第三章 舞台袖

 ――たまに見る夢がある。

 私はショッピングモールとかデパートとか、とにかく様々な商品が売られている場所にいて、特定の商品を探し周っている。何を買おうとしていたのかは、目が覚めると忘れてしまっているから分からないけれど……少なくとも、〈それ〉を求めて、私が歩いているのは間違いが無い。けれど、〈それ〉は何時間探しても見つからず、焦燥感に捕らわれたまま、結局時間切れみたいに目覚まし時計が鳴ってぶつ切りに終わってしまう、そんな不毛な夢。

 私は一体、何が欲しかったのだろう。お金をかける様な趣味を持たない私だから、単なる生活必需品かもしれないし、もしくは夢らしく、カタチの無いモノということもあり得る。

 ――或いは、夢の中の自分でさえ、分かっていないのかもしれない。

 私は何が欲しいのか。

 何があれば、私は満たされるのか。

 だとしたら、それこそ不毛だ。青い鳥に鼻で笑われても文句は言えない。欲しいものを外に求めるなら、もっと明確で、分かりやすくて、所在が判明しているものじゃないと。

 例えば、本とか。

『なー、本当にその格好で行くのかよー?』

 というわけで土曜日。私は頂いた図書カードをさっそく使うべく、外出の準備をしていた。鏡の前で、最低限の身だしなみを整える私の傍らでは結が不満げに私を眺め、ぶつくさと文句を言っている。

『つかさに化粧なんて初めから求めてなかったが……何も休日まで制服な必要はねーだろー? 私、お前の服装制服とジャージしか見たこと無いぞ』

「まあ、寝巻きもジャージだもんね。別にいいでしょ? 制服便利だし、ちゃんと洗濯してるから清潔だよ」

『バリエーションが無いなぁ……』

「ふふ、キャラデザが二つで良いから漫画にも登場させやすいね」

『なんで無駄にポジティブなんだよ』

 漫画に出すにはお前の容姿は平凡過ぎてペケだよ、と辛辣な突っ込みを貰ってしまう。そりゃあ結を初めとして、美人さんは華やかでとても素晴らしいとは思うけれど、別段、自身の容姿に不満を持ったことは無い。

埋没してしまえば杭も打たれまい。やったね、平凡万歳。

……強がりじゃないよ。いや本当に。

「キャラデザと言えば、結の方こそバリエーションが少ないよね」

 私は結を見て言う。幽霊はそういうもの、と言われればその通りかもしれないけれど、彼女は病院服から見た目が一切変わらない。少ないどころか、バリエーションゼロだ。

『私は良いんだよ。誰に見られるものでも無いし』

「私は見るよ?」

『お前なんぞ病院服で十分だよ』

 酷い言われようだ。その雑さこそ、親愛の証とも言えるけれど。

「ベストは……着ていった方がいいかな」

 五月の中旬と言えば夏に片足を突っ込んだ時期であり、一応ブラウスの下に一枚着込んだ以上、これ以上の重ね着は不要な気もする。

『結局制服で押し通すのな……まあ、着て良いんじゃないか。まだ朝早いし、暑くなったら脱げば良いだろ――けど、せめてカーディガンとか、制服っぽくないものを着ないか……って、お前、そもそもカーディガン持ってるか?』

「あるよ。学校指定のやつー」

『……お前、本当お洒落に無頓着なのな』

 がっくりと項垂れる結。まあ確かに、学校指定のものでは彼女の言う制服っぽくなさは出せないだろう。機能的には全く問題ないから、個人的には気に入っているのだけれど。

『病室暮らしだった私が言えた口じゃないかもしれないけどよ、お前、もう少しくらいはお洒落に興味を持ってもいいんじゃないか』

「うーん……けど、お洒落ってお金がかかるじゃん」

『お小遣いとか貰ってないわけじゃないだろ?』

「貰ってるけど、そういうのは大体食費にいくからなぁ……よし、出来た」

 結局そのままベストを着て、私は布製のトートバッグを手に取る。中にポケットよりは安心だろうと、図書カードの入ったお財布を入れ、私は玄関へ向かう。

『やれやれ、女子の準備時間じゃないぜ』

「まあまあ。お出かけで大事なのは事前準備でも行く場所でも無くて、一緒に行く相手だよ。結は、私が相手じゃご不満かな?」

『……は。いや、少なくとも退屈はしなそうだ』

 肩を竦めて笑う結に、私は満足して頷いて玄関扉へ手を掛ける。

「行ってきまーす」

 私の声が、暗い廊下に響き渡った。


 私の住んでいる地域は、県全体で見るとあまり発展していない場所だった。田舎か都会か、という区分で言えば都会側なのだろうけれど……これといったレジャー施設も無く、昼夜問わず人通りもまばら。まさしく住宅地、といった感じだ。通りを見渡せば築何十年、といった様相のお家もそこそこ見られ、町おこしの空気はあまり感じない。大人たちがこの町の現状をどう捉えているかは分からないけれど、少なくとも向こう一年くらいは、〈こっち側〉の再開発の予定は無さそうだ。

 再開発が行われているのは〈あっち側〉。それなりに幅を持った川を渡した橋の先にある、頭に新の付く市では現在、そこかしこで工事が行われ、街の活性化が図られていた。

『こうして右側と左側で全然景色が変わるってのも、それはそれで乙なもんだな』

 橋の中腹。白い手すりに腕を預けて川のさざめきを眺める私の横で、結はきょろきょろと左右を見渡して、そんな感想を呟いた。

「正確には北側と南側、だね。南側の子たちは、北側を羨ましがってるみたいだよ」

『ふむ。とすると、つかさが住んでる方が南側か。さてはアレだな、南側の奴らは、遊ぶなら北側まで足を運ぶ必要があるわけだ』

「だね。生活する分には南側でも困らないけど……」

『それで満足しているようじゃ若者じゃない、だな』

「……まあ、私は初めて行くんだけど」

『ふ――何事にも例外はある!』

 楽し気にからからと笑う結に、私は苦笑いを返した。

 今回の目的地は、最近出来たらしい大型書店だ。駅直結の商業施設内にあるらしく、折角頂いた図書カードだからと、私達は行ってみることにした。

 自宅から目的地までだいたい四十分弱。本来なら電車を使えば楽なのだけれど、別に急いでいるわけでも無し、のんびりと風景を楽しみながら向かっている。時間の余裕と愉快な連れが居れば、ただの移動も結構楽しい――最も、私は一人の移動も嫌いでは無いのだけれど。

「もう少し夏になると、そこでバーベキューとかするらしいよ」

 川沿いを指差す。そこには十分な広さを持った河川敷があり、土手の下りで芝生を伸ばしていた。現在は誰もいないようだけれど、日向ぼっことか楽しそうだ。

『へえ、なんか、野球部辺りが走り込みでもしてそうな場所だな』

 結の感想に「ちょっと古くないかな?」と返すと、結はむっと頬を膨らませた。

『漫画知識で悪かったな。私の印象じゃ、河川敷と泥臭さはセットだぜ』

「まあ、確かにそんなイメージはあるけど」

『ああいう場所で誰かと殴り合うのが私の夢だったんだ』

「物騒な夢だね……」

 彼女の言葉を、私は冗談と受け取って軽く流したけれど……どうやら結にとってそれは、半分くらいは本音のようだった。

「…………」

 色んなものが混ぜこぜになった表情で、けれど穏やかに川を見つめる結の横顔に、私は彼女の人生を垣間見たような気がした。

 きっと、彼女は慣れている。夢見ることにも――それを、諦めることにも。

 殴り合うのが夢、と結は言ったけれど、多分それは表現として正確じゃなくて、彼女は青春らしさ、というやつを求めているのだと思う。部活動に固執していたのも、きっとそれが理由だ。生前得られなかったそれに、彼女は憧れている。

 隣の芝生はいつだって蒼い。庭を持てない人間ならば、それは尚更だ。

「……結、最近あんまり学校で話しかけて来なくなったよね」

 涼しい風が頬を撫でる。思えば、今が一番風の気持ちいい時期だ。

「前はもっと無遠慮じゃなかった?」

『無遠慮って』くすっと笑う。『別に、私が変わった覚えは無いぞ。単にお前が他人と話している場面が増えたから、相対的に私と話す時間が減っただけじゃないか?』

「む……」

『それに……まあ、なんだ。あんまり幽霊とばっかり話してて、つかさが変人だと思われたら可哀想だろ? 傍から見たら独り言マシーンだしな』

「別に、私は気にしないよ」

『ちょっとは気にしろよな……お前の人生なんだぜ』

 私の人生。

 結の人生、では無く。

 思えば確かに、初めて会ったときから彼女は変わっていない。勝手気ままでひねくれ者で、それでいてどこか、遠慮がち。友達なんだからもっと好きに振舞えばいいのに、という私の思いに反して、彼女はいつだって、譲らない一線を引いていた。

 ――一線。

 その線は不可視で、けれどいつだって、そこに存在している。

「ねえ、結。結はさ、自分が化け物だと思ったことって、ある?」

 自分でも唐突だと思うような、降って湧いた質問を結へ投げかける。

『……化け物?』

 案の定結は困惑した表情を見せ、けれど、直ぐに考え始めてくれた。

 こうした付き合いの良さが、彼女の美徳だと思う。

『ある。多分だけどな』やがて口を開く。『お前の言う化け物とどれだけ近いかは分からんが、要は自分を天才だと思い込む、の反対だろ。現実と折り合いが付けられなくて、自分だけ皆と違う生き物なんじゃないか、なんて考えたことはあった気がするぜ。ま、自分自身を特別視するって意味じゃ、思春期ど真ん中の考え方だよな』

 誠実な彼女の言葉に、私は「だね」と返す。

「皆が当たり前に持っている常識――引くべき一線がどうしても分からないせいで、他の人がしないようなミスを平然としちゃったり、逆に、変に及び腰になって、他の人が当たり前に出来ていることが出来なかったりね」

 私の知る限りにおける、最たる例は私自身だ。私は、今のところ警察のお世話になった経験は無いけれど……それはきっと、私が善性の人間だからではなく、たまたまに過ぎないのだと思う。偶然、一線を越えずに過ごし続けられているだけ。明日には何の切っ掛けも無く越えてしまうかもしれないし、或いは今まさに、越えているのかもしれない。

「化け物のような、って例えあるじゃん? 気軽に使っちゃいがちな言葉だけど、化け物って基本的には、人間の常識が通用しない相手を指す言葉だよね」

『ん。まあ、ざっくり言えばそうだな。対処しようがなかったり、名状しがたかったりする脅威に対して用いる言葉ではある』

「非常識、枠外、反倫理――やっぱり、〈化け物のような人〉、って誉め言葉では無いのかな」

『それは……そうなんじゃないか。化け物のように凄い、って意味で用いられることもあるにはあるが、どっちかと言うとドン引きのニュアンスの方が近いだろ』

「そっか」

 私は納得して頷き、空を見る。そこには雲が浮かんでいて、青い空をキャンバスに白く輝いていた。意図が分からず首を傾げる結に、私は「じゃあさ、」と、さらに質問を重ねた。

「〈化け物のような人〉が駄目なら――〈幽霊のような人〉、だったら?」

『……あ?』

 一瞬フリーズする結。それから、やっぱり意味が分からない、と言った風に、『そっちも別に誉め言葉じゃないだろ』と、ただ質問へ答える。

『むしろ化け物のような、より更に悪化してる気がするぞ。幽霊のようなって……不気味とか顔面蒼白とか、どうあったってプラスな意味になり得ないだろ』

「あはは、そうかも」眼を閉じる。「でも、私には幽霊みたいな友達がいる」

『…………』

「その子は幽霊みたいに透明で、幽霊みたいに全身が白くて、けど、凄く普通の女の子。ちょっと性格は悪いし、口調も荒いけど……優しくて、楽しい友達だよ」

 私は言葉を続ける。結は何も言わず、ただ私の話を聞いていた。

「そもそも、自分自身を特別視するのなんて、当然の話なんだよね。いつだって感じるのは自分の心だけで、他人の心は存在を確かめることすら出来ない。誰しも自分は特別だし、誰もが心に化け物が住んでいる。それがどんな存在かは、きっと人によって違ってて……本当に化け物のようだったり、自分そっくりだったり――幽霊のようだったりすると思う。それはきっと悪いことじゃなくて、その存在に救われている人も、きっといて……」

 まとまらない思考から、頑張って言葉を引き出す。きっと結は聞いてくれているだろう、と信頼を言葉に乗せる。

 巫女さんは憧れた理想を手にするために。

 部長さんは、自分でも出来ると証明するために。

私は、すう、と息を吸って、自らの結論を口にした。

「私は結と一緒にいて、凄く楽しい。結は現実に居ない存在かもしれないけど……結と出会えて良かったと思ってる。だから、私はそういうお話を書きたい」

 私は、結との出会いを肯定するために、小説を書く。それが、私の理由だ。

 眼を開いて、結を見る。結は何とも困った表情をしていて、けれど珍しく、その耳は透明でない色に染まっていた。

『ったく……私は幽霊みたい、じゃなくて実際に幽霊なんだけどな……』

 私の視線にぷいと目を逸らす結。それが何だが可笑しくて、私は吹き出した。

「まあ、まだ具体的には全然決めてないんだけど……方向性として、さ。どうかな?」

『……お前がそれでいいなら、別に反対する理由はねーよ』

 私に背を向け、やがて結は肩を落として笑う。

『そろそろ行こうぜ。早くしないと、暑さで溶けそうだ』

「……幽霊って暑さを感じるの?」

『良いんだよ、んなもんどっちでも。おら、行くぞ』

「あはは、了解」

 先行する結の背中を追いかける。やがて私たちは横並びに、橋を渡り切り北側へ到達した。

 初めての向こう側。私はそれを結と迎えられたことが、意味も無く嬉しかった。


 その後、私達は本屋さんで一冊の小説を購入した。書籍ランキングのコーナーがいまいちピンと来なくて、適当に本屋さんをぶらついていた際に目に留まったそれは、初耳の作家さんによるファンタジー小説のようだった。あらすじを一緒に読み、結に意見を問うてみると、『せっかく手に取ったんだし買ってみたらどうだ?』とのことで購入を決意。あまりジャンルに頓着の無い私(強いて言えばストーリーが面白いことだけれど、面白い小説は大抵ストーリーも面白いような気がする)だからこそ、全く未知の小説というのは、それだけで胸がときめく。

 このわくわく感だけでも千円以上を払う対価に見合うように思えるし、そのために世の人は本を積むのだろうな、なんてことを考えながら、私は帰路に着いた。

「なんだか、帰りの方が行きより長く感じるよね」

『私はあまり経験が無いが……実際、名前の付けられた感覚だぜ、それ。リターントップ効果っつって、経験が生む時間予測が関係してるんだと』

「へええ。感覚に名前があると、安心できる気がする。自分だけじゃ無いことが分かるっていうか……この気持ちも、名前があるのかな?」

『む……それは知らんな。ありそうなもんだが……あ、いや、それは唯言論に近いのか』

「結言論? ダメだよ結、オリジナル用語なんて作り出しちゃったらさ」

『馬鹿、実際にある言葉だ。唯一の言論で唯言論だよ。言葉が概念を形作るっつー考え方だ。学校で習うはずだが、覚えてないのか?』

「ふふ、私の記憶力は石ころの如くだからね」

『生物ですらないのか……』

 そんな下らない会話を交わしつつ、私達は昔ながらの商店街を歩く。駅前に長く連なっている場所で、行きに通った際には何処までも続いているように感じたその場所は、何とか効果の通り、ふわふわと会話しているだけでそろそろ出口といった頃合いだった。

 再開発、と初めて聞いた際には、全てを一新する――つまり、こうした古き良き商店街などは真っ先に潰されるものと考えていたのだけれど、実際はその逆で、こういった街の良さを推していくためにこそ、街を開発し直すらしい。

 古きと新しきの融合。

 改めてその風景を見回す。初めて足を運んだ私でも、何となく〈この街らしい〉と感じさせるような街並みに、私はなんだか楽しい気持ちになり――

「いらっしゃいませー! ただいま、お得なランチタイム中となっておりますわー!」

「…………」

 耳馴染みのある、声を聴いた。

 声の方に視線を向ける。はつらつとしたそれは少女のもので、老若男女問わず視線を集めさせる、心地の良い響きを伴っていた。ランチタイム中、の言葉通り、そこは飲食店――正確にはカフェ、それもメイドな感じのアレであるようだった。露出こそ少ないけれど、黒を基調としたやたらに煽情的な服装を彼女は着こなし、鮮やかな金髪を揺らしている。

 古きと新しきの新しき方。萌え萌えである、やったね。

「こんにちは」

 声を掛けてみる。少女は「あ、いらっしゃいませ、こんにち――」と、天使のような笑顔をこちらへ浮かべ、そして、固まった。

「奇遇だね、巫女さん。元気そうでよかった」

 ですわ系美少女にして、私の友人。

 湊川巫女さんが、そこにいた。


「こ、こちらお冷ですわっ」

 通された席で、緊張気味に差し出されたそれを、私はありがたく受け取る。

「ごめんね。ずいぶんな美人さんがいるものだから、つい話しかけちゃった」

「え、ええ……嬉しいお話ですわ……!」

 ――私はいま、巫女さんとは初対面、ということになっている。その理由は我が校がバイト禁止の校則を掲げていることに起因していて、要するに彼女は、同級生にバレたら困る立場なのだ。

 ……綱渡りなことをするなあ。

 そんな地雷たる同級生の私に話しかけられてしまった巫女さんは、身体に良くなさそうなタイプの汗を流しながら、本人が直接接待してくれた。席を案内した後、彼女は責任者っぽい年上の女性にこそこそと話をしに行き、何事かを聞いた女性に吹き出されていた。

 申し訳ないことをしてしまったな、と反省する。いくら友人の面白すぎる姿を見かけたとはいえ……いや、見かけてしまったからこそ、ここは自重するべきだった。

「にしても巫女さ――じゃなかった、ええと、同じくらいの歳の子がメイドカフェで働いているなんて、ちょっとびっくり。素敵なお仕事だね」

「ですわねっ……と、とは言っても、このお店はコンカフェなのですけど……」

「そうなんだ」

 コンカフェ……多分、噂に聞くコンセプトカフェのことだ。つまり、あくまで彼女のメイドな服装は特徴付け止まりで、ご主人様をお待ちしたり、オムライスに愛情を注いだりはしない……ってことかな?

「ご、ご注文がお決まりになりましたら、そちらのベルを押して欲しいですわっ」

 貼り付けたような、けれど可能な限りの努力が見える笑顔を向け、接待を終えた彼女は、その後そそくさと奥へ消えていった。

『……なあ、お前、お金持ってるのか?』

 巫女さんへ可哀想なものを見るような視線を向けていた結は、やがて私に、小声でそんなことを聞いてくる。最初こそげらげらと笑っていた彼女だけれど、どうやら憐憫が上回ってしまったようだ。

「一応、二千円は鞄に入ってるから大丈夫」小声で応える。「兄さんのお年玉が火を吹くね」

『そのお年玉を使い切ったら?』

「来年まで贅沢はお預けかな」

『お前はお前で綱渡りだな……!』

 メニュー表を開く。そこにはカフェらしくお洒落かつお高いメニューが並んでいたけれど、お昼を頂くくらいなら、二千円を使い切らずに済みそうだった。

「どう、頼みたいものとかある?」

 結に聞いてみる。結はざっと表を眺めてから、『好きにしたらいいんじゃないか?』と、なんともつれない台詞を返した。

『どの道、私は堪能できないしな』

「あれ、そうだったんだ。てっきり、味覚は共有してるものだと」

『どっからその勘違いが生まれたんだ……?』呆れた表情をされる。『つかさが食事してる傍ら、私が味の感想を言ったことなんて無かっただろ』

「うーん。けど、結、食事時はご機嫌なことが多いよ」

『そりゃ……お前との会話が楽しいだけだ』

「おっと」

 嬉しいことを言ってくれる。結はちょっとだけ頬を紅くしながらも、私との恥の晒し合いに慣れたのか、『ついでに言うと、お前が何かを食べて幸せそうにしてんのが好きでな』と、好意を赤裸々に伝えてくれた。

『だからまあ、好きなのを頼めよ。私は眺めてるからよ』

「ははあ、じゃあ、お言葉に甘えて……って、言いたいところだけど」

 とある思い付きから、私は「やっぱり結が選んでよ」と笑う。

「せっかくだから、本当に味覚を共有できないか実験してみよう。もしかしたら、気合で何とかなるかもしれない」

『気合いて』小さく苦笑する。『別にいいけどよ、多分無駄だと思うぜ?』

「友達との無駄ほど楽しいことも無いって、私思うなあ」

『……なるほど』

 納得したように頷いた結は、改めてメニュー表を見直す。

『しかしアレだな。コンセプトカフェってのは意外にカジュアルな場所なんだな。私はもう少し、こう、大人の遊び場をイメージしてたんだが……』

「確かに。カフェってより、ファミレスみたいな場所だね、ここ」

 メニューを選びながらの雑談に相づちを打つ。周囲を見回すと、カップルが一組に子連れの家族が一組と、どちらも昼食を目的に立ち寄ったお客さん方のように見える。

「駅前の商店街にある場所だし、殆ど普通の飲食店みたいな立ち位置なのかもだね」

『ふむ……なら、何故わざわざメイド服を?』

「ヤだなあ、人の趣味に難癖を付けるなんて野暮だよ、結」

『そうか……じゃ、この〈とろける☆うまうまオムライス〉を頼もうかな』

「りょーかい」

 私はベルを鳴らす。ぴんぽーんという気の抜けた電子音の後、やって来たのは巫女さんで無い店員さんで、けれどにこにこと、上機嫌な表情の女性だった。

 服装は当然のようにメイド服。店員さんは私の注文を聞き届けると、「かしこまりましたっ!」と爽やかに言って、それからこっそり膝を落とした。

「お客様、巫女ちゃんの友達なんだよね?」こそっと耳打ちされる。「オムライス、巫女ちゃんに運ばせることも出来るけど、どうする?」

 いたずらっぽい笑顔で笑いかけられる。少しどきっとしながら、「お願いします」と返すと、店員さんは「おっけー」と頷き、小さく人差し指を立て、口元に置いた。

『……やたら色気のある店員さんだったな』

 背中を見送りつつ、ぼそりと呟いた結の言葉に、私は強く同調する。

「私、思うんだ。綺麗な女性に色めき立つのは、実は男性よりも女性なんじゃないかって」

『いきなりセンシティブな話題ぶち込むじゃん……』

 ちょっとだけ分かるけども、と結は視線を逸らす。

『異性を意識しなくて良いからこそ、純粋なる第三者として魅力を感じられるっつーか……いや、これ以上は止めよう。きっと墓穴だ』

「……結ってさ、凄く美人だよね」

『怖い怖い怖い怖い! この流れで私の容姿を誉めるな!』

「あはは」

 私から離れられる一メートルの限界まで身をよじる結を見て笑う。

「結と友達になってから気付いたことだけど……私はどうも、ほんの少しだけ嗜虐趣味があるみたいなんだよね」

『女子高生が持ってていい趣味じゃねえだろ……』

 程なくして、「お、お待たせいたしました、ですわー……」と、かなりぎこちなさを残した笑顔で、巫女さんがプレートを持ってきてくれた。

「こちら、オムライスですわっ」

「……? ごめんなさい、私が注文したのは〈とろける☆うまうまオムライス〉のはずなんですけど……」

「う……」たじろぐ巫女さん。「し、失礼しましたわっ。こちら、〈とろける☆うまうまオムライス〉ですわー! どうぞ、冷めないうちにお召し上がりくださいですわー!」

 半ばやけっぱちな笑顔を浮かべながらの言葉に、私は笑いを堪えながら、「ありがとうございます」と返す。顔を真っ赤にした巫女さんは、それでも綺麗なお辞儀をしてから、態度を崩さずに奥へ消えていった。

『……なるほど、嗜虐趣味』

 口元を隠し、小さく震える結。私たちは、二人で頷き合った。


「それじゃ、頂きます」

 手を合わせ、スプーンを手に取る。結に勧められ、何枚か写真を撮ってからの実食となったけれど、見た目としては凄く普通……別にケチャップでハートが描かれていたり、食欲を減衰させるような色をしたりしていない、素直に美味しそうなオムライスだった。

 ちらりと結を伺い、アイコンタクトを取る。結は静かに瞼を落とし、集中にかかった。

「…………」

 オムライスの山を崩し、持ち上げる。思えば外食って何年ぶりかな、なんてことを考えながらぱくっと一口。

 ――美味しい。

 食レポは苦手……というか、私の舌だと不可能だから割愛するけれど、ここ最近食べた料理の中で、それは断トツの美味しさだった。

 可能ならリピーターになりたい。そしてレシピを探らせて欲しい。

 ……私もバイトしようかな。

『……む?』

 異変に気付いたのは、オムライスの余韻が少し引いた頃だった。首を傾げて、口元をもごもごとさせる結。邪魔しては不味いと見守っていると、やがて結は、『……ちょっと美味しいかもしれない』と、意外な結果を口にした。

『いや分からん、単なるプラシーボ効果なんじゃないか? オムライスってこんなに甘みが目立つ料理じゃない気もするぞ』

「いや……このオムライス、確かに甘いよ。お砂糖が多めなのか、それともハチミツでも入ってるのかな――もしかして、結も本当に味わえてる?」

『それか、つかさと味覚を共有できているか、だ』

 共有――つまり、私の味蕾を通じて、結が味を感じている、ということ。結という存在が私に依存している以上、可能性としてはそっちの方が高い気がする。

 もう一口。私には先程と遜色ない感動が広がり、結はより集中し、意識を深みへ落とす。

『……微妙だ。何とも言えん』

「頑張って、もっと集中だよ。重なり合う想いをシンクロさせて!」

『よ、よし。ピンチはチャンスだよな、任せろっ』

 ……一応、声は抑えているけれど。

 傍から見たら本当に不審者だよなあと、改めて思った。

 ま、楽しいからいいや。

 ――その後。

 私たちは一口食べるごとにやいのやいのと言い合い、結局結の味覚について確信は得られないまま食べきってしまった。現状の結論としては、〈集中すれば、ちょっとは感じるかもしれない〉という程度に留まる。

 少し興味深かったのは、彼女が味を感じれば感じるほど、私側の味が薄まった……ように感じた点だ。これに関してはオムライスを食べ進めるうちに慣れてしまっただけ、という可能性の方は高いけれど……もしかしたら、私と結は味覚を共有している、というよりも、私側の味覚を割合で分け与えることで、結が感じることを可能にしているのかもしれなかった。

「ごちそうさまでした」

『ごちそうさま、だな』

 二人して手を合わせる。錯覚かもしれないとはいえ、結も今回の昼食に関して、かなり満足できたようだった。

「あ、ありがとうございましたですわーっ!」

 巫女さん含む店員さんに見送られ、お店を後にする。

「また行きたいね」

『だな。お財布に余裕があれば行こうぜ』

 ――それは、決して人生の転機があった日じゃなくて。言ってしまえば友達と出かけ、そして寄り道に昼食を食べただけの、ひどく凡庸かつありふれた時間だったけれど……それでも、もし私の人生を小説にするならば、他のシーンを押しのけてでも描写したいと思えるような、幸せで、心に残る一日だった。

 そんな舞台袖。

 私は前を向いた。


 それから、私たちは遂に本格的な執筆活動を始めた。と言っても、最低限のプロットを基に、成り行き任せで書き始めただけなのだけれど……

 まあ、初執筆なんて誰しもそんなものだ、多分。とにもかくにも書き終えてから、細やかな修正を加えよう。

 物語の構成はとても単純。二人が出会い、そして別れるまでのお話だ。コンセプトを決めた時点では主要人物二人のパーソナリティを決めていなかったのだけれど、せっかくテーマが恋愛ということで、男女の物語に決定。動物やら植物やらを登場人物に据える尖った案もあったにはあったけれど、無理を通した結果空中分解してしまったら悲惨が過ぎるので、今回はペケとした。

『出会いの話ってのは分かるけどよ、別れを描く必要ってあるのか? 基本的に別れ話ってのはバッドエンド直行コースだと思うんだが』

「うーん……でも、お別れまで描いた方が綺麗な気がするなあ」

『綺麗。ふむ、それはそうかも知れんな』

 主人公は二十代半ばの男性。大学を卒業し、新人会社員として多忙な日々を送っている。現在は一人暮らし……なのだけれど、そんな彼の家に、半ば勝手に入り浸っている女性が、今作のヒロインとなる幽石つばめだ。

 勝手に入り浸っていると言っても、それで主人公(一人称は〈俺〉。作中では〈あなた〉とのみ呼ばれる予定だ)が困ることがあるかと言えば、特別そういうわけでも無い。自分が使用した分の掃除、洗濯はきっちりこなすし、食費だって個人担保で冷蔵庫を勝手に漁ることも無い。家賃と水光熱費こそ主人公の全額担保になっているけれど、日常生活へ過度な介入、干渉もせず、いつだって静かに、彼女はそこに居た。

 まるで、幽霊のように。

 幽石つばめという名前の由来に関して、上は幽霊の幽の字が入ったものを適当にセレクトしただけだけれど、下は結の〈なんか、立つ鳥後を濁さずみたいな生き方してる女だな〉という言葉から連られて命名した。主人公はつばめさんに対して、水光熱費の負担は家の掃除でとんとん、家賃に関しては損をしているわけでも無いし気にしない、と、プラスでもマイナスでもない感情を持っていたところから、段々と彼女がそこにいてくれることのありがたさを実感していく……とまあ、現状の構想はそんな感じ。

 意外にも、最初が決まれば、後はとんとん拍子というか芋づる式というか、サクサクと決まっていった。ゼロをイチにすることが最も大変、を実感した形だ。

 そして次の土曜日。

私は、巫女さんの家に遊びに来ていた。一緒に執筆を進めないか、というありがたいメールを受け、私は何も考えずにほいほいと二人で決めた待ち合わせ場所に向かい、巫女さんの家に上げてもらって、初めての友人宅にテンションを上げて、そして。

「うう……」

「いいですわ、萌え萌えですわよつかさちゃん!」

 私は現在、メイド服を着せられていた。

 より具体的に言うと、制服をひん剥かれた上でメイド服を着せられ、パシャパシャと何枚もスマートフォンであらゆる方向から写メられていた。

「いやーはは、たまたま小説内でメイドさんの描写が必要でしたもので。巫女ちゃんがメイドになってくれて本当に助かりますわー!」

「そ、それは良かったなあ」

 嘘だ、絶対先週の当てつけだ……!

可能な限りスカートを引き延ばす私に構わず、巫女さんは写真を撮り続ける。結はと言えば、さっきからずっとゲラ笑いをしていた。

楽しそうにしちゃってまあ……

 そりゃあ先週の私は、ちょっとやりすぎてしまったというか……お客さんの領分を超えて巫女さんをおもちゃにしてしまったのだから、やり返されるのも止む無しだとは思う。けど、一緒になって笑っていた結がお咎め無しなのは納得できない。これだから幽霊は無責任で困る、なんて現実逃避を図っていると、やがてシャッターの音が止んだ。

「お疲れ様ですわ、つかさちゃん。お陰様で、資料がたくさん撮れましたわ」

「う、うん。良かった良かった」

「たくさん撮れましたわーーー!」

「…………」

 ばら撒かれないといいなあ。

 友達を信じよう。

「じゃあ、そろそろ制服に戻らせて頂いて……」

「あ、今日は一日そのままでお願いいたしますわ」満面の笑顔で、巫女さんは言う。「もし追加で撮りたくなったときに助かりますので!」

「……ああ」

 もし、私の人生を小説にするならば。

 この日だけは何としてでも隠蔽しようと、そう思わされた一日だった。


 三人で(巫女さん視点で言えば、二人で)執筆作業を進めていく。黙々とパソコンへ向き合う巫女さんの傍ら、私は改めて部屋を見渡した。

 いの一番に目に留まるのは、やっぱり巨大な本棚だろうか。流石に文芸部室のように幾つも、というわけでは無いけれど、高校生が個人として所有するにはかなり大きい。電子書籍が主流となっている現代では尚更だ。巫女さんはもしかしたら、読書は紙で、と拘りを持っているタイプなのかもしれない。

 机は二つ。一つは勉強机のような個人用のもので、もう一つは現在私たちが使っている、多人数用のちゃぶ台的なものだ。こうしてナチュラルに客人を歓迎出来るアイテムが置かれている辺りに、我が家との違いを如実に感じる。

 後は……ベッド上に、大量に置かれているぬいぐるみも気になるかな。夜はあのもこもこの塊に囲まれて眠るのだろうか。とすれば、ベッドへ沿うように置かれているでっかいサメさんは抱き枕かもしれない。

 総じてとても巫女さんらしい部屋だ。女の子らしいかは、他のサンプルが私しか無いから分からないけれど……部屋全体から湊川巫女という人間の個性を感じる、良い場所だ。

 巫女さんの服装については、全く名称が分からなかったため省略させて頂きたい。白いあみあみの何かで、とてもお洒落だ、多分!

「――先週の話だけどさ」

 ふと思い出したことを、私は聞いてみる。

「巫女さんは、どうしてあそこでバイトしてたの……って、これって聞いても大丈夫かな」

 何の気なしに口に出してから、家庭の都合な可能性に思い至り、浅慮を反省する。けれど巫女さんは「ああいえ、別に特別な理由は無いですわよ」と、私の杞憂を取り払った。

「あそこのお店、わたくしの母が経営しているんですの。だから社会勉強ついでに、お店をお手伝いしているだけですわ」

「へええ、お手伝い。じゃあ、お給料は出ないのかな。だったらボランティアだし、校則にも引っかからないね」

「……ええ、ですわね」

 巫女さんは、眼を逸らしていた。

「……巫女さん」

「お小遣い! あくまでお小遣いですわ!」

「まだ何も言ってないよ……」

 まあ確かに、渡し手が母な以上、お小遣いとも言えなくも無い気がするけれど。

「ふ、普段は無償で手伝っているのですけれど……全七十四巻の漫画を揃えるためには、これしか方法が無かったんですの……」

 ……意外とお金の使い道が俗っぽい。

 懺悔するように項垂れる巫女さん。私は慌てて、「だ、大丈夫だよ」と声を掛ける。

「学校に報告したりはしないからさ」

「ほ、本当ですわ?」

「もちろん。私たち、友達でしょ?」

「つかさちゃん……!」

 感激、というように両手を合わせる。

「メイド姿なのに男前ですわー! メイド姿なのに!」

「あはは、学校の電話番号って何番だったっけね」

「申し訳ありませんでした」

 巫女さんはスッと一歩下がり、土下座をした。

 それはもう、額縁に飾りたいくらいに綺麗な土下座だった。

『なあ、これは私の独り言だから、聞き流して欲しいんだが』感慨深げに土下座を見ながら、結が呟く。『あのカフェの経営者がお母様ってことは、謎のメイド推しもお母様が元凶ってことだよな。もしかして湊川家って、変な人の集まりなんじゃないか?』

 ……確かに。

 後でお父さんのことも聞いてみようかな。

「――にしても、バイトかあ」

巫女さんの頭頂部を肴に、私は〈働く〉という概念に思いを馳せる。

「良し悪しは置いといて……凄いね。私には出来ない気がするよ」

 接客とか絶対に無理だ。泡を吹いて倒れる自信がある。

「いえ、本当にお手伝いレベルですのよ?」面を上げ、巫女さんは照れたように笑う。「この程度で社会を知った気になっては、世の大人に怒られてしまいますわ」

「そんなネガティブな……や、でもさ、やっぱりゼロとイチだと全然違う気がするよ。私なんて労働経験皆無だから、いま絶賛働くシーンが書けなくて苦しんでるしさ」

「おほほ、そうなんですのね」

「おほほ……?」

「まあまあ、分からないシーンは適当でもいいと思いますわよ。ハッタリも大事ですわ!」

「なるほど……でも、もし騙されちゃった人がいたら?」

「大丈夫。わたくしも五年くらいジャイロボールを信じていましたわ」

 何が大丈夫なんだろう……

 けど、確かにハッタリも大切だ。部長さんの言うところの、武器が無くても小説は戦える、という話だろう。自分を信じるとは、嘘を貫き通すことでもある。

「ほっ……と」土下座から立ち上がり、巫女さんはパソコンの前へ戻る。「つかさちゃんが順調に書き進められてるみたいで、何よりですわっ」

「おかげ様でね。と言っても、順調かどうかは怪しいけど……」

 私の言葉に、巫女さんはけらけらと笑った。

「そう言えばつかさちゃん、ペンネームはどうするんですの?」

「……ペンネーム?」

 唐突な言葉に首を傾げ、直後に理解する。

 そうだった、部誌用の作者ペンネームも決めないといけないんだった。

『ぜんぜん考えてなかったな……』

 結が呟く。私は巫女さんにまだ決めていない旨を伝え、「巫女さんはどんなペンネームなの?」と聞いてみる。

「部長さんは、確か〈しいたけ〉だったよね」

「ええ、ええ! 可愛いですわよねー!」

 菌糸類が可愛いかどうかは一考の余地があるとして、確かに気取らず、シンプルな四文字というところに部長さんっぽさがある。

「わたくしは中学時代、〈雨空〉というペンネームを使っていましたわ。高校進学に差し当たって、新しいペンネームも考えようかと思ったのですけれど……捨て去るには、ちょっと付き合いが長くなってしまいまして」

「愛着があるんだ」

「ええ、アタッチメントですの!」

「…………」

 別に何も間違っていないのだけれど、巫女さんが言うと、なんだかドキドキする……

 誕生日プレゼントは腕章にしよう。

「〈雨空〉か、素敵だね。お洒落だし、巫女さんっぽい」

 私の感想に、巫女さんは「ありがとうございますですわっ」と楽しそうに返す。

 こうして聞いていると、ペンネームには自分らしさが大事なのかもしれない。

「ね、結」こそっと話しかける。「結はどんなペンネームが良い?」

 どうせなら巫女さんがいるこの場で決めてしまおう、と結に意見を問うと、『私は別段何でもいいぞ』と、連れない返事が返ってくる。

『つーか巫女とこの距離で私に話しかけるなよ……きっとバレバレだぞ』

「ふふ、大丈夫。きっと慣れたものだよ」

『はあ……相変わらず鋼のハートなことで』

 実際巫女さんは、機嫌よく鼻歌を歌いながら執筆作業に戻っている。どちらにしても、私の独り言程度で機嫌を損ねるほど、巫女さんの器は小さくないのだろう。

『まあ、無難に〈黒猫〉とかで良いんじゃないか? お前と言えば猫だろ』

「私の猫要素って、別に名字だけなんだけど……」

 とは言え、分かりやすいと言えば分かりやすいかもしれない。

「黒猫は流石に安直だから……えっと、〈文猫〉にしようかな。文芸部の猫ってことで」

『おー、良いと思うぜ。お前は今日から〈文猫〉だ』

「で、そこに結要素を足して〈文猫むすび〉と。うん、収まりが良いね」

『……う』

 あっさりと決定した割には納得感のあるペンネームに満足していると、結が謎の擬音を発する。それを疑問に思うより早く、結は『……そうだよな』と呟いた。

『お前はそういう奴だよ。あー……予想出来た展開だった』

「う、うん? もしかして名前、使われたくなかった?」

『や、そのままでいい』肩を竦める。『はは……私も、丸くなったもんだな』

「……?」

 よく分からない。機嫌が悪いわけでは、無さそうだけれど。

「ときにつかさちゃん」

「え、あ、はい」

「わたくし、なんだか今、とってもラブコメの分子を感じましたわ」

「へ、へえ。科学界に激震が走るなぁ」

「ラブコメですわーーー!」

「今度おすすめのラブコメ漫画教えてね……」

 楽しそうに高笑いする巫女さん。その様子を見て、結はくすくすと笑う。

 なんだか、よく分からないけれど……みんなが楽しそうなら、それで良いか。

 ――総括。

 今日の成果は、原稿が進んだことと、ペンネームが決まったこと。

 今日の失態は、私のメイド服姿が文芸部チャットへ流出することを、阻止できなかったことだった。

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