横顔を隠すように、さらりと金髪が流れた。染めているのか、地毛なのか、薄い金色が白い頬を覆う。


 と、その頭がふいに上がった。何かを探すように動いた頭が、思い出したように春日を向いた。


「おい」


 呼ばれた声に、とっさに返事ができなかった。


 十二月の雪の日の、しんと冷え込んだ曇天のような、淡くくすんだ灰色の瞳だった。


 左右対称の大きな瞳と、赤く艶めいた薄い唇が、印象的だった。真っすぐに通った鼻筋に、白磁のような肌が相まって、非の打ちどころがない造形美である。目元にほんの一匙残った幼さが、浮世離れした美貌にかろうじて人間味を香らせていた。


 長いまつげに縁どられた大きなグレーの瞳が、春日を映していた。その瞳に吸い込まれるような心地で、春日は目の前の美貌を見つめ返した。口調からしてどう考えても男であるが、一見しただけでは美少女と言われても違和感はない。この顔を晒して街を歩いていたとなると、なるほど、ナンパされないほうがおかしい。


 高校二年生の春日より、頭ひとつ分は小さい。となると、中学生ほどだろうか。ジーパンとセーター、黒のスニーカーというシンプルな出で立ちながら、常軌を逸して整っている顔面ひとつで、ただのセーターが最高級のブランド物に見える。


 そして問題は、この金髪灰眼の天使のような美しい生き物の口から、聞くに堪えない台詞が先ほどからポンポンと飛び出してきていることだった。


「……ギャップ萌え言うても限度があると思う」


「おい、お前だよ。勝手に首突っ込んで来たなら手伝えよ。それ」


 彼が「それ」と言って指さした先には、春日が手に持ったままのナイフがある。


「とりあえずこいつの急所斬り落とす。手伝え」


「いやそんな当たり前みたいな顔して言う? 無理無理。俺、喧嘩とか無縁な心優しい青年なんで。そういう血生臭いの無理」


「あ? ギャグかよ。そこに転がってる三人どう説明すんだ」


 彼が軽く視線で示した先には、派手な服装の男がふたり、転がっている。

 小柄な天使がひとりを叩きのめしている間に、とりあえず春日が転がしておいた残りのふたりである。最初にダウンを取った男と合わせて、春日の足元には計三人だ。


「ナイフ持った三人相手に圧勝する奴は、喧嘩慣れしてるっつーんだよ。ぐだぐだ言ってねえで、さっさとこいつの睾丸切り落とせよ。竿もな」


「頼むからその顔でそういう単語言わんで。俺の脳がバグる」


 平然と春日と会話をする彼の足元では、首を踏みつけられて呼吸のままならない男が、顔色悪くもがいている。


 麗しい天使のような人物をとりまく状況として、不相応にもほどがあった。


「とにかく、血生臭いことは、お宅らでどうぞご自由に、俺のおらんとこでやって」


 春日は早々にナイフを放りだした。ついでに両手をあげて降参のポーズをとっておく。

 彼は「はあ?」と見事に顔をしかめてくれた。


「嫌だよ。俺がやったら、さすがに過剰防衛でしょっぴかれるかもしんねえだろ」


「俺がやると普通に暴行と傷害罪になって、俺に前科がつくんやけど、わかって言うてる?」


 念のために聞き返せば、チッ、と舌打ちがひとつ返ってきた。


「クソの役にも立たねえな」


「猛烈に美人なとこ悪いけど、その顔張り倒してええかな」


 口を閉じて微笑んでいれば、それだけで世界平和が実現しそうな外見であるのに、中身が救いようもない。


 緊張感もなく会話をする彼の足元で、やおら男が身を起こした。火事場の馬鹿力のような形相で首に乗る足を引きずり落し、血走った目で跳ね起きている。男は落ちたナイフに真っすぐ手を伸ばし、それをつかみ上げるや、小柄な身体に突進した。


 とはいえ、所詮、やぶれかぶれの反撃である。外見詐欺の金髪天使が、明らかに喧嘩の上手であることは間違いなかった。避けるでも、迎撃するでも、どうとでもなるだろうと思われた。


 だというのに、小柄な彼は動かなかった。


 それどころか、反撃する素振りすらない。


 逃げもせず、避けもせず、彼はわずかに身体をずらしただけだった。


 ドン、と叩きつけられた小さなサバイバルナイフは、そのまま彼の右胸上部に突き立った。


 凶器を振り下ろした男は、一瞬、当惑の表情を浮かべた。まさか避けもしないなど、想定外だったに違いない。


「こんなもんか」


 己の胸元を見下ろして、彼は淡々とそう言った。

 見分するように傷口を眺め、突き立ったままのナイフを無造作に引き抜いている。薄暗い路地の、うっすらと積もった雪の上に、バタバタと赤い血が落ちた。


 灰色の目がすっと上がって、目の前の男を見て笑う。


「浅ぇよ。びびったな。人間刺すのは初めてか?」


「……っ」


 毒を含んだ花のような、冷え冷えと美しい笑顔だった。


「ま、好都合だ。これで俺が多少反撃しても、過剰防衛にはなんねえだろ」


 言いながら、彼は一歩を踏み出した。

 その手に、血に染まったナイフがある。


「てめえらみたいな屑は、とりあえず死んどけよ」


 まるで歌うかのような、美しい声だった。


 小柄な体躯が軽く沈む。かと思えば、彼は一気に地面を蹴った。向かい合って狼狽えている男の腹に、体当たりのようにぶつかっていく。


 今度こそ、絶叫が響いた。


 血にまみれたナイフが、寸分の狂いもなく、男の急所に突き立っていた。


 泡を吹いて仰向けに倒れた男を見下ろして、彼は無造作に片足を上げた。それを、男の顔面に勢いよく踏み下ろす。


 あごの骨が砕ける音がした。


 美しい横顔の、真白い頬に、赤い血が飛んでいた。


 ひどく倒錯的で、現実味の無い、毒のような光景だった。


 黒いスニーカーの足が、もう一度男の顔面に踏み下ろされる前に、春日は白いセーターの腕を引いた。


「そのくらいでええんちゃう」


 随分と硬い声になった。

 彼は不機嫌そうに「あ?」と振り返ってくる。


「もうそいつ、抵抗できひんやろ。勝負ありってことで、そのくらいにしとけや」


「触んなよクソが」


 春日の言葉が終わる前に、彼は腕を振り払ってきた。そのまま足元の体を一瞥し、興味をなくしたように踵を返している。


「おお。ちょっと素直」


「騒ぎすぎた。人が来る。帰る」


 春日の要求を聞き届けたわけではなく、単純に、時間切れだったらしい。

 どやどやと近づいてくる足音に背を向けて、彼は路地の奥に向かい歩き始めた。


「いやいや待て、こら、血! 血ぃ! 死ぬぞ!」


「鎖骨下動脈はヤってない。この程度の出血じゃ死なねえ」


 真っ赤に染まった胸元で、何事もなかったかのように歩くのだから、意味がわからない。


 彼は先ほど脱ぎ捨てたコートを拾って羽織ると、ファスナーを首元まで引き上げた。それだけで、問題はすべて解決とばかりに、顎をあげてドヤ顔をしてくる。


「血ぃ隠せばOKって話やないからな……?」


 念のために教えてやったが、腹立たしいほど綺麗に無視された。

 すたすたと歩いて行く背中は平然としていて、これ以上何を言っても無駄なことは間違いない。


「あーもー……疲れた……バイト遅刻やん……」


「おい」


「え、何?」


 別の方向へ歩こうとしたら、呼び止められた。


 そこで思わず足を止めて、あまつさえ返事をしてしまったことが、運の尽きだった。


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