第四章 罪と咎
それからの一ヶ月について、語ることは殆ど無い。
だって、あんまりにも普通の高校生活だからね。普通に勉強して、普通に部活動をして、普通に友達と遊んで……ちょっと言うことが無さ過ぎる。
初めはちょっとしたアブノーマル感のあった結も、すっかり日常生活に馴染んでしまった。どうして結が私に取り憑いたのかとか、どうすれば成仏させてあげられるのかとか、あらゆる疑念、問題が棚上げのままだけれど……私も結も、あまりそれらを問題視はしていなかった。
まあ、だからこれは当然の話で。
七月上旬。
私は、自らの咎に出遭う。
その日の私はいつものように、部室へと足を運んでいた。特別用事があるわけでは無いのだけれど、完全に癖というか、習慣になっての行為だ。期末テストも終わったし、部室に在中している部長さんと適当に駄弁っても罪悪感はあるまい。
結は夏なのに幽霊だから暑くない、という理由からここ暫く上機嫌で、汗だくになっている私を見ては、楽しそうにけらけら笑っていた。自分が肴にされているのは若干腹立たしいけれど……まあ、結がゴキゲンならそれでいい。
一旦グラウンドに出てから、小道に逸れる。部室へ向かうためのお馴染みの道程を辿っていると、向かい側から一人の女子高生が歩いてきた。小道と言っても左右はグラウンドの砂場だから、上履きの汚れを気にしないのなら、すれ違うことは容易なのだけれど、逆に言えば、どちらかは上履きを汚さなければならない。
私はどうせ後で洗うし、と先んじてグラウンド側へ。向かいの方はぺこりと小さく会釈をしてから、そのまますれ違おうとして――ふと、こちらを見て、目を見開いた。
まるで恐ろしいものでも、見たかのように。
「…………?」
その視線に気付き、意味を図る前に彼女はそそくさと校舎へ消えてしまい、私と結がぽつんと残される。
『お前、あの子に嫌われるようなことでもしたか?』
怪訝な表情を浮かべる結に、私は「そんなこと無いと思うけど……」と返す。
「それに……さ。もしかしたら、私の勘違いかもしれないけれど」
『? なんだよ』
「彼女――結を見て、驚いていなかった? 私より、もう少し上を見てたような……」
私の台詞に、結はきょとんとする。それから少しの間腕を組み、やがて『分からん』と言葉を零す。どちらとも言えない、という表情だ。
『何せ一瞬だったし、自分がお前以外に見られるっつー前提が抜けすぎてて思い出せん』
「そっか……」
『仮にあの子に私が見えたとして、だ』ゆっくりと言う。『それなら、すれ違うより前に、私に気付くはずじゃないか? あれだけ近づいて急に、ってのはおかしいだろ』
「む」
確かに。
遠くから見ようと近くで見ようと、幽霊は幽霊だ。完全に結で慣れてしまった私はさておき、普通の人が視界のどこかにそれを認めれば、その時点で驚くか、或いは錯覚を疑うはずだ。けれど彼女は、すれ違うその瞬間まで、なんの素振りも見せなかった。
『やっぱりお前が何かしたんじゃないか?』
「うーん……そんな覚えは無いんだけどなあ」
『それか、お前の顔があの子にとってめちゃくちゃタイプじゃなかったか、だ』
せめてタイプだったか、という可能性を模索して欲しいなあ。
「ま、いいか。気にしても仕方ないし」
『だな、行こうぜ』
それが霊能を司る少女、茅ヶ崎望さんとの出会い。
けれどこの日については、それっきりだった。
それから一週間くらい経った日の夜。
自室でだらだら結と話していると、唐突にスマートフォンが震えた。
『お、つかさの携帯に電話とは珍しい』
結の呟きにこくこくと頷きながら、画面を見る。そこには非通知ではないけれど、見たことの無い番号が表示されていた。
「……こ、これ、出るべきなのかな」
『そりゃまあ、出るべきだろ。掛かって来てんだし』
「う……」
急激に緊張度が上がり、私は助けを求めるように、結の方を見る。けれど結は、呆れたように肩を竦めた。
『なんだお前、電話苦手なのか?』
「そ、そりゃそうだよ。知ってる人ならともかく、怖い人かもじゃん」
『ったく……ならアレだ、スピーカーで出ろよ。私が一緒に聞いてやるからさ』
「なるほど……!」
お相手に結の言葉は聞こえないとは言え、一人じゃないのはとてもありがたい。もしかしたら大事な内容かもしれないし、と、私は音を立てて震えるそれを手に取る。
『万が一詐欺電話だったら切ってもいいが……間違い電話なら、可能な限り誠意を持って応対しろよ。そっちの方が面白いからな』
「もう、またそうやって第三者気取って……」
小さく息を吸い、そして吐く。私は意を決して通話ボタンを押し、スピーカー状態に切り替えた。
「も、もしもし……」
〈もしもし、猫沢つかささんの電話で合っているかしら?〉
「くらえっ」
私は電話を切った。
『切る判断早すぎんだろ!』
「だ、だって知らない声だったんだもん!」私は必死に弁明する。「しかも私の本名押さえてたし! きっと詐欺電話だよこれ!」
『んなわけないだろ……!』
可能な限りスマートフォンから遠ざかる私に、結は心底呆れた表情を見せる。
『詐欺電話ってのはむしろ、個人情報を入手するための行為だぞ……それにお相手、同級生っぽい声だったし、割かし口調も丁寧だったろ。ほら、巫女みたいな感じの』
「み、巫女さんはもっと可愛い口調だし……!」
やいのやいのと言い合っているうちに、やがて再びスマートフォンが震える。
『おら、出ろ。お相手にあまり迷惑をかけるなよ』
辛辣に言われる。一度切ってしまった関係で私はものすごく逃げ帰りたい気持ちに駆られたけれど、流石にそれはまずい、というなけなしの良心から、恐る恐る通話ボタンを押した。
〈もしもし、間違い電話だったかしら?〉
「い、いえっ、合ってます、猫沢です!」スピーカーから聞こえる声に慌てて応える。「すみませんっ、間違えて切っちゃって……」
『確かにさっきは間違いだらけだったな』
猛烈に静かにして欲しい。
〈そ。くらえ、とか聞こえた気がするけど……ま、いいわ〉
「あ、あはは……」
〈突然電話して悪かったわね。あたし、あなたと同じ高校に通う、二年生の茅ヶ崎望よ〉
「同じ高校の、ちがさきさん……」
「ええ、よろしく」
それから電話相手は、念のために高校名を公開し(本当に同じ高校だった)、それから名前の書き方を教えてくれた。
茅ヶ崎望さん。
敬語でこそ無いものの優しい声音と、丁寧な個人情報の公開により、私の心は少しだけ警戒心を解いていく。これも唯言論の一種なのだろうか、相手のことを知ることで、電話越しの存在が正体不明でないことが分かり、ちょっと安心しているのだ。
けれど名前を知ったとて、目的は未だ不明。不可解な電話であることに変わりは無い。
〈猫沢さんの電話番号は、あなたと同じ部活動の方から聞かせてもらったわ。湊川さん、だったかしら。どうかあまり彼女を責めないであげてね。自分で言うのも何だけれど、上級生の頼み事っていうのは、なかなか断れないものよ〉
「は、はあ……」
後で巫女さんに文句を送ろう。
「それで、ご用件は……?」
おずおずと尋ねると、茅ヶ崎さんは〈ん……そうね〉と、声を濁らせた。
〈ごめんなさいね。あたし、無駄な話が好きで。でも、ええ、長引かせても、意味は無いわね――端的に言うと、あたしはあなたと直接会って、話をしたいのよ〉
『……話だと?』
結が怪訝な反応を見せる。口にこそ出さなかったけれど、私も気持ちは同じだ。
「話って……私と二人で、ってことでしょうか?」
〈いいえ。二人でじゃなくて、三人で、よ〉
「三人……」
ますます不可解だ。
やっぱり詐欺なんじゃないかと、私は結の方を伺おうとして。
〈だって、あなたは二人で一人なんだもの〉
彼女の言葉に、私たちは全身を硬直させる。追い打ちをかける様に、茅ヶ崎さんは優しく、そして静かに言葉を続けた。
〈ねえ――そこにいる悪霊さん?〉
悪霊。
それは確かに、結の自称で。
その台詞は、明らかに結へ向けられたものだった。
〈改めて自己紹介をするわね。
あたしは茅ヶ崎望。正義の味方よ〉
「早かったわね」
指定された教室へ向かうと、茅ヶ崎さんはそこにいた。
座っているから、正確な身長は分からないけれど……多分、私よりかなり高い。細身の身体には我が校の制服がとても似合っていて、巫女さんとは異なる方向で綺麗な人だった。
型にはまっているというか。
「五分前行動が身体に染み付いているのかしら。真面目なのね、猫沢さん」
「あ、ありがとうございます……?」
茅ヶ崎さんの言葉に恐縮しながら、ちらりと周囲を見る。
そこは、学校紹介の際に少しだけ触れられた、学生が自由に利用可能な自習室だった。もう少し受験シーズンが近づくと三年生の利用でほぼ埋まるらしいけれど、現在はがらんとしていて、扉を閉じてしまえば私たちだけの密室が完成する。
要するに、秘密の話をするには最適な場所、というわけだ。
「そしてこんにちは、天草結さん。猫沢さん以外と話すのは、これが初めてかしら?」
当然のように結へ話しかける。結は、理由は分からないけれど、不思議とどこか不満そうに、『幽霊になってからは、な』と返した。
『というかお前、一週間前にすれ違ったやつだろ。あれからこっちの身元を調べ上げたってわけか?』
「ちょ、結、敬語……」
「構わないわよ」ふ、と茅ヶ崎さんは小さく笑う。「むしろ話しやすくて助かるわね。可能なら、猫沢さんもタメ口で話して欲しいわ。秘密を共有する仲間として、ね」
『だってよ、つかさ』
「え、あ、はい……うん」
変わらず厳しい結の声に困惑する。茅ヶ崎さんは、微笑んだ。
「ええ、その通りよ。あなたが悪霊に取り憑かれていると知って、あたしはあらゆる手段を利用して、猫沢つかさに辿り着いた。だから警戒するのも無理ないわね――けど、どうか信用して欲しいわ。あたしは味方よ」
「味方……」
「そう、味方」噛んで含めるように、彼女は言う。「さ、座って。どうしてあなたに悪霊が憑りついてしまったのか、どうすれば成仏出来るのか、あたしなら説明できる――必ず、あなたの力になるわ」
「…………」
あまり、人を見る目の無い私だけれど。
その視線は何処までも誠実なそれに見え、私は席に着いた。
ありがとう、と、茅ヶ崎さんは柔らかく微笑んだ。
「そもそもですけど……じゃない、そもそもだけど、結って本当に悪霊なので……なのかな」
言われた通り可能な限りのタメ口を意識しながら、私は疑問点を話す。
「そりゃあ本人もそう自称してはいるけど……別に、オラオラは出来ないよ」
『悪かったな……』
ちなみに囲碁も打てない。
「特別害があるわけじゃないし、ちょっと疑問なのです、なんだけど……」
「そうね。なら、幽霊そのものについての説明も必要になるわね」
ちょっと長い話になるけど、と、そこまで言って、茅ヶ崎さんは時計を見た。
「まだまだ放課後は長いわね。悪いけど、今日は一日付き合って貰うわよ」
「――はい、お願いします」
茅ヶ崎さんの言葉に、私は頭を下げる。
結は、相変わらず不満そうに私たちを眺めていた。
「最初に、あたしと幽霊の出会いを話させてもらうわ」
背筋をピンと伸ばし、姿勢よく茅ヶ崎さんは語り始める。
「あたしが六歳の時の話よ。あたしは母が夕食の買い出しに行ったために、一人、家で留守番をしていたわ。まだ小学校入学前とは言え、六歳って身の回りのことくらいなら、一人で出来る年齢だから、別に留守番は普通のことよね……それとも、現代ではあまり推奨されない行為なのかしら?
まあ、どうでもいい話よ。多分、ね。
それはさておき、六歳ってまだまだ世界に不思議が満ちている年齢よね。良い意味で無知と言うか、三つの点が顔に見える現象に名前が付いていることなんて知らないから、本当に幽霊なんじゃないか、ってシミに本心から怯えたりして。
――そう、本当に幽霊だったのよ、そいつは。リビングの壁にべったりと張り付いて、ムンクの叫びみたいな表情で、ずっとそこに居たんだわ。あたしはあの日、たまたまそのシミを〈人間の顔のようだ〉と認識してしまった。今にして思えば、あたしがそいつに取り憑かれたのは、その瞬間だったのよ。
そいつはあたしに、『助けてくれ』と話しかけてきたわ。
名前は笠間文子。天草さんと同じ、女性の幽霊だったわ。百年ほど前に未練ある死を遂げて以来、成仏できずにいたそうよ。地縛霊……というより、家に縛られていたのかしら。百年で何度も改築、改装を重ねてきたはずの我が家で、笠間はその度に姿かたちを変えて、誰かに気付いて――認識してもらうのを、待っていたのでしょうね。
そうして、あたしと笠間は知り合った。笠間は何十年も他者と会話出来ない孤独を、とても赤裸々に、辛そうに、哀しそうに語った。あたしは同情したわ。自分に何か出来ることは無いか、と聞いた。笠間はただ、時々会話をしてくれればそれで良いと言ったわ。
以来、あたしとそいつは友達になった――最も、そう思っていたのはあたしだけだったのでしょうけれど。あたしは両親の目を盗んで、度々笠間と話すようになった。笠間の話は、幼いあたしには刺激的だった。技術革新が目覚ましい現代において、百年前って殆ど別世界の話よね。あたしは浅はかにも、笠間の話に魅入られた。加えて非日常と触れ合っている、という優越感もあったのでしょう。幽霊との会話なんて、友達の誰も体験したことの無い出来後だもの、舞い上がるのも無理無いわ。
本当――浅はかよね。
それからしばらくして、笠間はあるお願いをして来たわ。十分間だけ身体を貸して欲しい。別にいたずらもしないし、そうしてくれたら、成仏できるから、と。身体を貸すと言っても、あたしに求められたのは難しいことじゃなくて、単に瞼を閉じていれば、それでいいと言ってきた。別に痛くも苦しくも無いし、怖ければすぐ瞼を開けてもいい。開ければその瞬間に、身体も戻って来るからって。
あたしだって流石に、それを聞いてちょっとは疑ったのよ? 馬鹿で幼くて浅はかでも、人間なんですもの。けど、その疑念は、結局信頼が上回った。何をするつもりなのかもろくに聞かず、あたしは言われた通り瞼を閉じて、十分……つまり六百秒を数え始めた。
実際、笠間は何一つ嘘を吐いていなかった。瞼を閉じた瞬間、全身の感覚が無くなったのは怖かったけど……確かに痛みも苦しみも無かったし、途中で怖くなっちゃって、三百秒辺りで眼を開けると、あたしの身体は直ぐに戻ってきた。
ねえ、上手い嘘を付くコツは、事実の中にほんの少し嘘を混ぜること、って言説、聞いたこと無い? 木を隠すなら森の中、みたいな話よね。全てを嘘で塗り固めるよりボロが出にくい、合理的な理屈だわ。
――けどね。何一つ嘘を付かなくたって、人は騙せるのよ。
瞼を開けて、確かにあたしの身体は帰って来たけれど……無くなった全身の感覚は、二度と帰って来なかった。そして、笠間だったシミは、きれいさっぱり消えていた。
痛くも無いし、苦しくも無い。笠間に身体を貸し出したあの時から、今まで、ずっと。
あたしはあいつに、〈痛み〉を奪われたのよ」
「……〈痛み〉」
茅ヶ崎さんの言葉を繰り返す。
「そう、〈痛み〉。後で調べたけどね、笠間って女は生前、生きている実感が欲しいなんて理由で他人を殺し回った、とんでもない殺人鬼だったのよ。つまり笠間は死後も、生きる実感を得られなかった心残りから成仏出来ず現世に居座り、あたしの〈痛み〉を奪って自分のものにしたことで、ようやく成仏したってわけ」
「……そんなことって、本当にあるの?」
にわかに信じることが出来ず、私はつい聞いてしまう。
「信じられないかもしれないけど、本当よ。例えば、」
と、そこで言葉を区切り、茅ヶ崎さんは鞄から一本のボールペンを取り出し、そして。
ぶすり――と。
茅ヶ崎さんは、自らの左手の甲に、躊躇なくそれを、刺した。
「ひっ――」
どくどくと、赤黒い液体が噴き出す。どう見たって、インクじゃない。
茅ヶ崎さんは、僅かも悲鳴を発しなかった。
「こんな風に傷つけようとも、少しも〈痛み〉を感じないわ。もしかしたら触角を失った、と表現した方が適当かも知れないけど、あたしの場合、内側からの〈痛み〉も感じないのよね。風邪を引いても身体がだるいと感じないし、仮に心臓麻痺に陥っても、気絶するまで自覚は出来ないでしょう。人間としてとんでもない欠陥よね、これ」
「――――」
『…………』
私は何も言えず、結は、何も言わなかった。
「これが幽霊に出遭うということよ」ボールペンを引っこ抜き、傷口にハンカチを、酷く乱雑に被せる。「幽霊とは即ち、生前の人生に心残りを持つために成仏の出来ない存在――つまり、幽霊が成仏するためには、その心残りを解消する以外に手段は無いわ。しかもタチが悪いのは、その解消手段が、存命の人間依存ってことよ」
そこで茅ヶ崎さんは、結を見る。その表情は変わらず柔らかく、けれど視線は、酷く厳しかった。まるで責めているかのような、そんな眼差しに、結は、複雑な表情を見せた。
「天草結さん。あなたがどんな心残りを抱えているか、或いはそれを自覚しているのかどうか、あたしは知らなわ。けど、あなたが今、猫沢さんに取り憑いている現状は、その何かを、あなたが猫沢さんから奪い取ろうとしていることを意味するのよ。あたしは〈痛み〉だったけれど、果たして猫沢さんは、何を失う羽目になるのかしら?」
『…………』
「ま、待ってよ」慌てて口を挟む。「少なくとも、結には何の悪気も無いよ。そりゃあ、茅ヶ崎さんが〈痛み〉を奪われたのは、凄く……私には想像も付かないくらい不幸なことだと思うけどさ、結が必ずしも、えっと、笠間さんと同じだとは限らない……んじゃないかな」
明らかに感情的な気持ちの混じった擁護を言ってしまう。
――そんなことって本当にあるの、と、さっき私は聞いたけれど。
それは勿論、人間から感覚だけを奪う存在に驚いたことが理由で、けど、それだけが信じられなかった理由じゃなくて。
それまでの私にとって幽霊とはイコールで結のことだったからこそ、私は、悪い幽霊が居るという事実を、素直に呑み込めなかったのだ。
「ええ、確かに断定が過ぎたわね」私の言葉を聞き入れる。「けど、あたしがこれまで関わった数十の幽霊に、無害な存在が居なかったことは本当よ。害というものは、悪気が無くとも発生するものよ。それは、分かるでしょう?」
「――――」
数十。
それは、個人が集めたデータとしては、十分に信用に足る数字だ。
少なくとも、結しか知らなかった、私より――圧倒的に。
左手にある傷口を、見る。白いハンカチには既に血が滲み出していて、常人であれば耐えられない程、その怪我が深刻であることを示している。〈痛み〉が無いとは言っても、恐怖はあるはずなのに――彼女は、平然と自らを傷つけた。
きっとそれは、私のような人間に実例を見せるために、何度もやったようなことで。
――私は、彼女が失ったものの重みを、感じた。
「あたしが幽霊を見ることが出来る理由をまだ、具体的に話していなかったわね」
情報と感情を処理しきれていない私を置いて、茅ヶ崎さんは語り続ける。
「ある程度は察しがついていると思うけど、原因は笠間に取り憑かれたことよ。ただ、幽霊に取り憑かれた人間がそのまま幽霊を見ることの出来るようになるかと言うと、そうじゃない。現に猫沢さんは、天草さん以外の幽霊を見たことは無いでしょう?」
「……はい」
「幽霊を認識できるのは幽霊だけ。〈痛み〉を奪われたあたしは、その隙間を呪いで埋められたのよ。こんなファンタジーめいた概念でも、等価交換は適用されるわ。笠間視点だと、自らの呪い――幽霊としての性質を差し出すことで、〈痛み〉を手に入れたのね」
全く、業腹な話だわ――と、茅ヶ崎さんは少し遠い目をする。
「呪いを、ってことは……」
「そうね。要は、あたしは少しだけ人間じゃないのよ。幽霊の部分が混じっているからこそ、あたしは幽霊を認識出来る。一日に見かける幽霊はだいたい百人くらいかしら。そんなに珍しいものでも無いから、初めは天草さんを見たときも、野良の幽霊だと思ったわ。まさか、この学校にも、取り憑かれている人がいるなんてね」
「わ、分かるものなの?」
「ええ、取り憑かれている人の眼を見れば、だいたいね。と言っても、感覚みたいなものよ。裏付けを取るために一週間も要してしまったわ……もし違ったら、無関係の人に幽霊を認識させてしまう恐れがあるから、裏取りは大事よね――認識って、怖いことだわ」
……なるほど。
一週間前の出来事に、何となく説明が付いた気がする。
茅ヶ崎さんは、私の眼から結を見い出し、驚いたのか。
『……それで』
――唐突に。
それまで口を閉じていた結が、言葉を発した。
『具体的に、お前は何が出来るんだ? 何のために、つかさに接触した』
その声は、ひどく機嫌の悪いものだった。ころころと機嫌の変わる彼女だから、別にそれ自体は珍しいことじゃない……けど、どうにも今回は、それだけじゃないような気がした。
まるで、怒っているかのような――
「あたしは、幽霊を殺せるのよ」
真っ直ぐと結を見据えて、茅ヶ崎さんは、言った。
「対価を払わぜず、幽霊を成仏させる手段を持っている。もしもあなたが、本当に善良で、猫沢さんのことを想っている幽霊なのだと言うのなら……万が一猫沢さんに害を成す可能性を潰しながら、天国とやらに行けるということの意味は、分かるはずよ」
『……それをして、お前に何のメリットがある?』
結の質問に、茅ヶ崎さんは毅然と回答する。
「電話で言ったように、あたしは正義の味方なのよ。誰かを助けることは、それだけで充分にメリット足り得るわ。それに、これはあたしにしか、出来ないことだもの」
『…………』
再び、黙り込む。
これだけの情報を流し込まれては無理ないのかも知れないけれど、どうも今日の結は調子が悪い。悪霊扱いされたことに怒っているのだろうかと一瞬考えたけれど、一度は自称している以上、結は筋の通らない怒り方はしない気がする。
「ひとまず、最低限必要なことは話せたかしら」
ちらりと茅ヶ崎さんが腕時計を見る。それに連られて壁掛け時計を見ると、既に席に着いてから、いつの間にか一時間が経過していた。
「今日はこの辺にしときましょうか」
「あ、あの、丁寧に、どうもありがとう」
私のお礼に、茅ヶ崎さんは「いいのよ」と手を振る。
「あたしが好きでやっていることだもの。それより……繰り返すけど、あたしには幽霊を殺す手段があるわ。もしも望むなら、今すぐにでもそこの幽霊を殺してあげられる」
「……はい」
「明日また会いましょう。その時、残りの説明をするから……気持ちが決まり次第、あたしに教えて欲しいわ」
連絡先を好感してから、茅ヶ崎さんは立ち上がった。別れの挨拶を述べ、先に部屋を出る。
ぽたりと、傷口から血が垂れた。
『色々と悪かったな』
家に帰るなり唐突に、結が私に謝ってきた。
「悪かったって……何が?」
靴を脱ぎ、廊下へ上がる。首を傾げる私に、結は『だからよ』と言葉を続ける。
『今日一日、私、態度悪かったろ? 茅ヶ崎が善意で話していることは、頭ではわかっているんだが……どうにも、あいつを信用出来なくてな』
申し訳なさそうに言う結に、私はなんだかおかしくなって吹き出してしまう。
『な、なに笑ってんだよ』
「あはは、ごめんごめん」廊下の電気を点ける。「別に私は気にしてないし、もし謝るとしたら、茅ヶ崎さんへ謝るべきだと思うな……って、そうでも無いか。茅ヶ崎さんは茅ヶ崎さんで、結にバチバチ視線飛ばしてたし」
最も、茅ヶ崎さんにとって見れば、結を敵視するのは当然のことだ。自分の大切なものを奪った相手の同族なわけだし。
リビングへ続く廊下を途中で曲がり、買い物袋を置いて洗面台で手を洗う。冬になると恨めしく感じる冷たい水だけれど、この時期はむしろ快感だ。石鹸も使って、指の間まで丁寧に。
『……つかさは、何というか、いつも通りだな。むしろ機嫌、いつもより良いか?』
「ん……良い、とまでは行かないけど、悪くはないかも」
手を拭いてリビングへ。ソファーへ転がりたくなる欲望を抑えて、私は冷蔵庫へ買った食材を入れていく。普段ならこのまま夕食の調理に取り掛かるところだけれど……今日は結との会話を優先すべきだろうと、私は自室へ向かうために、踵を返した。
「一応とは言え、結が成仏出来る手段が見つかったわけだからさ。殺す、って言い方がいかにも不穏だし、茅ヶ崎さんに頼むかどうかは、結が望むか次第にはなるけど……どっちにしても、一歩前進ではあるよね」
『ああ――まあ、それはそうだな』
不承不承、といった風に頷く。どうも結にとって、茅ヶ崎さんは本気で苦手とする相手らしい。基本誠実な相手が好きな結だから、ちょっと意外だ。
『……お前の考えてることは分かる』しおらしく言う。『私はあいつに、助けられている立場だ。せめてお礼くらいは、体裁だけでも言うべきだったよ』
「まあ、気にしすぎな感じもするけどね」
階段を上り、二階へ。今は半ば倉庫と化している兄の部屋の前を通り過ぎて、私は自室の扉を開けた。馴染みの色に私は何となく安心した気持ちになり、勉強机の椅子に座った。
「だいたい、どうして茅ヶ崎さんをそこまで信用できないの? 茅ヶ崎さん、美人だよ」
『美を信用の判断基準に置いているのは世界でお前だけだ……それに、どっちかと言うと美人の方が信用できないものだろ』
そうだろうか……
個人的には、美人さん……というかもう少し幅広く、身だしなみが整った人というのは、それだけ自身のケアを怠っていない人なのだから、それだけでかなり信用に足ると思っているのだけれど……これもルッキズムというものなのだろうか。
だとしたらまずい。せめて服装だけはまともに、と制服を愛用している私はものすごく時代錯誤なやつということになってしまう……いやまあ、それは置いといて。
『……私、正義の味方とか、嫌いなんだよ』
やがて、気まずそうに目を逸らしながら、結は言う。
『そもそも正義ってのは揺れ動くものだろ。時代とか、個々人の認識によって、な。そんな曖昧で概念的なものに対し味方を自称するとか、自らは正しい側の人間だと心の底から信じてないと出来ないだろ。そういう偽善的な人間、私は腐るほど見てきたぜ』
「むう……」
生前、客寄せパンダとして笑顔を張り付けていた弊害がこんな所にまで。
「あー……でもさ、ほら、やらない善よりやる偽善、とか言うじゃん」
『やらない善ってなんだよ』
「……確かに」
そもそもこれ、どこで知った言葉だっけ。
『私だって別に、善だろうが偽善だろうが、善行には変わらない価値があるとは思ってるよ。だからこれは、単に私の好き嫌いの問題でしか無くてな……』
「ふうん……つまり、茅ヶ崎さんの性格は好きになれないけど、それを抜きにしたら、千ヶ崎さんに成仏させてもらうのは一考の余地があるってことかな?」
『……まあ、な』
諦めたように、結は肩を竦めた。
『お前との生活は楽しいが、私はもう、一度人生を終えた身だからな。役目を終えた人間が舞台から降りないのは、見苦しいだろ』
「……うん、そっか」
私も結と別れることは寂しいけれど、これに関しては、結の感情以上に優先すべきものなんて、何も無い。私が結の決定に何も言わずにいると、結は『あ、でもな』と、思い出したように……というより、意を決したように、言った。
『我が儘を言うなら、文芸部の原稿締め切り日までは待って欲しいかな。せっかく私とお前で書き進めたんだ、完成くらいは、見届けたい』
「…………っ」
とても不覚で、恥ずかしい話なのだけれど。
結のその台詞を聞いて、私は唐突に涙が零れそうになってしまった。
私と結で書き進めたもの――私たちが、そこに居た証。
それを結が尊重してくれたことが、私は、たまらなく嬉しかった。
「そっ……そう、だね」誤魔化すように言う。「うん、それくらいなら、きっと茅ヶ崎さんも待ってくれるよ。あと二週間くらいだし、もうすぐ完成だしさ」
私はいそいそと鞄からパソコンを取り出し、机に置く。そこには学校で用いた様々な資料の他に、ちまちまと書き進めてきた小説が、大切に保管されている。
タイトルは〈独り暮らし〉。物語は既に終盤で、推敲にかかる時間を除けば、期限に充分余裕を持って完成が見られそうだ。
「どうせなら、部長さんと巫女さんの作品も一緒に読もうよ。ちょっとした誤差だしさ」
『いや……そうやって引き延ばして、ずるずる行くのは良くない。せっかく設定された期限があるんだ、それに乗っかろうぜ――だから、その日に、お別れだ』
「…………」
お別れ。
半年も無い付き合いの私たちだけれど……それはやっぱり、重たいものだった。
「分かった。じゃあ、それまでは……まだ、よろしくね」
『――ああ、よろしく』
二人で頷き合い、やがて静寂が訪れる。私は天井を見上げ、息を吐いた。
……思えば、色々あったなあ。
中学時代は友達が一人も居なかった私だから、青春らしいことの大半は、結とが初めてだった気がする。下らない話で時間を浪費して、一緒に買い物して、お互いを知り合って。
「…………」
まずい、また泣いてしまいそうだ。
「そういえばさっ」
慌てて見切り発車で言葉を発する。結は『あ?』とこちらを向いた。
「え……っと、そうだ。茅ヶ崎さんの言っている通り、結が未練を残した幽霊だとしたらさ、結の未練って何だったんだろうね?」
それは咄嗟の言葉ではあったけれど、確かに気になっていたことだ。
『ん……自分でも分からんな。未練ってのが解消した瞬間に成仏するようなものだとすれば、私は今、それを抱えたままってことだよな』
腕を組み、考え出す。
『前にも話したが、私は生前、普通の学生生活ってやつを送れなかったんだ。だから未練があるとすれば、それかと思ったんだが……』
「あー……ありそう、かな?」
『だが、だとすれば私の未練はとっくに解消されてる筈なんだ。お前と三カ月以上も高校生活を過ごしたからな。それ以外だと……ちょっと心当たりが無い』
「むう……」
そもそも結は、生前の自分に対し、それなりに満足している、とも話していた。強がりが全く含まれていない、ということも無いだろうけれど……その程度で幽霊が生まれてしまうなら、世界は今や幽霊だらけになってしまっているだろう。
未練の全く無い人生なんて、本当にあるのだろうか。
仮にあったとして――それは、諦めただけ、では無いのか。
難しい。難しいことは、苦手だ。
「まいっか」パソコンを開く。「よし、夕飯前にちょっと書こうかな」
『お、やるか。実はな、私、昨日お前が書いた台詞が不満でな――』
やがていつも通りの二人に戻る。
私は、日常というやつを、改めて嚙み締めた。
「幽霊の最たる特徴は、認識によって存在が成立する点ね」
翌日、茅ヶ崎さんは説明の続きをしてくれる。昨日自らの手で傷つけた左手の甲には包帯が巻かれていて、最低限の治療が行われていたことにちょっと安心した。
「昨日も少し触れたけど……こちらが〈居る〉と認識しない限り、幽霊はそこに存在し得ないわ。逆に一度でも存在を認めてしまえば、その幽霊は、存在を認めた人間にとっての事実となる。これがいわゆる、取り憑かれる、ってやつね」
「なるほど……」
少し唯言論に近い、のだろうか。或いは我思う、故に我在りとか。
取り憑かれるという言い方をすると、どうしても受動的なイメージをしてしまうけれど……むしろトリガーは、人間側が握っているようだ。
「だから、信じていない人間の前に、幽霊は決して現れない。サンタクロースが居なくなるのはね、私たちが存在を疑ったその瞬間なのよ――そして、個人にとっての事実と、社会にとっての事実は決して一致しない。つまりね、非科学的と幽霊の存在が否定されている現代社会では、幽霊は存在しないし、あらゆる変化を許容しないってことよ」
「……えっと」
難しい話になってきた。私は必死に頭の中で意味を咀嚼する。
「個人で存在する可能性はあっても、社会的には決して存在しない……ってことは、幽霊が干渉できるのは、個人への領分だけ、ってことかな。例えば、結は私と話して、私の気持ちを変えることが出来るけど、モノには触れないから、椅子を揺らして、第三者を怖がらせることは出来ない……みたいな」
「ええ、その通りよ。賢いのね、猫沢さん。あたし、話下手だから助かるわ」
さらりと誉めてから、茅ヶ崎さんは「それで、ここからが重要な点よ」と続ける。
「幽霊は個人に干渉できるが、社会へは干渉できない。この〈干渉〉の手段は、決して言葉だけに留まらないわ。そこには、非現実的でふざけた存在である幽霊らしく、数多の干渉手段がある――最も平易な言葉で言えば、〈魔法〉ってやつよ」
「ま、魔法……!」
胸躍る言葉だ。しかも、茅ヶ崎さんの説明の通りなら、幽霊ならば誰でも魔法が使えるということになる。
私はばっ、と結を見る。結はぶんぶん首を振った。
「魔法といっても、科学的に説明のつかないこと、を縮めて表現しただけだから、あまり夢は無いのだけれどね。心霊現象を起こす力だと考えてもらえばいいわ。大きく分けると、幻視と幻聴と幻味と幻臭と幻覚の五パターンになるけど……分かりやすいのは幻視と幻聴の二つよね。あなたに天沢さんが見えているのは幻覚だし、声が聞こえているのは幻聴よ。彼女は無意識に、あなたに対して魔法を使っている、ということね」
「なるほど……」
結の存在が第三者に認知されない以上、確かに結の見た目は幻覚だし、結の声は幻聴だ。なんだか、幻という言葉が付くと、結の存在が否定されたような気がして少し寂しいけれど……茅ヶ崎さんの説明は的確で、そして公正だ。いちゃもんを付ける余地は無い。
『幽霊は魔法が使える、という話だったな』
結が口を開いた。相変わらず茅ヶ崎さんの前では無口気味な彼女だけれど、昨日よりは心を許したようで、たびたび会話に顔を出している。
『茅ヶ崎が幽霊としての性質を持つと言うなら、お前も魔法が使えることになる。だが、幽霊が人間への接触を目的に魔法を使うというなら、生身を持つお前には、他者へ干渉するための魔法は不要だよな』
これまで語られた情報から、結が考察を積み上げていく。その流れがあまりに鮮やかなばっかりに、私は茅ヶ崎さんが魔法を使えるかもしれない、という可能性に驚く機会を失ってしまった……けど、考えてみれば、筋が通っている。今日茅ヶ崎さんがしてくれた話は、結を成仏させるかどうか、という点では無関係なように見えて、茅ヶ崎さんが魔法を使えるか否か、という点に着地するための布石で――もっと言えば。
『つまり、だ。お前が魔法を使えるとすれば、それは他者への干渉以外を目的に用いられることになる――それこそが、昨日お前が語っていた、幽霊を殺す手段ってことか?』
もっと言えば、自身の魔法に関する説明のための布石。
茅ヶ崎さんは、まごうことなき魔法使いである、ということだ。
「……凄いわね、あなた達。これなら、最初に見せても問題無かったかしら」
呟くように茅ヶ崎さんは言って、それからゆっくり立ち上がる。
「その通り、あたしが天沢さんを殺すには、魔法を用いるわ」
ゆらりと右腕が持ち上がる。右手は人差し指と中指がぴんと伸ばされており、親指が撃鉄のように揺れている。その指先が私の頭上を指し示した時点で、茅ヶ崎さんは包帯の巻かれた左手で、右腕を押さえ――言った。
「『――セット』」
途端。
指先から発射された〈それ〉は私の頭上を通過し、理解が追い付くより早く、向こう側の壁に突き刺さった。
「わ――」
『なっ……』
それは、ただの棒と呼ぶにはあまりに鋭利で、けれど剣と言うには無骨が過ぎる道具。
素早い魚影を捉えるための武器である筈の〈銛〉が、白く鈍い輝きを放ちながら、深々と教室の壁を抉っていた。
「とまあ、こんな風に指先から銛を飛ばすのが、あたしの魔法よ」つかつかと突き刺した銛へ歩き、乱雑に引っこ抜く。抉られたと思っていた壁は、けれど何の傷跡も示さず、綺麗な表面が残されていた。「あたしにとって、最も殺傷能力の高い武器のイメージが銛だったみたいなのよね。父さんの趣味が影響しているのかしら」
目の前で見せられた魔法の概念に、私は唖然とする。これも幻覚の一種――なのだろうか。ええと、理屈としては、今、茅ヶ崎さんは私に取り憑くことで、私(と、結)にのみ見ることの出来る銛を射出した……ってこと、なのかな……
合っているか自信が無い。何せ、本当に魔法だ。
それに――思ったよりも、良いものじゃない。それは、どんな不可能も可能にする不思議な力では無く、ただ必要に駆られて作られた、兵器だった。
「先に言ったように、幽霊は社会への影響力を持たないわ。それは魔法も一緒で、この銛で物を壊すことは出来ない――丁度、そこの壁が抉れなかったようにね。同様に、人に刺しても怪我をさせることは出来ないわ」
茅ヶ崎さんは銛で自らの左腕を突き刺す。若干ひやりとしたけれど、確かにボールペンを突き刺した際とは違って血は流れず、ホログラム映像のように銛は腕を突き抜けた。
「この銛が真に貫けるのは幽霊だけ。あたしはこの能力を〈不干渉〉と呼んでいるわ。この〈不干渉〉を使って、猫沢さんのような被害者を見つけては話しかけ、祓い回っていたというわけよ」
「被害者――」
その言葉にちょっとだけ、さっきの幻覚や幻聴と同じ引っかかりを覚える。
けど、これも私の認識の問題。いちいち目くじらを立てるべきじゃない。
『あー……そのレイガ――じゃない、〈不干渉〉で私の腹をぶち抜けば、私は死に、晴れてつかさは自由の身になると、そういうことでいいのか?』
「半分正解ね。手段としてはその通りだけど、プロセスとしてもう一段階踏む必要があるわ」
茅ヶ崎さんは、ふうっと銛へ息を吹きかける。途端銛は跡形も無く消え、彼女はぐっと全身で伸びをした。
「幽霊が認識によって成り立っている、って話はしたわよね。つまりね、どれだけあたしが、この銛で幽霊を貫こうと、そこに幽霊が居る、と信じている誰かが居る限り、幽霊はその場に存在し続けるのよ。幽霊が人間に依存して成仏しようとする理由の一つね。成仏した、という認識が無いと幽霊は成仏できない。だからあたしは、問答無用で貫くんじゃなくて、こうして事情を話すことで、お別れを促しているのよ」
「……そっか。だから〈私が望めば〉、なんだ」昨日の話を思い出す。「銛で結を刺しただけじゃ、結は消えない。刺されたことで、私が、結はもう居ないと思って初めて、結は成仏する」
私の言葉に、茅ヶ崎さんは「その通りよ」と頷いて、微笑んだ。
「さて、あたしがするべき説明はこれで以上よ。これらを踏まえて、あなたの判断を聞かせて欲しいわ。と言っても、整理する時間が欲しければ、別に今日で無くてもいいけれど」
「あ……いえ、結論は、昨日もう、二人で決めてて」
昨夜出した結論。成仏はさせてもらうけれど、あと二週間は待って欲しい、というもの。
私は結を見る。結は、静かに頷いた。その表情には喜怒哀楽のいずれも見受けられず、ただ私の背中を押す決心だけが、そこにあった。
「…………」
茅ヶ崎さんへ向き直る。茅ヶ崎さんは、私の言葉を待っている。
――これで終わる。
あと二週間の猶予を残すとは言え、引き延ばせないタイムリミットが、私の一言で設定されてしまう……けれど、人生はいつだって死のタイムリミットと隣り合わせだ。
いつか死ぬと分かっているからこそ、今日を輝ける。最期に良い人生だったと思えるように、必死に生きている。ならば私たちは、終わりを恐れるべきでは無いのだ。
だからこれは、終わりではなく始まり。
納得のいく結末を迎えるための、スタートラインで――
『……寂しいな』
ふと。
結の呟きが、聞こえた。
「――ごめん。結は、あなたに殺させない」
気が付けば、私はそう言っていた。
それは、どうしようもない、私のわがままで。
本当は言いたくてたまらなかった、私だけの答えだった。
『なっ……!』
背後から結の驚いたような声が聞こえる。私はそれに構わず、言葉を続けた。
「色々説明してもらったのに、ごめんね。けど、結は私が、責任を持って受け持つからさ。心配してくれて、どうもありがとう」
頭を下げる。頭上から、『お、お前なぁ……!』と、結の怒った、というよりも困惑したような声が聞こえた。
『約束ガン無視じゃねえか! 昨日のしっとりとした雰囲気をどうしてくれるんだよ!』
「ごめんね。けど、結が寂しいとか土壇場で言い出すのも悪いんだよ」
『うっ……ひ、独り言の、つもりだったんだけどな……』
小さくなってしまう結を見て、私は吹き出す。生前の未練に関しては分からないけれど、とりあえず成仏云々に関しては完全な強がりだったみたいだ。
「というわけなんだ。あ、けど、本当に感謝してるよ。もし良かったら、今度お茶でも――」
「――そう」
「――――っ」
冷たい声が、教室に響く。たった一言なのに、私は息が詰まったように、何も言えなくなってしまった。
茅ヶ崎さんは先ほどと打って変わって、ひどく非情な表情を、浮かべていた。
まるで――害虫を殺すような。
「――あなたも、洗脳されているのね」
茅ヶ崎さんの右腕が挙がる。その意味に、私は気付くのが遅れる。
『……つかさ!』
「…………!」
結の叫び声に、私は遅れて身をよじる。けれど無慈悲に、無情に、無頓着に、茅ヶ崎さんは、ただ言葉を発した。
「『――セット』」
途端。
私の首が、抉り落ちた。
「あ――?」
正確には抉り落ちたわけじゃない、当然だ、銛は切り裂くものじゃなくて、突き刺すものなんだから、つまり今の私の首は左側の肉壁を残してぶらぶらと垂れ下がっている状態で、つまり銛は私の首の右側をそぎ落としていて、つまり私は横向きに世界を見ていて、トンネルみたいに大きくて大胆な傷口からは血がどくどくどくどくと流れ落ちていて、痛い、私はこの直後に死ぬ、死因は出血多量かショック死か、痛い、だらだらと床を染める命の証はどうしようもなく汚らしくって、痛い、私はそれをかき集めようと椅子から転げ落ちようと、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、血が、血が出ている、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い……!
『つかさ、つかさっ……!』
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ――!」
分かってる、分かってる、分かってる。
これは幻想だ。銛に――〈不干渉〉に人を傷つける力は無い。この痛みはただの錯覚に過ぎない。私は何処も怪我なんてしていないし、首だって付いたままだ。
両手で必死にべたべたと首を触る。頭をぶんぶん振る。首があることが分かる。これが現実だと分かる――けれど、痛みの影は、一向に引いてくれない。
――怖い。怖くて、たまらない。
「説明した通り、この銛に殺傷能力は無いわ。けどね、猫沢さん。あなたがこれを銛と認識した以上、刺されれば、身体はその通りの反応を示すのよ。つまり、凄く痛いの。と言っても、あたしには、どうやら痛いらしい以上のことは分からないのだけれど」
〈痛み〉が分かるって幸せね、と、茅ヶ崎さんは、冷酷に言う。
「さて。あなたは心の病気よ、猫沢さん。病名はストックホルム症候群、誘拐やら監禁やらをされた人質が、加害者に対して好意を抱いてしまうことを指すわ。あなたは現在、一方的に取り憑いた加害者である天草結に、同情的な感情を寄せてしまっている。由々しき事態よ、これ。あたしはあなたを、救わなければならない――なんとしても」
言葉の意味が分からない。違う、分かっても、脳が処理してくれない。痛みと恐怖を拒むことに必死で、膝の震えを、抑えられない。
『大丈夫か、大丈夫か、つかさっ……! くそっ、見損なったぞ、茅ヶ崎望! なんとしても救う、だと? は、あまりにも矮小な独善で反吐も出ないな。お前が今、つかさを攻撃する正当性が何処に在った! お前の行為は、望み通り事が運ばなかったガキの、下らない八つ当たりだ……!』
「何よ、加害者風情が偉そうに」茅ヶ崎さんは、言い放つ。「猫沢さんとの交渉が決裂した以上、あなたと誠実に会話する理由をこちらは持たないのだけれど――まあ。いいわ」
――その、眼。今まで気が付かなかった。いや、ずっと隠していたんだ。
茅ヶ崎さんが結を見る視線は、あまりに、冷たい。
「下らない八つ当たり、と言ったわね。けど、その理屈は通用しないわ。だって目の前の敵に攻撃することは、生物として当然のことだもの」
『――敵、だと?』
「正義の敵は別の正義よ、知らないの? あたしは正義の味方で、猫沢さんはあたしとは違う、自らの正義を表明した。ならばここに天秤は成立するわ。あたしは無防備にも〈どうぞ攻撃してください〉と差し出された首を、その通りにへし折ったに過ぎないわ」
『は、それこそ加害者の思考だな! 正義の敵が悪であろうと別の正義であろうと、その被害を被るのはいつだって無実の第三者なんだよっ……! お前が攻撃すべきは私であってつかさじゃない。手前勝手な癇癪でつかさを攻撃した時点で、お前は醜悪な狂人に成り下がった!』
「よく回る舌ね、意外だわ。そうしてあたしの意識を自分に集中させて、猫沢さんを護ろうとしているのかしらね。だとしたら健気で、本当に気色が悪いわ。猫沢さんが騙されてしまうのも、無理は無いのかも知れないわね――いいわ、あなたにも同じ〈痛み〉をあげましょう」
そう言って、茅ヶ崎さんは再び、ゆっくりと右腕を挙げる。結は一瞬びくっと震え、けれど真っ直ぐに、茅ヶ崎さんを睨んだ。茅ヶ崎さんは、その様子を鼻で笑って、口を動かそうとして――
「――待って。待って、下さい」
私は、ようやく、言葉を、発した。
「……待って下さい。結には、何もしないで下さい。私には、何をしても、いいから」
『――つかさ、お前』
胸が苦しい。痛みが怖い――けど、結が傷つくことを見るのは、もっと苦しいし、怖い。
この現状は私の発言が原因だ。私のせいで結を傷つけることは、したくない。
「――お願いします」
「……そうね。猫沢さんの頼みなら、聞き届けましょうか」腕を降ろす。「一週間後、また会いましょう。それまでに頭が冷えていればそれで良し。冷えていないのならば……そうね、暴力に訴えるしか無いかしら」
『お前……!』
「結。いいから……」声を絞り出す。「――いい、から」
『…………っ』
茅ヶ崎さんは鞄を持ち、教室を後にする。霞む視界に見える彼女は扉を閉める前に、こちらを振り向き、冷たく言った。
「猫沢つかささん。あなた、自分が学校で噂されていることを知っているかしら」
「…………」
「独り言の多い、気持ち悪いやつだって、陰で嫌われているのよ。それだけ、幽霊はあなたの生活に、悪影響を与えているんだわ。だから……いい加減、現実に戻りなさいな。幽霊なんて――そんなもの、どこにも居ないのよ」
扉が閉じられる。
私たちは、何も出来ず、教室にただ取り残された。
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