第五章 天草結
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
店員さんの言葉に小さく頭を下げ、買い物袋を手に取る。そのまま自動ドアを潜った私は、乱雑に袋を自転車のカゴへ放り込み、鍵を回した。
夕暮れに自転車が駆ける。
普段は気持ちのいいものであるはずの風は、けれど今日はどうしてか、邪魔に感じた。
私と結は、ずっと無言だった。
「……あ」
リビングを覗くと、そこには先客がいた。
「――ああ、お帰り。遅かったな」
「……うん。ただいま」
くたびれたスーツを着て、無精髭を生やした、この家の持ち主。
私の、父だった。
手にはビール缶が握られていて、食卓の上に飲み終えた缶がいくつか、乱雑に置かれている。どうやら帰ってから既に数時間経過しているようだった。
「…………」
久々に顔を合わせたね、とか、今日は早いんだね、とか、様々な台詞が頭をよぎったけれど、私は結局ただ、「ご飯、作るね」と、父の横をすり抜ける。
『…………』
不安そうに私と父を見る結に大丈夫だよ、と目配せをしてから、私は調理に取り掛かる。本当は食欲も無いし、今日は茹でたパスタにチーズでもかけるだけにしようかと考えていたけれど……父もいるとなれば、もう少し手の込んだものにすべきだろう。
かしゅ、と背中で新たな缶ビールが開かれる。冷蔵庫に十数本程度常設されたそれは、けれど普段は殆ど減ることが無い。いつだったかお酒は苦手だと語っていた通り、基本的には付き合い以上の飲酒をしない人なのだろう。父が家でお酒を飲むのは、いつだって、私と顔を合わせなければならないときだけだ。
色々考えて、結局パスタ以外の選択肢が浮かばず、私はミートソースパスタを作ることにした。何度も作った料理だから、レシピは脳内にきっちりある。もともと行程的にも時間的にも難しいものじゃないし、二十分もあれば完成するはずだ。
――茅ヶ崎さんが教室を出てから、私は三十分くらい、椅子に座ったままでいた。動かなかったのではなく、動けなかったのだ。それ位、あの痛みは劇的だった。これまでに感じた全ての痛みを足しても届くかどうか。錯覚な分だけマシだと何度自らに言い聞かせても、いや、錯覚だからこそ、そのズレが私を苦しめた。
私は結に謝り、結も私に謝った。互いが自分の方が悪いと思っている会話は平行線で、結局私たちは無言で、何の問題も解決させないまま、校門をくぐった。
これが私の咎。あらゆる問題を先延ばしにした結果だ。
――本当に、反吐が出る。
結局ミートソースパスタは十五分で完成した。何か工程を短縮してしまったかと焦ったけれど、別段そんなことも無い。ぼうっと手を動かしているうちに、いつの間にか出来上がってしまっていたのだ。
私は出来上がったそれを二つのお皿に移し、フォークも二つ取り出す。それらとチーズ入れをお盆に載せてから、私は父のいる食卓へ向かう。
「……出来たよ」
「ああ……ありがとう」
我ながら親子の会話とは思えない。けれど私も父も分からないのだ。普通の親子がどういうもので、私たちが、どうすべきか。
小さくいただきますを言い合ってから、私たちは食べ始める。そのパスタはやたらに薄味で、少しも美味しいとは感じられない。料理には少しだけ自身があったんだけどな、と、気分が沈む。父は何の感想も述べず、粛々とパスタを啜っていく。
結も何も言ってくれない。私は久々に、孤独を感じた。
程なく食べ終わる。私はごちそうさま、と立ち上がり、先に食べ終わっていた父の分のお皿を拾い、洗いに行こうとして。
「――ちょっと、いいか」父に呼び止められる。「話したいことが、あるんだ」
「――もちろん。私たち、親子でしょ」
席に座り直す。父はまた、ビール缶を傾けた。
「実は父さん、再婚しようかと思うんだ」
私が小学三年生の頃。
母が、亡くなった。
どうやら買い物中、モールの階段から転がり落ちてしまったらしい。別に押した誰かが居たわけでも無く、単なる母本人の過失事故だ。当時のことは、そこだけぽっかりと穴が開いてしまったみたいに思い出せないけれど――沢山泣いたことは、覚えている。
私は母が好きだった。特別優しいわけでも、甘やかしてくれるわけでも無かったけれど、私と同じ視点で会話をしてくれる母が、好きだった。けれど多分、父は、私以上に母のことを、心の底から愛していた。溺愛と言っていい。小学一年生、人生初の授業参観で唐突に父が母を口説き出し、とんでもない恥をかかされたことをよく覚えている。当時は両親をものすごく恨んだものだけれど、今となっては、ぎりぎり良い思い出かもだ。
この家は、母が住みたいと言って住み始めたらしい。普通のサラリーマンと普通のOLにはかなり荷が重いローンを組んで、二人で頑張って払い切ろう、と約束し合ったのだ、これこそが愛の証明なのだ、と、幼いころ、何度も父から聞かされた。
――だから父は、今でもこの家を護っている。他の全てを、犠牲にして。
ああ……父と会うことが気まずくなったのは、いつからだったっけな。
「今度、つかさにも紹介しようと思ってる。美咲さんって言って、すごく良い人だよ」
それから父は、美咲さんという方について、馴れ初めから丁寧に語り出した。それらを私は、可能な限り誠実かつ真面目に聞いていた。けれど、私が打つべき相槌は一通りしか無いことは、分かり切っていて。
「私は、良いと思うよ。お父さんの人生だもん。私のことなんて、気にしないで」
お決まりめいた定型文を言う。父は、嘲笑うみたいに、口を歪めた。
「そうだな。お前のことを気にしなければ、どれだけ楽か」
「――――」
「お前さえ、居なければ……」
そこまで言って――父は、涙を零した。
「……ごめんな、こんなこと、言いたくて呼び止めたわけじゃ、無いんだ」
「……分かってるよ」私は立ち上がる。「お皿、洗うね」
改めて流し場へ向かう。
「何か足りないものは無いか? 文房具とか、服とか……」
「ううん、大丈夫だよ」
「そ、っか……学校で困ってることとかも、無いのか?」
「無いよ。私は、本当に大丈夫」
私は、嘘を付いた。
部屋に到着するや否や、私はベッドへ転がった。
「…………」
天井を睨み付ける。結は、気まずそうに、私の横に座った。
『あー……何というか、アレだな。悪いことってのは、続くもんだな』
おずおずと結が話しかけてくる。絞り出したような彼女の台詞は、けれど私にとって小さな地雷を踏んでいて、加えて今の私には、それをやんわりと伝える力が残っていない。
「……娘と父の会話を、悪いことに括らないで欲しいな」結果、私はただ思ったことを口に出してしまう。「お父さんは、ちゃんと私を養ってくれている。学校に行けているのだって、お父さんが働いてくれているからだもん。私のお父さんは、立派な人だよ」
『……ごめん』
結は、小さく謝った。元気なく項垂れる彼女を見て、私はようやく自分を責める。
「わ、私こそごめんっ。今のは、ただの八つ当たりだった……」
『馬鹿言えよ、お前の怒りには正当性がある。八つ当たりってのは茅ヶ崎の行為みたいに、理不尽で悪質な暴力を指すんだ』
「……うん。言ってたね、そんなこと」
放課後の騒動を思い出す。あの時、結は私のために怒ってくれたけれど……私にとって、あの痛みは、受けて当然のものだった。結の言う通り、あの場で茅ヶ崎さんが私を痛めつける必要性は、特別無かったのかもしれない。けど、少なくとも私には、罰を受ける筋合いがあった。世界を舐め腐った子供の戯言はいつだって、誰かが手を下すまでも無く、現実の重みに粛清されるものだろう。彼女はそれを、少しだけ早めたに過ぎない。
私は病気だ、と茅ヶ崎さんは言った。現実に戻れ、とも。
――なんて、正論。正しすぎると言っていい。義務教育を終え、自立して働き出している人が数多くいる年齢にもなって、未だ幽霊なんて非存在に縋っているだなんて、愚行極まりない。白馬の王子様を考え足らずに夢見たあの頃と何も変っていないと、私は私を嘲笑う。
私は、幼かった。
「ふう……」
永く、息を吐く。寝そべってこそいるけれど、別段眠くは無い。電気を点けっぱにしているのだから当然と言えば当然だけれど……あ、いや、人によっては、むしろ真っ暗の方が寝られないのだったか。なら、明るさの有無は眠気とさして関りは無いのかな。そもそも瞼を閉じてしまえば、主観的な暗がりはいつだって得られるのだから――
『……なあ、やっぱり私たち、別れるべきだと思うんだ』
そんな現実逃避を、結がぶった切る。
「なんかあれだね、カップルの別れ話みたいな切り出し方だ」
『茶化すなよぅ。私だって今、自分の矮小な語彙力を猛省してんだからよ』
「はは……」
今の結の台詞が真剣なもので、茶化すべきでなかったことくらい、私にも分かる。だけど、こうやって冷笑を気取って、余裕な振りをしていないと、何かが決壊してしまいそうだった。
私はいつもそうだ。言い訳ばかりが、得意になっていく。
『成仏したいってのが強がりだったのは認めるよ。私は現世を――二度目の人生ってやつを心の底から楽しんでるし、出来ることなら、この生活を続けたい。けどな、それはお前を危険に晒してまで、やりたいことじゃないんだ』
「…………」
『このままだと、お前は一週間後に死ぬことになるんだぞ』結は、真剣だった。『あの馬鹿がやろうとしてんのは、そういうことだ。何処までも痛めつけることで、無理矢理に言うことを聞かせる。お前が強情を張り続ける限り――死ぬまで、だ。いくら架空の痛みと言ったってな、続ければ精神が持たないだろ。たった一回貫かれただけで……お前、泣いてたぞ』
「……うん」
泣いていた。自覚は無かったけれど、結が言うのなら、そうなのだろう。
自分の首を触る。それだけで、絞められたみたいに、気管が震えた。
『はあ……ある意味じゃ、あいつの行動はどうしようもなく正解だな。決定打だ。これでどうあっても、私が死ぬ以外の選択肢は無くなった。後は別れ方を決めるだけだな……あー、自分で言ってて嫌になる。誰かの掌の上ってのは、こうも不快なものなんだな』
例えば、警察に頼み込んで保護してもらう道はあるだろう。警察は幽霊なんてこれっぽっちも信じてはくれないだろうけれど、それでも未成年の頼みなら、一応は聞いてくれると思う。そうすれば一週間後のリミットは、もう少しだけ先延ばしに出来る――けど、それに何の意味があるかと問われれば、何の意味も無いと返すしかない。先送りにした問題は、必ず未来で向き合う羽目になる。私は茅ヶ崎さんと本気で向き合う以外に道は無い。
問題を解決するということは、悩みを棄てるということだ。棄てられた悩みに在ったはずの重みは、やがて大したものでは無かったように錯覚する。
だから人は言う。昔は良かった、と。
『そもそも、私とお前が出会ってから、まだ四ヶ月しか経ってないんだぞ。親友と呼ぶには、まだ浅い付き合いだ。お前にはもう文芸部っていう居場所があって、私以外の友達だって居る。もう、お前に私は、必要無いだろ』
その言葉はとても寂しそうで、哀しい声音を隠そうともしていなくて、だからこそ、誠実に、結は私に諦めを促していた。
もういいだろう、もう十分だろう、と。
――ふざけやがって。
「私は、必要不必要で友達を取捨選択なんてしないよ」
結の譲歩を突っぱねる。自分の思い通りに物事を運ぶだけの能力を持たないくせに、ただ感情論で、言葉を吐き出す。
「それにね、この生活を続けたいと――生きたいと願っている人を、勝手な都合で殺すなんて、そんなこと、しちゃいけないんだよ。茅ヶ崎さんがどうこうじゃない。四ヶ月という期間が問題だと言うなら、この気持ちには十五年分の厚みがある。私の人生で積み重ねた全てが、結の寂しさに寄り添いたがっているんだ。それとも、これは私の、独りよがりなのかな」
『いや、それは……』
「――決めた。足掻けるだけ、足掻いてみよう」
勢いそのまま、私は天井に手を伸ばす。それは何かを掴み取るための行為ではなく、この胸に抱いたものを、決して離さないために、私は、掌を握った。
「まだ一週間ある。その間に、何とかして茅ヶ崎さんを説得できる方法を考えよう」
『説得って……初手の暴行が銛投げの女だぞ。何を言っても、聞かないと思うが……』
「説得が無理なら他の方法でもいい。私は、こんな終わり方、認めたくないんだよ。お別れは、私も結も納得のいくものじゃないと、嫌だ」
気付けば、私の声は震えていた。どんな表情をしていたのか、私の顔を覗き込んだ結は諦めたように首を振り、『……分かったよ』と、小さく笑った。
『どの道一週間後に答えは出るんだ。その足掻くってやつ、私もやってみよう』
「ごめんね、結は納得してたのに、私、我が儘言っちゃって」
『良いさ、先に我が儘を言ったのは私の方だ。こうなったらとことんまで、だ』
二人で頷き合う。
人生は嫌なことばっかりで、プラスよりマイナスの方が大きくて、私の命に、価値は無いけれど。それでも、きっと、生きることは――生きていることは、無意味じゃない。
私は事ここに至り、決めた。
自らの命の、使い道を。
説得と一口に言っても、その手段は多岐に渡る。怖い人は、脅しも説得の内と考えるみたいだけれど……流石に、そこまではしないとして。
先ず一番に浮かぶのは理論立てて説明をすることだ。結は危険な存在ではなく、私に危害を加えることが無い、と根拠を持って伝えることが出来れば、茅ヶ崎さんも納得してくれるかもしれない。けれどこれは、一週間という期限を鑑みれば不可能に近いと言っていいだろう。彼女が六歳から今まで経験し続け、確立された幽霊論に対抗したいのなら、同じだけの時間――少なくとも、その半分くらいは必要になる。現状では茅ヶ崎さんにどう説明したところで、単なる感情論として流されるのがオチだろう。
次に思いつくのは泣き落とし。感情論として流される、どころかまるっきり感情頼りの考え方だけれど、茅ヶ崎さんは正義の味方だ。何でもするから、と本気で頼み込めば、或いは――いや、駄目か。彼女は私の状態を洗脳だと言った。どれだけ感情的に伝えようと、そう言うように、と結が仕向けたと思われて終わってしまう。思えば洗脳って便利な言葉だ……誰かの言葉で人生観が変わった経験は誰にでもあると思うけれど、それを洗脳と言い換えるだけで、なんだか悪い事のような気がして来る。
私は、大切なことを沢山、小説から教わった。何度も人生観を変えられた――けれど、それも彼女に言わせれば、洗脳なのだろうか。
……どちらにしても、説得は厳しそうだ。
『狂人を狂人たらしめるのは、何にも依存しない価値観だ。所有する価値観が法や倫理と一切関りを持たないからこそ、他人には理解できない狂人として映るんだ』
話し合いの最中、結はそう語った。その意味では確かに、彼女は狂人だ。危ないからという理由を抜きに、何となく皆がそうしているから、というだけで信号待ちをしているような私には、決して彼女の価値観は理解できないだろう。
正しさとは城壁のようなものだ。内側に居る人間には優しいけれど、外側の人間には、酷く厳しい。たまたま内側に産まれて罪を犯さず生きて来れただけの私と、自ら城壁を築いた――築かざるを得なかった彼女とでは、そもそもの土台が、全く違うのだ。
説得が無理となれば、残るは……力業になるのだろうか。とは言っても、魔法使い相手に運動部にすら入っていない人間が生身で勝てるとは、到底思えないけれど。
「幽霊は魔法が使えるって話だったよね。結、剣とか出せない? エクスなカリバーとか」
『出せるわけねーだろ。出来たらウキウキでやってるっつーの』
これについても、一週間という期限が課題になってしまう。魔法の使い方を茅ヶ崎さんに聞いておければ良かったのだけれど……どちらにしても、一朝一夕で扱えるようになるものでも無いだろう。加えて茅ヶ崎さんは痛みを感じないのだから、力ずくの場合、本当に殺すまでやらなくちゃいけなくなる。
物騒が過ぎる。私は殺人犯にはなりたくない。
力業、フィジカル便りで言えば、全力で遠くに逃げるという手もある。まあ、一週間歩き詰めれば女子高生一人から逃げ切ることくらいなら出来るだろうけれど……警察に保護してもらう案と同じで、これは何処にも続かない。その場しのぎに、意味は無いのだ。
ああ、こんなことなら、ミステリー小説でももっと読んでおくべきだった。私の頭では、結の手助けがあって尚、何の名案も浮かばない。その癖上手くいかない理由だけはするすると出てくるのだから、ネガティブが骨髄にまで染み渡っているのだ。時間はどうしようもなく限られているというのに、自分の小さな脳みそが恨めしい。結果として頭に浮かぶのは〈どうしよう〉という意味の無い焦りだけで、私はじくじくと精神が蝕まれ――
「つかさちゃん、何か悩んでますわね?」
ふと、友人の声を聴いた。
「……あ」
気付けばそこは、文芸部の部室だった。いつの間にか今日の授業が終わっていたらしい。どうやら私は、無意識のうちに部室へ足を運んでいたようだった。
「わ、分かるの?」
こちらを覗き込む巫女さんに、私は驚いて聞き返す。巫女さんは軽やかに笑って、「ふふん、実はわたくし、魔法使いなんですのよ」と人差し指を唇へ当てた。
「なんて、ね。つかさちゃんの顔を見れば、誰にだって分かりますわ」
「そっか……」
自らの頬を撫でる。あまり感情が表に出ないタイプだと思っていたけれど、どうやらそれほど、今の自分はひどい表情をしていたようだった。
「――その悩みは、他人に話しても大丈夫なものでして?」
心配して、聞いてくれる。その優しさを心の底から有り難いと思いながらも、私は首を横に振った。幽霊の話なんて巫女さんに出来るものじゃないし、何より彼女を巻き込みたくない。
「……そっか。では、こうしましょう!」楽しそうに手を合わせる。「つかさちゃん、今日、この後お暇でして?」
「え……う、うん。暇と言えば、暇だけど」
巫女さんの言葉に頷いてから、結を伺う。結は、肩を竦めた。
「よしよし、決まりですわね!」
「……? え、えっと、どういう……」
意図が分からず困惑する私を差し置いて、巫女さんは「部長さーん! 起きてくださいですわー!」と、両手で頬杖を付いて微睡んでいた部長さんを叩き起こす。
「は……え? な、な、なんっすか?」
慌てふためく部長さんと目が合う。部長さんはどういうことかとSOS信号を私に送ったけれど、残念なことに、私も何も分からない。
巫女さんは、そうして頭上に〈?〉を浮かべる私たちを見て、満足したように頷き、言った。
「バスケをしましょう――三人で! わたくし、良い場所を知っていますの!」
「おーほっほっほ! お二人がわたくしからボールを奪おうだなんて、二週間早いですわー!
部長さん、良い動きですわ、その調子! 結ちゃんはもう少し立体的な動きを心掛けると上達すると思いますわー!」
「くっ……上から目線は性に合わないっす! 結さん、力を合わせてぶち抜くっすよ!」
「は、はいっ!」
前略。
私たちは、バスケットコートに来ていた。
そして言うまでも無くバスケをしていた。しまくっていた。始めてから既に一時間以上が経過しており、私も部長さんも汗をだらだらと垂らしているのだけれど、巫女さんはずっと涼し気な表情でボールを弄んでいる。それがどうにも癪に触って、私たちはせめて一回でもボールを奪おうと、躍起になっていた。
というかこんな場所あったんだ……高校からそれほど離れていない場所にある公園の隅。バスケットゴールがぽつんと置かれたその場所は、巫女さん曰く、この辺りに住む人なら、誰でも知っているようなスポットらしいのだけれど。
「いや、自分も知らなかったっすけどね。巫女さんの〈誰でも〉は、多分かなり敷居が高いっよ。人類を過大評価しているような気がするっす……」
それは、公園に来る前に体育館へ寄り、「バスケットボールを借りに来ましたわー!」と堂々言い放った巫女さんを見ながら、部長さんが畏怖の念と共に呟いた言葉である。どうも巫女さん、バスケ部の面々と深い面識があるようだった。
「にゃはは、わたくし、結構顔が広いのですわ!」
「にゃはは……?」
「もしも他の部活へ用があれば、私を頼って欲しいですわー!」
……思えば、バスケの前から私たちは、何か大切な勝負で負けていた気がする。
「おっぱいの大きさとかっすね」
「ええ、おっぱいの大きさとかです」
「お、お二人、仲がよろしいのですわね……」
いったん休憩ということでベンチに座り、戦友として肩を組み合う私たちに、巫女さんが若干引いたような視線を送る。どうも巫女さん、過激な表現は苦手というか、発言の一線は守るタイプのようだった。
「へ、へへ……ボンキュッボンには、小さいということの苦しみは分からねぇっすよ……」
卑屈に呟く部長さん。ボンキュッボンとか、久々に聞いたな……
「一般的にはむしろ、小さい方が可愛いとされると思いますけれど……」
「それは愛玩的な可愛さっすよぅ。自分はもっと対等にっすねぇ……あ、こら、頭撫でちゃダメっす! 今汗でべとべとっすからぁ!」
「可愛いですわー!」
「部長さんの頭、撫でるの気持ちいいよねえ」
二人のやり取りを、私はのんびり眺める。
『楽しそうだな、お前ら……』
呆れたように呟くのは、先ほどから熱中してバスケに取り組む私を何とも言えない視線で見つめていた結だ。結も混ぜてあげたかったなあ、と口にしようとして、私は、ぴこん、と、あることを思い付く。
「ね。次の2ON1さ、結も参加してみてよ」
『……あ? 私、幽霊だぞ』
こそっと話しかけると、当然というかなんというか、結は怪訝な反応を返す。言うまでも無く、2ON1を3ON1にして欲しい、という意味ではない。
「この間カフェに行った時のこと、覚えてるかな。結、ちょっとだけ私の味覚が共有できてたよね。あれって茅ヶ崎さんの話してた、身体を貸す感覚――結視点で言えば、私の身体を借りる感覚に近いと思わない?」
『む……つまり?』
「同じように、疲れとかも共有できるんじゃないかと思ってさ。そうすれば、私は結に疲れを押し付けて、好き放題動き回れるでしょ」
私の言葉に、結は嫌そうな顔をする。『それって私何も楽しくないじゃん……』と愚痴を吐きながら、けれど結局は手首を回し始めた。
『ま、やってみるか。身体を借りる感覚、だな』
「ふふ、結との共同前線、燃えるね」
『おう、燃えとけ燃えとけ』
二人してこっそり笑い合う。
――その後。
私たちは、何とか巫女さんから一点を奪い取れるまでバスケを続けた。やがて誰もが満身創痍となった中で、ようやく部長さんのアシストによって私がゴールを決めた頃には、夏だというのに既にすっかり、日が沈んでしまっていた。
「ま、まさかこのわたくしが敗れるだなんてっ……!」
点を入れられた途端、それまでの余裕そうな態度から一転、わなわなと震えだす巫女さん。彼女はそのまま、「覚えてなさいなー!」と泣き叫び、夏の夜へ走り去った。
「げ、元気っすね、みみさん……」
「ですね……」
私たちは疲労困憊、と言った風にその場に倒れ込む。微妙に見栄えの悪い曇り空を眺めていると、スマートフォンが小さく振動した。
〈門限のため先に帰りますわー! またバスケしたいですわー☆〉
そんなメッセージが届く。私はスマートフォンも取り出す余裕のない部長さんへ無言でそれを見せ、二人して笑った。
「イカしたガールっすねえ、みみさん……」
「はい――お陰で、良い気分転換になりました」
「おや、何か悩んでいらしたっすか?」
「ええ、はい。どうやら巫女さん、気を遣ってくれたらしくて」
夜風が心地いい。身体の火照りとどうしようもない悩み事が、緩やかに溶かされていくような感覚を覚える。
「なるほどなるほど、唐突に連れ出されたと思ったら、そういうことだったっすね。自分は超インドア派っすけど……たまには、こういうのもオツっすねえ」
私の横では結が、もう限界、といった風体で地面に這いつくばっていた。普段は体育の授業でぜえはあ言いながら駆け回る私をのほほんと眺めている彼女だから、こんな風に疲れている様子は、本当に珍しかった。
――試合中、私の身体は妙に元気だった。特別軽やかに動けたわけでは無いけれど……まるでエンジンが常に供給されているみたいに、息切れせずコートを駆け回れた瞬間があった。最も、その時間は三十分足らずで、直ぐに疲れ始めてしまったのだけれど。
多分これは、私の疲労がある程度結へ流れた結果だと思う。単なる思い付きだったけれど、茅ヶ崎の言葉という定規があったからか、結果としては成功を見たようだ。
「あー……自分、今日は受験勉強する予定だったんすけどねぇ……」
「げ。す、すみません、その、付き合わせちゃって」
「あーいやいや、マイナスの意味じゃないっすよ」からからと笑う。「むしろプラスと言うべきっす。ほら、無駄なことほど本気になれる感覚、分かるっすかね?」
「えっと……テスト前の読書が一番捗る、みたいな話ですか?」
「まあ、それもあるっすけど……ほら、現実って何処かで妥協しないといけないじゃないっすか。無謀な戦いは可能な限り避けないと、人生が失敗しちゃいかねないっすから。だから、勝っても負けても人生に影響を及ぼさない、無駄な遊びだからこそ、自分は本気に成れるんすよ。何処までも無謀で、向こう見ずに成れる」
「無駄な遊び、だからこそ……」
なんだか、その部長さんの言葉には、私にとってとても大切な何かが、眠っているような気がした。小説の執筆に青春を懸けている部長さんだからこそ、無駄を愛することの重みが、強く伝わってくる。
「さ。自分たちも帰るっすかね」
「――はい。今日は、ありがとうございました」
先に部長さんが立ち上がり、それから軽くよろめいた。私は部長さんの身体を慌てて支え、それから二人で笑い合う。
文芸部に入って良かったと、心の底から思えた夜だった。
『――もしかしたら、茅ヶ崎の攻略法を見つけたかもしれん』
自室に帰るなり、結が私に話しかけてきた。
「ほ、本当に?」
『ああ、聞いてくれよ。さっきのバスケがヒントになったんだが――』
そう言って、結はその〈攻略法〉を私に伝える。けれど私は、その方法のあまりの乱暴さに、眉をひそめた。
「確かに、それなら行けるかもしれないけれど……とんでもないお膳立てが必要じゃない?」
『それは……まあ、頑張ろうぜ』
「あと、一歩間違えたら、私も結も死んじゃうよね」
『それもまあ、頑張ろうぜ!』
「…………」
渋い顔をしてしまう。結は不服そうに『なんだよー。ゼロがイチになっただけでも、とんでもない前進だろー?』と手をばたつかせた。
「それはそうだけど……うん、確かに」気分を切り替える。「結のお陰で前進だ。あとはこの〈攻略法〉を、残り六日で練り上げることさえ出来れば――」
『見事問題解決ってわけだな。まーどうあっても、死のリスクは消せそうにないが』
なはは、と結は楽しそうに笑う。どうやら彼女、この極限状況を楽しみだしているようだ。
『大丈夫、きっと上手くいくってば。あ、でも念のため遺書は書いておこうぜ』
「遺書を面白アイテムみたいに扱わないでよ……む」
呆れて突っ込みを入れてから、私はある思い付きを得る。
「ねえねえ、結」
『あ?』
「作家にとって小説は命って、よく言うよね」
『……まあ、言うな』
「つまり人生最後の小説って、遺書みたいなものだよね」
『ふむ、確かにそうと言えなくも――おい待てつかさ。何をするつもりだ』
慌てる結に、私は笑いかける。
「あと六日で小説、完成させちゃおっか」
『マジかよ……いやさ、八割方は完成してるし、出来なくは無いかも知れんが』
「あ、言い忘れてたけど……小説、ゼロから書き直すよ」
『――は?』
私は前々から思っていて、けれど遠慮して言えなかったことを結へ話す。事ここに至って、彼女に遠慮することなんて何も無いだろう。
「いやね、作品の出会いと別れってテーマ的に、根本の設定を変えるべきだって気付いたんだけど、そのためには、全部書き直さなきゃっぽくてさ」うきうきとパソコンを開く。「あ、ごめん。結が丹精込めて作ったつばめちゃん、鳥の化け物キャラに変えるから」
『ちょ、おまっ……横暴が過ぎるだろ! ブラック企業もびっくりだぞ!』
頭を抱えだす結に、私は「もちろん、私は結をとっても尊重しているんだよ」と、優しく、優しく語りかけた。
「だから、ディベートしよう。私の新設定と、これまでの設定の、どっちが面白そうか」
もしかしたら、私の人生は残り六日しかないかもしれない。そう考えると胸が苦しくなるし、どうにも心が不安定になるけれど――それ以上に。
私は、私の使いたいことのために、命を使えている。
そんな確信を持てることが、私は、何より誇らしかった。
断言するけれど。
それからの六日間は、私の十五年間の人生で、間違いなく最も輝いた時間だった。
学校へ通い、茅ヶ崎さんへの対策を練り、小説をゼロから書く。やってみるまでも無く私の体力では大幅にキャパオーバーなその生活は、けれど私にあと一歩を踏み出させ続けた。死の恐怖は拭えず、何をやっても無駄だという虚無感に見舞われ、喉を突き刺された痛みは唐突にぶり返す。楽しいだなんて、口が裂けても言えやしない。
それが無茶をするということだ。ぼうっと生きてきた私が知らなかった感覚。思えば私の人生には、本気で頑張った経験なんて、これまで無かった。
それは多分、怖かったのだと思う。自分の底が知れてしまうことが――自分が、何者にも成れない人間だと、理解してしまうことが。だから何処かで手を抜いて、やれば出来ると自分に言い訳をして、ただの孤独を、孤高みたいに振舞った。
簡単な話だったのだ。私が羨み、何が違うんだろうと悩んでいた彼らは、生きることに対して本気だったに過ぎない。それぞれの夢とか、テストの点数とか、週末の楽しみとか。誰かのためじゃなく、自分自身が大切にする何かのために、彼らは懸命に今を走り続けていた。
――そうだ。私は、結のために頑張るんじゃない。
いつか、楽しかったと胸を張りたい。この苦しさを、いつかざまあみろと笑い飛ばしてやりたい。一秒後の自分に、失望されたくない。そんな下らない意地を守るために、私は私の命を使っている。
成長なんてしてやるもんか。愚かさには果てが無いことを、思い知らせてやる。
そうして時間は過ぎ去った。
少し恥ずかしいけれど、それぞれの成果を語ろうと思う。
まずは学校での出来事から。と言っても、この項目に関して言うべきことは、特にない。私はいつも通り授業を受け、いつも通りノートを取り、果たして自分の偏差値は上がっているのだろうかと、いつも通り首を傾げた。放課後は部室で巫女さん及び部長さんと駄弁り、部長さんを撫でたり、巫女さんを土下座させたりしていた。
次に小説執筆について。せっかくこれまで書き上げてきたものを無に帰すという私の考えに、初めは難色を示していた結だけれど、結局は乗り気に、むしろ私の案に自らの案を重ねていった。
『この設定なら、むしろつばめを主人公に据えた方が良さそうじゃないか? 地の文が一人称で進む以上、そっちの方がテーマを掘り下げられそうだ』
「お、名案だ、やったね。出来れば書き始める前に言ってほしかったけど、ね!」
『なんだよー、お前がボツらせた量に比べりゃ、微々たるもんだろー』
ぐうの音も出ない。
そんなわけで、ゼロからと言っても土台が既に完成していた執筆作業は、予想以上に順調に進み、茅ヶ崎さんとの約束の日の前日に、何とか完成を見た。どうしようもなく実力不足を感じる部分は多々あって、満足には遠く及ばなかったけれど……次があれば、リベンジしよう。
そして最期に、茅ヶ崎さん対策。これに関しては、私がキーボードを叩いている間に、結が練り上げてくれた。練習できる部分に関しては可能な限り練習を重ねたから、あとはぶっつけ本番、一発勝負を決めるのみ、だ。
――そして。
私は今、その時を、待っている。
「まさか、猫沢さんから場所を指定してくるとは思っていなかったわ」
やがて茅ヶ崎さんが現れる。平日の学校終わりだから当然だけれど、制服姿だった。
「良い場所よね、ここ。橋を渡るときの得も言われぬ特別感は、ありふれているようで、意外に代替不可能だわ。吊り橋効果ならぬ鉄橋効果かしら。壊れる危険性が限りなく低いからこそ、もし橋が壊れて落下したらどうしよう、って無邪気に思えるのかもしれないわね――それで、あなたは一体、何をしているのかしらね?」
茅ヶ崎さんに問われる。私は、「見ての通りだよ」と返した。
現在の場所は彼女の言葉通り橋の上。結と本屋さんへ行く際に通った場所だ。
「私も橋は好き。なんだか、その上を通るだけで、遠くへ行けたみたいな気分になれるしさ。せっかく大切な話をするんだから、好きな場所にするのは当然じゃない?」
「ええ、シチュエーションの大切さは認めるわ。天草さんがあなたにとって重要なことだという気持ちも、汲んであげましょう――あたしが聞いているのはね、猫沢さん。あなたがどうして、柵の向こう側に居るのか、ということよ」
そう。私は今、柵を乗り越えた川側に佇んでいるのだった。もし昼間にやろうものなら道行く人に止められるか、或いはインターネットにでも晒されてしまう行為だ。けれど現時刻は午後の九時過ぎ。通行人はおろか、車も殆ど通っていない。
「だから、見ての通りだよ」私は柵から手を放し、両手を挙げる。「これが私の答え。茅ヶ崎さんに殺されるくらいなら、ってこと」
風が吹く。もしかしたら単なる強風だけで、私は落下してしまうかもしれない。
「――愚かだわ。全く愚かね、猫沢さん。命の価値を分かっていないのかしら。それとも、分かったつもりになっているのかしら。だとすれば思い上がりも甚だしいわ」
茅ヶ崎さんはいらいらしたように腕を組む。攻略法、なんて言い方をすると、どうしても彼女を敵のように感じてしまうけれど……彼女は本心から、私を助けようとしてくれているのだ。そこだけは、履き違えちゃいけない。
「聞きなさい、猫沢つかさ。あなたは生きているのよ。そこの一度人生を終えた癖して現世にすがっている幽霊とは、わけが違う。あなたが亡くなれば家族は哀しみ、あなた自身の未来も失われる。それに、あなたのしでかしたことの後処理をするのは、あなた以外の人間よ。血にまみれた川も、汚らわしい死体も、風評被害を受ける学校も、遺族が行わなければならない事務処理も、全部、関係ないということかしら――手前勝手な行為の責任を、他人に押し付けてんじゃないわよ」
『……手前勝手と言うなら、だ』口を閉ざす私に代わり、結が言い返す。『お前さえ関わらなければ、つかさはこんなことをする必要、無かったんだぜ。お前がどんなつもりで銛を放ったか知らないがな、お前の攻撃は、私たちに命の危険を感じさせた。つかさが退かないと言ったら、お前、死ぬまでつかさをなぶる予定だったろ。手前勝手な行為を行っているのは、お前の方じゃないのか?』
「元凶の分際で血気盛んじゃないのよ。何か勘違いしているようだから言ってあげるけど、人は架空の痛み程度じゃ死なないわ。あなた、猫沢さんのことを心配しているようでいて、実際は信用していないだけじゃないのかしら。それとも寄生木が傷つくのは困る? どちらにしても、とんだお笑いだわ。手前勝手な行為を行っているのはお前の方、だったかしら? あのねえ、あたしは、あたしの役割を果たしているだけよ。それとも、今まさに道を踏み外そうとしている人間を、あなたは見過ごせと言うのかしら」
『ああ、その通りだよ――私は、結を見過ごせと言っている』
「は――これだから、幽霊は」
二人は、睨み合う。茅ヶ崎さんは――指を、構えた。
私と彼女の距離は三メートルほど。撃てば即、目標は貫かれる。
「戻ってきなさい、茅ヶ崎さん。実力行使はそれからにしてあげるわ。幽霊なんかに人生を売り払うことがどれだけ愚かしいか、いい加減、分かって」
照準は私ではなく結へ。要するに私は懇願されているようでいて、その実、脅されているのだ。その合理的な思考に、私はつい、笑ってしまう。
「茅ヶ崎さんは正しいね。凄く、凄く正しい人間。その上誠実で、自らに何の益も無い善行を平然と行える、優しい人でもある。けど、完璧超人では無いよね。魔法っていう自分だけの武器があるからなのかな、ちょっとだけ、傲慢だ」
「……何が、言いたいのよ」
怪訝そうに茅ヶ崎さんが聞いてくる。私はその質問に、答えない。
「ね、茅ヶ崎さん。文芸部に入るつもりは無い?」
「……は?」
唐突な私の言葉に、意味が分からないという風に、茅ヶ崎さんは困惑の視線を向けた。それに構わず、私は言葉を続ける。
「もう知ってるかもしれないけど……私、文芸部員なんだ。文芸部では小説の執筆活動を行っているんだけどね、これが凄く奥深くて――」
「無駄話もほどほどになさい」ぴしゃりと言い放つ。「あたし、これでも暇じゃないのよ。部活動にかまけていられる時間なんて無いの――それに、文芸部なんて、あたしに最も向かない部活だわ」
「向かない? どうして?」
私の疑問に、茅ヶ崎さんは苦い顔を返す。分かり切ったことを聞くな、と目線が訴えた。
「あたし、ファンタジーに両足を突っ込んだ存在から被害を被った人間なのよ? 作り話なんて、好きになれるはずが無いでしょう。現実は非情である、なんて言うけどね、非現実よりは断然マシだわ――嘘を愛せるほど、あたしの器は大きくないのよ」
「……嘘、か」
一週間前、茅ヶ崎さんは私に現実へ戻れと言った。幽霊なんて居ない、とも。
茅ヶ崎さんの言う通り、作り話とは即ち嘘である。物語、小説、文学――どう言い換えようと、その本質は変わらない。作者は詐欺師で、読者はそんな詐欺に嬉々として引っかかる人のこと。そして詐欺は、往々にして人生を、良くも悪くも狂わせる。
そこが私と茅ヶ崎さんの違いだ。茅ヶ崎さんは、とても悪質な詐欺によって、大切なものを失った。けれど私は、善意の詐欺に――幽霊という嘘に、救われたのだ。
結は私の居場所になってくれた。出来ることならば、私も、誰かの居場所になりたい。ほんの一瞬、たった一秒だけでも、逃げ道になってあげたい。
それが私の目標で。
それこそが、結との出会いを肯定する、ということだ。
「……うん、無理強いは出来ないね。けど、もしも茅ヶ崎さんが私の遺言を尊重してくれるなら、どうか覚えておいて欲しい。文芸部、楽しいよ?」
「遺言、ね。どうあっても飛び降りるつもりなのかしら――なら、撃つしか無いわね」
茅ヶ崎さんの瞳が冷酷なそれに変わる。けれど残念――私の覚悟の方が、一瞬早い。
「じゃ、またね」
「――っ!」
私は後ろへぴょんと飛ぶ。一瞬、無重力が全身を支配し――私は、落下した。
茅ヶ崎さんが駆け出す。恐らく私を、助けるために。彼女の慌てた表情がスローモーションみたいに視界に移り、彼女が手を伸ばしたタイミングで――私は、彼女へ指鉄砲を向け、精一杯に叫ぶ。
「『――セット!』」
「は……⁉」
突然の私の言葉に、茅ヶ崎さんは、意味が分からないというように硬直する。
これが私たちの作戦だ。この瞬間を、ずっと待っていたのだ。私が飛び降りれば、茅ヶ崎さんはきっと私を助けようと行動する――そこに、隙がある。茅ヶ崎さんは私が魔法を使えるようになっている可能性を完全に失念し、自らが上位として相対していた。意識外の一矢。対茅ヶ崎望のためだけに練り上げた私たちだけの魔法が、指先から火を吹いて放たれる――!
「……なんてね」
残念ながら、私は魔法使いじゃない。単なるハッタリである。
けれどそのハッタリは功を奏したようで、茅ヶ崎さんは私を掴み損ねた。私は予定調和に自由落下し、夜の空へ溺れていく。
――ああ、お母さんも死ぬとき、こんな感覚だったのかな。
私は、そんなことを考えた。
夜空が、綺麗だった。
砂利の感覚を背中で感じる。若干ちかちかする意識を頭を振って活性化させ、ゆっくりと起き上がる。身体の動きに支障は無い。数メートルの高さから碌な受け身も取らず落下したというのに、私は一切の無傷だった。
その、代わりに。
『が……う、うぅ……』
結が、激痛に悶えている。全身をびくびくと震わせ、両手で口を覆う。けれど彼女は痛みの無い私を見るなり、無理矢理に笑顔を作った。
『ど、どうやら作戦は成功したみたいだな……うぇ』
「まだ、これからが本番だよ。後でもっと無理してもらうから、結は休んでて」
『ああ……そうさせてもらおうかな――いいか、つかさ。絶対に手を抜くなよ』
「うん。分かってる」
あーキツ、と結は座り込む。私はただ、彼女の到着を待った。
「……意味が、分からないわ」
五分か、それとも十分か。やがてやってきた茅ヶ崎さんは、混乱しているようだった。
「土手に飛び降りて、あたしを誘い込む作戦だというのは、分かるわ。猫沢さんが無傷なのも、天草さんに傷を押し付けたからでしょうね。感覚以上のものを共有できるのは、想定外だったけれど……それは、いいわ」
「…………」
「問題は、どうしてそんなことをしたのか、という部分よ。土手に誘い込みたいなら、最初からここを呼び出す場所にすれば良かったじゃない……ねえ、猫沢さん。どうしてわざわざ飛び降りたのか、あなたは説明出来るのかしら――あたし、凄く心配したのよ」
そう。
結に傷を押し付ける――それこそが、茅ヶ崎さんへの〈攻略法〉だった。
バスケから帰った日の夜、結の膝が擦り剝けていたのだ。それは多分、試合中に私が転んだ際に出来た傷を、結が受け持ったものなのだと思う。
つまり今、私の傷は全て結へ向かう。加えて、結は幽霊――つまり、死なないのだ。私が彼女の生存を信じ続けている限り、結はどれだけでも重い傷を背負える。
「心配――それは、私が死んだかもしれないっていう心配? それとも、自分が殺人に加担したんじゃないかっていう保身かな?」
「――それは」
「あはは、分かってるよ。人間の気持ちはそう簡単に割り切れるものじゃない。茅ヶ崎さんはきっとどっちの気持ちも感じてて、けど、私への心配が大きかったんじゃないかな。私の印象では、だけどさ」
茅ヶ崎さんは黙り込む。橋の上での態度が嘘のように、彼女は弱弱しかった。
「私はね、茅ヶ崎さん。あなたに覚悟を示すために飛び降りたんだ」
さあ――命を懸けるのは、ここからだ。
「喧嘩をしよう、茅ヶ崎さん。どっちかが倒れるまで、終わらない喧嘩を」
「な、なにを……」
「土手と言えば喧嘩をするものでしょ? もちろん私が負けたら、結の処遇は茅ヶ崎さんに一任する――茅ヶ崎さんの言うことなら、何でも聞くよ。その代わり私が勝ったら、私と結のことは、見逃して」
何度も言うけれど、茅ヶ崎さんは私を救うために行動しているのだ。私から結を引き剝がすために、融通の利かない私に対して実力行使に出ている。逆に言えば、私から妥協案を提示されれば、茅ヶ崎さんはそれに乗らざるを得ないのだ。
言うことを聞くまで痛めつける、という確実性に欠ける手段から、ただ喧嘩に勝つだけで良くなる。彼女にとって、誘いを受けない理由は無い。
狂人の考えは理解できない――けれど、利用は出来るのだ。
「さ、拳を構えなよ、茅ヶ崎さん。まさか喧嘩を知らないってことは無いでしょ? 言っておくけれど、魔法に頼るのは禁止だからね」
「……分からないわ。この行為に、何の意味があると言うの」ゆるゆると頭を振る。「あたし、痛みを感じないのよ。例え単なる喧嘩だろうと、あたしが負ける道理は、無いのよ」
「それが間違いなんだよ、茅ヶ崎さん。あなたは痛みを感じない人間じゃない。私が飛び降りて動揺したのが、その証拠だよ――あなたの心は、生きている」
「――――」
身体の戦いから、心の戦いへ。
「痛みを教えてあげるよ、茅ヶ崎さん」ゆっくりと拳を構え、姿勢を落とす。「言ったでしょ、どっちかが倒れるまでだって。これは、心の戦いなんだよ」
「でも……」
「分からないの?」敵を睨む。「私は、御託は良いから掛かってこいと言っている――!」
その言葉を皮切りに、茅ヶ崎さんは泣き出すような表情で、けれどしっかりと、拳を握る。
「後悔しても――知らないわよ」
茅ヶ崎さんが駆け出し、こちらへ迫り来る。
『お前の傷は全部私が背負う! つかさは全身全霊で、あいつと殴り合え――出来るな?』
「出来る!」
私は即答した。
現時刻は深夜十時。
古臭くて泥臭い、二人の喧嘩が始まった。
命の使い道を考えるようになったのは、果たしていつ頃からだったか。
思えば私の人生は、命の使い道を探す旅路だった。人生は不平等で、生きることに意味は無くて、私なんか、死んだ方がマシで……それでも。それでも命に価値はあると、それだけを信じて生きてきた。
生きる意味は無くとも、せめて、生きた意味くらいは残したかったのだ。いつか波にさらわれ消えてしまうとしても、私が此処に居たという足跡を、残したかった。
――ああ、結。
私は、キミの特別に、なれたのかな。
「……あたし、生まれて初めて、女の子を殴ったわ」
喧嘩は、引き分けで終わった。双方痛みを感じないとんでもない泥仕合は、けれど気力の限界により同時に倒れ込む結果となった。茅ヶ崎さんは砂利に身体を預けながら、自身の拳を見つめる。
「はあ……なんか、自分が最低な女になった気分よ」
「私だって――誰かを殴ったのなんて、初めてだよ」
兄さんは歳が離れすぎていて、そういう対象じゃなかったし。
考えてみれば、私にとってはこれが人生初の喧嘩である。
「あんまり良いものじゃないね、これ。なんか、無駄に疲れた気分」
「そりゃそうでしょうよ……」呆れた声で言われる。「ああ、拳が痛いわ。〈痛み〉なんて。感じない筈なのに……あーあ、やる気、削がれちゃった」
茅ヶ崎さんは立ち上がり、おしりを軽くはたいた。
「あたし、帰るわ」
「あ……」
「一方的に持ち掛けられた勝負とは言え、あたし、勝てなかったんだもの。こればっかりは仕方のない約束だわ――天草さんのことは、とりあえず保留ってことにしておいてあげる。言っておくけれど、実刑が執行猶予に代わっただけよ。そこの所、良く覚えておきなさい」
それじゃね、と、茅ヶ崎さんはその場を後にしようとする。
「――ねえ、茅ヶ崎さん」
「なによ」
「やっぱり、文芸部、入らない?」
「…………」
茅ヶ崎さんは「何度も言わせないで」と振り返る。
「だからあたしは、作り話を好きには――」
「そう、作り話。どうしようもなく、嘘の話――だから、本気になれるんだ」
「――――」
「血反吐を吐いて生み出された美しい嘘は、本物より本物らしいと、そうは思わない?」
「……ま、考えとくわ」
やる気なく手を振り、今度こそ、茅ヶ崎さんは、その場を後にした。
静寂が落ちる。私はその静けさを一通り堪能してから、結に「終わったよ」と話しかけた。
「目的達成、だね。お疲れ様」
結は――視界の隅で、くたばっていた。息は絶え絶えで、全身には僅かも力が入らない、という風に地面へ縫い付けられている。けれど生きている。彼女は、私の横に居る。
『……ああ、くそっ……私はもう、二度と喧嘩なんてしないぞ……うえぇ』涙声で文句を垂れる。『自分に痛みが無いからって好き放題やりやがって……何度、気絶するかと思ったか』
「あはは、お疲れ様」
結が気絶してしまうと、痛みは一気に私へ流れ込む。故にこの作戦は結の精神力が肝心で、最後の最後まで結が耐え続けてくれたからこそ、私は立っていることが出来た。
「――ねえ、結」
『はあ、はあ……んだよ』
「ありがとう」
素直にお礼を言う。結は……恥ずかしそうに、笑った。
『全く――お前はいつも直球だな』
「あんまり、それ以外の伝え方、知らないからさ……本当に、ありがとう」
『あのなあ、お互いさまで言うまでも無しなときは、お礼なんて言わないんだよ』
結は『よいしょ……と』と身体を此方へ向け、拳を突き出す。意図が分からず困惑する私に、結は仕方ないな、という風に頭を振った。
『おら、腕伸ばせ』
「腕……えっと、こう?」
『ぐー』
私の拳に、結の拳が触れる。それはいわゆる、グータッチというやつだった。
『はは、喧嘩の後は、やっぱこれに限るな』
「……ねえ、これって普通、喧嘩した相手とやるものじゃない?」
『良いんだよ、細かいことは』
「……そうかも」
二人して笑い合う。
言うまでも無く、結には触れられない。結は死人で、そこには存在しているように見えるだけで、私と彼女は。何処までも遠い。
――けれど、確かに。そこには、彼女の温もりが存在した。
大切なものを護り切れた、という安心感。その温もりは、私に対する最大の報酬だった。
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