断章 独り暮らし

  独り暮らし

      文猫むすび


「お前は幽霊のような人間だな」

 我の言葉に、幽石つばめは無言を以て応対する。彼は視線をこちらへ向けようともせず、ただバルコニーに佇み、自らが住んでいた村を眺めていた。出会って未だ一月しか経っていないと言うのに、既にそれは見飽きた光景となっている。

「行動を強制するつもりは無いが、お前はそれで満足なのか? 人の世では、限られた余生は満喫すべきものと聞いたが」

「…………」

 なおも彼は無言を貫き、風に揺られ続ける。或いは、そこに居ないかのようだった。

 やはり人間の感情は分からない。特別興味があるわけでも無いが、しかし彼を観察する他にすべきことも無い。こうなれば此方から行動を起こすのも手かと、我は席を立つ。

 先ずは昼食というものを提供してみよう。幸い、人間用の食料は腐るほどある。

「幽石、お前にはアレルギーはあるか? 答えなければ殺す」

「……殺すなら殺せよ。別に俺は、どっちでもいい」

 おざなりな答えが返ってくる。我はそれに満足し、キッチンへと足を運んだ。


 我は、人間の時間軸において三百年前に誕生した。当時の記憶は曖昧だが、生後暫くは人類との闘争ばかりに明け暮れていた覚えがある。我はあまりに長い爪を除けば、十代後半程度のメスの人類に極めて近い肉体の上、なかなか麗しい見目をしているため、人類に襲われることに疑問を持っていたのだが……しかし、考えてみれば同然である。なにせ我は人を喰い、人は喰われることを恐れるのだ。人間一人一人は脅威足り得ないと言えど、奴らの団結力は意外に侮れない。我は人間を屈服させるために、およそ百年を要してしまった。

 人間が和平を申し出たのは、村を手足の指の数ほど壊滅させた後だった。曰く、我が必要とする分だけ人間を供物に捧げるから、他の人間は見逃せ、とのこと。無意味な虐殺を好まない我は、年に一人、若者を捧げることを条件に山奥暮らしを始めた。以来、我の住居は人間の手によって作られた、それなりな広さを持つコテージとなり、年に一度、一人の人間が、我の元へ喰われにやって来るようになった。

 人間は熟成した方が美味いと気付いたのは、六十人程度の供物を喰った後だった。どうにもこのコテージ、我が住み着いたことで特別な空間と化しているらしく、人間はここで過ごせば過ごすほど、肉が熟成されていくのである。故に我は、供物には一年間この場所で我と暮らすことを命じているのだが……

「大抵の人間は、一月と経たずに自死してしまうのよな。せっかく一年の猶予を与えてやっているというのに、我としては勿体ない限りだと思うのだが……」

 作り上げた唐揚げ定食(かつて暇だった際に習得したメニューだ。自らの舌を信じる限り、それなりに出来は良い)を黙々と食べ進める幽石を眺めながら、我は雑談というやつを仕掛けてみる。しかし幽石は、ちらりと嫌そうな視線を此方へ向けるのみで、相も変わらず我の言葉に応じようとはしなかった。

「むう。我は昼食を作ってやったのだぞ? 礼を述べよとは言わんが、無言は無礼にも程があるだろう。捨てるぞ、それ」

「……料理に罪は無いだろう。勿体ないことをするな」

 ようやく口を開いた幽石は、我へ無遠慮な言葉を放つ。我は雑談が成立したことを喜びつつ、勿体ない、という言葉の意味を脳から引っ張り出す。

「ふむ。食物に対する無駄遣いに嫌悪感を抱くのは、日本人の性質だったな……ははーん、やけに素直に料理を食べ始めたのは、それが理由だったか」

 普段は張り合いの無さを極めたような幽石が、我が料理をお盆で持ってくる様子を目撃した途端に複雑な表情を見せた理由が、遅れて理解できた。彼のたった一言だけで、人となりの一端を垣間見えてしまうとは。

「雑談というやつは面白いな。おい、幽石。何か話せ」

 彼からの言葉を強要する。しかし幽石はごちそう様、と手を合わせ、席を立ってしまった。

見れば確かに、料理が食べ切られている。米粒一つとして残さないのだから、律儀なものだ。

「食器はどうすればいい」

「お……そこに置いたままでいいぞ。我は、洗い物も出来るのでな」

「そうか」

 それだけ話し、幽石は再びバルコニーへ戻る。あまりにも自然に話しかけられたものだから、我もつい、普通に返してしまった。彼の背中をぼうっと見送ってから、その会話こそが彼なりの誠意、昼食のお礼であったと気付く。

 幽石つばめ。意外に、面白みのある人間だ。

 願わくば一年生き抜いて欲しいものだと、我は、彼を喰うその時を夢想した。


 このコテージは二階建てとなっており、基本的な生活空間は全て、二階に集中している。一階は倉庫に近い役割を果たす場所なのだが、時折人間は、その場所へ頼まれてもいない供え物を置いていくのだ。大抵の場合は単なる食料であり、我にとって不要極まるものであるのだが……その日、適当に漁っていると、食料に紛れ、茶葉が備えられていることを発見した。

「というわけで茶を淹れてみたぞ。飲め」

「…………」

 湯飲みの中で揺れる緑色の液体に、幽石は何とも言い難い表情を見せる。我は殻の湯飲みに、自身の分の緑茶を注いでいく。

「初挑戦ではあるのだがな、本に書かれた通りの手順を踏んだため、悪くは無いと思うぞ。我は、料理というものは変なアレンジさえ加えなければ、大抵上手くいくと知っているのだ」

 供えられていた煎餅をついでにテーブル中央へ置く。よく分からないが、茶には茶請けがあるべきらしいため、適当な行為だと思われる。

「それ。飲んで、その上で感想を聞かせろ。我が飲むのはその後だ」

「……俺を人柱に使うな。それに、俺は猫舌なんだよ」

 急かす我に嫌な顔をしながら、幽石は湯飲みへ空気を吹き込む。暫くしてから、意を決したように湯飲みを傾け、小さく喉を鳴らした。

「あち……」

「で、感想はどうなのだ?」

「どうって……緑茶だよ。苦い水以上の感想は無い」

「むう、これだがら餓鬼は困るな」

「十六に何を求めているんだ、お前は」

 呆れたようにため息を吐いてから、幽石は煎餅へ手を伸ばした。

 彼がこのコテージへ来てから、既に三ヶ月が経過した。正直な話、一ヶ月時点で彼の自死は秒読みだと思っていたため、それは意外な結果だった。最近の幽石は、相変わらず居ても居なくても変わらないような存在感の薄さではあるが、食事時……つまり、我が何かを提供した場合に限り、その見返りとして一定の会話を行うようになっていた。

 幽石に倣い、茶を飲んでみる……苦い。少しも美味しくない。しかし幽石を餓鬼と批判した以上、我が同じ反応を見せては情けないが過ぎるため、我は優雅に飲む振りをした。

 幽石は両手で煎餅を持ち、ちまちまと頬張る。その姿が珍しく機嫌良さげに見えたため、我は前々から疑問に思っていたことを口にする。

「なあ、幽石。お前は今、何を理由に生きているのだ?」

「…………」

 ぴたり、と、幽石の手が止まる。構わず我は続ける。

「お前の前にも三ヶ月以上生きた人間は、僅かに居た。しかしな、それらは虎視眈々と脱出の機会を狙っているか、或いは生ける屍となっているかの二択だったぞ。お前はここから逃げ出そう、などと考えているようには見えないが、しかし生気を失った人間にしては、食欲旺盛が過ぎる……それとも我は、甘やかしすぎたのか?」

「…………」

「多少は、痛い目に遭わせるべきだろうか」

 ゆっくりと自らの爪を撫でる。無論、我が幽石を痛めつける理由などない。しかし理由が無くとも行動に移すのが、我という生命体だ。

「……前にも言ったはずだ。俺は、どっちでもいいんだよ」

 刺すような視線を此方へ向け。幽石は言葉を放つ。

「俺がこのコテージへ足を運んだ時点で、供物としての役割は果たされている。一年程度、命日がブレるのなぞ、俺は気にしないんだよ。お前に殺されるまで生きて、お前に殺された時点で終わる。そういう覚悟で、俺はここに来たんだ」

「ふむ、どっちでもいい。そんなことも言っていたな。思考停止と言い換えれば得心がいくが、ならば尚更何故、他の人間は大半が自死してしまうのだ?」

 これもまた、前に言ったことだったか。かつては解答を得られなかったが……

「本当に分からないのか?」

 果たして幽石は、軽蔑の籠った声を発した。

「家畜扱いを恥に思わない人間なんて、居る筈が無いだろ。自ら命を絶った人らは立派だよ。そいつらは俺なんかと違って、人としての尊厳を生涯護り抜いたんだ」

 尊厳。

 人は、そんな下らないものを大切にするのか。

「しかしな、幽石。人間は豚やら牛やらを家畜として飼い殺している癖に、自身がされるのは嫌というのは道理に合わないのではないか?」

 質問を重ねる。幽石は、眉をひそめた。

「そもそも家畜とは、別段卑下される存在では無いのだぞ。彼らはいずれ喰われるという条件の下、種としての存続を人類に保証させているのだ。それはお前らだって同じだろう。むしろ我に喰われる人間は、自身の下らん尊厳なぞではなく、他者を生かしたということにこそ、誇りを抱くべきだと我は思うがな」

「……その言葉」

 幽石は一口、茶を飲む。それから大層面倒くさそうに頭を掻いて、言った。

「お前の用いるその言葉は、日本語と言うものだ。日本人が何百、何千年とかけて生み出した、叡智の産物だよ」

「……ふむ?」

「お前の座る椅子も、住む家も、この茶も、全て人類が生み出したものだ。分かるか化け物、人類は家畜にならないために……食物連鎖から逃れ、独立した種として生きるために、多大な労力を支払った結果として今があるんだよ。その叡智に化け物の分際で便乗しておきながら、ただ力のみで上位存在を気取る馬鹿に喰われることを、俺達が誇りに思うと……お前は、本気で思っているのか?」

 それは、静かな怒りだった。

 目前の幽石という個人の奥に、数億の足跡が見える。贄に捧げられた彼は、しかし人類の種そのものを背負い、そこに居たのだ。

 ……なるほど、これが尊厳。

「どうやら、間違っていたのは我の方だったらしいな」

 一息に茶を飲み干し、席を立つ。仏頂面に頬杖を突く幽石に、我は謝罪の代わりに、夕飯の望みを聞いた。それが人の言う、誠意というものだろうと考えての行為だ。

「我は大半のものは作れるからな、何でも言うといい」

「……別に。和食なら文句は無い」

「和食か。茶を好まん割に渋いな」

「……うるさい。いいだろ、別に」

 幽石は拗ねたように言い、煎餅を齧った。その様子に、我は思わず噴き出す。

 彼は大層嫌そうに、そっぽを向いた。


 異変が起きたのは、幽石が半年ほど熟成された頃だった。

 我はいつものように幽石のための食事を作り、彼が仏頂面で食べ進める様子を眺めていた。半年経過しようと幽石の存在感の希薄さは変わらなかったが、しかしどうやら、彼は食事を大層好んでいるらしいことが、我にも解ってきた。普段と、明らかに機嫌の良さが変わるのだ。加えてその変化は、料理の出来が良ければ良いほど如実になる。我は彼の幼い笑顔を二度ほど目撃したことを、内心でひっそりと自慢する。

 無駄と言えば無駄な行為だが、彼という人間は暇つぶしに向いているのだ。打てば響く鐘を打たないものはおるまい。そんなわけで、我は今日もテーブルを挟んで向かいに座る幽石へ、雑談を投げていたのだが。

「……なっ」

 先に気付いたのは幽石の方だった。彼は我の右肩辺りを見て、目を見開いている。何事かと自身の右肩を見ると……そこには、空洞があった。

 どうやら右腕が肩ごと腐り落ちてしまったらしい。肩があった場所からは、我の赤黒い血液が汚泥のように噴出していた。

「……どうやら、寿命が近いようだな」

「寿命って……お前、死ぬとか、ある生き物だったのか?」

 珍しく幽石が慌てた表情を見せ、立ち上がろうとする。我はそれを手で制した。

「我にも死はあるに決まっているだろう。この様子だと、あと百度、日の出を迎えられれば上々といった具合か……ふむ、お前が一年、生き延びた場合、我は喰いっぱぐれてしまうな」

 左手で傷口を軽く撫でる。それだけで血はせき止められ、処置が完了する。加えて体内の仕様を現状維持に切り替えることで、これ以上身体が腐り落ちることを防ぐ。

相も変わらず便利な身体である。我は、形容し難い思いを抱いた。

「……俺を喰うのか」

 混乱から一転、幽石は警戒心を露わにする。その意味が我には一瞬分からず、一拍遅れてから、我の台詞に反応したのだと理解した。

「このまま喰いっぱぐれるくらいなら、ということか? 安心しろ、我は生を目的とせず人間を喰うことはしない。無論、美味いに越したことは無いのだがな」

「…………」

「我はお前を喰う理由を失った。お前は今日から、自由の身ということだ」

 我の言葉に、しかし幽石は苦虫を嚙み潰したような表情を見せた。人間ならば生存を喜ばない筈が無いのにどうしたものだろう、と我は疑問に思うが、なに、きっと現実を処理し切れていないだけだろう。我は、言葉を続ける。

「我は百を超える人類と過ごしてきたが、半年間も自我を保っていられたのはお前が初めてだったぞ。良かったな、幽石。この生存は、お前自身の成果だ」

 片手が無いため拍手は出来ないが、その代わりとして口笛を送る。これだけ熟成した肉を食えないのは残念で仕方ないが、まあ、幽石はそれなりに面白みのある人間だから、生き延びたことは素直に……

「……駄目なんだよ」

「む?」

「今更お前に喰われなくなったところで、何の意味も無いんだ……」

 幽石はわなわなと震える。握られた拳から、僅かに血が垂れた。

「村へ帰れば殺される。俺はどの道、死ぬしかない人間なんだよ」


「お前は、自分が何故これまで生き永らえることが出来たか、考えたことはあるか?」

 幽石は、静かに語り出した。

「お前のような化け物は、外敵として処分されることが世の常だ。現代の人類には、それを可能にするだけの兵力がある。そうされなかったのは、お前の存在を、俺の住む村がひた隠しにしていたからに他ならない」

 話を聞くに、どうも幽石の住む村では、我のことは神として崇められているらしい。人間を供物として捧げることで、作物は育ち、繁栄と安寧が約束される、と。

 いつの間にそんなことになっていたのか、或いは、我が契約を結んだ瞬間から、その村での我は神だったのか。

「言っておくが、お前のことを神だと信じて疑っていない人間なんて、村の半数程度だ。だが、その半数があまりにも過激に、お前を崇めている……加えて国は、宗教問題には深入りしてくれない……仲の良かった友人から、贄に選ばれたことを褒め称えられた俺の気持ちが、お前に分かるか」

 悲痛な声で、幽石は言う。

 半数の正気と、半数の狂気。

しかし大抵の場合、正気と狂気では狂気が勝り、正気を侵食していく。

「生贄は、他を生かすための犠牲として送られるんじゃない。お前に殺されることそのものが、生贄の目的なんだよ。だから、もし俺がのこのこと村へ帰ってしまえば、俺は村にとっての咎人……殺害の対象でしか無くなるんだ」

 人が人を殺す。生きていることを、理由に。

 彼は故郷の村を、どんな気持ちで眺めていたのだろうか。

「それとも村以外へ逃げれば良いと考えるか? 自由の身ならば、何処へなりとも渡り歩けと? は、お前が語っていた逃げ出そうとした奴らってのは、実際そうしようとしたんだろうな。だが、俺はあの村でしか生きられない。あの村からは、どうしたって逃げられない……俺はそれを、よく知っている」

 吐き出すように、感情的に、直情的に彼は言う。そこには悲しみと、後悔と、諦めがあった。幽石つばめは、生物に真なる意味での自由などあり得ないと知っているのだ。

 それは、我も決して例外ではなく。

「……済まなかったな」

 自然に漏れ出た言葉だった。幽石はハッとした表情で、我を見た。

「我は愚かだった。人間を支配していると思いあがっていながら、実際は保護されている側だったとは、な。井の中の蛙、と言うのだったか……我はまさに、愚鈍な蛙だったのだな」

「…………」

「一階に斧がある。それで我の首を落とし、村へ持ち帰ると良い。その上で、山奥の化け物は偽物だったと言い張るのだ。我々は、騙されていたのだと。上手くやれば、お前の命はそれで助かるだろう」

 責任から、我はそう発言する。しかし幽石は項垂れ、首を横に振る。

「俺にお前を殺せというのか?」

「安心しろ。我を殺したとて、人殺しにはならない」

「……そうだな。お前は人間じゃない。お前は、人を喰う化け物だ」

 はあ、とため息をもう一つ。幽石は、改めて立ち上がった。

「だが、お前は俺に食事を提供した。その恩を無下にするほど、俺は腐っちゃいない」

「……幽石」

「救急箱はあるか。その傷、手当てくらいなら俺にもできる」

 柔らかい眼差しを向けられ、我は困惑する。それに構わず、幽石は続けた。

「どの道三ヶ月強で死ぬんだろう。だったら、それまでの間くらい、俺はお前と一緒に居るよ……最も、お前が望めば、の話だが」

 幽石は耳を赤くしながら、しかし毅然と言い放つ。

 ……なるほど。

「これが恥という感情なのだな」

「ぶっ殺すぞ」

 余命三ヶ月。

 人を喰う必要の無くなった我は、人としての暮らしを始めた。


 生物に生存本能があるのは当然のことだ。生まれた命には、生き延びる義務がある。何故そのような義務を背負っているのかと言えば、やはり種の存続と数の確保が理由となるだろう。

 肉体はときに、遺伝子を運ぶ乗り物と評される。その肉体がどのような人生を歩んだかは本質的に意味を持たず、次に繋げることのみが求められる、と。ならば子を成さなかった肉体に価値が無いかと言えばそうでも無い。数とは、それだけで力足り得るのだから。

 ……ならば、我はこれまで何のために生きてきたのだろう。

 我に子を成す昨日は備わっていない。加えて、我は唯一の存在である。我が生きることで消費されるものこそあれど、生まれるものは無い。

 ただ生存本能のみに従って生きてきた。その結果、我には虚無のみが残された。

 我が死のうと、世界には、我の足跡は残されない。初めから居なかったも同然となる。だが、それを問題視するには、我は時を逃しきっており、故に。

「つばめぇ、このDVD入れてくれー」

「えー……」

「言うこと聞かないと殺す」

「子供の我が儘じゃないか……」

 ソファーへ腰掛けながら、彼を顎で使う。つばめは呆れたような視線を向けつつも、我からDVDをひったくり、右腕の無い我に代わってプレーヤーへ差し込んでくれた。

「じゃあ俺、風呂入って来るから……」

「待て、あらすじを見るに、この映画はとても怖い。一人で見るべきでは無いと、我の極めて優れた頭脳は判断した」

「……あー、つまり?」

 とっくに先が予測できたであろうつばめは、しかしシラを切ろうとする。我は左手を腰に当て、堂々と言った。

「一緒に見るぞ。おら、我の横に座れ」

「…………」

 額へ手を当てるつばめ。暫く悩んでから、結局は我の隣へ座った。

 命の無価値を問題視するには、我は時間を逃しきっている。しかし、周回遅れとて、我は未だ死したわけでは無いのだ。

 故に、我はつばめとの思い出を重ねる。我が此処に居た、という証を残すために。つばめにとっての何か……少しでも特別な何かに、成るために。

 彼と出会って九ヶ月目の夜。

 我の人生における、最期の夜の話だ。


「……なあ、つばめよ」

「なんだ」

「この映画、もの凄くつまらなくないか?」

 映画中盤、それまで大人しく見ていた我は、しかし辛抱が効かなくなり、つばめへ話しかけてしまう。案の定つばめは、嫌そうな表情を見せた。

「黙って見ろ。お前が選んだ作品だろう」

「む……正確には、我が選んだわけでは無いのだぞ。昨日供えられていたのだ」

「お前の家、ゴミ捨て場だと思われてんじゃないか……?」

 暗に我のつまらないという意見を肯定しながら、つばめは苦笑する。

 最近彼は、良く笑顔を見せてくれるようになった。

 安売りである。

「このままでは暴れ出してしまいそうだ。つばめよ、何か雑談を振るのだ」

「そんな無茶な……」

 映画から目を逸らさないまま、つばめはどうしたものかと頭を掻く。劇中では白いマスクを被った大男が、斧で逃げ惑う人々を襲っているところだ。

 低俗な表現である。殺害手段が全て斧な上、叫び声でしか恐怖を示さないものだから、ひたすらに飽きを観客へもたらす。それに人間は、身体を真っ二つにされれば悲鳴を上げる間もなく気絶する生き物である。血液だってもっと粘性が無くては、リアリティに欠けるだろうに。

「……人を殺すのは、どんな気持ちなんだ」

 やがてつばめは、映画から連想されたであろう雑談を振る。それは人間の尺度で言えば重い会話だろうが、我にとっては別段、そうでも無い。

「率直に言えば不快だな。喰うために仕方ないとは言え、返り血で服が汚れる」

 素直に応じてから、その質問が『良心は痛まないのか』という意味だったことに気付く。しかしつばめは、そうか、とだけ返した。

「俺は、お前が食事している姿を見たことが無い。精々、稀に飲み物を飲んでいる程度だ。年に一人の人間のみで、お前は栄養を賄っているのか?」

「少し違うな。我はそもそも行動に栄養を必要としない。人類の考える生き物とは、全く異なる仕組みで動いているのだ」

「だったら……人を喰わずに生きる道は、無かったのか」

「無いな。我にとって人食いは栄養補給では無く、人間でいう睡眠に近い。一年に一人喰うことで、翌年を生きるのだ。一年二年、或いは三年程度ならば、喰わずにも生き永らえるかもしれんが……必ずどこかで限界が来て、我は気絶し……自我を失い、暴走する」

「……暴走すると、どうなる」

「腹が満たされるまでは止まらん。しかも、暴れるほどに腹が減っていく。数百……いや、数千の人間を、我は喰い尽くすだろうな」

「……そうか」

 再び、つばめは言う。その表情は、少しだけ寂しそうに見えた。

「残念だな。人喰いさえなければ、お前は愛らしいというのに」

 その言葉に、少しだけどきりとする。

 愛らしい。それはおおよそ、告白と同義ではないのか……と、そこまで考え、頭に付いていた『人喰いさえなければ』、という一文を認識し、我は肩を竦めた。

「やはり人食いとは分かり合えんか」

「当然だ。俺は、引くべき一線は違えない」

「ふむ。強情なものよな」

 会話はそこで打ち止めとなり、我らは二人、つまらない映画を眺める。

 程なく映画は終盤を迎え、五分前までぎゃあぎゃあと泣き喚いていた主人公は、何やらものわかりの良い表情となって仮面の男から逃げおおせる。そのまま百万回は聞いたような歌詞と共に流れ出したエンドロールを見終えて、我は腕を伸ばした。

「お姫様抱っこだ、つばめ。我は眠い故、ベッドまで運搬せよ」

「はいはい……ちょっと待ってろ」

 我の我が儘を、つばめは慣れたものという風に軽くいなす。彼はプレーヤーからディスクを取り出してケースへ仕舞い、テレビの電源を落としてからようやく、つばめは此方へ向いた。

 よっ、と一声で我を救い上げる。我は、この瞬間が好きだ。

 つばめの顔が近い。未成年のわりに大人びた顔立ちは、しかし今は年相応に緩んでいる。最も特徴的なのはその瞳だろうか、かなり強烈な三白眼は、我の奥底までを覗き込む。

 寝室の扉を開け、我をベッドへ置く。その上に布団を被せたつばめは、満足そうに頷いた。

「それじゃ、おやすみ」

 そのまま立ち去ろうとするつばめ。我は、左腕を伸ばしてそれを引き留めた。

「……なんだ」

「おやすみのキスがまだなんだが?」

「キッ……お、お馴染みのものみたいな言い方をするな……!」

 慌てふためくつばめを見て、我はからからと笑う。どうしたものかと、我の顔を眺めながら思案するつばめの首を、我は絡めとった。

 そのまま唇を合わせる。彼の鮮やかなそれが、小さく我に触れた。

「…………っ!」

「おやすみ、つばめ。夜更かしは程々にするんだぞ」

 にやりと笑いかける。つばめは顔を真っ赤にし、逃げ帰るように扉へ走る。

「……お、おやすみ。また明日、な」

 それだけを呟くように言って、つばめは扉を閉じた。

 また明日、か。

 いい言葉だ。未来への希望が無いと、そんな言葉は出て来まい。

 我の最期を看取るのが、彼で良かった。

 そんな満足感と共に、我は今際の眠りにつく。

 彼は明日、死した我を見て、彼は何を想うだろう。涙を流してくれるだろうか。我の死体を弔ってくれるだろうか。それからの人生を、彼はどう生きるのだろうか。出来ることなら幸せになって欲しいという願いと、彼なら大丈夫だろうという信頼を、同時に覚える。

 瞼を落とす。世界が、暗闇になる。

 我は、暗闇の底へと溺れていった。


 思えば我は、常に独りで生きてきた。それは人間を家に住まわせるようになってからも変わらない。どれだけ他者が近くに居ようと、我の心には、我以外居なかったのだ。

 その生き方を孤独と感じたのは、つばめと知り合ってからのこと。孤独とは、他者の温かさを知って初めて、覚えるものなのである。

 我の孤独は必然だった。人間と化け物は、決して分かり合えない。生態が、価値観が、爪の長さが、違うのだから。故に我にとって、我を化け物だと理解した上で、相互理解を不可能と判断しながらも我と接することの出来るつばめと出会えたことは、奇跡に他ならない。

 彼と出会えて良かった。

 彼を喰わないで、本当に良かった。

 ……そうか。

 それこそが、我の護り抜いた尊厳だったのか。


 それは、唐突の出来事だった。

「思ったより早かったな」

 聞きなれた声に目を覚まし、我は混乱する。

「あ、あれ……? 我、死んだはずなのだが……」

 普通に寝起きのように目覚めてしまった。声の方へ頭を向けると、そこにはやはり、眠る前に見たそのままの、つばめの姿があった。

「ふん、やはり自覚無しか。お前が適当に生きてきたことがよく分かるな」

 ……訂正。

 このつばめ、なんか少し性格が悪い。

 身体を起こし、部屋を確認する……やはり、眠る前と何も変わらない。単に死期を見誤っただけだろうか、と考え……気付く。

 左腕が、在る。腐り落ちたはずの腕が、そこに。

「さて。それじゃあ、説明をしようか」

 つばめは、不敵に笑った。


「お前の死体が再生していることに気付いたのは、死後三日目の朝だった」

 滔々と語り出す。気のせいか、どこか得意げに見えた。

「火葬は無理でも、せめて土葬くらいしてやろうと、俺は土を掘っていたのだが……ふと、お前の左腕が、少しずつ生え直していることに気が付いた。加えて、停止していたはずの呼吸も再開している。お前は人間の尺度では測れない存在だからな、そこで俺は、こいつは死という概念の存在しない生物なのではないかと仮説を立てた……そして実際、こうしてお前は完全復活を果たしたというわけだ」

「……ふむ」

 得心がいく。何せ死の経験が無かったため知る由も無かったが、我の身体ならばその程度の無法、出来てもおかしくはない。

「我はどの程度眠っていたのだ?」

 精々ひと月、どれだけ長くとも三ヶ月程度だろうとあたりを付け、我はつばめに問うた。

 ……故に。

「ジャスト百年だ。俺の予測より、二十年ほど早いお目覚めだな」

 さらりと自身が百年眠っていたことを明かされ、我は息を呑んだ。

「……っ、ま、待て。待つのだつばめ」

 慌てて言葉を捻出する。

「我が百年も眠っていたのだとすれば、お前の容姿が一切変化していないのは、どう考えたっておかしいぞ。なんだ、我の眠っている間に、科学はそこまで発展したのか?」

「そんなわけ無いだろう」

 鼻で笑われる。癪に障るが、しかし今は説明を待つ以外にない。

「お前が人間を家に住まわせるのは、この家に住んだ人間が熟成してより美味くなるから、だったな。だが、熟成という表現は適切じゃない。端的に言えば、この家に住んだ人間は、お前自身に感染するんだよ」

「わ、我に感染?」

「そう。化け物に近づく、と言えば良いか。お前から常に発生しているウイルスは、近づく生命を自身と同じ生態へ変化させていく。潜伏から発症まで、およそ一年というところだな」

「…………」

 彼の言葉を、脳内で必死に翻訳する。

「つまり……お前は」

「そうだ。俺はお前と同じ、人を喰う化け物になった」

 ……その言葉に、我は絶句する。

 人を喰う。それは、つばめが最も忌避していた行為の筈だ。

 しかも彼が化け物になってから、既に約百年が経過している……つまり、彼は。

「勘違いするなよ。俺は未だ誰も喰っちゃいない。この先も、喰う予定は無い」

「……なら、どうやって」

「やせ我慢だよ」

 どうやって生きてきた、という問いに先回りし、彼は答えた。

「俺は百年間、空腹を無理矢理耐え続けて来ただけだ……お前が目覚めるまで、な」

「…………」

 そんなことが本当に可能なのか、と目を見開く。

 だって百年の絶食だ、人間で言えば、百徹に近い無茶である……しかし現につばめはそこに居て、そして我は、彼がつまらない嘘を付く人間でないと、知っている。

 百年間も……彼は、独りで。

「我に会うため……それ程、我が恋しかったのか?」

「馬鹿を言うな。俺が暴れたときに介錯できる能力があるやつを、お前以外に知らなかっただけだ……俺は、明日にもどうにかなるかもしれんからな」

 つまらない解答にがっかりする。しかし事実、彼はどうしようもなく辛そうだった。

「聞け。お前は、人を喰った化け物だ。だがな、化け物が幸せになってはならない、なんて道理は何処にもない……お前の生き方は、お前だけが決められるんだ」

 唐突につばめは、我へよく分からない言葉を伝え出す。それがまるで遺言のように聞こえ、我は慌てて何事かを呟こうとして……唐突に、唇を奪われた。

「っ……」

「……ふん。百年前にも感じたことだが、意外に面白みのない行為だよな、これ」

 直ぐに唇を放し、つばめは淡白な感想を言う。我は、触れ合っていた場所を、指でなぞる。

 幽霊だなんてとんでもない。そこには、確かな質量があった。

「それじゃあ、俺は寝る。眠いからな。もし暴れ出したら、躊躇なく殺してくれ」

 ひらひらと手を振って、つばめは寝室から立ち去ろうとする。その光景が百年前と重なり、我は咄嗟に、待て、と呼び止めた。

「……どうした?」

 振り返り、つばめに問われる。

 だが、本当に咄嗟に出た言葉なのだ、つばめの説明したことすら碌に理解していない現状で、用意している言葉など無い。

 ……我は、何を言うべきなのだろう。

我を待ち続けてくれた感謝?

拙いキスへの不満?

此処に居て欲しいという本音?

分からない。分からないが故に、我はひどくありふれた言葉を口にした。

「……また明日!」

「……は」

 小さく笑うつばめ。その笑顔は、かつて見た無邪気なそれで。

 つばめは、軽やかに言葉を返した。

「ああ、また明日」

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